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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
7/18

第七話

 一夜明けて、彩華は朝になっても階下に下りてこなかった。波子は機嫌が悪く、莉子にとげとげしかった。リビングに下りてきた孝太郎は、いつもと同じように朝食をとって玄関に向かった。莉子が玄関先までついていって靴べらをわたすと、孝太郎は莉子の様子に目をとめた。

「だいじょうぶですか。まだ痛みますか」

 彩華に叩かれた打撲のことだと気がついた。そんな気遣いをする人だとは思っていなかった。冷たい人だと思っていたので意外だった。

「へいきです。わたしは頑丈にできていますから」

「その細い体は頑丈には見えないが。辛いようだったら念のため、病院にいってください」

「ほんと、だいじょうぶですって」

「申し訳ない。伊坂さんには迷惑をかけました」

 まさか孝太郎から謝罪の言葉をきこうとは思わなかったので驚いてしまった。目を見開いている莉子を、孝太郎は澄んだ眼差しで見つめた。正面から向かい合ってみると、孝太郎という男性は魅力的だった。莉子は思わずみとれていた。男らしいきれいな目をしていた。吸い込まれる……と、おもった。あわてて瞬きをして気持ちを切り替えた。

「ゆうべは雅巳、おねしょをしませんでしたよ」

「それはよかった。あなたのパジャマを汚さずにすんで」

「え?」

「ゆうべは雅巳と一緒に寝たんでしょ?」

「あ、はい」

「お願いがあるんですが、雅巳と寝るのはこれっきりにしてくれませんか」

「いけませんでしたか」

「あなたにかわいがってもらうのはありがたいが、あなたはいつかはこの家を去っていく人です。必要以上に雅巳をかわいがってもらっても、あとで困ります」

 莉子は言葉が出なかった。他人がよけいなことをするなということだった。孝太郎は表情を崩さず玄関を出て行った。

 車庫から車を出す音がしてエンジンが門のほうに遠ざかっていく。莉子はその場を動けなかった。たしかに自分は使用人の家政婦だ。この家に一生住めるわけではない。でも、でも……。

 莉子は無性に悲しくなった。子供の匂いのする雅巳を抱いて眠った夜の熟睡した満足感を思い出す。雅巳も安心しきって眠っていた。でも、と莉子は唇をかんだ。たしかに孝太郎のいうとおりだ。なまじ情をかけても、あとで悲しい思いをするのは雅巳だ。だったら、最初からそんなことをしないほうがいい。理屈ではそう思っても、やはり孝太郎からそういわれて莉子は悲しかった。

 雅巳がパジャマ姿で階段を下りてきた。一緒にリビングへ行って二人で朝食をすませてから、雅巳に洗面をさせて幼稚園の制服に着替えさせ家を出た。

 外は雨だった。暗い灰色の雲から細かい雨が音もなく落ちてくる。雅巳には黄色の子供用の傘を持たせ、莉子はビニール傘をさした。しのつく雨はアスファルトの道を黒々と濡らしている。小さな窪みには小さな水溜りができていて、雅巳はわざとそういうところを狙って歩いた。黄色の長靴のかかとで水を蹴散らすのがおもしろいのだ。ときどき水が莉子のジャージのズボンの裾を濡らすが莉子は叱らない。雅巳に対する口のきき方は乱暴だったが、莉子は雅巳を叱ったことはなかった。だから雅巳も安心して莉子に懐いた。

 幼稚園バスの集合場所にいくと、先に来ていた子供たちの母親が傘を寄せ合ってひそひそ話をしていた。雅巳の手をつないだまま近づいていくと、以前にも一番最初に話しかけてきた主婦が笑いかけてきた。

