第五話
谷村家にやってきて、一ヶ月ほどたっていた。
谷村家の生活のサイクルにも慣れてきて、指示されなくても自由に働けるようになっていた。まだ六月なので走り梅雨には早いのに、このところ曇りがちな日が続いていたので、くっきり晴れた青空はうれしかった。
雅巳の部屋から大量の縫いぐるみを運び出して洗濯機の前に放り投げたら、縫いぐるみはちょっとした小山になった。雅巳はその山に身を投げ出してわんわん泣いている。
「やめて。やめて。せんたくきでがらがらしたらぬいぐるみがしんじゃうよ。そんなことしないでえ」
「風呂に入れてやるだけだよ」
莉子は雅巳の襟首を掴んで縫いぐるみの山からどかすと、ドラム式の洗濯槽にどんどん放り込んでいった。雅巳の泣き声がますます大きくなった。波子が何事かというようにとんできた。
「どうしたの。また莉子さんに泣かされたの」
洗濯機の前でじたばた暴れて泣いている雅巳と莉子を見比べて目を剥く。
「おねしょで汚れたから洗濯するんです」
おねしょといわれて雅巳が、「うわあああん」と号泣して莉子に飛びかかってきた。短い手足を滅茶苦茶に振り回して叩いてくる。莉子は片足で雅巳の頭を押さえ込んで洗濯機のスイッチをいれた。波子は、しばらくその様子を眺めていたが、黙ってキッチンに戻っていった。
「ほら、みろ。波子だって洗濯したほうがいいと思っているんだぞ」
莉子にいわれて、雅巳の泣き声はさらに大きくなった。莉子が就寝する前に雅巳を起こしてトイレに連れて行くのだが、どういうわけか何日かに一度はおねしょを繰り返した。おねしょシーツを敷いているので、洗濯はそのシーツとタオルケットぐらいですんでいるが、縫いぐるみの臭いをかぐと洗濯したほうがいい異臭を放っている。雅巳を叱るつもりはないが、トイレに連れて行っているのに、どうしておねしょを繰り返すのか不思議だった。
洗濯機が回りだすと、雅巳は半透明のふたに顔を押し付けて中を覗きこみ、洗濯機を抱きしめるように両腕を回して泣き続けた。子供の涙は泣き止むまで止まらないので放っておいて二階に行った。雅巳の部屋の掃除の続きをする。おもちゃはカラーボックスの中に放り込み、学習机の上のお絵かき帳やクレヨンを片付け、絵本を本棚にしまっていく。お菓子の食いかけや菓子パンの袋などをゴミ袋にまとめると、ようやく掃除機をかけられる状態になった。廊下の突きあたりの物入れから掃除機を取ってきて部屋に戻り、窓を開けてからカーペットに掃除機をかけ始めた。
窓から入ってくる風が、気持ちよく開け放ったドアを吹き流れていった。雅巳の部屋がすんだので廊下にも掃除機をかけた。斜め向かいの彩華の部屋のドアをちらりと見る。彩華は部屋に鍵を取り付けているので勝手に入れない。子供の分際でドアに鍵をかけるとは、たいしたガキだと莉子はおもう。それを許している家族もどうかしている。鍵屋をよんで、かってにシリンダーを取り替えたのなら、父親の栄一郎も有無をいわさず鍵のかからないドアノブに替えてしまえばいいのだ。
相変わらず彩華の帰りは遅いし、休みの日はほとんど部屋から出てこないので、登校する日の朝ごはんのときぐらいしか彩華の顔を見ることはない。高校生らしく、せっせと髪の手入れや服装にはおしゃれをしているが、不摂生だから顔色が悪かった。
莉子も小さいほうではないが、彩華も莉子とたいして身長はかわらない。ろくに食べていないから痩せていて表情も暗い。きょうは日曜日なので、朝から朝食もとらずに部屋に引きこもっている。わざと掃除機の吸い口をドアに乱暴にぶつけてやった。ガンガン叩いてやったらドアに何かを叩きつける派手な音がしたので、莉子は満足そうに唇の端で笑った。
次に隣の涼の部屋のドアも掃除機の吸い口でガンガン叩いた。しかし、涼の部屋からはこそとも物音がしない。息を殺して廊下を窺っている涼の姿が見えるようだ。莉子はほどほどにして孝太郎の部屋のドアを開けた。
