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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
9/18

第九話


「彩華! 家にいるんだから、少しは家の中のことを手伝いな」

 雅巳を幼稚園の送迎バスに乗せて戻ってきた莉子が、二階に向かって大声を出した。

「そんな大きな声でなんですか。耳がつぶれるでしょ。彩華がお手伝いなんかするもんですか」

 雅巳の通っている幼稚園の保護者会が月に一度、十時から十一時半まであって、波子はそれに間に合うようにしたくをしている最中だったが、莉子の声の大きさについ顔をしかめてバッグに伸ばした手を止めた。

「それに、彩華さんとおっしゃい。莉子さん」

 波子の目がきつくなる。

「波子、」

「波子さんとおっしゃい」

「波子、、さん。その服、地味すぎます。まだ若いんですから、もう少し明るい色を着てもいいと思います」

「若いって、若いわけないでしょう。もうお婆さんなのに」

「その年齢なら、まだまだ若いです。白髪を染めればいいのに」

「わたしはこのままでいいんです」

 気を悪くしたようすで波子はバッグを取って玄関に向かった。

「きょうは兄さんは一日家にいるので、お昼をだしてあげてね。わたしは保護者会のあと、友人と約束があるので遅くなりますけど、お夕飯には戻りますから、お願いしますね」

「だいじょうぶです。まかせてください」

 玄関までついていった莉子が機嫌よく安請け合いした。胡散臭げに莉子を見ていたが、時間を気にしながら波子は出かけていった。

 幼稚園の行事は頻繁にあって、そのたびに波子が参加するのだが、若い母親に囲まれて肩身の狭い思いをしていた。しかしこればかりは他人の、しかも家政婦の莉子が替わってやることはできないし、仕方のないことだった。

 彩華は、万引きの一件以来学校を休んでいた。警察から学校のほうにも連絡がいって保護者が呼び出され、校長と指導部の教師と彩華と保護者を交えた面談が行われた。

 そのころには彩華も落ち着きをとりもどしていたので、栄一郎のかわりに孝太郎が出席し、自分がしでかしたことの愚かさを、警察や長兄、高校の校長や指導主任から、こんこんと諭されて、さすがに深く反省したようだった。

 孝太郎も家庭の中のことを話せる範囲で話し、これからは二度とこのようなことのないように監督していくと謝罪して、一週間の家庭謹慎ということで話しがついたのだった。 家庭謹慎とはいうものの、実際は欠席扱いとなるため記録には残らず、孝太郎はほっと胸をなでおろした。最後に、彩華は孝太郎に連れられて駅前のCDショップに謝罪に行った。

 若い店長は、万引きよりも彩華の暴力のほうによほど驚いたようで、叩かれっぱなしでいた莉子のことを気にしていた。最後に改めて、二度と万引きと暴力はしないようにと念を押されて帰ってきた。

 親の気を引きたくてしでかした万引きが、こんなにもたいへんなことだったとはおもわなかったのだろう。下手をすれば退学になるところだったのだ。初犯だったから、将来のことを考慮して更生の道をたどるように、周りのおとなたちが配慮してくれた。そのことに気づいて、彩華は反省しながらも深く傷ついていた。

 莉子のことも、いちいち神経に障って腹が立つが、我を忘れて暴力を振るった自分に驚いてもいた。自分の中に、自分の知らない暴力性が潜んでいたことに不安を抱いた。

 彩華がそんな複雑な感情を持て余しているのに、莉子のほうはあくまでもマイペースで彩華との心理的な距離を平然と詰めてこようとした。あれほど叩いたのに、彩華のことが憎くはないのだろうか。なぜ、あのように、のんきな大声で彩華に家のことを手伝えと怒鳴れるのだろう。しかも、人のことを馴れ馴れしく呼び捨てにしている。家政婦のくせにと、彩華は肌がけを頭からかぶってベッドで耳をふさいだ。

 きょうも朝から雨が降り続いていて、しっとりとした雨音が聞こえてくる。家の中も静かで、耳を澄ませると階下の衣類乾燥機が回っている音がかすかに聞こえる。隣の涼の部屋は物音一つしない。きっと眠っているのだろう。起きているときは、たいがい鉄道模型を動かしているので、単調な走行音が眠気を誘うように静かな部屋にかすかに伝わってくる。

 玄関が開く音がした。波子と家政婦の声が聞こえる。なにをしゃべっているのかまではわからないが、こうして息を潜めるようにじっとしていると、いろいろな音が聞こえてくる。静かだとおもっていた家の中は、人が動いている分量だけの音がたえずしていた。それは新鮮な発見だった。

 彩華は知らず知らず家の中の気配に耳を澄ませた。玄関ドアが閉まる音、雨の中に傘をひろげる音、門までのアプローチの敷石の上を歩くローヒールの踵の音が、雨に消されて遠ざかる。家政婦がガニマタで廊下を歩く足音。キッチンに入ってしまえば音は聞こえないが、後片付けや食器の触れ合う音が聞こえてきそうな気がする。家の中に人がいるのって、いいな、と彩華はおもった。

 彩華は、警察所に駆けつけてきた孝太郎のことを思い出していた。あんな長兄を見たのは初めてだった。彩華からみれば、孝太郎はあまりにもおとなで近寄りがたく、冗談一ついえない人だった。

 父親は同じでも母親が違うせいかともおもったが、彩華を見るときの孝太郎の目つきは冷え冷えとしていて、子供のころから怖かった。意地悪はされないが、やさしくされたこともない。孝太郎が煙たくて、彩華はいつも涼と一緒に母親の由香里にまとわりついていた。