「おはようございます。きのうはだいじょうぶでした?」

 興味津々といった様子で声をひそめ、親しげに近寄ってくる。後ろで数人の主婦もひとかたまりになってこちらを見ていた。

「なにがですか」

「谷村さんの娘さんが。たいへんだったんでしょう?」

「だから、なにがですか」

 相手は親しげだったが、莉子はつっけんどんに聞き返した。

「駅前のビルで。警察が……」

「見てたんだ」

「いいえ。そうじゃないけど」

「見てたんだ」

「だから、見てないったら。たまたま買い物に行っていて、あのビルの入り口にパトカーが止まって、人だかりがしていたからなんだとおもって」

「見てたんじゃないか」

「……」

 主婦は黙り込んでしまった。気に入らないようすで後ろの主婦たちのところに戻っていく。

「相手にするのはやめたほうがいいわよ」

 おとなしそうな主婦の小声が聞こえてきた。

「あのひと、なんだか怖いって、みんな言っているわよ」

 別の主婦も言葉を添える。

「見るからに変じゃない。常識もないし」

 こそこそと、いいたいことをいいはじめる。幼稚園バスが来て子供たちを乗せ終わって走り去っても主婦たちは帰ろうとしない。莉子はふんと軽く鼻をならして帰途についた。

家では波子が待ちかねていた。

「莉子さん。早く彩華を起こしてきてちょうだい。学校に遅刻するじゃないですか」

 起こしにいっても彩華は出てこないだろうとおもったが、よけいなことはいわずに二階に行った。彩華のドアを叩いて声をかけた。

「波子が起きろっていってるよ。学校に行けってさ」

 間髪いれずに物がドアにぶつけられた。

「いつまでもそうしていな」

 莉子は捨て台詞を残して涼の部屋に行った。

「涼、ドアを開けな」

 ノックするとドアはすぐに開いた。涼が困ったような顔つきで立っていた。

「きのう、なにがあったの」

「それを話してやろうとおもってさ」

「入って」

 部屋に入って、空いているスペースを占領している鉄道模型のジオラマに莉子は目を輝かせた。

「この家に最初に来た日に一回見たけど、ゆっくり見れなかったからさ。やっぱりすごいな、これ。全部一人で作ったんだろ?」

「そ、そうだけど」

 涼は頬がゆるみそうになった。以前もそうだったが、莉子はまっさきにジオラマをほめてくれた。ジオラマには涼の夢や希望がつまっていた。細かい部品を丹精こめて作り上げる苦心と喜びは、外界との接触を拒んでしまった涼の唯一の楽しみごとだった。

 彩華と雅巳は涼のジオラマに感嘆の声を上げてくれたが、波子は文句しかいわないし栄一郎は自分の部屋から出てこないので、涼が一日中部屋に引きこもってなにをしているのかまったく知らない。知ろうともしてくれない。兄の孝太郎は一瞥しただけだ。でも莉子は開口一番、すごいなといったのだ。

 雅巳のような無邪気さで熱心にジオラマを見ている莉子に、涼は好感を覚えた。人柄は粗野でも、莉子を部屋に入れることに抵抗はなかった。

「それで、彩華はなにをやらかしたの。兄さんのあんなに大きな声ははじめてだよ。美里耶みりやさんと離婚する時だって興奮したりしなかったのに」

 涼はのろのろと自分のベッドに腰をおろして、鉄道模型に見入っているジャージ姿の莉子をあらためて観察した。年齢は二十五歳くらい、いや、もう少し上かもしれない。でも、まだ若い。若いのに、服装といい、束ねただけのロングヘヤーといい、産毛のままの素顔といい、全体の雰囲気が田舎臭いというか、貧乏臭いというか、とても都会の人にはみえない。

