第六話
「新聞代のお金がなくなっているわ」
キッチンで、食器棚の真ん中の引き出しを開けた波子が、中を覗いてそういった。孝太郎は出社し、彩華も登校して、莉子は今しがた雅巳を幼稚園バスに送ってきたところだった。
栄一郎の朝食をトレーに乗せて持っていこうとするのを引き止めて、波子がつかつかと歩み寄った。
「莉子さん。お金がまたなくなっているんですけど、あなた、知らない?」
「いくらなくなっているんですか」
「五千円よ」
「毎週そんなことを言ってますよね」
「あなたじゃないでしょうね」
「いいかげんにしてくださいよ。誰が取ったかわかっているくせに」
「なんですって」
ばかばかしくて話にならない。莉子はトレーを持って栄一郎の部屋に行った。めずらしく栄一郎はベッドにいた。いつもならきちんとワイシャツとスラックスに着替えてデスクの前にいるのだが、ベッドで身を起こしてだるそうにしていた。
「どうしたんですか。体調がわるいんですか」
トレーをテーブルに置いてから、そう声をかけてカーテンを開けてまわった。梅雨に入って鬱陶しい空模様が広がっていた。雨は落ちていないが、そのうち降りそうだった。栄一郎は肌がけの中で、もぞもぞ足を動かしてため息をついた。
「嫌な季節になった。湿度が高いと足が痛む」
「エアコンをいれますか」
「除湿にしておこう。部屋が冷えるのも体に悪い」
「はい」
エアコンのリモコンを操作しながら、ちらりと栄一郎の顔色をうかがった。表情はすぐれないが顔色は悪くない。
「食欲はどうですか」
「いつもとかわらんよ」
「娘さんが、また家のお金をかってに持って行きましたよ。波子、さんがいつものように怒っています。一度、お父さんからガツンと叱ってやたらどうですか。盗み癖は良くないですよ」
栄一郎は嫌な顔をしてわざとらしく痛む足をさすった。
「五千円を週一回ネコババするだけで月に二万円にもなるじゃないですか。高校生には大金ですよ。そのほかにお小遣いももらっているんでしょう?」
「そのくらいにしておきなさい。家の中のことはきみには関係ないのだから」
「でも、そのたびにわたしがやったのかって波子、、さんに言われるんですよね。波子、、、さんも彩華がやったってわかっているくせに」
「波子には私から注意しておこう。もう、さがりなさい」
問題は波子ではなくて彩華なのだ。彩華を叱ろうとしない父親であるあなたなのだと莉子はいいたかった。が、それこそ莉子には関係のないことだ。いらいらしている栄一郎の着替えをベッドに持って行ってやってから部屋を出た。
午後になって、雅巳を迎えにいってから、波子に買い物に行ってくるとことわって、こっそり彩華の通っている高校に行ってみることにした。
高校のバス停前のそばにあるコンビニで雑誌を立ち読みして時間をつぶした。コンビニの店員が品出しやレジをしながら客が入ってくるたびに元気な声をかけている。内心では、長いこと立ち読みしている莉子のことを目障りにおもっているのだろうが、莉子はそんなことを気にする性格ではなった。
外の気配がにぎやかになってきたので週刊誌から顔を上げると、ようやく下校時間になったらしく、生徒たちがぞろぞろ校門から出てくるところだった。
莉子は週刊誌を元の棚に戻して、ジーンズのポケットに突っ込んでいたキャップを取った。長い髪をキャップの中に押し込んで目深にかぶり、足元に置いておいたデイパックを取る。男女入り混じった生徒たちがバス停に集まりだした。騒がしい声がコンビニまで聞こえてくる。バスが到着して、生徒たちを満載にして駅に向かって去っていく。二台めのバスが発車してまもなく、彩華が校門から出てきた。
彩華は四人の女子生徒のグループと一緒だったが、楽しげにふざけているのは四人のほうで、彩華は仲間はずれにならないように、そばにくっついているだけのよう見えた。莉子はコンビニを出てさりげなくバス停の列の最後に並んだ。
バスが来て生徒たちがぞろぞろ乗車していく。莉子が乗り込んでも、奥のほうにいる彩華はまったく気づかなかった。たとえ莉子に目をとめたとしても、こんな場所にいるとはおもっていないので見過ごしてしまうだろう。キャップを目深にかぶって黒のTシャツにジーンズの莉子は、高校生の集団に紛れてそのまま駅までいくことができた。
駅についてバスを降りた高校生たちの大半は、そのまま駅の改札に吸い込まれていった。彩華たちは繁華街のほうに歩き出した。
四人分のスクールバッグを押し付けられた彩華は、深くうつむいて黙々と仲間の後ろを歩いていた。行き交う人々がちらちら見ている。繁華街のメインストリートをひやかしならふざけ散らしていた少女たちは、ファンシーショップの店頭に飾られているストラップの束をいじりだした。かわいいだのこれがほしいだのと騒いでいたが、彩華の制服を引っ張って四人で取り囲んだ。
