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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
8/18

第八話


 都庁の職員が仕事を終えて雨の中を新宿駅に歩いていくのを、莉子は都民広場の銅像の横に立って眺めていた。

 次から次に切れ目なく歩いていく人々に目をとめて準哉を探す。雨は静かに降っていたかと思うと、ときどき風に煽られて斜めに吹き流れた。

 莉子は、レインコート代わりのウインドブレーカーの中にカナリヤイエローのシャツを着て、下は色あせたスリムジーンズをはいていた。足元は長靴代わりのショートブーツだ。さすがに布のスニーカーでは水を吸って具合が悪い。準哉に駅で待っているようにいわれたのだが、谷村の家から都庁は寄り道できるところなのでここで待つことにした。

 早めに家を出てきたから準哉とすれ違いになることはないはずだ。しかし、莉子は雨の中で四十分も待っていた。帰りがけに急な仕事ができたのかもしれないと心を励ましてビニール傘の中で肩をすぼめた。

 待つのなんて、へいちゃらだ。肩が濡れたってなんともない。暗くて、心細くなりそうな夜の暗さも、準哉を待つあいだだけだと思えば我慢できる。寂しい夜は卒業したはずだ。もう子供じゃない。

 おおぜいの人々が目の前を通り過ぎていくシーンは、無声映画を見ているように静かだ。人はいっぱいいるのに、みんな知らない人たちで、どの人も自分が行くべきところに向かって急ぎ足で歩いていく。

 あの人たちに向かって声をかけてみたって、きっとだれもわたしに振り向いてはくれないだろう。夜がいけないのだ。雨がいけないのだ。わたしがこんなに心細くて寂しいのは、みんな夜と雨のせいなのだと、莉子は思った。

 準哉がなかなか来ないからではない。胸の中に寂しさが広がっていくのは、みんな、みんな、夜の雨のせいだと思った。

 莉子の背中はしだいに丸くなっていった。人々にも、夜にも、雨にも、これまでの悲しかった思い出にも背を向けて、自分を守るように背中を丸めた。

 準哉……早く来て。

 待つのは平気。何時間でも待てる。でも、早く来て準哉。わたし、夜につかまちゃうよ……。

 夜は嫌いだった。職員の先生も、宿直の先生以外はみんな帰ってしまう。学校の友だちと遊んでいても、夕方になるとみんな家に帰ってしまう。夜はなにもかも奪っていく。

 日中は元気いっぱいでも、夜は明るさも気の強さも前向きな感情も、なにもかも莉子から奪っていく。そして夜につかまって叫び声を上げそうになる。

 弱い心がむくむくと頭をもたげてくる。

 写真でしか知らない母。

 母と自分を見捨てた伊坂達郎。

 準哉がいたから、よかった。準哉がいたから準哉にしがみつけた。でなかったら、わたしはどうなっていただろう。

 莉子は準哉を求めて顔を上げた。すがるような眼差しで駅に向かう人々の中から準哉を探す。スーツ姿で黒っぽい傘をさした男たちの中に準哉の姿がちらりと見えた。

 準哉は急いでいた。足元が濡れるのも気にせず、人々の隙間をぬうように駅に急いでいる。莉子が準哉を呼び止めようとしたとき、脇から影がすっと近寄ってきて準哉の横に並んだ。以前、雅巳と自転車でここに遊びに来たときに見かけた女性だった。

 莉子は食い入るように、その人を見つめた。若かった。莉子より五歳ほど若いだろうか。夜の雨の中だというのに、その人にだけスポットライトが当たっているように明るく輝いていた。彼女は、バラの模様の真紅の傘を傾けて準哉に笑いかけた。二人の距離がぐっと縮まる。それだけで莉子の心臓はドクンと跳ねた。

 つやつやした頬にピンクのルージュがよく似合っている。髪は雨のせいで湿っているが、肩まで届く長さでやわらかくウエーブしている。長身の準哉と、準哉を見上げる小柄な彼女が似合いの男女に見えた。