「一言でいったら、ダサい、かなあ」

 考えながら涼は呟いていた。

「なに、わたしのこと?」

「え? なにが? おれ、何か言った?」

「いっただろ。ダサいって」

「あ。いや。まあ」

「ダサくてあたりまえだよ。働きづめだったんだから。美容院にもろくにいったことないよ。涼、こんど髪の毛を切ってくれよ。伸びすぎちゃってさ」

 気を悪くするでもなく、冗談とも本気ともつかない莉子の言い草に、十七歳の少年はぐっと詰まった。

「涼は親がいるからわからないだろうだけどさ。わたしみたいに親がいなくて施設で育った子っていうのは一生貧乏がついて回るんだよ。施設って知ってるか?」

 涼は机に行って辞書を引き始めた。

「辞書なんか引かなくてもいいよ。おまえがそういう世界をまったく知らない恵まれた人間だってことはよくわかっているからさ」

「おれが恵まれている?」

 意外なことをいわれたというように眉をひそめた。

「恵まれているじゃないか。住む家があって、世話してくれる家族があって、三度三度ごはんが食べられて、何の不安もないだろ」

「ふ、ふ、不安だ、だらけだよ!」

 急に涼は大声をだした。

「おやおや。もしかして彩華に続いて、また地雷を踏んじゃったかな」

 莉子はあはは、と笑って続けた。

「涼の不安なんかたいしたことないよ。涼が自分で何とかできる不安なんだからさ」

「ど、ど、どういう意味だよ」

「おまえ、対人恐怖症なの。それともパニック障害とか。あるいはうつ病?」

「ち、がうよ」

「病気じゃないなら、なんで引きこもり、してるわけ」

「おれのことなんてどうでもいいだろ。彩華の話をしているんだろ」

「おう、そうだったな。それが彩華のやつさ」

 ジオラマから離れてすたすたと涼のところに歩み寄り、無造作に涼の隣に腰を下ろす。涼は居心地悪そうに少しだけ尻をずらした。

「このまえ、彩華の学校まで行ってみたんだよ。どんな友だちとつるんでいるのかとおもってさ」

「え、ほんと」

「わざわざ見に行ったなんて、だれにも言うなよ。彩華のやつさ、家に帰ってくるのが遅すぎるだろ。あれはまずいよ。夜の東京は女子高生にはマジ、ヤバイぞ」

「それで、どんな友だちだったの」

「彩華はパシリだな。びくびくしちゃってさ。お金で友だちのご機嫌をとっているみたいだから、小遣いはいくらあっても足りないよな。だから家のお金に手をつけるんだよ。波子も波子だよな。わざわざ彩華が持っていきやすいところにお金を置いておくんだから。彩華をもて余していて、しかたなくお金に子守をさせているんだろうけどさ。悪循環だよな」

 うなだれて唇をかむ涼を横目で見ながら話を続けた。

「その友だち連中に、万引きしてこいっていわれたんだよ。彩華」

 ピクンと顔を上げて涼は莉子をみた。

「したの、万引き。それでこんな大騒ぎになったの」

「いや。そのときは友だちの目を盗んでレジをすませて、盗んだふりをして友だちのところに戻って行ったよ」

「よかった」

「万引きをしたのはきのうの日曜だよ。駅前のCDショップでCDを一枚盗んだんだ。わたしは出かけていたんだけど、波子から電話がかかってきて、自分は恥ずかしくて引取りに行きたくないから、わたしに行けっていってきたんだよ。で、行ったよ」