孝太郎には休みなどあってないようなものだった。きょうも朝早くから出かけていた。孝太郎の部屋は片付いていて、男にしては几帳面すぎて敬遠したいタイプだ。部屋の中を見れば、だいたいその人物が予想できる。栄一郎もそうなのだが、無駄なものがなく理路整然とした佇まいの部屋は、頭脳もそのように理論的にできているということなのだろう。感情よりは理性が勝っているということか。理性の勝った人間は、結婚に不向きだと思う。いちいち理論的な思考で結婚生活をまわされたのでは、感情で生きているような女はたまったものではない。孝太郎の結婚の破綻は、そんなところにあるのではないかと莉子はかってに想像した。
「つまり、たいした男じゃないということだよな。やっぱり準哉が一番だ」
先月、準哉のマンションを訪れて以来、ご無沙汰している幼なじみの秀麗な顔を思いうかべて、莉子はニンマリした。莉子のために、わざわざ探して買ってきてくれたサバランの甘いラム酒の香りを思い出して酔ったように目を閉じた。
準哉はますます魅力的になっていた。年齢的にも若さと落ち着きが混在して、莉子は準哉を眺めているだけで幸せだった。準哉はいつも莉子にやさしくしてくれる。準哉の近くに居ることができれば、それで満足だった。
孝太郎の部屋に掃除機をかけ終わったあたりで、縫いぐるみが洗い終わる頃になっていた。階下へいってみると、雅巳がまだ洗濯機にへばりついていた。もう泣いてはいなくて、半透明の蓋の奥をのぞきこんでいる。タオルを濡らして雅巳の涙で汚れた顔を拭いてやった。
「せんたく、おわったよ」
ちょっと疲れたように雅巳がいった。
「じゃ、外に干そう」
情けない姿になっている縫いぐるみをランドリーバスケットにかきだしていく。一つでは足りなくて、もう一つバスケットを持ってくる。雅巳に小さいほうのバスケットを持たせ、大きいかごは莉子が持って裏庭に出た。
よく晴れわたった青空がまぶしい。車の流れと中層マンションが氾濫する土地柄にもかかわらず、谷村家は広い庭と樹木に囲まれているせいか、空気は澄んでいて車の音も届かなかった。
雅巳は物干し場を埋め尽くして風にひるがえっている洗濯物を、頭でつつきまわって遊びだした。角ハンガーを竿にかけて、莉子は縫いぐるみを吊るしていった。
「雅巳、手伝いな」
声をかけると子犬のように飛んでくる。角ハンガーを雅巳でも届く位置に架け替えてやった。雅巳は縫いぐるみをぶんぶん振り回して遊びだした。
「乱暴にすると破けるよ」
「やぶけないもん」
莉子は持っていたカエルの縫いぐるみを雅巳の顔にぶつけてやった。キャアキャア騒いで雅巳も縫いぐるみをぶつけかえしてくる。地面に落ちた縫いぐるみに砂がついて汚れた。それでも二人ともバスケットに手を伸ばして、洗ったばかりの縫いぐるみを取り、ぶつけあって笑った。
二階の窓のレースのカーテンの隙間から、彩華がそれを見ていた。へその見えそうな短いオレンジ色のTシャツに七分丈のジーンズ姿でベッドに膝立ちして、カーテンの隙間から首を伸ばしている。明るい日差しが差し込んでくる室内は、六月なのに初夏のように暑い。窓を開ければ涼しい風が入ってくるのに、風と一緒に物干し場の二人の笑い声も入ってくるのが嫌で窓は閉ざしたままだった。
彩華はいまだに一ヶ月前のできごとを根に持っていた。夜遅く帰宅したら、玄関先で莉子に待ち伏せされて驚かされたこと。自宅に他人が異物のように紛れ込んでいることが我慢できなかった。しかも口のきき方が横柄で乱暴で、使用人のくせにえばりくっさっている。安物のジャージ姿で、ガニマタで石ころを蹴飛ばすように歩く姿も気に入らない。だいたい、あのジャージはなんなのだ。ディスカウントの「danki」だってもう少しましな品物は売っているというのに。