 莉子の感情が波立った。駅に向かって歩き出した二人に吸い寄せられるように後を追っていた。

 準哉はよく笑った。もっぱらしゃべるのは彼女のほうで、準哉は聞き役だったが、合いの手を入れるように何かいうと、彼女は楽しそうに笑い転げた。何の話をしているのか、莉子のところからでは雨音に邪魔されて聞こえなかったが、駅までの距離を歩いていくうちに、少しずつ莉子に理性が戻ってきた。

 準哉の隣を歩いている若い女性を観察した。

 若くてきれいだ。笑うと愛嬌がある。品の良い雰囲気で、きっと両親から愛情をたくさんもらってすくすくと大きくなったお嬢様なのだろう。幸せと愛情を両手のこぶしの中に握りしめて生まれてきた人。その幸せと愛情を、愛する人に惜しげもなくそそいで、尚いっそうの愛情につつまれて生涯をおくる人。

 そんな人間はめったにいるものではないが、莉子には彼女がそう見えた。莉子は負けそうになる心を奮い立たせて二人の後を追った。

 やがて新宿駅について、彼女は準哉に会釈して改札の中に消えていった。準哉は、きょろきょろまわりを見回している。莉子を探しているのだ。腕時計に目を走らせ、また辺りを見回す。雨の中で、莉子はつかのまそんな準哉を見ていた。そして、意を決したように準哉に向かって走り出した。満面の笑顔を無理に作って元気に声を張り上げた。

「準哉! ごめん! 遅くなっちゃったよ」

 肩を濡らして駅のエントランスに飛び込んできた莉子に、準哉はほっとして笑顔になった。

「僕も今来たところだよ」

「なんだ。そうなんだ」

 莉子の濡れた肩や髪の毛を見て、準哉はポケットからハンカチを出して拭きはじめた。

「どうしたの。こんなに濡れちゃって。長いあいだ雨の中にいたみたいじゃないか」

「いいって、準哉。人が見るよ。かっこ悪いよ」

「それもそうか。もう子供じゃないしね」

「そうだよ。とっくにおとなになっちゃったんだよ。子供のころとは違うんだ」

 準哉は心なしか寂しそうにうなずいた。

「おなかがすいただろ。なにがいいかな。莉子はなにが食べたい?」

 準哉は東口への連絡通路に歩き出した。肩を並べて歩きながら、莉子はそっと準哉を窺った。子供のころは丸みを帯びてかわいかった準哉の頬は、いまは鋭角的で男性的だ。色が白いので眉や睫がくっきりしている。ほっそりした体型は背が高いのでスーツがよく似合う。隣を歩く準哉の手をちらりと見た。指が長くて爪は深爪なほど短く切ってある。そんなに深くきったら危ないと何度いってもいうことをきかなくて、癇癪をおこした莉子が準哉から爪切りを取りあげたこともあった。深爪の癖はいまもそのままだ。この手をつなげたらいいのにと思った。子供のころのように、無邪気に手をつなげたら、どんなにうれしいだろう。でも、もう子供ではないから手はつなげない。恋人でもないからつなげない。きょうだいでもないし……幼なじみ。親友、朋友、戦友だろうか。悲しい子供時代を、共に戦っておとなになった戦友?

 莉子の心はしだいに沈んでいった。わたしは準哉が好きだ。小さいころから準哉が好き。準哉はどうなのだろう。わたしのことを、どう思っているのだろう。姉のように思っているのかもしれない。いまだに世話を焼いている、おせっかいな姉。

 準哉がなにか話しかけていた。上の空だった莉子は、ぼんやりした表情を準哉に向けた。

「ステーキはどうかな。目の前で焼いてくれるんだよ。ワインもおいしいし、行ってみようよ」

「こんな格好で行けるお店なの?」

 莉子は自分のシャツをつまんだ。

「だいじょうぶだよ。行こう?」

 莉子はうつむいた。だいじょうぶだとしても、自分以外のお客は、みんなきれいな格好をしているのだろう。莉子は自分の格好など気にしないが、こんなラフな服装をしたダサい女と食事している準哉が、好奇の目で見られたらいやだなとおもった。準哉が自慢できるような素敵な女性と一緒にしゃれた店のドアをくぐるのならいいが、自分のようなみすぼらしい女とでは準哉が気の毒だ。先ほどまで一緒にいた女性だったら準哉にふさわしい。あの人なら、準哉がよりいっそうすばらしくみえる。準哉には、あの人のように明るくて上品でチャーミングな女性が似合う。わたしじゃだめだ。準哉の値打ちを下げてしまう。こんな、洗い晒した木綿みたいな女。