 母親のことを思い出して彩華はさらに体を丸めた。

 どうして、この家の主婦たちは離婚して家を出て行ってしまうのだろう。それが彩華にはわからなかった。孝太郎の母親の理恵子は病気で亡くなったので例外としても、涼と彩華の母親の由香里と、孝太郎の妻の美里耶は、子供たちを置いて出て行ってしまった。

 なにが離婚の原因だったのか、栄一郎や孝太郎に聞いてみたかったが、そんな勇気はなかった。こんなふうに、どんよりと鬱陶しい雨の日は、考えてもしかたのないことをついつい考えてしまう。彩華がもんもんとベッドで頭を抱えているあいだに時は過ぎたようで、そろそろ十一時になろうとしていた。

「彩華。ちょっと出かけてくるから、おとうさんと涼のお昼ごはんを出してやってよ。したくはできているから、あっためるだけでいいからね。聞こえたかー?」

 階下で家政婦の大声がした。あの大声なら、家中にきこえただろう。

「それから、波子は出かけていていないからね。聞こえたかー?」

 本人がいないものだから、波子のことを嬉々として呼び捨てにしているが、家政婦の声は栄一郎にも聞こえたはずだ。馬鹿な家政婦だとおもった。

「きょうは、お父さんがいるのか」

 呟いて顔をしかめた。空腹だったが、どうしても食事をしに階下に下りていく気になれなかった。そうしているうちに、階下に降りて行きづらくなってしまった。家政婦が食事を持ってくるかとおもっていたが、意外なことに、家政婦はきっぱり拒否したとかで、波子が文句をいいながら何度も食事を持ってきてくれた。

 食事を彩華に渡しながら、波子はしきりに家政婦の悪口をいった。彩華は返事をしなかったが、波子が悪口をいうたびにいらいらした。家政婦のことは彩華もおもしろくなかったが、わざわざ波子から悪口をきかされるのは不快だった。

「うるさい」と、波子に向かって大きな声をだしたかったが、家族に迷惑をかけて謹慎中だったので我慢した。傍若無人な家政婦は、谷村家にやってきて、まだ二ヶ月にもならないというのに、谷村家の人々を無謀な存在感で圧迫しつつあった。

 家政婦がどこに行くのかはさておき、雅巳を迎えにいく時間までには帰ってくるかどうか気になったが、そこまで無責任ではないだろうとおもって彩華は雅巳のことは気にしないことにした。

 肌がけを剥いでベッドからおりて、机の上の週間マンガを取ろうとしたら、勝手口から家政婦が出て来るのが窓から見えた。ビニールの簡易レインコートを着ている。車庫から自転車を出してきて、雨の中に走り出した。バッグも持たずに自転車で雨の中をどこに行くつもりなのだろう。彩華は首をひねったが、すぐに意識は家政婦から階下のキッチンに向いた。

 忍び足で階下に下りて冷蔵庫を開けた。飲み物やフルーツやパウンドケーキなどをトレーに乗せ、家政婦が用意しておいた昼食のシチューとバケットを皿に山盛りにして、急いで二階に上がった。おやつのスナック菓子は食べつくしていたので空腹だった。

 学校にも行かず、部屋にこもっているにもかかわらず食欲は旺盛で、今まで学校で友人たちとの付き合いで神経をすり減らした分を取り戻すように彩華は食べた。

 寝不足と不摂生のせいで目の下にクマが浮かんでいた顔も、十分な睡眠と食事のせいで健康的な顔色を取り戻していた。

 学校から離れてみると、大切だとおもっていた友人たちが色あせてみえた。あのグループから仲間はずれにされるのが怖くて、喉元にこみあげてくる違和感を無理やり飲み込んで尻尾にくっついていた自分はなんだったのだろうとおもった。

 波子が、友だちが悪いから彩華まで悪くなっていくのだといったことがあったが、本当にそうなのだろうか。あの子たちは、悪いところもあったが、一緒にいて楽しいこともいっぱいあった。楽しかったから、あのグループにいたかったのだ。でも、と彩華は食べ終えた食器を机に置いてベッドに横になった。

 でも。でも、と彩華は、あと少しではっきり見えてくる頭の中の映像に目を凝らした。ほんとうの何かが、心の中にある、ほんとうの気持ちが、あと少しで見えてきそうで見えなかった。

 空腹が満たされ、くつろいでマンガを読んでいるうちに瞼がとろとろしてきた。静かに降っている雨が屋根にかかっている赤松の枝葉に落ちて、雫となって滴り落ちる音が眠気を誘う。寝ころんで読んでいたマンガ本が彩華の手からすとんと落ちた。彩華の瞼は完全に閉じていた。


 そのころ涼は、時計の針が午後二時を過ぎてしまったのを気にしていた。隣の部屋は静かだ。だいぶ前に彩華がこっそり下に行って戻ってきたが、たぶん、食料を確保してきたのだろう。涼は空腹だったが、彩華のように食べ物に我慢できないたちではなかったので我慢できたが、父親はどうだろうかと気を揉んでいた。

 壁に耳を当ててみても彩華の部屋からはこそりとも音がしない。音がしないということは寝ているのだ。満腹になって、きっと彩華は涎を垂らして寝ているに違いない。小心な涼はそわそわと部屋の隙間を歩き回った。