「彩華。これほしいな。お金持っていないんだ。ちょっと万引きしてきてよ」
気の強そうな少女が彩華の肩を抱きこむようにして囁いた。彩華が身を竦めた。
「あたしはこれがいいな」
別の少女もきらきら光るビーズ玉のストラップを指に引っ掛けてそういった。あとの二人はくすくす笑いながら彩華を観察している。
「お、お金ならあるから、だから、買ってあげるよ」
おどおどしながら彩華がいうと、一番最初に万引きを強要した少女が彩華の腕を強くつねった。彩華が悲鳴をこらえて目をつむる。
「親が金持だから彩華がお金を持っているのは知ってんだよ。でも、それじゃあつまんないじゃない。これはアソビなんだからさあ」
彩華をつねった少女が笑ったら、ほかの少女たちも迎合するように笑た。
「あたしたちは先に行っているからさ。じゃあね、彩華」
ケラケラ笑いながら四人の少女たちは彩華から自分のスクールバッグを取って歩き出した。
「で、それからどうしたの」
準哉がテーブルに身を乗り出して莉子にきいた。莉子は準哉が入れてくれた紅茶を飲みながら肩を竦めた。
日曜日の午前中、連絡もいれずに準哉のマンションを急襲するかのように訪れたのだが、ちょっと驚いただけで準哉はこころよく莉子を部屋に迎え入れた。
何気ないふりを装って部屋中を見回したが、準哉の部屋には女の気配はなかった。安心したせいか、莉子は気分を良くして珍しくよくしゃべった。
「それがさ」と、莉子は思わせぶりににやりと笑ってカップをソーサーに戻した。
「気が小さいんだろうな。仲間が先に行ったのを確認してから、急いでレジをすませて青い顔で仲間のところに戻って行ったよ」
「よかった。万引きしなくて」
莉子はおもしろくてしかたがないというようにゲラゲラ笑いだした。
「あのクソなまいきな彩華がさ。学校じゃパシリだよパシリ。金持だからさんざんたかられているんだろうけど、金を持ってるだけでじつは嫌われるんだよね。それなのに彩華は、そこがわかっていないから『 買ってあげるよ』だってさ。いじめてくれといっているようもんなのにさ」
「それって彩華ちゃんが心配だよ。苛められているんじゃないか。なんとかしなきゃだめだよ莉子」
「それはわたしの仕事じゃないよ」
「そのことを谷村の家の人には言ったの? お父さんとか、波子さんとかには」
「言わないよ。言うわけないよ。言っても無駄だ。あそこのおとなたちは子供には無関心だからね。波子なんか子供たちのことを厄介者だと思っているんじゃないかな。彩華と涼の実の母親がいたなら、もう少しちがっていたかもしれないけど、それだって、由香里っていう母親は結局彩華と涼を置いて離婚したんだからさ」
他人事だから莉子のいいかたはあからさまだった。
「でも」
納得がいかなくて準哉が抗議しようとしたら、莉子が準哉の口をふさぐようにパンと両手でテーブルを叩いた。
「なんとかなるさ。物事っていうのはたいがい行き着くとこまで行ってしまえば収まりがつくもんだよ」
「行き着くとこって……」
準哉は言葉が出なかった。むかしから莉子は思い切ったところのある娘で、図太いというか大胆というか、準哉には思いもよらない行動を起こす子だった。しかし、今回のことは、この先のことを考えると見過ごすことができないように思えた。
「彩華ちゃんのお父さんに話したほうがいいよ。親なんだから」
「話してもいいけどさあ。感じ悪いんだよね、あの親父。家庭のことは波子に丸投げでさ、波子もたいへんだよ。六十三歳の年寄りなのにさ」
「誰かいないの。子供たちのことを心配してくれるおとなが」
「いないな。めんどうごとや厄介ごとが嫌なんだよ。だってさ、彩華は家に寄り付かなくてとげとげしくて可愛げがないし、涼は引きこもりだし、雅巳はうるさいおねしょ垂れだしさ」
あはは、と莉子が笑った。準哉は笑えなかった。笑える状況だろうか。問題が山積しているような家庭ではないか。でも、あっけらかんとした莉子の笑い声を聞いていると、生真面目に考え込むのがばからしくおもえてくる。谷村家の問題は莉子には関係のないことだし、ましてや準哉にも関係がなかった。準哉は話題を変えた。
「莉子。あの服、着てみた?」
「え、いや、まだだよ」
なぜだか慌てて莉子は立ち上がった。テーブルの上のおしぼりやシンクの布巾やハンドタオルを集めて台所洗剤で泡だらけにして洗いはじめた。
「そんなことしなくていいよ。せっかく遊びに来たのに。きよう着てくればよかったのに」
莉子はますます慌てた。
「いやあ、そんな、もったいないよ。あんなきれいな服、汚したらいやだもん」
「そんなジャージよりずっといいよ。着ればいいのに」