「彩華、どうだった」

「わたしが来たのがショックだったみたいだよ。波子が来ると思っていたんじゃないかな。ふつう、そうだよな。家族なんだから」

「かわいそうに、彩華」

「で、波子が電話でいったことをそのまま彩華に言ってやったんだ。そしたらキレちゃってさ」

「あたりまえだろ! なんでそんなことを言ったんだよ」

「まあまあ、そう怒るなって。彩華のやつ、滅茶苦茶暴れてわたしをボコってさ、そんで警察ってわけ。孝太郎さんが迎えに来たよ。真っ青だった」

 思い出して、莉子はクスクス笑った。

「笑い事じゃないよ。警察に突き出されたら前科がつくじゃないか」

「つかないよ。未成年だし、はじめてだし、補導されただけだ。重要なのは、これからだよ涼。二度と繰り返さないようにしなきゃいけないんだ。協力してくれよ」

「なにをどうすればいいの」

「かんたんだよ。彩華をかわいがればいいんだ」

「それが一番むずかしいんじゃないか」

「一人にしちゃだめだ。涼が彩華のところに行ってそばにいてやれよ。そんで、今回は

友だちにやらされたのか、自分でやったのか、そこのところをたしかめてくれよ」

「できないよ。きけないよ」

「年が近いきょうだいはおまえだけだろ。おまえにしかできないことなんだよ。それとも波子に頼むか?」

「むりだよ。叔母さんは叱るだけだもの」

「じゃあ、おまえの親父に行かせるか?」

「絶対無理。あの人は子供には無関心だから。仕事のことしか頭にないんだ。お母さんが出て行ったのも、それが原因だし」

「というわけで、ここは涼の出番だな。しっかりやれよ。万引きは、一回目でストップさせないと常習化するからな。彩華にとって、だいじなときだ」

「具体的にどうすればいいの」

「自分で考えな」

「わかんないよ。むりだよ。できない。むりむり」

「やるんだ! 妹が心配じゃないのか」

 小さく叱って、莉子は涼の部屋を出て行った。

 莉子に下駄をあずけられたかたちになった涼は、頭を抱えてしまった。なにをどうやっていいのかさっぱり思いつかない。うんうんうなりながら考え込んでいるうちに疲れてしまって、そのままベッドで眠ってしまった。雨模様の薄暗い天気のせいか、おもいのほか眠ってしまって、目が覚めたら夕方の四時近くになっていた。何も思いつかないので諦めて彩華の部屋に向かった。ドアの前でためらってから、思いきってノックした。

「彩華、おれだよ。だいじょうぶか」

 声をかけても返事はなかったが、中で動く気配がしたので待っていると、泣きはらしてむくんだ瞼をした彩華がドアを開けた。

「冷たいタオルを持ってきてやろうか」

「いいよ。おでこひんやりシートがあるから」

 ふてくされる彩華に涼は「うん」と頷いた。

 彩華の部屋はものであふれていた。涼の部屋は、ベッドと机と鉄道模型のジオラマが占領しているが、彩華の部屋は洋服と化粧品とアイドルのポスターとアクセサリーと漫画本をぶちまけたような極彩色の有様だった。かろうじて机の上だけは片付いていて、参考書や辞書が充実していて、筆記用具やノートが広げてあるところをみると勉強はしているようなので安心した。

「怖かっただろう?」

 やさしく問いかけると、彩華は素直にうなづいた。ドアの前をあけて涼を中にいれる。涼が勉強机の椅子に座ると彩華は横のベッドに腰を下ろした。

「ごはんを持ってきてやろうか。お腹がすいただろ?」

「うん。みんな、どうしてる?」

「わかんないよ。おれは下には行かないから」

「そうだったね」

 そこで会話はぷつんと切れた。居心地の悪い沈黙を破ったのは彩華だった。

「きのうのこと、どうして知ってるの。雅巳にきいたの」

「ううん。家政婦さんから聞いたんだ」

「あの、オヤジ女か」

「おやじ女?」

「家政婦のババアだよ。言葉遣いといい格好といい、歩く姿はガニマタだよ。あれはオヤジだよ。だからオヤジ女」

 涼がクスクス笑いだした。

「たしかに、あの人の歩き方は残念だよね。普通に歩けば綺麗な人なのに」

「きれい! 冗談でしょ。あいつのどこがきれいなのよ」

「あの人は綺麗だよ」

「怒るよ涼ちゃん! あいつはオヤジ女だ」

「わかったよ。あの人はオヤジ女だ」

「涼ちゃんもオヤジ女っていわなきゃだめだよ」

「わかった。オヤジ女だろ?」

「そうそう」

 満足したのか、彩華は肩から力を抜いて息を吐いた。そしておもむろに話し始めた。

 彩華の話は、細い糸をつむぐようにたどたどしく、過去と現在を行きつ戻りつした。寂しさと悲しさに傷つき果てた少女の話は、涼の心そのものだった。雨が窓ガラスを濡らしていた。外の雨が外界の音を遮断しているのか、部屋の中は静まり返り、彩華の吐息のような声だけが続いた。