「どうしたの。黙り込んじゃって」

 足を止めて見下ろしてくる準哉に、莉子は口ごもった。

「あのさ、気の張るところは、ちょっと」

「高級な店じゃないよ。ステーキ屋だから。行こう?」

「うん。でも。お化粧もしてないし」

「なにいってるの。化粧のやり方も知らないくせに」

「そうだけど。だって」

「なにを気にしているの」

「気にしてないよ」

「じゃあ、どこならいいの!」

 強い調子に変わった準哉の声に、莉子ははっとなった。

「ど、どこでもいいよ。入りやすいところなら」

「どこなら入りやすいの。具体的にいってごらん」

 冷たい口調に、ますます莉子は萎縮した。

「準哉……」

 まさか、ラーメン屋とかファミレスとはいえなかった。おいしいものを食べさせたくて、莉子の喜ぶ顔がみたくて心はずんでいた準哉の気持ちをおもうと、すまない気持ちがこみあげてきて目頭がきゅんと痛くなった。

 莉子は準哉に弱かった。やさしい準哉が怒ると、それだけでうろたえたし、口論になった時などは口もきいてくれなくなる準哉に困り果てて、一方的に謝り倒した。ふだんは莉子が言いたい放題、し放題だが、めったに怒らない準哉が怒り出すと、莉子は他愛もなく涙を滲ませてすがるのが常だった。うなだれてしまった莉子の頭の上で、準哉が気を取り直したように明るくいった。

「じゃあ、居酒屋へ行こう。肩のこらないリーズナブルな、学生たちがわんさかいて、大声でしゃべらなければ聞こえないような、おそろしく愛想のいい居酒屋に」

 莉子は無理に笑みを作ってうなずいた。譲歩してくれた準哉のやさしさに、ふたたび申し訳ないことをしたとおもった。準哉の気持ちを無にしてしまった。

 東口への連絡通路は、水を滴らせた傘を持つ人々がおおぜい行き交っていた。濡れて滑りやすくなった通路を歩き出す。遅れがちになる莉子を気にして準哉が手を伸ばしてきた。骨細だが、しっかりした大きな手が莉子の手を握った。

「さっきは、ごめんね、莉子」

 小さな声で謝ってくる。また莉子の目頭がきゅんと痛くなった。いそいで首を横に振る。

「莉子、無理しないでいいからね。いやなら、いやだっていっていいんだからね。あれが食べたい、あれが欲しいって、いっていいんだからね。我儘いえるのは、僕たち二人だけなんだからね」

 莉子の目からとうとうポロリと涙がこぼれた。つないだ手から準哉の体温が伝わってくる。熱いほどの熱だ。子供のころはよく手をつないだが、おとなになってからはそんなことはなくなった。男の子と女の子のあいだに線が引かれたのはいつのころだったか。それ以来、手を触れ合うことも腕を組むこともなくなった。準哉の手に握りこまれている自分の小さな指先を見ながら、莉子はせつなくて胸がいっぱいになった。

 準哉が連れて行ってくれた店は、たしかに学生風の若者でにぎわっていたが中年のサラリーマンのグループや女性だけのグループもけっこう入っていた。莉子は酒は付き合い程度しか飲まないし、準哉も同じようなものだったので、二人はもっぱら食べることに専念した。

 居酒屋料理など、所詮酒のつまみなので家庭でもつくれる料理が多い。定番のから揚げや刺身、サラダなど、特に珍しいものはなかったが、莉子は目をきらきらさせて頬を赤くしていた。