「みっともないかな。このジャージ。こんな格好で来られたら準哉は恥ずかしいのか?」
「そうじゃないけど。僕は莉子にきれいなかっこうもしてほしいんだよ」
「準哉さあ、あの服、一人で買いに行ったの」
さりげなく訊ねたつもりだったが、タオルを洗っている莉子の手は止まっていた。
「ひとりで女性の服を買いに行く勇気はないよ」
間をおかず準哉がこたえて苦笑した。莉子の手が再び動き始めてタオルを洗い始めた。しかし、その手つきは手探りするようにもどかしく動いていた。
「そうだよね。準哉が一人で買えるわけないよね。準哉は恥ずかしがりやだからね。誰かに一緒に行ってもらったんだ」
「うん。今年入ってきた女子がいてね。その人に付き合ってもらったんだ」
「そうなんだ。新入社員なんだ。入ったばかりっていうと、若いよね。ええと、」
「二十三歳かな。でも、どうしてそんなことをきくの」
「いや、べつに。だって、ほら、準哉が女の子の服を買うなんてさ」
「莉子。お願いがあるんだ」
改まった準哉の声に莉子の背中がびっくっとした。
「な、なに」
「こっちへきて、座ってくれないか」
「ここでも聞こえるから、ここでいいよ。話してよ」
「莉子!」
大きな声を出されて莉子が飛び上がった。
「な、なに」
準哉が立ち上がってテーブルをまわり、近づいてくる。みるみる莉子の顔に血が上った。準哉が莉子の手から泡だらけのタオルを取りあげ、水を流して莉子の手をすすぎ、新しいタオルを出して手をていねいにぬぐう。準哉のほっそりした手がやさしく動くのを、莉子はドキドキしながら見つめていた。
「ジャージを卒業してほしいんだ。そのジャージは莉子の仕事着なんだよね。莉子は十八歳のときから十年間、そのジャージ姿で働き通したんだよね。若い女性にとって十年て大切だよね。おかげで僕は、生活のめんどうをみてもらって大学を卒業できた。就職して五年がたったよ。いつ莉子がそのジャージを脱いでくれるのかと思って待っていたけど、まだ着続けているんだもの」
「いや、それは、ジャージが着やすいだけだから。ジャージ、楽だし」
しどろもどろになって手を引っ込めようとした莉子の手を、準哉が強く握った。
「自分の人生を生きてほしいんだ」
莉子ははっとして顔を上げた。
「どういう意味かな。自分の人生を生きているよ、わたし」
「辛いんだ」
準哉の顔がくしゃりと歪んだ。莉子はぎょっとして準哉の手を振りほどいた。
「なにが辛いんだよ。辛い時期はとっくの昔に終わっただろ。施設を出て終了しただろ。わたしが頑張ってきたのは、準哉にそういう思いをさせたくなかったからじゃないか。頑張って、頑張って、準哉の生活費を稼いで、大学にかかる諸々のお金を稼いで、精一杯頑張ったじゃないか。惨めな思いや恥をかかせたくなかったから、着る物だって持ち物だって、みんなバリッとしたものを買ってやったじゃないか。わたしは準哉を惨めにさせた覚えはないよ」
ますます準哉の表情が歪んだ。喘ぐような声を漏らして莉子を睨みつけた。
「だから、それが辛かったんだよ。大学を卒業したら、その辛さが終わると思ったときの僕の気持ちがわからないの」
「終わったんだろ? だったら、なんでいつまでもそんなことにこだわっているんだよ」
「だから……だから、莉子が……」
「わたしがなんだっていうんだよ!」
「もういいよ!」
準哉が莉子に背中を向けた。こみあげてくる涙を隠すように大きく一つ息を吐き出して、準哉は冷蔵庫を開けた。お茶のペットボトルを出して二つのコップにつぐ。先に自分の分を立ったまま飲み干してから、もう一つのコップを莉子に差し出した。受け取りながら、莉子は赤くなっている準哉の目を見つめた。
準哉を泣かせてしまったとおもった。子供のときから莉子は準哉に泣かれるのが一番辛かった。寂しくて泣いているときは泣き止むまで準哉を抱きしめていたし、いじめられて泣いているときは、準哉を泣かせた男の子たちに飛びかかっていった。
乱暴で手段を選ばない莉子は、相手の男の子たちが年上で体が大きくても怯まず、相手が泣きだすまで暴力をふるった。施設の職員たちは莉子を根気よく教え諭したが、泣き虫の準哉が泣くと何度でも戦いに挑んでいった。
その準哉が、おとなになっても泣いている。泣かせたのはたぶんわたしだと莉子はおもった。しかし、なぜ準哉が泣くのか莉子には理解できなかった。準哉が胸に抱えた、もどかしいほどの苦しみと悲しみが、莉子には伝わっていなかった。
準哉がさしだしたコップのお茶を飲みほす莉子の胸にも悲しみが広がっていった。明確な理由はわからないのに、わるいのは自分だとおもった。悪いのはいつもわたし。間違っているのもわたし。どうしようもないのもわたし。わたしがこんなふうだから、準哉が怒って泣きたくなるのだとおもった。