 おれは、いつから彩華を一人にしてしまったのだろう、と涼は過去を振り返った。

 彩華だけではない。雅巳もだ。おれと彩華と雅巳は、同じ思いをしていたもの同士だ。働くだけで、家族や子供に関心のない父親。涼と彩華の母親は夫に失望して去っていった。雅巳の母親もだ。そしておれと彩華はそれぞれの殻に閉じこもり、幼い雅巳は愛情が欲しくて叔母さんにまつわりついて叱られてばかりいる。なんて悲しいのだろう。悲しみに目を背けて、いつのまにかおれたちはここまで来てしまったけど、彩華はもしかして限界だったのかもしれない。おれはどうしたらいいのだろう。おれになにができるだろう。

「涼ちゃん、聞いてるの」

「あ、うん。ごめん。昔のことを思い出していたよ」

「昔のこと?」

「うん。お母さんがいたころのこと」

「お母さんか。涼ちゃんのところに電話はくるの」

「そういえば、こなくなったな」

「わたしのところにもだよ。以前は、誕生日とか、学年が上がったときとか、クリスマスとかにプレゼントを送ってきたのに、いつのまにかこなくなった」

「うん」

 二人は押し黙ってうなだれた。自分たちは、お母さんからも忘れられてしまったんだとおもった。この世で自分たちは二人ぼっちだとおもった。父親は他人みたいだ。自分たちを育ててくれた叔母は、自分たちを持て余して邪魔にしている。年の離れた兄は、気難しくて近寄りがたい。そう考えると涼と彩華は、自分たちがかけがえのない兄妹だということを実感した。寂しさや悲しさを我がことのように理解できるのは自分たち兄妹だけなのだと。

「彩華」

「ん?」

「こんどの万引きは、友だちに強要されたのか? それとも自分の意志か?」

 彩華はちょと息を止めた。

「なによ、いきなり。なんで突然友だちの話しが出てくるわけ。友だちに強要されたって、どういうこと」

「いや、その、それは」

「強要って、なに! 引きこもりの涼ちゃんが、何でそんなことをいうの。まるであたしの友だち関係のことを知っているみたいないいかたじゃないの」

「いや、だから、それは」

「涼ちゃん、オヤジ女となにを話したのよ。涼ちゃんがそんなことをいうなんておかしいもの。何にも知らない涼ちゃんが、あたしの友だちのことなんか、知るわけないもの!」

「おちついて彩華。詮索するつもりはないんだ。兄妹でもプライバシーはあるからね。いいたくなければいわなくていいんだよ。心配だったから。それだけだから。じゃあ、下からごはんを持って来るよ」

「オヤジ女ね。そうなんでしょ!」

「彩華……」

 しかたがなくて、涼はかいつまんで先ほど莉子と話したことを彩華に話した。

「ウソでしょ。あのオヤジ女が学校まで来たの?」

 彩華は目を見張って涼を見つめた。掴みかからんばかりの驚き方だった。

「信じらんない。学校まで来たなんて。後をつけて、ずっと見ていたなんて!」

 青くなっていた頬が急激に赤くなった。恥ずかしさと怒りが交互に彩華を襲っているようだった。

「卑怯よ、絶対に許せない」

「いい人じゃないか」

「どこが! 涼ちゃん、頭おかしいんじゃないの」

 興奮していきまく彩華に辟易しながら、涼はなだめるようにぼそぼそと話しかけた。

「だってさ。心配してくれたんだよ? わざわざ彩華の高校まで行ったんだよ。家に帰るのが遅いって、それも心配していたよ。他人なのに、心配してくれるなんていい人じゃないか」

「やめて。こっそり見られていたなんて気持ち悪い」

「まあ、そうかもね。で、どうだったの。友だちに盗めっていわれたの。それとも、自分の意思で盗んだの?」

「どうだっていいでしょ、そんなこと」

「うん、でも、どうでもよくないかも」

「どういう意味よ」

「だって、友だちに強要されたのなら、もしかして情状酌量の余地があるかも知れないけど、自分の意志でやったのなら彩華が悪いよね。万引きは泥棒だからね」

「泥棒」

 彩華はぐっと詰まった。やさしい涼に泥棒といわれて、改めて自分のしでかしたことが恐ろしくなった。警察でのことも、迎えに来てくれた孝太郎の緊張したようすも、なにもかも恐ろしい。彩華はうなだれて貧乏ゆすりをした。