「お酒をもう一本たのもうか」

 吟醸が一番うまく感じる温度で冷やされた冷酒のグラスを見て準哉がいった。

「もういいよ。酔っ払って歩けなくなるよ」

 莉子は幸せそうに手をひらひらさせた。

「で、準哉。仕事のほうはうまくいってるの? 職場のひとたちから苛められていないか?」

 準哉がぷっと吹き出した。

「なんだよ、それ」

「だってさ。職場でもいじめがあるって聞いたからさ。準哉がそんなめにあっていないか心配になってさ」

「莉子は僕の母親か?」

「そうじゃないけどさ」

「だいじょうぶだよ。うまくやってる。真面目にコツコツと、手抜かりなくね。そこらへんは慎重なんだ。社会人になってからが本番の人生だからね。失敗するわけにはいかないよ。莉子が頑張って大学を出してくれたんだもの、それを無駄にするわけにはいかないからね」

「そうか、そうか!」

 莉子は、グラスの底のわずかばかりの酒を気持ちよくあおった。

「恩にきてるよ。今の僕があるのは莉子のおかげだ。足を向けて寝られないよ」

 おどけたように準哉がいった。莉子は少し乱暴にグラスをテーブルに置いた。恩にきているという一言が神経に障った。

「おかしなことを言うなよ準哉。恩も何もないだろ。準哉は優秀だったから、わたしが少しばかり手をかしただけじゃないか。優秀な人間は上にのぼっていって当然なんだ。そのためにわたしみたいな人間がいるんだよ」

「なんだよ、それ。莉子みたいな人間てどういう人間のことをいうんだよ。おかしなことをいうなよ。莉子が懸命に僕を支えてくれたから、今の僕があるんじゃないか。感謝して当然だろ? その感謝を、これからどうやって返していったらいいのか、一生返しきれないと思うよ。莉子こそ……もっと幸せになって当然なのに」

 莉子と準哉の視線が絡み合った。酒のせいで酔いも手伝っていた。

「わたしは幸せだよ。ほんとだよ。こうやって、準哉と一緒にいられるんだから」

「そんなことじゃなくてさ。僕は、莉子にも、普通の若い女性のように、友だちと食事に行ったり、旅行したり、買い物したり、そのほかにもいっぱい楽しいことをして生活を充実させてほしいんだよ」

「充実してるよ。働くことがすきだから充実してる」

「他人の家でかい」

「家賃がうく。食事代もね」

「一人で暮らそうとは思わないの?」

 準哉は莉子をうかがうような目付きで見た。一人で暮らす気はないのかと訊ねておきながら、一緒に暮らそうとはいわないうしろめたさがのぞいていた。

 高校卒業まで施設で一緒に暮らし、施設を出てからも莉子の援助のおかげで大学を卒業できたことをおもえば、いまだに働きづめで頑張っている莉子を、自分が支えてやらなければとおもうのだが、今の関係から一歩前進することへのためらいが準哉にはあった。

 複雑な心のひだをまさぐっているうちに、ぷかりと一人の女性の顔が浮かんだ。吉川結花。今年入庁した新入職員だ。五歳年下の彼女は、のびのびしたおおらかさの中にも人を思いやるやさしさがあって好感がもてた。話しやすかったので、莉子のプレゼントを買うのに付き合ってもらったり、そのお礼に食事に誘ったりした。ついさっきも、帰りが一緒になったので、食事でもと誘われたが、莉子との約束があったのでことわったが、気を悪くする様子もなく笑顔で帰って行った。

 結花といると楽しかった。莉子と一緒にいても楽しいが、楽しさの質が違っていた。結花といると自分が自分でいられて心が浮き立った。職場で自信を持って働いているときの自分のままで振舞えた。年下の若い女性を、年長者の大きさで包むことができた。

「一人なんか……いやだよ。寂しいじゃないか」

 莉子の声に準哉は我に返った。

「あ、そうか。そうだよね」

「うん。今の家は大家族だし、毎日なにかしら起こって退屈しないんだよ。この前、彩華が万引きして、わたしが迎えに行ったじゃない」

「うん。そのあとどうなった?」

 心に生まれた不穏な感情にうろたえて、それを悟られないように身を乗り出して莉子の話に集中した。

「波子が来なかったんで、彩華のやつ怒って暴れてさ、結局警察行きだよ」

「たいへんだったんだ」

 水滴がしたたっているコップを取って、準哉は水を口に運んだ。莉子は背中を丸めて皿の中のエビチリを箸でつついている。準哉はちらりと腕時計に目を走らせた。それは目立たないしぐさだったが莉子は傷ついたように下を向いた。