準哉が悲しそうな顔をすると莉子も泣きたくなるし、準哉が怒ってもやっぱり泣きたくなった。準哉がいつも幸せそうに笑っていられるように、莉子は歯をくいしばって頑張り続けてきたというのに。
お茶を飲み干すと、準哉が手を伸ばしてコップを受け取った。
「大きな声をだして、ごめんね」
小さな声であやまってくる。莉子もうなだれたまま頷いた。
「準哉とはけんかしたくない」
「うん。僕もだよ」
二人はうなだれたまま気まずく立ち尽くした。ソファに置いてあった莉子のバッグで携帯電話がなった。重い足取りで歩いていって携帯電話を手に取ったら、波子からだった。怪訝な面持ちで電話に出ると、甲高い波子の興奮した声が耳を打った。
『莉子さん。彩華が! 彩華が』
「彩華がどうかしたんですか」
『彩華さんとおっしゃい!』
莉子は携帯電話をプツッと切った。
「彩華ちゃんがどうかしたの」
準哉が訊いてくる。
「わかんない。波子の金切り声がうるさいから切った」
やれやれというように準哉が首を振った。再び波子から電話がかかってきた。
「なんですか」
『なんですかじゃありませんよ。どうしてかってに電話を切るの』
「波子、さんの声がうるさくて鼓膜が破けるとおもったから」
『ふざけないで。彩華を迎えに行ってちょうだい。駅前のビルに入っているCDショップにいますから』
「駅前ですか。波子、さんが行けばいいじゃないですか。ここからだと四十分かかりますよ」
『かまいません。彩華を引き取りにいってください。あのこ、万引きしたんです。わたしは行きませんからね。恥ずかしくて行けるもんですか。CDは買い取って、店長さんに謝罪して彩華をつれて帰って来てください』
「いやですよ。そんなのわたしの仕事じゃないですから」
『いいから行きなさい。あなたしか迎えに行く人はいないんですから』
「彩華の親父がいけばいいんだよ」
『まああ! 親父だなんて、そんな言い方はおよしなさい。兄さんが行くわけないでしょ。あの兄さんがっ。早く行ってくださいね』
切れた電話を莉子はぼんやり見つめた。
「なんでわたしが行かなきゃなんないんだよ。親でもきょうだいでもないのにさ」
「莉子」
物問いたげな準哉に肩をすくめてみせた。
「彩華が駅前のCDショップで万引きしたから謝って連れて帰れってさ」
「また友だちから万引きしてこいっていわれたのかな」
「わかんない。彩華も度胸がついてきたんだな。今度はほんとうに万引したみたいだから」
「のんきなことをいっている場合じゃないよ。一緒にいってやろうか」
「なんで準哉が行くんだよ。関係ないのに」
「そうだけど、莉子一人じゃ心細いだろ」
「へいきだよ。彩華のやつ、へましやがって」
「莉子!」
莉子はバッグを手にとって玄関に向かった。後ろをついてくる準哉に振り向く。
「あのさ準哉。あの服は、特別なときに着るよ。大切なときに着る」
「ふだんに着てよ。またいいのを見つけたら買ってくるから」
「いいよ! いらないよ! 服なんかいらないんだ。ほんとだよ!」
驚いたような顔をしている準哉の目の前で、莉子はバタンとドアを閉めた。服なんかいらない。準哉がほかの女の子と一緒にいるのが嫌だとはいえなかった。
莉子が駅前のCDショップへ行ってみると、彩華が狭い事務所のパイプ椅子に座って小さくなっていた。まだ若い店長が壁に立てかけてあるパイプ椅子を広げて莉子にすすめ、自分は事務用のキャスター付き椅子に座った。ジャージの上着にジーンズをはいた莉子が、パイプ椅子をがたつかせながら彩華の隣に座ったら、彩華が嫌そうに身を引いた。
「なんでオヤジ女が来るのよ」
「波子から電話がかかってきたんだよ。万引きしたガキを引き取りに行くのなんて恥ずかしくて嫌だから、かわりに行ってこいってさ」
さっと彩華が青ざめた。噛み付きそうな形相で睨みつけてくる。
「ええと、お母さん。万引きしたのはこれなんですがね」と、店長がビジュアル系のバンドの武道館ライブのCDをデスクに滑らせて莉子の前に置いた。
「あ、店長。わたし、母親じゃなくて住み込みの家政婦ですから」
「はあぁ?」
「こいつは家族の厄介者でしてね。家の金は盗むわ、夜遊びはするわ、悪い友達に万引きを強要されるわで家族の持て余し者なんですよ」
彩華が椅子を倒して立ち上がった。
「友だちから万引きを強要されたってなによ。いつ誰がそんなことをされたのよ。見ていたようなことを言わないでよ」
「学校の友だちのカバンを全部持たされて、よろよろしながら商店街を歩いて道行く人に笑われてただろ。ファンシーショップのストラップを友だちに万引きしてこいってプレッシャーをかけられて、隙をみて急いでレジを済ませて仲間のところに戻って行ったんだよな」