「自分でやったの。怖かった。悪いことだってわかっていたから。だけど、でも……」

「うん。わかるよ。彩華の気持ち」

 彩華は声を出さずに静かに泣きはじめた。涼は不器用な手つきで彩華の頭を撫でた。

「ごめんな。おまえを一人にしてしまって。ごめんな。お兄ちゃんが悪かったよ。部屋にこもって、なんにも見ようとせず、聞こうとせず、一人の世界に閉じこもっていた。お兄ちゃんは、彩華より弱虫だったのかもしれない。だから彩華、もう、万引きなんかするな。おれは心配だ」

 わあああっ、と彩華が声を放って泣きだした。背中を震わせて泣いている妹から目を上げて窓のむこうのしのつく雨をながめた。梅雨は入ったばかりだ。気が滅入るような小雨模様の空に、彩華の泣き声は吸い取られていくようだった。


 その夜、孝太郎は早く帰宅して家で夕飯を食べた。よほど珍しいことだったようで、波子は孝太郎につきっきりで離れなかった。

「孝ちゃん、きいてるの。彩華ったら、とうとう学校を休んだのよ。ごはんも食べないで部屋にこもりきりなの。もう、わたし、どうしていいのか頭が痛いわ。兄さんはなんにも言ってくれないし、わたしだけではどうにもならないのよ。莉子さんは莉子さんでちっとも気が利かないし、よけい話を混乱させるし」

 孝太郎が食事している横でいつまでも愚痴を言い続ける。孝太郎は返事をせず、しゃべりたいだけ波子にしゃべらせた。黙々と食物を咀嚼する孝太郎の表情は曇っていた。食事を終えてお茶を飲み終え、ちらりとキッチンで後片付けをしている莉子に視線を向けてから、波子に向き直った。