赤い上着の袖をまくって胸元のジッパーを少し下げているが、中は何も着ていなくて下着だと思う。しんじられない。いくらオヤジ女だって、もう少し身なりには気を配るべきだ。あの格好で雅巳の幼稚園の送り迎えをしてスーパーに買い物に行っているという。谷村家の門をくぐってほしくない。わたしの家に住んでいると思われたくない。叔母さんがしつこいくらいぶつぶつ文句をいっていたけど、わたしだって、あんな家政婦は恥ずかしくて嫌だ。
それに、と彩華は窓にしがみついて、楽しそうにふざけあっている幼い甥の、はじけるような笑顔にすいよせられた。
それに、あのオヤジは、わたしの頭をお弁当箱のかどで叩いたのだ。それも、手加減無しでゴツンとだ。
無意識に彩華は莉子に叩かれたところを撫でた。胸に押し付けられた弁当箱をひったくるようにして登校したが、電車の中で頭が痛くて触ってみるとこぶができていた。高校に行く途中の公園の植え込みの蔭に弁当箱の中身を全部捨ててやった。早朝ウオーキングのおばさんが近づいてきたので急いで立ち去ったが、気になって振り返ったら、野良猫とカラスが、もう弁当を食べに集まってきていた。
「あのオヤジ、きらいだ」
声に出して彩華は物干し場でのんきに雅巳と遊んでいる莉子を睨みつけた。
トイレを出て、ふと廊下の突き当たりに目をやったら、家政婦が使っている部屋のドアが少し開いていた。
涼は誘われるようにその部屋に足を踏み入れた。かつて孝太郎が結婚していたときに使っていた夫婦の寝室は、一ヶ月前から住み込みの家政婦の部屋になっていた。
彩華がいうには、伊坂莉子というオヤジ女が勝手に自分の部屋にしてしまったということだが、父の栄一郎や叔母の波子が何もいわないのであれば、孝太郎が許可したのだろう。 孝太郎の妻だった美里耶がイタリアへ遊びに行ったときに見つけてきた家具で彩られた寝室は、当時のままに美しく整っていた。
銀の細い糸を織り込んだ透きとおる白いレースのカーテンが風に吹かれて揺らめいている。ドレッサーは1800年代の貴族が使っていた猫足の優美なデザインで、その横の腰高箪笥は艶のあるマホガニーだ。ふっくらと踵が沈むアラベスク模様の絨毯はわざわざ取り寄せたものだ。
二十六歳の同い年で結婚した二人は大学の同期だった。サークル活動で出会って付き合いだし、順調に交際を続けて結婚にいたった。
美里耶は快活で美しい女性だったが内面に自我の強さを隠していた。その自我が離婚を招いたのだろうか。いや、ちがうと、涼は部屋の中を見回して首を振った。美里耶が残した家具のほかに、美里耶を思い出させるものはなかった。
涼は記憶をたどった。
誕生したばかりの雅巳を抱いた美里耶と孝太郎。子供を中になんと幸せそうな二人だったろう。雅巳が生まれた一年後に孝太郎夫妻が離婚するとは、当時誰が予想しただろう。
谷村家は、七年前の栄一郎の交通事故をきっかけにかわってしまった。
首都高速でカーブを曲がりきれなかった過積載のトラックに追突されて重症を負った栄一郎は、左膝下を切断した。そこからこの家の空気がかわっていった。いや、そうではない、とまた首をかしげた。最初から不幸の種はこの家に埋まっていたのだ。
いまは家政婦の部屋になった広い寝室を再び見わたした。キングサイズのベッドとセミダブルのベッドがメーキングされて仲良く並んでいる。それぞれのベッドサイドにはアンティークな小テーブルが置かれ、フィンランドの家具作家がデザインしたシンプルな照明スタンドが乗っている。美里耶が使っていたセミダブルのベッドは、小豆色の綸子で仕立てたベッドカバーで覆われていた。ヨーロッパ風のインテリアの部屋に和装に使われる綸子の生地という取り合わせはかわっているが、色といい光沢のある生地の質感といい、しっくり馴染んでいた。そして、孝太郎が使っていたキングサイズのベッドのほうはというと、綸子のベッドカバーは取り払われてどこかに片づけられ、薄物の上掛けが足元のほうにひとかたまりになっていた。サイドテーブルには、キャラクターデザインの古ぼけた目覚まし時計と、読みかけの少女マンガとボックスティッシュが置かれている。上掛けがぐしゃぐしゃだが、そのほかはちらけておらず、涼が目にとめたのはサイドテーブルの下に置かれたスポーツバッグとボストンバッグだった。