「な、なんで、知ってるの」
「見てたんだよ。いつもああやって苛められて遊ばれてたんだろ? こんどもそうなのか」
「ちがうよ。うるさい! 黙れ」
いきなり莉子を突き飛ばして、彩華は今にも泣きそうな顔をした。狭い事務所には事務机が二脚とロッカーが四基、キャビネットとコピー機などが詰め込まれていて、人一人歩くスペースがなんとか確保されているようなところだ。そのコピー機に莉子の体がぶち当たった。
「きみ、乱暴はよしなさい」
店長が大きな声をあげて腰を浮かせた。パイプ椅子が倒れ、したたか背中を打ち付けて尻餅をついた莉子が痛みに顔をしかめて立ち上がり、パイプ椅子をおこして彩華の隣に腰を下ろした。
「ろくに飯も食わないで夜遊びばかりしているくせに、けっこう力があるじゃないか。学校でもそのくらいの意地を見せてパシリから友達に昇格してみろよ。それとも、学校でもみんなから仲間はずれにされて無視されているのか?」
挑発されて彩華は我を忘れた。奇声を発して莉子に飛び掛っていった。こぶしをふるって頭といわず肩といわず胸といわず叩いてくる。こぶしに握った彩華の手の関節が、尖って莉子の肌にめり込んでいく。痛みに顔をしかめながら莉子はうっすら笑みをうかべた。
「彩華がどれだけ万引きしても、おまえの家族はだれも迎えに来ないよ。だれもおまえのことなんか気にしていないんだよ彩華」
叩かれながら莉子が囁いた。
「黙れ黙れ。何にも知らない他人のくせに。住み込みの家政婦のくせに。学歴も教養もないガニマタ歩きの下品なオヤジ女のくせに。おまえみたいなやつは、いつだってクビにできるんだからね」
滅茶苦茶に振り回したこぶしがところかまわず打ち付けてくる。たちまち莉子はこぶだらけ、痣だらけになった。
「彩華、家族に迎えに来てもらいたいか?」
手足を丸めた無抵抗の状態で殴られながら、莉子は小さい声で囁いた。激しい息遣いで胸をあえがせ、狂ったような目付きをしていた彩華の手が一瞬止まった。そしてすぐに反抗的な目を取り戻した。
「だれも来やしないよ。オヤジがいまそういったじゃないか!」
悔し涙をこぼしながら彩華が叫んだ。莉子はおかしくてたまらないというようにゲラゲラ笑いだした。
「心配するなよ彩華。物事っていうのは、行くところまで行ったら収まりがつくもんだからさ」
「なに言ってるのよ。意味わかんないよ」
彩華はとうとう声を上げて泣き出してしまった。莉子の首を両手で掴んで頭をぐらぐらゆする。あちこち痛む体を揺さぶられながら、大泣きしている彩華の涙でまだらに染まった顔を、莉子は笑いながら眺めていた。
「警察。警察。窃盗。器物破損。営業妨害。損害賠償を請求しなきゃ。精神的苦痛を受けた俺の慰謝料も請求できるかな」
店長が念仏のように同じ言葉を繰り返していた。
孝太郎が警察署の少年課の聴取室のドアをあけたとき、莉子と彩華は椅子に座って疲れたようにうなだれていた。二人の髪は蜘蛛の巣のかたまりのようになっている。彩華は髪がもつれている程度だったが、莉子の姿はひどいものだった。顔が痣だらけで頬は腫れ上がり、服は破けていた。
孝太郎は混乱したまま、うなだれている二人に近づいた。
「ほら彩華。家族が迎えに来ただろ?」
莉子が肘で彩華をつついて満足そうに笑った。彩華は怯えたように十九歳年上の長兄を見上げた。
彩華は長兄に迎えにこられてうれしいのかどうかわからなかった。来るなら波子だろうと思っていたので、孝太郎がきたことに驚いていた。
十九歳も年が離れていたら兄妹といっても実感はない。おとなすぎる孝太郎とはふだん言葉を交わすこともなく、生活も時間帯が合わないのですれ違っている。甘やかしてくれるような雰囲気のある人だったら父親の代わりに甘えてみたい気もするが、彩華はそういう期待を諦めていた。
波子が来たのなら、ああもいってやろう、こうもいってやろうとおもっていたのに、警察に来るのを拒否したときいて傷ついてもいた。彩華は急に身の置き所がなくなってうつむいた。
孝太郎に続いて少年課の婦人警官が入ってきて、帰っていいといった。孝太郎が婦人警官に頭をさげて一言二言会話を交わしたあと、彩華と莉子を促した。根が生えたように動こうとしない彩華の肩を莉子が気安く叩いた。
「さっさと帰ろうぜ、彩華。そろそろ夕飯の支度をしなきゃ」
彩華が莉子の手を肩から邪険に払いのけた。立ち上がって重い足取りでドアに向かう。莉子も彩華につづいて立ち上がったが体のあちこちが痛んで思わず腹を両手で庇ってしまった。彩華など簡単に押さえつけることができたが、傷ついている少女を痛い目にあわせるわけにはいかなかった。