 雨の中を準哉に走りよってきた女性が頭の中から消えなかった。わたしといると退屈なのだろか。もう帰りたいのだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、急いでその考えを打ち消した。

「警察に孝太郎さんが迎えにきたよ」

「谷村孝太郎か。谷村製薬の代表取締役社長の長男で、秘書室の秘書室長。将来は社長職につく男、か」

「なにそれ」

 莉子が胡散臭げに準哉を睨んだ。

「いや、谷村製薬のホームページを覗いたら、谷村孝太郎が写真入りでのっていたんだよ」

「孝太郎さんに、雅巳と一緒に寝るなって言われちゃった」

 興味なさそうに莉子が話を続けた。

「ん?」

「雅巳って、孝太郎さんの子供だよ。おねしょったれの雅巳」

「ああ、あの子ね」

「わたしのベッドにもぐりこんで寝ちゃったんだ。そしたら、次の朝、そう言われた。あなたは、いつかはこの家を出て行く人だから、そういうことはやめてほしいって」

「悲しいことをいわれたね」

「うん。でも、そうなんだよね。わたしがいなくなったあと、雅巳が寂しい思いをするよりは、最初からそんなことはしないほうがいいんだ」

「うん」

「でもね、でもさ」

「うん」

 二人はテーブルを見つめて黙ってしまった。莉子は莉子の想いの中に、準哉は準哉の想いのなかに沈み始める。

「でもさ、雅巳はまだ四歳なんだよね」

「うん」

「わたしに抱かれて寝た夜は、おねしょしないでぐっすり眠ったんだよね」

「うん」

「子供って、人肌が恋しいよね。抱きしめられただけで満たされるんだよね。わたしたちは、いつも抱きしめられたかったよね。大人の大きくて強い力に小さな体を力いっぱい抱きしめてもらいかったよね」

「うん」

「だから、雅巳にそうしてあげただけなんだ」

「うん」

「でも、だめだって」

「うん」

 なんだか悲しくなってきて、莉子はぐすっと鼻を鳴らした。

「僕も深入りしないほうがいいと思う。仕事と割り切って働いたほうがいいと思うよ。でないと、辛くなるかもしれない」

「うん。わかっているんだけどね。でも、あの家の子供たちは、わたしたちとおんなじなんだよ。寂しくて、悲しくて、それをどこにぶつけていいのかわからなくなっているんだ」

 黙り込んでしまった莉子のうなだれた姿を見ながら、準哉は困ったように眉尻を下げた。

「莉子が心配だよ。谷村の子供たちに僕たちの子ども時代を投影するのはよくないとおもうよ。僕たちに親はいなかったけど、彼らには親がいるんだもの。僕たちとはぜんぜん違うよ」

「そうなんだけどさ」

「仕事なんだろ。だったら割り切らないと。それができないようだったら、仕事を替えるんだね」

「雅巳は小さいんだ……。彩華はむずかしい時期だし。涼だってなんとかしないと」

「でもそれは、莉子が悩むことじゃないだろ」

 莉子は黙ってしまった。準哉はもう一本生酒を注文しようかどうか迷った。莉子の愚痴ともつかない繰言を聞いているうちに、無性に腹が立ってきた。なぜそのようなことで思い悩むのだろう。みんな他人ではないか。他人のために、なぜそこまで真剣になるのだ。莉子こそ、もっと自分のことを考えるべきだ。人のためばかりでなく、自分の幸せを考えるべきだ。準哉はもどかしさを持て余して、やはり酒を注文した。