 昨夜、こっそり莉子が涼の部屋にやってきて、「あしたの昼間、わたしも波子も家をあけるからさ」と囁いておもしろそうに笑ったのだ。

「彩華におとうさんの昼めしを出すように言いつけて出かけるからさ、どんなことになるか、涼、こっそりドアの隙間から覗いていなよ」

「どこに行くの」

「図書館にでも行って、時間をつぶしてくるよ」

「ふうーん?」

「わかっていないみたいだな。彩華がおとなしくおとうさんに昼めしをだすガキか?」

「ああ?」

「人はお腹がすいたら怒りっぽくなるんだよ。涼も下手をすると昼飯を食いっぱぐれるぞ」

 そんなことをいっていた。莉子がいっていたように、彩華は栄一郎に昼食を持って行っていなかった。うとうとしてそのまま眠り込んでしまったのだろうが、いまごろ栄一郎はいらいらしていることだろう。どうしよう。彩華を起こしにいったほうがいいのだろうかと、涼はそわそわ部屋の中を歩き回った。栄一郎の怒った顔を想像するのは怖かった。


 また伊坂の娘が怒鳴っている。栄一郎は、部屋にいても聞こえてくる莉子の大声にうんざりした。

 なんと騒々しいのだろう。あの娘がこの家に来てから、家の中の雰囲気がかわってしまった。雅巳は家の中を走り回っているし、波子も騒々しくなった。しょっちゅう伊坂の娘を叱りつけては声を張り上げている。波子はそんな女ではかなったはずだ。

 栄一郎は疲れたようにこめかみを揉んで車椅子のハンドリムを掴んだ。電動アシストの車椅子を書類棚のほうに向ける。ハンドリムを軽く回すと車椅子は流れるように床を移動した。

 書類棚の前には脚立が置いてある。栄一郎は車椅子のストッパーをかけてから両腕で体重を支えて健康な右足を軸にし、脚立のほうに腰を持っていった。左膝下が無いためにズボンがプラプラ揺れる。それをいまいましく思いながら脚立の中段に腰を落ち着けた。目当ての書類のバインダーを探しながら、孝太郎も彩華の一件以来、早く帰って来るようになったとおもった。

 重要な案件であっても部下を信頼して任せるように努めているらしく、できるだけ早く家に帰ってくるように心がけているらしい。そういう努力をもっと早くしていれば、嫁の美里耶は離婚の決断をしないですんだかもしれないとまたおもった。

 栄一郎はバインダーを引き抜いて再び車椅子に戻った。机のほうに向きを変えて動かしているとき、腹の虫がグウと鳴った。

 波子は幼稚園の集まりに出かけて帰りは遅くなるといっていたし、伊坂の娘は彩華に父親の昼食を出してやれと怒鳴って外出してしまった。

 それぞれ用事があって出かけるのはしかたがない。家にいるものが替わりにするのも当然だ。栄一郎は、腹の虫をなだめながら、バインダーの資料をめくって、彩華が昼食を持ってきてくれるのを待った。しかし、いくら待っても彩華はこなかった。もう一時を過ぎているではないか。波子はいないし、伊坂の娘もいない。二人がいたなら遠慮なく大きな声で呼びつけるのにとおもって、はてなと首をかしげた。

 栄一郎はこれまで大きな声をだしたことなどなかった。怒り心頭に発しても、わざと声を抑えて相手を睨み据える。それが栄一郎のやり方だった。女子供のように節操なく声をだすなど、男のすることではない。それなのに、自分は今、大声で家にいる誰かを呼ぼうとした。「昼食をもってこい」と要求しようとした。波子にか、それとも伊坂の娘にか。 考えられないことだった。波子はよくやってくれているし自分の妹だ。結婚もしないで孝太郎を育ててくれた恩がある。そのくらいの引け目は自分にだってある。さらにいえば、波子が結婚しないで年を取ってしまったのは自分が原因だ。だから、波子に大きな声など出せるわけがない。それなら、伊坂の娘を怒鳴ろうとしたのだろうか。

 そこまで考えて栄一郎はため息をついた。伊坂の娘を怒鳴ろうとしていたのだ。そのことに気づいたとき、自分もまた伊坂の娘のペースに感化されていたのを知った。

 怒鳴れる相手がいるというのは、なんと心が解放されるのだろう。あの娘だったら、怒鳴ってもケロリとしているからだいじょうぶだ。気兼ねなく遠慮なく接する相手が家の中にいるというのは痛快だとおもった。

 それにしても、彩華はなにをしているのだろう。自宅謹慎という学校の配慮のおかげで素行に傷がつかずにすんだというのに、波子に食事を運ばせて部屋から出てこない。彩華といい涼といい、いったいこの家の子供たちはどうなっているのだ。

 栄一郎はしだいに腹立ちが抑えられなくなっていった。時計を見ると一時四十分だ。バインダーを乱暴に閉じて深呼吸した。家の中の気配に耳を澄ませる。物音はなにもしない。雅巳は三時ごろでないと帰ってこないし、雅巳が帰るまでは伊坂の娘も帰ってこないということだ。

 栄一郎はもう一度時計を見た。一分しかたっていない。喉も渇いてきた。間食をする習慣がないので、部屋の中には食べ物は置いていない。置いてあったとしても、昼食のかわりに菓子をつまむなど、いい年をした男がみっともなくてできるものか。

 ふつふつと沸いてくる怒りに栄一郎の顔が赤くなった。血圧もこのぶんだと上がっているだろう。仕事も手につかず、電話しなくてはいけない用件も忘れて時計を睨みつけた。 指先が車椅子の肘掛を乱打していた。その乱打は右足におよび膝頭が大きく上下した。 午後の三時を過ぎたあたりで栄一郎の忍耐は限界に達した。車椅子を動かして廊下に出て階段下まで行った。車椅子でここまで来ること自体我慢ならなかった。人に命令することに慣れきっていたので、わざわざ出向いていくことに苛立ちが増した。まして相手は自分の子供だ。子供など、ろくに勉強もしないで親に養われ、親の金で自分勝手に遊び回っている不埒ものだ。