ドアのところで呆然としている孝太郎の横を通るとき、痣だらけの顔でニヤッと笑ってやったら、孝太郎はほんとうに驚いた顔をした。
「迎えに来るの、意外に早かったじゃないですか。そうとう慌てたでしょ」と、莉子は軽い調子で孝太郎にいった。
「叔母さんが興奮していて、はじめはなにを言っているのかわからなかったよ。あとで説明してもらおう」
「彩華にきいてくださいよ。わたしは波子、さんに彩華を迎えに行くように言われただけですから。そしたら、家政婦が迎えに来たって彩華が怒り出したんですよ。わがままですよね彩華は。こんなにボコってくれるし」
孝太郎はなんともいえない顔をした。
「なにをこそこそ話しているのよ」
彩華が振り向いて莉子を睨みつけた。
「おまえの悪口だよ」と、莉子が言い返す。
「とにかくここを出よう」
孝太郎は二人を促して警察署の駐車場に向かった。車のドアを開けると、彩華はさっさと助手席に乗り込み、莉子は後部座席に収まった。孝太郎は気難しげな表情のまま車を自宅に向けてスタートさせた。
運転しながら、家で待っている波子と栄一郎の顔が浮かんだ。二人とも頭から湯気が出るほど怒り狂っているだろう。提携しているドイツの製薬会社の役員が成田空港に着くのだが、二人を家に送って成田に迎えに行く時間に間に合うだろうかと車のデジタル時計を見た。
「孝太郎さん。仕事を抜け出してきたんでしょうけど、これから彩華はお父さんと叔母さんに叱られるんだから、そばにいて少しは庇ってやってくださいよ。なんといっても彩華はまだ子供なんですから」
後部座席から声をかけられてぎょっとした。心の中を読まれたのかとおもった。ミラー越しに後ろを見ると、赤いジャージ姿の家政婦は、他人事だと思ってか暢気に笑っていた。
車がもうすぐ家に着くというあたりで雨が落ちてきた。梅雨入りしているのだから雨になっても不思議ではないのだが、このところ晴れの日が続いていたので雨は鬱陶しく感じた。灰色の雲なので本降りにはならないだろうが、玄関の前に車をとめて家の中に入るわずかな間に髪や肩が濡れた。
真っ先に車を降りて玄関の中に駆け込んだのは彩華だった。波子が出てくるより早く階段を駆け上がって自分の部屋に閉じこもってしまった。孝太郎が運転席から首をねじって莉子が降りるのを待ったが、彩華に叩かれたところが痛んですぐには動けなかった。最初から彩華を怒らせるのが目的だったので痛い思いをするのは覚悟していたが、これはしばらく痛むだろうなとおもった。
「どうしました。うごけないのか」
孝太郎が車を降りて後ろに回ってきた。ドアを開けて覗き込んでくる。
「だいじょうぶです」
軽く片手を上げて、そろそろと外に出た。波子が恐ろしい顔で玄関先で仁王立ちしていた。今にも頭から湯気がでそうだった。
「莉子さん。いったいなにがあっんですか。CDショップが警察につきだしたんですか。説明しなさい」
「いや、それがですね。彩華を引き取りに行くなんて恥ずかしくて嫌だから、かわりに行って来いと波子、、さんにいわれたから来たと言ったら、彩華が怒って暴れだしたんですよ。そしたら警察に突き出されちゃった」
あはは、と笑う莉子に、波子は絶句した。
「なんで、なんで、そんなよけいなことを言ったの」
「いいでしょ。ほんとうのことなんだから。家族があやまりに行くべきなのに、関係ない他人に嫌なことを押し付けたりするからこんなことになるんですよ」
「なんですって」
波子の顔色が変わった。玄関に入ってきた孝太郎が、靴を脱ぎながら二人の様子に顔をしかめた。
「叔母さん。伊坂さんに突っかかるのはやめてくれませんか。悪いのは彩華なんですから」
「だって、孝ちゃん」
孝太郎は取り合わず階段を上っていく。彩華の部屋をノックしたが鍵がかかっているので部屋へは入れず、ドアの前で彩華の名前を呼んでいる。
キッチンの入り口で、雅巳が親指をくわえて莉子を見ていた。莉子のひどい姿や、大きな声で彩華の名を呼んでいる孝太郎の、いつもとちがう様子に怯えていた。夕飯前に帰ったことのない孝太郎が帰ってきているだけでも普通ではなった。
涼もドアに耳をつけて聞き耳を立てていた。家の中の空気がざわついていた。涼は窓の外に目をやった。灰色の雨雲から落ちてくる銀色の雨の幕が、黒い雲に追い立てられるように流れて雨脚が強くなっていた。追われているようにも、あるいは逃げているようにも見える灰色の雨雲が、谷村の家族のように思えた。白でもない、黒でもない、あいまいなバランスの上で成り立っていた家族という灰色の雲が、強い力を持つ黒い雨雲に追い立てられてバランスを崩し始めている。黒い雨雲は家政婦だ。崩れだしたバランスは彩華を直撃した。孝太郎がそれに巻き込まれている。いつもは落ち着いている兄の怒った声が、彩華の名を呼ぶたびに涼も身を竦ませた。息苦しくなって涼は深く息を吸った。雨はますます雨脚を強くしてガラス窓を流れ落ちていく。梅雨が本気を出したようだった。