「ごちそうさま。ちょっと彩華と話してくるよ。まだ話をきいていないんでね。彩華は夕飯はまだ食べていないんだったら、僕が持っていくけど」

「そのためにわざわざ早く帰ってきたの?」

「だいじなことなんでね」

「まってて。いまごはんを用意するから」

 波子が椅子から立ち上がる前に、莉子は用意しておいたトレーを孝太郎のところに持っていった。

「どうぞ」

 ラップをかけたトレーの夕飯をちらりと見てから、そのトレーを受け取って孝太郎は二階に行った。彩華の部屋をノックして名前を呼ぶと、隣の部屋から涼が出てきた。

「こんなに早く帰ってきて、めずらしいね」

「おまえこそ、部屋から顔を出すなんてめずらしいじゃないか」

 兄弟はつかのま顔を見合せた。

「おれが声をかけるよ。莉子さんがね、彩華のことを、いまが大事なときだっていうんだ」

 涼が声をひそめていうと、孝太郎がわかっているというように頷いた。涼に場所を譲って一歩さがり、涼が前に出てドアをノックした。

「彩華。兄さんが夕飯を持ってきてくれたよ。ドアを開けろよ」

 返事はなかった。人が動く気配もない。涼は眉を寄せた。

「彩華。起きているんだろ?」

「ごはんはいらない。食べたくない」

 力のない声が部屋の中からかえってきた。

「彩華の好きなハチミツ入りの卵焼きがどっさりあるぞ」

 孝太郎がそういったものだから涼は笑ってしまった。

「兄さん。それって、雅巳のご機嫌をとるときみたいな言い方だよね」

「そうか? 彩華、ケチャップがどっさりかかったハンバーグもあるぞ。彩華はケチャップハンバーグも好きだったよな」

「兄さん、よく覚えていたね。そんなこと」と、また涼が笑う。

「あたりまえだろ」

「じゃあ、おれの好物をいえる?」

「涼の好きなのはナスの味噌炒めとローストビーフ、それと、アイスクリームに、そうだ、お正月のおせち料理のちょろぎが好きだったよな。よくカリカリ食べていたよな」

「へんなことを覚えているね」

 二人して笑っていると、ドアが小さく開いた。恨めしそうな目付きで孝太郎と涼を睨んでいる。二人は彩華の部屋に入った。

 彼らは、莉子が階段の最上段に腰をかけて様子を窺っていることに気づいていなかった。彩華の好物の卵焼きもハンバーグも、莉子が作ったものだった。

「さて、ここまではうまくいったな。つぎは車椅子の親父だな。あの親父がどうでるか、見ものだな」

 つぶやいて、莉子は階段を下りていった。

 二時間近く話し込んで、孝太郎と涼は彩華の部屋を出た。

「涼。俺はお前のことも心配なんだよ」

「う、ん」

 廊下で、孝太郎がそう声をかけると、涼はうかないようすでうなずいた。

「でも、おれのことより、彩華のほうが切羽詰ってるよ。父さんにちゃんと彩華の気持ちを伝えてね」

「そうするよ」

 軽く片手を上げて、孝太郎は階下の栄一郎の部屋に向かった。

 栄一郎のことは孝太郎にとっても難関だった。仕事の話なら通じるが、家の中のこととなるとかみ合わないのだ。ゆうべも彩華を警察から連れて戻ったとき、栄一郎に親としてもっと子供たちに目を向けてくれと詰め寄ったが、話にならなかった。気重のまま、栄一郎の部屋に向かったが、こんども期待してはいなかった。しかし、彩華のために、彩華の心のうちを栄一郎に伝えなければと思った。


 孝太郎が部屋に入っていくと、栄一郎は待っていたように車椅子をこちらに向けた。

「お父さん」

「すわりなさい」

 栄一郎は、テーブルのほうに孝太郎をさそった。まだカーテンを閉めていないので裏庭の様子が夜の中に浮かび上がっている。雨は小糠雨から本降りになりだして、部屋の照明が届くところでは銀色の針が無数に落下するように光っていた。

 ポリカーボネートの屋根つき物干し場の横の車庫に取り付けてある防犯用の照明が、太い赤松の幹に当たっていて、枝にロープで吊るしたブランコの影が揺れていた。雅巳の遊び道具が片づけられないまま放置されて濡れている。子供用のビニールプールの水かさが増えているのではないかと孝太郎はふと気になった。たしか、あの中には近くの神社の盆踊りのときに金魚すくいで取ってきた金魚が放してあるはずだ。

「お父さん。あのプールの金魚に餌はやっているんですか」

「金魚? ああ、金魚か。伊坂の娘が世話しているよ」

「あのひとが……」

「で、いったいどうなっているんだ」

 孝太郎は、ビニールプールから栄一郎に顔を戻した。

「万引きは自分の意思でやったそうです」

「ばか者が」

 吐き捨てるような言い方に孝太郎は眉をひそめた。

「そんな言い方しか出来なんですか。あなたの娘でしょ」

「波子も文句しか言わんし、めんどうなら彩華を外国の学校の寄宿舎にでもおくってしまえ。涼もそうだ。外聞が悪い」

「それでも父親ですか。あなたの冷たさが由香里さんに離婚の決心をさせたのではないのですか」

「問題をすり替えるな」

「彩華は寂しかったんですよ。まだ親の愛情が欲しい年頃です。学校でも友人関係に気を使ってへとへとになって、家に帰ってくれば、こんどは親から完全に無視されて、万引きしたら、さすがに親が目を向けてくれるだろうと思ったら、これまた無視ですからね。涼のことだってそうですよ。これでいいと思っているわけではないのでしょう?」

「なにを甘えたことをいっているのだ。だれのおかげて生活していると思っているのだ。私が働いて家族を養っているからだろう。これが男としての責任のすべてだ」

 傲然と言い放つ栄一郎に、孝太郎は二の句が継げなかった。働いて家族を養うこと。それが男としての責任のすべてとういうのなら、親としての責任は、夫としての責任は、どうなのだろう。それもこれも、ひっくるめての責任ということなのだろうか。