 親の体面に泥をぬり迷惑をかけておいて、あげくのはてに父親に昼飯を持ってこないで飢えさせている。なんたることだ。

 栄一郎の中で、彩華に対する怒りと憤懣が、昼食をきっかけに渦を巻いていた。

 首を上にねじって二階を見上げる。階段の登り口は右側にあって、玄関の上部に伸びてぐるりと壁を伝って回廊が二階の廊下に続いている。

「彩華」

 栄一郎は少しだけ声を強くして呼んでみた。たぶん聞こえないだろうとはおもったが、二階が静かなままなのでまた腹が立った。今度はもう少し大きな声をだした。

「彩華。おい。昼はとっくに過ぎているぞ」

 しかし、うんともすんとも返事がない。栄一郎の喉から唸り声がした。この階段をつぶしてエレベーターをつけてやる。そうすれば車椅子で二階に上がれる。おもうさま、あの出来損ないの娘を怒鳴りつけてやれる。

 やおら車椅子を回して自分の部屋に取って返した。クローゼットを開けて上半身を突っ込み、中をかき回して目当てのものを探しだした。

 かさばる箱を取り出して膝の上に乗せ、蓋を開けた。何年も使っていない義足が、作った当時のまま納まっていた。技師が何度も調整して作ってくれた義足ではあったが、作り物の冷たさと歩いたときのぎこちなさが無様に見えて歩行訓練を放棄してしまった。

 あのときの足と現在の足では肉のつきかたも筋肉量も衰えているので、左足にぴったり合うとは思えないが、ズボンの裾をまくって義足をつけた。やはりゆるみができて頼りない。しかし、栄一郎はその足で車椅子に乗り、再び階段のところまで行った。なんとしても彩華を怒鳴りつけなくては気持ちが納まらなくなっていた。

 車椅子のフットサポートを右足で跳ね上げて立ち上がる空間を作り、肘掛を両手で掴んで右足に全体重を乗せた。

 筋力が衰えているので膝頭が恐ろしいほど揺れる。栄一郎は顎をかみしめた怒りの形相のまま、階段の手すりにすがって体を支えた。義足の左足で一段目に乗る勇気がなかなかでなかった。しばらくためらったあと、思い切って義足に体重を乗せた。足元がぐらつき、慌てて手すりにしがみついた。冷や汗が額にういた。右足をついてしまえば安定する。不安なのは義足に体重移動して右足をつくまでの一瞬だ。そうとわかれば栄一郎の決断は早かった。

 長い年月、経営の修羅場をくぐってきた男だ。意志の強さはなみではなかった。手すりを掴む手にも汗が滲み出す。栄一郎からすれば、気が遠くなりそうな長い階段を、青ざめながら時間をかけて上っていった。


 雅巳が帰ってくる時間をみはからって莉子は図書館を出た。ビニールのレインコートを着て自転車に乗り、幼稚園バスの集合場所に向かう。待つほどもなく幼稚園バスが来て雅巳が元気に下りてきた。上着のポケットに入れておいた雅巳の黄色いカッパを着せて傘は前かごに入れた。

 雅巳を自転車の後ろに乗せて家に向かった。車庫に自転車をしまい、雅巳のカッパのフードをかぶせなおしてから玄関に回った。ドアを開けて中に入って息をのんだ。

「あ! おじい、」

 雅巳の口を慌ててふさいだ。雅巳が指をさして目をまん丸にして階段の中ほどを見上げた。

 栄一郎は階段を上るのに全神経を集中していた。少しでも気をそらせたら転落しかねない危険さだ。栄一郎にとっては命がけだった。

「雅巳、静かに。おじいちゃんを驚かせたら危ないからね」

 莉子は雅巳の耳元で囁いた。雅巳は無言でうなずいた。幼ごころにも栄一郎の危険な状況を理解したのだろう。


 孝太郎は玄関の前に車をとめた。何度電話しても栄一郎の携帯電話につながらないし、家の電話にもだれもでない。次回の定例会の書類ができてきたので、それを持って家に帰ってきた。家の電話に誰もでないのはいいのだが、栄一郎が携帯電話に二時間以上も出ないというのはおかしなことだった。家人の留守に栄一郎の身になにかあったのではないだろうかと不安を覚えた。二階に涼と彩華はいるが、あの二人ではなんの役にも立たない。たとえ栄一郎が部屋で人事不省に陥っていたとしても気がつかないだろう。

 玄関に入ると、階段を見上げて固まっている莉子と雅巳がいた。二人が息を詰めて見上げているほうに目をやったとき、危うく声を上げそうになった。孝太郎は、雅巳を抱きすくめて身を屈めている莉子の隣に歩み寄った。

 栄一郎は体をぐらぐら揺らしながら鬼のような形相で階段を上っていた。いまにもバランスを崩して背中から落下してしまいそうで、見ていると孝太郎の体が硬くなった。栄一郎は、あと三段で上り終えようとしていた。孝太郎はそっと階段下に移動した。

「あ。パパ」

 雅巳が声をだす前に莉子がまた口をふさいだ。孝太郎は足音を消して慎重に三段ばかり上った。両手を栄一郎のほうにさしだし、なにかあったときはすぐに抱きとめられるようにした。孝太郎と莉子と雅巳が息を殺して見守るなか、栄一郎は最後の一段を上り終えて肩で大きく息をした。見ている三人も止めていた息を吐いた。

「彩華!」

 栄一郎がものすごい声で叫んだ。痩せた肩が大きく上下し、目は血走り、全身から汗を噴出していた。体重を支えていた右足はわなわな震え、腹は息を吸うたびに大きく上下していた。