呼んでも応答しないので、孝太郎は足早に階段を下りた。まっすぐ栄一郎の部屋に入っていく。莉子は急いで栄一郎のドアに走り寄り、耳を押し当てた。波子もやってきて同じようにドアに耳をつける。
厚いドアのせいで聞き取りづらかったが、しばらくすると強い調子の孝太郎の声が聞こえた。莉子と波子は思わず顔を見合わせた。
「孝ちゃんが怒ってるわ。おどろいた」
波子が呟いた。いきなりドアが開いたので二人はぎょっとした。孝太郎は二人にリビングに来るようにいった。
「彩華には、あとでゆっくり話をきくから、事の顛末をはなしてくれないか」
波子と莉子がソファに座るのをまちきれないように孝太郎がいった。波子がいいにくそうに肩をすぼめた。
「だから、駅前のCDショップから電話がかかってきたんですよ。彩華が万引きしたって……だから莉子さんに行ってもらったんです」
波子がちらりと莉子を見た。莉子は両膝を開いて座り、腕組みしてソファの背もたれにふんぞり返っていた。尊大な態度に孝太郎は何かいいたそうに莉子を睨みつけが、そのまま波子に質問を続けた。
「どうして叔母さんが迎えに行かなかったんだ」
「わたしが行けば、わたしが謝らなきゃいけないじゃないですか。いやですよ。万引きの後始末なんて」
「彩華が未成年であるいじょう、保護者が謝るのは当然でしょう。伊坂さんに行かせたのは間違いです」
莉子はニンマリした。どうだというように波子を見る。波子は膝の上でスカートを掴んで莉子を睨み返してきた。
「谷村の家から万引きする子がでるなんて、恥ずかしくて外に出られませんよ。近所中の噂になって、買い物にも行けやしない。彩華には迷惑をかけられとおしで、わたしの手には負えないんですよ。言うことはきかないし、家のお金は盗むし、いくら叱ったってだめだし、兄さんは何にもしてくれないし。わたしだけ。 わたしだけがいつもいつも……もういやなんですよ!」
泣き出しかねない波子の勢いに孝太郎は胸を突かれたようだった。
「お父さんも、いま金のことを言っていたが……」
うなだれた孝太郎の弱った声に、莉子が身を乗り出した。
「わたしが谷村さんに話したんですよ。彩華の仕業なのに、波子、、さんがわたしを疑うから、お父さんから彩華を叱ってくれって言ったんです。悪いことをしたら父親が子供を叱るのはあたりまえでしょう。ねえ」
孝太郎は驚いたようだった。
「きみはいつもお父さんにそんな話をしているのか。で、お父さんはなんて」
「波子に言えって。波子、、さんも気の毒ですよ。子供の責任をみんな押し付けられて。ねえ」
ねえ、といわれた波子は、なんともいいようのない顔をした。莉子はさらに身をのりだした。
「彩華はね、学校で苦労しているんですよ。仲間から万引きしてこいとかいわれちゃって、でも、こっそりレジでお金を払って、仲間には万引きしてきたような顔してるんです。あれじゃ、いくらお金があっても足りませんよねえ。仲間の遊び代も払っているんじゃないんですか?」
「どうしてそんなことを知っているんだ」
孝太郎はほんとうに驚いたようだった。
「たまたま見かけたんですよ。孝太郎さんは、きょうはもう、会社に行かないでしょ?」
わざわざ見に行ったということもない。莉子はそしらぬ顔でそうきいた。
「そうだな。きょうは家にいよう」
携帯電話をだして会社に電話をいれ、てきぱきと指示を与えて電話を切った。莉子はリビングの入り口の廊下に座り込んでいる雅巳を呼んだ
「雅巳。きょうはパパは家にいるから、お風呂に入れてもらいな。いいですよね、孝太郎さん。たまには雅巳の体を洗ってやってください」
雅巳が喜んで孝太郎に飛びついてきた。
「わあああい。パパとおふろにはいるんだあああ」
膝の上によじ登ってくる雅巳に、孝太郎は久しぶりに父親らしい眼差しをうかべた。
「そうだな。そうしようか雅巳」
彩華は夕飯に降りてこなかった。腹がすいたら、みんなが寝静まったころに階下に下りてきて何か食べるだろうとおもって莉子はそっとしておいた。
波子はさっさと部屋に引き上げてしまったし、栄一郎のところに夕食を持っていったとき、なにかいうかとおもったが、栄一郎は不機嫌きわまりないようすで莉子のことを見もしなかった。
夕飯がすんだあと、雅巳にお風呂で遊ぶおもちゃを持たせて孝太郎のところに連れて行った。莉子が来るまで雅巳はほとんどひとりで風呂に入れられていた。まだ四歳の幼児だから湯船に入るのは危険なのでシャワーしか使わせてもらえなかったらしいが、四歳ではカラスの行水でろくに髪も体も洗えていない。母親がいないとはいえ、波子もいるし涼や彩華もいるのに哀れだった。