パンパンにふくらんでいるバッグをみると、どうやら荷物が詰まったままらしい。ためしに腰高箪笥やウォークインクローゼットをのぞいてみたら空だった。
涼は眉をひそめた。家政婦が来てから一ヶ月。自分の荷物をバッグに入れたままとはどういうつもりなのだろう。ママチャリに荷物を山積みにしてやってきたというから、これが彼女の全財産なのかもしれない。なんと寂しい財産なのだろうと、涼は思った。
たったこれだけ。これだけの荷物を自転車に積めば、彼女はいつだってこの家を出ていける。そのつもりで荷物をほどかないのだろうか。
彼女がこの家にやってきた翌日のことだった。朝食のトレーをとろうとしてドアを開けたら、いきなり彼女にドアをつかまれて部屋に侵入された。
油断していたといえばそうなのだが、これまで涼の部屋に入ってこようとした家政婦は皆無だった。ドアの隙間に、スリッパを履いた足を差し込んで、力任せにドアをこじ開けられたのだが、涼の驚きは非常に大きかった。
ずかずか入ってきて、部屋のほとんどを占めている鉄道模型のジオラマを見て、「すごいな」といったのだ。
感動を表している彼女の表情を見たとき、涼は自分がほめられたような気がした。
「なんだよ、おまえ」と、抗議する声は弱々しかったが、莉子の一挙一動に神経が集中していた。
莉子は好奇心を隠そうともせずジオラマの中の線路に沿って一周し、子供のような笑い声を上げたのだった。
楽しくてたまらないというような笑顔と笑い声は、涼の胸に軽やかに沁みていった。こんな明るい笑い声を聞くのはいつ以来だろうとおもった。
「わたしは伊坂莉子。住み込みのお手伝いだよ。よろしくな」
さばさばした男のような言葉遣いで涼に挨拶すると、長居せず部屋を出て行った。あっけにとられてしまったが、莉子の印象は悪くなかった。それからは、莉子の声が聞こえると耳をそばだてている自分がいた。
開け放された窓から、莉子と雅巳の笑い声が聞こえていた。涼は窓に近づいた。物干し場で莉子と雅巳が洗濯したばかりの縫いぐるみをぶつけあって笑い転げていた。
あの人が来てから、雅巳はよく笑うようになったと、涼は裏庭を見下ろしながら心の中でつぶやいていた。
せっかく洗濯したのにと、波子は顔をしかめた。どうしてこうもすることがでたらめなのだろう。言葉遣い、礼儀作法、人との接し方、どれをとってもまともにできるものは無い。だいいち、自分の立場というものをわかっているのだろうか。
波子は裏庭へ出る勝手口に立って、莉子と雅巳がふざけあっている姿を眺めた。莉子の袖をまっくったジャージ姿にまた顔をしかめた。きょうは赤のジャージだ。青のときもあるしエンジ色のときもある。黄色のときは最悪だ。
波子は莉子のジャージ姿が嫌でたまらなかった。なんど水をくぐらせたかわからない色あせた上下で一日を過ごし、あの姿でどこにでも出かけていく。近所の知り合いや顔見知りから、こんどの家政婦さんは、お若くてお元気なかたですねと声をかけられるたびに居心地の悪いおもいをした。若くて元気はほめ言葉ではなく、それしか取柄がないからだ。
最近では谷村さんのところのジャージの家政婦さんと呼ばれているらしい。スーパーで、見切り品を買い込んでいるのを見かけたときは全身から血が引いた。あの娘は谷村の恥だ。栄一郎の大学の後輩で、経団連の理事の一人でもある伊坂達郎から頼まれたとはいえ、行儀作法を仕込むどころか、反対に孫の雅巳が影響されてどんどん野放図になっていく。