「莉子。そんな話はやめよう。おもしろい話をしようよ」

 気分を変えるように準哉は威勢よくいった。すぐに生酒が運ばれてきて、莉子の杯につぐ。むこうのほうで若い笑い声がはじけるようにおこった。

「飲もうよ。莉子」

「うん。そうだね」

「昔さ、子供のころ、先生に隠れてこっそりカメを飼ったことがあっただろ」

「うん。準哉と二人でデパートの屋上のペットショップ売り場にいってミドリガメを買ってきたんだったよね」

「そのカメをおもちゃのバケツの中に入れて机の後ろに隠してさ、遊びに行くときもバケツを持って遊びに行ったんだよね」

「うん。懐いているのかいないのか、よくわからない生き物だったけど、子供だったからカメに名前をつけてよく話しかけていたよね」

 莉子は昔の思い出にクスクス笑った。準哉も笑い出す。小学生のころ、養護施設から支給されるわずか数百円の小遣いをためて、二人で手をつないでデパートをめざして走った。バス代を節約したのは、施設からの小遣いが少なくて、その小遣いでお菓子やマンガなどをまかなわなくてはならなかったため、いつもカツカツで金には不自由していたからだ。だから二人にとって餌代のかかるペットを飼うというのは夢のようなことだった。ましてや施設でそんなものを飼っていいと許可してくれるわけはなく、かなり勇気のいる冒険でもあった。

 結局カメは職員に見つかり、近くの公園の池に放してこいといわれた。一人のわがままを許せば、みんなのわがままを認めることになる。規律が守れなくなるというわけだ。

 子供心にも理屈は理解できた。準哉と莉子は、愛らしい小さなカメの甲羅に、古釘で自分たちの名前を彫った。自分たちのことをいつまでも忘れないでいてくれるようにとの願いだった。そして、泣きながら公園の池に放したのだった。

 高校生になったとき、右側に「じゅんや」、左側に「りこ」と彫ったカメを公園の池で見つけたとき、二人は手を取り合って大騒ぎをした。カメは大きくなっていた。背中に二人の名前を刻んだまま、のんびり池の淵で首を伸ばしてひなたぼっこをしていた。無事で生きている。生きていた! 準哉と莉子は、大笑いしながらうれしくて泣いたのだった。

「あのカメ、まだ生きているかな」

 辛口の吟醸をなめるように味わいながら莉子が呟いた。

「生きているさ。僕たちが、こうして元気に生きているんだから、あのカメだって生きているのに決まっているよ」

「うん」

「うん」

 二人はそれっきり黙りこんだ。ちびちびと酒を飲みおえて店を出た。

 雨はしとしとと降り続いていた。夜を彩る原色のネオンをやさしく包み込んで夜気を濡らしていた。傘をさした一団が、交差点の信号が変わると波のように動き出した。莉子と準哉も流されるように交差点をわたって駅に向かった。駅について、莉子は準哉にむきなおった。

「今夜はありがとう。楽しかったよ」

 準哉に礼をいったら、まぶしすぎる駅の照明の中で準哉が首を横に振った。

「送っていくよ」

「え、でも、雨だよ」

「いいんだ」

「ちょっとばかり歩くよ。服が濡れるよ」

「莉子だって、歩いて帰るんだろ」

「わたしは帰るだけだもの。でも、準哉はまた駅までもどらなきゃならないでしょ」

「いいんだ。莉子がどんなところで働いているか、見ておきたいんだ」

「なにも雨の日でなくてもいいのに」

「いいんだ」

 強情そうに準哉が言い張った。莉子は小さくため息をついてうなずいた。駅の連絡通路を西口に向かって歩き、再び雨の中に出た。

 東口の繁華街とは違う落ち着いた明かりが高層ビルの窓から落ちてくる。照明が消えている窓と灯りが灯っている窓がビルのシルエットの中でモザイクのようだ。ホワイトカラーのサラリーマンが傘をさして足早に駅に向かっていくのに逆らって、二人は無言で歩いた。