風呂場から機嫌のいい雅巳の声が聞こえてくる。孝太郎の低い声も聞こえる。お湯を使う音、洗面器と床の触れ合う騒がしい音、ざぶんと湯船に飛び込む音。それらがかもし出すあたたかな音が、脱衣所のドアの前で耳をすませている莉子の胸に広がっていく。親子で風呂はいいものだと思った。
あちこち痛む体をなだめながらキッチンに戻ってシンクの中の食器を洗った。栄一郎はとうとう部屋にこもったままだったので失望した。部屋から出てきて、思い切り彩華を叱るとおもっていた。彩華が必死の思いで、「わたしを見て」、「わたしはここにいるよ」、と信号を送ったのに、その思いは届かなかったようだった。
一階と二階のそれぞれの部屋で、二人はなにをしているのだろう。娘が万引きをして栄一郎は腹が立たなかったのだろうか。波子のように谷村家に泥をぬったと怒らなかったのだろうか。なぜ彩華がそんなことをしたのか、本人に話を聞いてみようと思わないのだろうか。
彩華の学校のこと、友だちのこと、勉強のこと、興味のあること、親ならどんなことでも知りたいはずだ。親なのだから、子供が間違ったことをしたら叱って教え諭さなければいけないのに。
せっかくの親子なのに残念だった。親のいない莉子は、そっとため息をもらして食器を洗い終えた。
夜の九時を過ぎたころ、パジャマ姿の雅巳がキッチンに入ってきた。
ウイスキーの水割りの氷を取りに来ていた孝太郎は、雅巳が食器棚の引き出しをあちこちを開けているのを見て声をかけた。
「なにをさがしているんだ」
「おばちゃんがね、シップやくをもってこいっていうの。どこにあるのかなあ」
「シップ薬って……」
孝太郎は、手にしていたグラスを置いて、食器棚の一番上に乗っている救急箱を下ろした。まだ封を切っていないシップ薬をわたしてやる。
「どこか痛いのか?」
「しらない」
受け取って、雅巳は子犬のように二階に走っていった。
「もってきたよ」
ドアを開けて飛び込んできた雅巳が、戦利品を掲げるように袋を見せる。ベッドに這い上がってきた雅巳の頭を莉子はよしよしと撫でた。寝巻き代わりのTシャツを捲って背中を雅巳のほうに向ける。
「雅巳、シップを貼ってよ。手が届かないからさ」
「うん。このくろくなっているところでしょ?」
「そうだよ。雅巳はおりこうだな」
「うん!」
小さな指先が背中を這ってシップを伸ばしていく。彩華から叩かれたところがズキズキしていた。
「こっちも貼ってよ」
後ろの腰の辺りを出して雅巳に体を向ければ、そこにもぺたりと貼ってくれる。一仕事終えたような満足げな雅巳に、莉子はもう一度頭を撫でてやった。
「いい子だな。雅巳は」
「うん」
うれしそうに笑って、雅巳はすばやく肌がけの中にもぐり込んだ。いたずらっぽく目をくるくるさせて莉子を見上げてくる。莉子も雅巳の隣にもぐりこんで横になった。雅巳の柔らかな腹をくすぐってやるとキャアキャア騒いで笑い転げる。しばらくふざけたあと、笑い疲れた雅巳は莉子のふところに抱かれて小さな寝息をたてはじめた。
ドアの向こうでは、シップを必要としている莉子の打撲を気にして、孝太郎が室内の気配をうかがっていた。彩華はそれほどひどく彼女を叩いたのだろうか。いまさらながら、年の離れた妹の屈折した感情に思いを馳せた。彩華ばかりでなく弟の涼だってそうだ。
涼が登校拒否になったのは中学のころからだったと記憶している。気が弱くておとなしい涼は、彩華と違って感情を内に閉じ込めてしまう少年だった。涼も彩華も、問題を抱えている。きょうだいなのに、自分は少しも彼らを気にしなかった。その余裕がなかった。栄一郎の事故後、栄一郎を補佐して仕事量が増えていた。おもえば、あの事故がきっかけで、家の中が狂い始めたのだ。栄一郎の離婚も、自分の離婚も、涼の登校拒否も、彩華の素行の乱れも。
孝太郎の思考はドアの向こうから聞こえてきた雅巳のにぎやかな笑い声で中断した。あんなに楽しそうに笑っている。孝太郎はつかのま雅巳の愛らしい笑い声に聞きほれた。美里耶と離婚したせいで寂しい思いをさせていた。あんなふうに笑わせることのできない自分はだめな父親なのかもしれない。涼にしても彩華にしても同じことだろう。
問題を抱えている子供たちが、つまずきながらでも自分の足で前進していけるように手をかしてやるのが親の務めなら、栄一郎はもしかして親として間違っているのかもしれないと、初めて孝太郎は栄一郎を醒めた目で批判したのだった。
雅巳が出てくるかと思って、しばらくドアの前で待っていたが、いくら待っても出てこなくて、そのうち部屋は静かになった。莉子に抱かれて眠る雅巳を想像して、孝太郎はそっと自分の寒々とした部屋に戻ったのだった。