波子はぎゅっとこぶしを握って裏庭の莉子を睨みつけた。
わたしが、どれだけ苦労して谷村の子供たちを育て上げたと思っているのだ。波子の目頭に熱いものが滲み出した。
栄一郎の最初の妻の理恵子が子宮がんで亡くなったのは、孝太郎が八歳のときだった。忙しくて妻の悲しみにくれている暇の無い栄一郎にかわって、孝太郎を慰め母代わりになって育てたのは波子だった。食の細い神経質な孝太郎は、母の死を受け止め切れずに泣いてばかりいた。なんとか世話を続けて五年。孝太郎が十三歳になったとき栄一郎が再婚した。
栄一郎より十歳も年下の由香里は、闊達で若さに輝いていた。再婚して二年後に涼が生まれ、さらにその二年後に彩華が生まれた。孝太郎は十八歳になっていたから手はかからなくなっていた。
栄一郎の多忙さを除いては、由香里を中心に彩華、涼、孝太郎と、家族が家族らしく暮らしていた。孝太郎が二十六歳で結婚したとき、波子は亡き理恵子の墓前に花を手向けに行って感謝した。孝太郎が結婚して肩の荷が下りたような気がした。
自分はついに婚期をのがしてこの歳になってしまったが、自分が育てた孝太郎がいる限り、谷村家のなかで肩身の狭い思いをしなくてすむとおもったものだ。ところが、栄一郎の運転するする車が首都高速でトラックに追突されて大怪我を負い、左足の膝から下を切断するという大事故がおきた。
波子は当時を思い出して小さく身震いした。その後の栄一郎の離婚。孝太郎夫婦に雅巳が誕生して幸せな時間を取り戻せたと思ったら孝太郎の離婚。涼と彩華だけでなく、一歳になったばかりの雅巳の世話まで波子がすることになってしまった。
この春、六十三歳になった波子は、これまでのさまざまな出来事を思い出していた。
わたしの人生はなんだったのだろう。独身のまま年をとって、兄の子供を育てながら、このまま老いていくのだろうか。わたしははたして幸せなのだろうか。
物干し場の洗濯物がひるがえっているそばで、洗濯したばかりの縫いぐるみをぶつけ合って笑い転げている莉子と雅巳の明るい笑い声に、波子はそっと唇をかんだ。
栄一郎は車椅子を窓のそばに寄せて外を見た。孫の雅巳と伊坂の娘が物干し場でふざけあっていた。もともと大学の後輩だった伊坂達郎とは、大学の同窓会や日経連の会場で顔をあわせていたので話す機会はあった。
個人的な付き合いが始まったのは、共通する友人の別荘に招かれて、泊りがけでゴルフに興じてからだ。話してみると伊坂は気取りの無い闊達な人物で、気難しい栄一郎とも話が弾んだ。
仕事の話はせず、大学の先輩後輩という関係の付き合いにもっていくと、よい友人になった。その伊坂から、個人的に頼まれたのが莉子だった。
事情があって外で育った娘だと言っていたが、どんな事情なのか、さすがにそこまで踏み込んで聞くわけにもいかないのできかなかったが、これではさすがに自分の娘だといって人に紹介できないだろうと思った。
とにかくざつな娘だ。することも言葉遣いも乱暴で、およそ娘らしいしとやかさがない。あの言葉遣は何とかしないといけない。言葉だけではない。服装もだ。態度も悪い。返事をしないといって波子が怒っていたが、こちらが用事をいいつけても知らんふりをして部屋を出て行ってしまう。叱っても平然としている。ふてぶてしくて可愛げがない。伊坂も手に負えなくて私に頼み込んできたのだろうが、さて、どうしたものかと、栄一郎は車椅子の肘掛を指で叩いた。
叱ればプイと出て行ってしまうくせに、夜になるとあの娘は必ず部屋にやってきて、涼や彩華のことを報告していく。雅巳の様子も話していく。一方的に話すだけだ。あれは、なんなのだろう。栄一郎には莉子の行動が理解できなかった。