「彩華。出てこい!」

 今にも倒れてしまいそうなのに、彩華を呼ぶ声はすさまじかった。


 玄関先で傘をたたんで雨のしずくを払って中に入った波子は、自分の目に映ったものが信じられなかった。雅巳と莉子が抱き合って二階を見上げており、孝太郎が階段の中ほどで立ち止まり、二階の廊下の手すりでは栄一郎がぶるぶる震えながら自分の足で立っていた。


「彩華、出てこい!」

 雷のような声に彩華は飛び起きた。まさに体が宙に浮いた。父親の怒鳴り声が頭の上から落ちてきたとおもった。あの声の大きさは階下からなどではない。でも、そんなことがあるだろうか。車椅子で自分の部屋から出ない人だ。孝太郎の介添えで会社に行くくらいで、家にいるときはリビングにも出てこない。いてもいないような人だ。声だってろくにきいたことがない。

 だから、父親にすさまじい大声で名前を呼ばれたとき、彩華は腰が抜けそうになった。恐ろしかった。父親の大声が、こんなに怖いとは知らなかった。そして、家政婦が出かけるときに、昼のごはんを父親にだしてやるように言い置いていったのを思い出したとき、恐ろしさは倍増した。

 時計を見ると四時近いではないか。お腹がすくと怒りっぽくなるからなと、家政婦は怒鳴っていたっけ。冗談じゃないと彩華は頭を抱えた。


「彩華。出て来い!」

 涼は部屋の中で飛び上がった。何時間も前から心配でうろつきまわっていたのだから、栄一郎の雷のような大声は涼のか細い心臓を直撃した。涼は真っ青になって震えだした。彩華の名を呼んでいるのに、「彩華」が「涼」に聞こえた。

「彩華。お父さんがドアをあける前に出て来い!」

 すぐ近くではないか。まさか二階に来てはいないよな。来れるわけないよな。来れるわけない、あの足なんだからと、涼は必死に自分をなだめた。

「彩華。行けよ。お父さんが呼んでるぞ」

 壁に口を寄せて隣の部屋の彩華に怒鳴った。聞こえたかどうかわからないが、彩華を呼んでいるのだから彩華が行くべきだとおもった。壁の向こうで彩華が狂乱したように何か叫んでいた。


 栄一郎は、ここまでやってきて、これまでだしたことがない大声をだしても、部屋から出てこようとしない彩華に、かつてないほどの怒りを覚えた。万引きしたときの失望など物の数ではかかった。

「彩華。部屋から出てきて、お父さんのところに来い」

 彩華と涼が、部屋から転がり出てきた。真っ青になっている彩華と涼を、栄一郎は充血した目で睨みつけた。もはや、なにをどう叱っていいのか怒っていいのか、栄一郎自身わけがわからなくなっていた。


 彩華と涼は、ありえないものを目にしたショックで自失していた。老人である父親は、赤い顔で汗を流し、目を吊り上げていた。

 階段の手すりに背中をもたせかけて体を支え、両手はしっかり手すりを掴んでいる。右足はぶるぶる震えていて、膝下から無いはずの左足は、ズボンの裾からつま先がのぞいていた。

 痩せて尖った肩や薄い胸板がポロシャツの襟元からかいまみえた。背中もいくぶん曲がっていて、腰などは骨の形が浮き上がっている。白髪の髪は、汗で額に張り付いていてじつにみすぼらしい。いつもスーツを着て身だしなみを整え、車椅子で会社におくっていってもらっている厳格な父親の姿に馴染んでいた彩華と涼は、父親が老人の障害者であることを目の当たりにして改めてショックを受けていた。

 お父さんは、こんなに年をとっていたんだと、彩華はおもった。涼も、同じような気持ちを抱いた。義足など嫌がってつけなかった父親が、怒りに駆られたとはいえ、一人で階段を上ってきたのだ。どんなに危険だったか、ぶるぶる揺れている右足を見れば一目瞭然だった。

「彩華!」

 栄一郎に名を呼ばれたとき、彩華の全身に電流が走った。転がるように栄一郎に走りより、震えている父親の右足に無我夢中でしがみついていた。

「ごめんなさい。お父さん。ごめんなさい。お父さん。お父さん」

 父親は階段から転がり落ちて、もしかしたら死んでいたかもしれない。床に尻をついて足にしがみついたまま、彩華は大声を放って泣いた。

 涙をぼろぼろ流して大口をあけ、「お父さん、お父さん」と泣いている一人娘を見ているうちに、あれほど激しかった怒りが栄一郎のなかから波のように引いていった。

 子供の体温とは、なんと熱いのだろうとおもった。足から伝わってくる彩華の体熱に、栄一郎は命の勢いを感じた。どんなときでも燃え盛る若い命の熱量は、六十六歳の栄一郎をゆさぶった。

 こんなに若い命に、なにを怒ることがあるだろう。年老いて、行く先が見えてきた自分は死ぬだけだ。悲しいほど若い彩華がしでかした過ちは、この私がかばってやればいいことだ。悪いことは悪い、してはいけないことはしてはだめだと、しっかり諭して責任の取り方を教えてやればいいことなのだ。

 栄一郎は激しく泣いている彩華の頭に手を置いた。全身で泣いている彩華の頭は熱く、汗で湿っていた。

「彩華。おまえがした万引きは、窃盗罪なんだぞ。懲役十年以下の重罪なんだぞ。わかっているのか」

「しない! もう万引きなんかしないよ! 絶対にしない。悪いことなんかしないから。ごめんなさい。お父さん」

 叫ぶようにいって、彩華は強く栄一郎の右足にしがみついた。

「だから! だから、お父さんも、少しはわたしたちに興味をもって。わたしも涼ちゃんも、お父さんの子供だということを忘れないで」

 涼がその様子を呆然と見ていた。栄一郎は彩華から涼に顔を向けた。痩せて背ばかり伸びた次男と目が合った。

「涼。部屋にばかりこもっていないで、天気のいい日は散歩にでも行け。色が白すぎるぞ」

 涼の目が大きくなった。驚いたように口も開く。

「彩華。もう泣かなくていい。お父さんはお腹がすいているんだ」

 はっとして、彩華は栄一郎の顔を見た。やおら立ち上がって階段を駆け下りた。階段の途中にいた孝太郎に気づき目を見張るが、そのままキッチンに走っていった。涼が慌てて栄一郎に走り寄り、脇の下に腕を差し込んで父親を支えた。