 たしかに栄一郎は、事故にあった後もよく働いた。不幸な事故のハンデを乗り越え、会社の定例役員会にも出席しているし政界のパーティやユニセフの活動援助にも積極的だ。谷村栄一郎の社会的な評価は高く、車椅子で公けの場に出て行く姿は信頼を厚くしていた。しかし、家庭での栄一郎はまったく違っていた。

 自分はいつから栄一郎にたいして親としての期待を放棄したのだろうと孝太郎は過去を振り返った。

 思い出せない。栄一郎は常に不在だったが自分には母がいた。母の理恵子は、孝太郎が八歳のときに子宮がんでなくなってしまったが、叔母の波子が母のかわりに愛情をそそいでくれた。叔母は優しかったと、孝太郎は記憶をたどった。

 孝太郎にはやさしかったが、波子は涼と彩華を持て余している。これはいったい、どういう変化なのだろう。孝太郎は栄一郎の存在を忘れて、つかのま一人だけの思考にふけった。

 そうだ。波子はやさしかった。亡くなった母の変わりに自分を抱いて寝てくれた。伊坂氏の娘さんが雅巳を抱いて寝てくれたように……。かわいそうな雅巳。

 孝太郎は離婚した美里耶の風貌を思い出していた。洗練された美しさと才能をあわせもった美里耶を、孝太郎は惜しみなく愛した。それなのに……。孝太郎はきりっ奥歯をかんだ。

 片足に大怪我をおった栄一郎を支え、仕事の補佐に追いまくられて家庭を置き去りにしたときがあった。あのときの美里耶は、孤独だったのだろう。あのときの自分は、今の栄一郎と同じだったのだろうか。それが今になってようやくわかってくるとはなんという皮肉だ。

 孝太郎は過去から目を背けるように窓の外に顔を向けた。莉子が勝手口から雨の中に飛び出してきたところだった。傘の代わりにジャージの後ろ襟を引っ張って頭にかぶせ、雅巳の自転車を車庫に運び込む。車庫の奥からレジャーシートを引っ張り出してきて、なにをするのかと思ったら、ビニールプールにかぶせだした。

「あの娘は、おかしな娘だ」と、栄一郎が呟いた。

「たまに野良猫が金魚を狙ってくるのだが、あの娘は、それ見つけると容赦なく追い払う。そのくせ、残飯をこっそり猫にやっている。理解できん」

 孝太郎は父親に振り向いた。どんな顔をしてそんなことをいっているのだろうとおもった。

「孝太郎。私はね。ほんとうのところ、子供たちにどう接していいのかわからないのだよ」

 ポツリとこぼした言葉に、孝太郎は胸を突かれた。働くことだけに精魂を傾けてきた男の戸惑いが、わかるような気がした。

 裏庭では莉子が、ジャージで頭を隠して勝手口に駆け込むところだった。彩華と涼と孝太郎の三人で話していたとき、涼がみょうなことをいっていたのを思い出した。

「莉子さんて、施設育ちなんだってね」と、涼にいわれたとき、孝太郎は、そんなばかなとおもった。

「施設って、なんのこと?」

 彩華が好奇心丸出しできいてきた。

「施設は施設だろ?」

 涼もよく知らないらしく、曖昧な顔つきで答えていたが、施設とは養護施設のことを指す。なぜ、そのようなことをいうのか涼に問いただしたら、本人がそういっていたと答えた。伊坂莉子は、伊坂達郎の娘だ。日経連の理事の一人である伊坂達郎の娘が、養護施設育ちとはどういうことなのだろう。悪い冗談をきいたような気がして栄一郎に視線を向けた。

「お父さん。莉子さんは、伊坂さんの養女ですか」

 唐突な質問に栄一郎が眉をくいっと上げた。

「なんだね、いきなり」

「本人が施設育ちだと言ったらしいですよ」

「施設育ち? なにを馬鹿な。伊坂の娘だぞ」

「そうですよね」

 そう話をあわせたものの、そのことはいつまでも孝太郎の頭の片隅にひっかった。


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