いちいち息子や娘のことを報告していくが、栄一郎にはうるさいだけだ。子供の話など時間の無駄だと思っている。しかし、繰り返し聞かされているうちに頭のどこかに入ってくるものらしく、つかの間記憶を手繰っているときがあった。
涼の引きこもりがはじまったのは、いつからだっただろうか。栄一郎は指先でこめかみを押した。
あれは由香里と離婚して一年ぐらいたったころだろうか、と思いをめぐらせて顔をしかめた。じつに不愉快な記憶だった。事故で左の膝から下を切断して失意のどん底に沈んでいた栄一郎が、なんとか気力を奮い立たせて、よりいっそう仕事に励んで自信を取り戻そうとあがいていた時期だった。
突然離婚を言い出した由香里に栄一郎は激怒した。涼と彩華を置いていくなら応じようといったら、ほんとうに由香里は子供たちを置いて出て行った。なんと勝手でわがままな女だろう。
涼の引きこもりにしろ、彩華の素行の悪さにせよ、すべて本人たちに責任がある。由香里に似て我侭なのだ。涼が高校も行かずにこのまま引きこもって終わるつもりなら、二十歳を境に家を追い出してやるだけだ。自分で生きていけと突き放してやる。
私は甘い父親ではないから、彩華にしても同じことだ。自分のしでかしたことは自分で責任を取らねばならない。帰ってくるのが遅いとか、金の使いかたが荒いとか、そんな瑣末なことは波子にいえばいいのだ。そのために波子がいるのだから、と栄一郎はさらに顔をしかめた。
先妻の理恵子が亡くなった時は栄一郎も途方にくれたが、八歳だった孝太郎は波子が育ててくれた。後妻の由香里と離婚した後も、波子が涼と彩華のめんどうを見てくれた。女とはそういうものだ。家庭や子供のわずらわしさは仕事の邪魔だ。そんなものは、みんな波子に任せておけばいい。
波子がたいへんになってきたら、ああして若い家政婦を雇えばいいのだ。あの娘一人で足りないなら、通いの家政婦も雇えばいい。人など時給さえよければいくらでも集まる。男は仕事だ。男の責任は働くこと。働いて家族を養うこと。それがすべてだ。
栄一郎は冷淡に外を眺めた。外では、遊び飽きた雅巳と莉子が、縫いぐるみを角ハンガーに吊るしていた。せっかく洗濯したのに砂だらけだ。嫌そうに顔をしかめて栄一郎は車椅子を回してデスクに戻り、途中だった仕事の続きにかかった。
最後の縫いぐるみを干し終わって、空になったランドリーボックスを洗濯室に戻し、もういちど裏庭に戻った。雅巳があとをついてまわる。ガレージ入れてあるママチャリを引っ張り出したら雅巳がうれしそうに腰に抱きついてきた。
「じてんしゃ! じてんしゃ」
雅巳を抱き上げて、後ろの荷台に取り付けた子供用椅子に乗せてやると、うれしくて足をパタパタさせた。
「おとなしくしないと乗せてやらないよ」
「おとなしいもん」
パタパタしている足を車輪に巻き込まれないように、ガードを取り付けた足乗せ台に足を乗せてやる。
「アイスキャンデーを買ってやるよ」
「わーいわーい」
喜ぶ雅巳を乗せて、莉子は軽々とペダルをこいだ。裏庭から家の前を回って門を出る。風が髪をなびかせ耳を掠めた。うしろの雅巳はご機嫌で、小鳥のようにさえずっている。アパートや住宅が並んでいる通学路を曲がって道路に出た。甲州街道と平行して走っている431号線は、交通量が多く騒音が立ち込めていた。
横断歩道が青になるのを待ってから車道を渡り、右に曲がってスーパーマーケットの前に自転車をとめた。まだ十一時前なので昼ごはんの邪魔にならないように、小さな袋菓子とチューブのアイスキャンデーを雅巳に買ってやって、自分にはアンパンとお茶のペットボトルを買った。再び雅巳を自転車に乗せて、来たほうの歩道に戻る。そのまま走って地区センターの交差点を渡り新宿中央公園に入っていった。