「細い腕だな。そんな腕で力がでるのか」

 涼は思わず赤面した。孝太郎が歩み寄り、無言で栄一郎に背中を向けて片膝をついた。

「乗ってください」

 ためらいながらも、栄一郎は素直に孝太郎の背中に自分をあずけた。栄一郎を背負った孝太郎が階段を下りてきて、玄関の莉子と視線を合わせた。一瞬だったが孝太郎の目付きは鋭かった。どうしてこんな事態になったのか、問いただす目付きだった。

 軽々と栄一郎を背負ってリビングに入っていく孝太郎を見ながら、莉子はやりすぎたかなと首をすくめた。まさか、こんなことになるとはおもわなかった。彩華に栄一郎の昼食を任せたところで素直にするわけがないのをわかっていながら、はて、そうなったら栄一郎はどうするだろうといたずら心がわいたのだ。

 きっと栄一郎は腹をたてる。腹をたてた栄一郎は、どんな行動に出るだろうか。怒りは彩華に向くはずだ。大声でお父さんにお昼を用意しろと二階にいる彩華に怒鳴ったのを、栄一郎も聞いているはずだからだ。

 莉子の予想では、せいぜい階段の下から彩華を怒鳴りつけるぐらいだろうとおもっていた。それでいいとおもった。栄一郎は彩華を叱るべきだし、彩華も父親に叱られるべきだ。それがどうだろう。まさか栄一郎が義足をつけて二階に行くとはおもわなかった。まかり間違えば、大変な事故になりかねない行動を栄一郎は取ったのだ。莉子はやりすぎたとおもった。

「おじいちゃん、ひとりでにかいにいったの?」

 無邪気に驚いている雅巳の頭を撫でてうなずいた。横を見ると、波子が声も出ないでたたずんでいた。

 孝太郎に背負われてリビングに入っていく兄の姿に、波子は複雑なものを覚えていた。傲慢なほど気位が高い栄一郎が、息子に背負われている。片足を失った無様な姿を見せたくなくて無理を通していた兄が、ただの老人に見えた。しかし、その老人のそばには娘がいて息子が二人もいて、しかも孫までいる。

 金はあるから老後の心配はない。怖がられているが、何かあれば、こうして子供たちが全員で取り囲んでくれる。

 もしかして、兄は幸せ者なのか?

 波子はくらりとめまいがした。莉子の手がすばやく波子の背中を支えた。

「着替えてきたらいいですよ」

 莉子に声をかけられて我に返った。一瞬だったが、栄一郎に激しい憎しみを覚えた。わたしから未来を奪っておいて、兄だけ幸せなのかというおもいに囚われるところだった。

「そうね。そうするわ」

 急いで自分の部屋に逃げ込んだ。ストッキングは雨に濡れて足に貼り付いていた。皮膚をはがすようにして脱ぎ、湿ったスーツも脱ぎ捨てた。姿見に下着姿の自分が映っていた。

 兄が老いたのなら、わたしだって老人だ。

 波子は全身から気力が流れ出ていくのを感じた。


 夜も更けて、莉子のベッドでは雅巳がぐっすり眠っていた。もともと孝太郎が夫婦の寝室として使っていた部屋なので、この部屋にはベッドが二つ並んでいた。

 ダブルベッドとセミダブルだ。それぞれのベッドの横にはサイドテーブルが置かれていて、枕元を照らす小さな照明が置かれている。雅巳は、照明が照らし出す暖かな淡い明かりの中ですこやかな寝息をたてていた。

 階下の戸締りを確認して二階に上がってきた莉子は、雅巳の寝顔を覗きこんでから、着替えるためにボストンバッグを開けた。

 洗いこんで肌に馴染んだTシャツと木綿のイージーパンツを取る。赤いジャージを脱ごうとしたとき、ドアが遠慮がちにノックされた。

 ジャージのジッパーを襟まで引き上げなおしてドアに向かった。誰だろうと思った。もしかして、彩華だろうかと予想しながらドアを開けたら孝太郎が立っていた。

 風呂上りらしく、髪はまだ湿っていて顔はピカピカしている。石鹸の匂いを体から立ち上らせて、孝太郎は気難しい表情をうかべていた。

「夜分にすみません。少しだけお時間をいただけませんか。お話があります」

 風呂はすませても、孝太郎はパジャマではなくボタンダウンのシャツにジーンズをはいていた。手櫛で整えた髪が顔にかかり、いつもと違って砕けた印象だったが表情は硬かった。