 話すことはほとんどなかった。過去は互いに知りすぎるほど知っている。思い出話なら尽きないが、懐かしがる話しなどほとんどない。過去など消してしまいたいくらいだ。

 莉子は過去より未来がほしかった。明るくて希望に輝いている未来。その未来を、準哉と共に生きて行きたかった。しかし、その気持ちを素直に伝えることができなかった。

 準哉は莉子のことを嫌ってはいないとおもう。好きか嫌いかといったら好きな部類に入っているとおもう。でも、その好きがLIKEなのかLOVEなのか、自信を持って準哉から感じ取ることができなかった。

 中学生のころは互いに意識していたとおもう。高校のころは、はっきり異性として互いを受け止めていた。でも、準哉が大学に入ってから、なにかが違ってきた。莉子は準哉に打ち込んでいたが、準哉には準哉の世界が広がって行ったようだった。はじめは莉子が高校しか出ていないので、聡明な準哉には物足りなくなってきたのかとおもっていた。でも、それも違うような気がした。隣を歩いている準哉の胸の中をこじ開けて、なにが隠れているのか確かめたかった。なにを考え、なにをおもっているのか、年を取るほどにわからなくなっていく。好きな人ができたのかと、きいてみたいくせに怖くて訊けない自分がいた。

車が行き交う幹線を外れて近道の路地を歩きながら、莉子はそんなことを考えていた。

 マンションや、コーポが目立つ住宅地をいくらも行かないうちに、あたりを払う谷村家の広い屋敷が見えてきた。人の目を遮る高い塀が夜目にも長く続き、塀からはみ出したモチノキの黒々とした梢が雨を吸って重そうにしなだれていた。道の前の立派な屋根つき門は、大型車が門前に車を止めても車道の邪魔にならないように大きく敷地のほうにえぐれている。その門の前に見慣れた車が止まっていた。

「あ。孝太郎さんが帰ってきたんだ」

 莉子の呟きを耳にして、準哉は車の中の人物に目を凝らした。車内は暗くてほとんど人物の容貌は判別できなかったが、シルエットは端整だった。車内の人が何かを手にとって門扉のほうに向けたら門扉が自動的に開いた。車は吸い込まれるように屋敷の中に入っていった。

「雅巳とは一緒に寝ないでくれっていわれたけど、雅巳は毎晩わたしのところに来るんだ。追い返せないよ」

 孝太郎さんは怒るかなあと、莉子は気弱そうに呟いた。

 あの人が谷村孝太郎と、準哉は谷村製薬のホームページにのっていた孝太郎の顔写真を思い浮かべた。決断力がありそうな知的な男だった。顔立ちは整っていて、十分谷村製薬の広報看板に足りた。莉子は、あの男と一つ屋根の下で暮らしている。準哉は複雑な思いで長く伸びている塀を見渡した。

「莉子。ここで働くのはいつまでって、期限を決めないか」

「どういうこと」

「だって、この家には、独身の男性がいるじゃないか。莉子だって独身だし」

 あはは、と莉子は笑った。少しも楽しそうな笑い方ではなかった。

「なにそれ。わたしは養護施設育ちの高卒の住み込みの家政婦だよ。人並みの人間扱いなんかしてもらえないよ」

「やめろよ。そんないいかた」

「これが現実なんだよ。だから準哉にはなにがなんでも大学を出て人生を切り開いてもらいたかったんだ。それが、わたしの夢だったからさ」

 二人の視線が夜の中に絡み合った。喧嘩しているような、悲しみを分かち合っているような、揺れ動く瞳の色だった。

「もう帰ったほうがいいよ。これ以上濡れないうちに」

 莉子にいわれて、準哉はもう一度屋敷を見回した。

「ここからじゃ、家が見えないね。莉子の部屋がどこなんだかわからないよ」

「こんど遊びにおいでよ」

「いやだよ! いやだ!」

 ふいに準哉の目に涙が盛り上がった。

「どうしたの、準哉」

「莉子の苦労をこれ以上、見たくないんだ!」

 叫ぶようにいって、準哉は走り出した。そんなに走ったらズボンの裾が濡れるよと、莉子はいいそうになった。しかし、喉を押し殺して言葉をせき止めた。わたしはどんなに苦労してもいいんだ。準哉のためなら、準哉が幸せになるためなら、かまわないんだと、走り去る準哉に声を限りに叫びたかった。


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