 莉子は、開けたドアの隙間を体で隠した。雅巳が莉子のベッドで寝ていたので、見られては困るとおもった。孝太郎から、雅巳と一緒に寝ないようにと注意されていたからだ。

「なんでしょうか。寝るところだったんですけど」

 警戒して口調が不機嫌になった。

「時間は取らせません。きょうの父のことでお聞きしたいことがあります」

「わかりました。でも、この部屋では困ります」

「もちろんです。下のリビングに行きましょう」

 先に歩き出した孝太郎のあとについていった。リビングのソファのほうを莉子に勧めて、孝太郎はキッチンに入っていった。

「紅茶でもいれましようか。それとも、お酒のほうがいいのかな」

「わたしがしますよ」

「いえ、僕が。紅茶でいいですか」

「はい」

「僕は失礼してアルコールをいただきます」

 孝太郎は食器棚から白磁のティーセットをだしてポットのお湯を注いでカップを暖めた。冷蔵庫からミネラルウォーターをだしてケトルにそそぎ、ガステーブルにかける。ダージリンの茶葉をポットにいれ、ぐらぐら沸いたお湯を落ち着かせてからポットにそそいで蓋をした。次に冷蔵庫から炭酸水のビンを取り、アイスペールに氷を入れてグラスを一つ用意する。それらをトレーに乗せて莉子が座っているところに持ってきた。

 リビングのサイドボードからカナディアンクラブ・ ホワイトを取ってきて莉子の正面に座った。ポットの紅茶を暖めておいたカップに注いだ。オレンジ色の紅茶のいい香りが立ち上った。レモンもミルクも砂糖もなかったが、孝太郎が入れてくれた紅茶を口に含んだとき、莉子は目を見張った。強い香気が気管を通して体の中にぱっと広がった。

「おいしい……」

 思わず呟いていた。莉子も同じようにいれているのだが、香気と香味がぜんぜん違っていた。感動してカップを両手で掴んで無心に紅茶をすすっていた。孝太郎は、グラスに氷を入れてから炭酸水をそそいで口に持っていった。ウイスキーは入れていなかった。

「今日のことですが」と、炭酸水で喉を潤した孝太郎がグラスを置いて話を切り出した。

「なぜ父があのようなことになったのか、話してください」

「あ、ああ。ええ、」

 カップを膝の上に置いて、莉子はしどろもどろにうなずいた。孝太郎は莉子が口を開くまで無言で待っていた。参ったなと、莉子は心の中で呟いた。

「あのですね。波子、、さんがですね。出かけたんですよね。で、そのあと、わたしも出かけたんですよね。だから、よく知らないんですよね」

 こんな適当な説明で孝太郎が納得するとは思えなかったが、なんとなくまずい方向に行きそうなので、ごまかせるだけごまかしたかった。

「叔母が出かけたのでしたら、あなたは留守番していなければいけないでしょう。父がきょうは家にいるのですから、父の食事やお茶の用意はあなたの役目ですよね」

 ほら来たと、おもった。莉子はうつむいて首をすくめた。

「そうなんですよね。だから、おとうさんのごはんは彩華にたのんだんですよね」

「彩華ではなく、彩華さんと呼んでください。それから、おとうさんではなく、だんな様か、谷村さんとよんでください。叔母は波子さんでけっこうです。雅巳のことも敬称をつけていただきたい。けじめはつけたいとおもいますので」

「はい」

「話を戻しますが、だれの許可を得て外出したのですか」

「いやあ、だれにも?」

「勝手に外出したのですか」

「まあ……」

「緊急な用事だったのですか。それとも、前から決まっていた予定なのですか」

「あの、こっれって、尋問ですか」

「質問です」

「いちいち許可を得なかったら、家政婦は外出もできないのですか」

 きつい孝太郎の言い方に腹が立ち始めていた。開き直ったように声を強くした莉子に、孝太郎も表情を引き締めた。

「あなたはなにか勘違いをしていませんか。あなたは使用人ですから、日中の私的な外出は申し出てもらわなくては困ります。きょうのように叔母とあなたの外出が重なったら、家にいる父が困ることになるのは、わかりきったことでしょう。彩華に父の食事をたのんだといわれましたが、彩華が当てにならないくらい、あなたにだってわかるでしょ。それとも、わかった上で彩華にいいつけて出かけたのですか」

 おっしゃるとおりですと莉子は腹の中で舌を出した。

「無責任ですね。とてもおとなとはおもえない。父が彩華に腹をたてて二階に上っていく暴挙にでるとは予想しなかったとしても、あなたが無責任であることにかわりはない。今回は父が無事でよかったですが、こんど何かあったら、あなたには辞めていただきます」

「それはないでしょ。そこまで言うことはないでしょ。結果的にいい方向にいったじゃないですか。彩華は泣いて謝ったんですよ。もう二度と悪いことはしないって」

「黙りなさい。きみは僕の話をなんにも聞いていないんだな」

 いきなり語調を変えて孝太郎は莉子を睨んだ。炭酸水を飲み干し、音をたててグラスを置いた。莉子も慌てて紅茶を飲み干してカップをテーブルに戻した。二人は対抗するように睨みあった。

「伊坂さん」

「なんですか」

「家政婦であることを忘れているでしょ」

「忘れていませんよ。それほどバカじゃないですよ」

「いいや。家政婦である意識がないから、おとうさんだの波子だの彩華だの涼だのと呼び捨てにするんだ」

「雅巳もですよ」

 孝太郎が目を剥いた。莉子は笑いたくなった。エリート然とした孝太郎が感情的になって怒っているのがおかしかった。

「でも孝太郎さんのことは“さん”付けですよ。孝太郎さんは、おとうさんより怖そうだから」

 アハハとわらった莉子の顔を見て、孝太郎は、まぬけだとおもった。話しが通じない。言語が違うのかもしれない。自分がクビになりかけているのがわからないのだろうか。注意し、警告しているのが理解できないのだろうか。

「まあまあ、孝太郎さん。とにかく、おとうさんと彩華が少しでも会話してくれてよかったじゃないですか」

 莉子は、なだめるようにカナディアンクラブ・ ホワイトを取って孝太郎のグラスにそそいだ。ついでに炭酸水と氷も足してやる。

「マドラーがないですね」

 気軽に立ち上がってキッチンに入り、食器棚からマドラーを取り、ついでに夕飯の残りのベトナム風冷しゃぶとチーズを小皿に取り分けて持ってきた。

「つまみなんかいりませんよ。あなたと晩酌しているわけではありませからね」

「まあまあ、孝太郎さん。そう目くじらを立てるもんじゃありませんよ。孝太郎さんは忙しすぎるんですよ。雅巳のことにしたって、波子、さんに預けっぱなしでしょ。波子、さんも大変なんですよ。たとえばですね、幼稚園て、けっこう行事が多いんですよね。お泊まり保育とか、お母さんの日とかお父さんの日とか、遠足とか芋ほりとか、お誕生会とか、まだまだてんこ盛りです。若いママさんたちに混じって波子、さんが無理しているのを知っていますか。“お父さんありがとう”の日なんか、お父さんがこれないところはおじいちゃんが来たりするんですけど、雅巳のばあいは、おじいちゃんもこれないんで波子、さんが行くんです。雅巳はわたしに来てっていいますけど、そうはいきませんよね。家政婦なんですから。だから、波子、さんが頑張るんです」

 言葉をきって、莉子は孝太郎の目を覗き込んだ。かすかな動揺が目の中に揺らいでいた。

「雅巳もわかってるから幼いながら我慢してます。でも、ときどき、だだをこねて泣くんです。雅巳も波子、さんもかわいそうになります」

 莉子がマドラーでかるくかき回したハイボールを、孝太郎は口に持っていった。大きく一口飲み下してグラスを置く。

「そういうお話は、あなたから聞く必要はありません。働いている家の中のことによけいなくちばしを突っ込まないでいただきたい。今のようなお話をよそでしてもらっても困ります。家政婦としての職業倫理はお持ちですよね」

「波子、さんが言っていたことで印象的な話しがありました。幼稚園の運動会です。騎馬戦をするんですよ。パパが子供を背中に乗せて、園児たちが相手の帽子を取り合うんです。パパがこれないときはおじいちゃんが来てくれたりしますが、おじいちゃんもこれないときは、ママが馬になるんです。波子、さんがね」

 孝太郎ははっとした。莉子は空になって紅茶が少し残っているティーカップにウイスキーをついで氷を入れた。孝太郎が莉子の無作法に眉を寄せたが、そんなことにはお構い無しに孝太郎のそばにある炭酸水に手を伸ばしてティーカップにそそいだ。マドラーでかき回してから莉子はティーカップの酒を飲んだ。

「へえ、おいしいですね」

「そんなので飲まないで、グラスを持ってきなさい」

「いいですよ、これで」

「きみには、行儀作法から教えなくてはいけないようだな。まずは、その口のきき方だ」

「無駄ですよ。覚える前に、クビになりそうだ」

 あはは、と笑って、気楽な顔でティーカップを口に運んでいる莉子を、孝太郎はじっと見つめていた。

 ティーカップの中身を飲み干してから、莉子は先に寝室に引き取った。孝太郎は炭酸割りからオンザロックに替えてソファに背中をあずけた。家の中は寝静まって静かだ。ときどき軋むような家鳴りする。梅雨は続いているが、雨が止んだ夜の庭からは虫の音が聞こえてくる。夏を呼ぶ虫の音は、漣のように夜の中に溶け込んで眠りを誘った。

 孝太郎はグラスを手にしたまま、莉子が話してくれた雅巳の幼稚園の話を反芻していた。波子はこれまで、なにもいわなかった。だから、波子が雅巳のことでそんな苦労をしていることも知らなかった。

 叔母は、今年、何歳になったのだろうとおもった。父と三歳違いだから、六十三歳か。自分は甘えすぎていたのかもしれないとおもった。雅巳への愛情と叔母への甘えが、孝太郎を苦しくさせた。雅巳を寂しがらせ、叔母には過ぎた苦労をかけた。そのことを、家政婦の娘に指摘されたことがこたえていた。

 孝太郎は家政婦が口をつけたカップに目をやった。氷が溶けて水になっている。カップのふちには口紅の痕はない。風呂に入ったあとだから当然といえば当然なのだが、あの家政婦が化粧をした顔は見たことがなかった。いつも素顔で、長い髪を項で一つにしばっている。着ているのはジャージだ。

 これまでの家政婦は身だしなみに気を配っていた。こんなに身なりにかまわない娘も珍しいと思った。それなのに、口紅がついていないカップを清潔だとおもった。

 孝太郎はオンザロックをゆっくり口に運んだ。考えることがたくさんあるような気がした。父のことも、叔母のことも、涼と彩華のことも、もちろん雅巳のことも。そして、家政婦の娘のことも気になった。

 涼と話したとき、家政婦の娘が、自分は施設育ちだと本人がいっていたと涼が話していたが、あれはどういうことなのだろう。

 家政婦の娘の父親の伊坂達郎は、日本経済団体連合会の常任理事の一人だ。総合商社のトップにいる人間の娘が養護施設育ちとは解せないことだ。孝太郎はグラスにウイスキーを継ぎ足して口に含んだ。テーブルには家政婦の娘が持ってきたつまみがある。家で、つまみを前にして飲むのは何年ぶりだろう。ほんとうなら、付き合いで飲む酒よりも家で飲むほうがいちばん心が安らぐ。

 家政婦の娘の、飾り気のない素顔が目に浮かんだ。こちらの目を覗き込んで、なにを考えているのか知ろうとする強い光は印象的だった。

 孝太郎の思考は次から次に流れていった。波子が雅巳のことで苦労しているのだとしたら、再婚を視野に入れてもいいのではないだろうかとふとおもった。雅巳のためにも、波子のためにも、それがいちばんいいことのようにおもえた。


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