緑のかたまりになっている広い公園を突っ切って、都庁前の都民広場に自転車を乗り入れた。都庁ビルと都議会会館に挟まれた円形広場は、都庁見学に訪れた人たちや議員会館に入っていく人たちでざわめいていたが、自転車から降りた雅巳はハトを追いかけて走り出した。莉子は円形広場の真ん中に立ち、目の前にそびえている都庁のツインタワーを見上げた。しぜんと笑みが広がる。あの中に準哉がいる。そう思うと胸がはずんだ。
花壇と銅像が交互に並んでいる銅像のほうへ自転車を引いていって、日陰を選んで銅像の台座の枠に腰を下ろした。スーパーの袋をひろげてペットボトルを出して、お茶を一口飲んだ。
準哉に会いに行ったのは五月の終わりごろだ。いつ訪れてもきれいにしている準哉のマンションは、莉子を夢の中にいざなう魔法の世界だった。きれいなカーテン。きれいなキッチン。素敵なダイニングセット。おしゃれなインテリアが部屋を彩っていて、そこに準哉がいた。なんて美しい世界なのだろう。準哉をみているだけで幸せだった。やさしくて、けして莉子を傷つけない準哉。信じられるのは準哉だけ。だから莉子はいつも準哉の夢を見た。莉子には準哉が夢そのものだった。
「雅巳。おいで」
チューブのアイスキャンデーを振って声をかけると、ハトを蹴散らして走ってくる。横に座らせて袋菓子を開けてやった。二人の前を行過ぎていく人の中には、アイスキャンデーを吸いながらポテトチップスをほおばっている雅巳と、アンパンをほおばっているジャージ姿の莉子をみて笑っている人もいる。しかし二人は一向に気にしない。さわやかな風とまぶしい陽光を日陰の中にいて楽しんでいる。
「あのね、おじいちゃんのひみつをおしえてあげようか」
雅巳がこそこそ囁いた。秘密をいいたくてしかたがないのだ。莉子は付き合うつもりで頷いた。
「うん。言ってみな」
「あのね」
雅巳が体を摺り寄せてくる。
「あのね。おじいちゃんは、あしをようふくだんすにかくしているんだよ」
「なんだよ、それ」
「だから、あしだよ。ぼく、しってるんだ。おじいちゃんがいないときに、おじいちゃんのへやをたんけんしていて、ようふくだんすをあけてみたんだ。そしたらね、あったんだよ、あしが」
「わかんないなあ」
「もう。だからぁ、おじいちゃんのほんもののあしははんぶんなくて、だからくるまいすにのってるの。で、つくったあしがようふくだんすのなかにしまってあったの」
「ああ、わかった。義足のことか。そうか、じいさんは足が半分なかったのか。で、雅巳はその義足をつけて歩いているじいさんを見たことがあるのか」
「ないよ」
「そうか」
「ぼく、にせもののあしをはいてみたんだ。あんなのはいてあるけないよ」
「そうだろな」
雅巳は水になってしまったアイスキャンデーをじゅっと吸った。からになったチューブを雅巳からとってスーパーの袋に入れた。
「さ、帰るとするか」
立ち上がろうとしたとき、都庁から数人の背広姿のサラリーマンが出てきた。見るともなく見ていた莉子は、あっと声をもらした。その中に準哉がいた。
春物のスーツを着て、颯爽と日差しの中に出てきた準哉は若さに輝いていた。莉子は息を呑んだ。なんてすてきなのだろう。隣の中年の男性に話しかけられてうなずいている。年長者を立てるような控えめな態度が準哉の人柄を物語っていた。
準哉は、離れたところの銅像の足元に座り込んでいる莉子には気がつかなかった。莉子は目で準哉を追い続けた。そのとき、都庁から若い女性が小走りで出てきて準哉を呼び止めた。準哉が振り向く。迎え入れるように笑みをうかべ、準哉はその女性が追いつくのを待った。
莉子は唐突に準哉のマンションに行った時のことを思い出していた。準哉が莉子の好きなサバランを探して買ってきてくれた日のことだ。そして、いつもジャージを着ている莉子に高級な服をプレゼントしてくれた。水色のジャケットと中に着るブラウスだ。男が選べる服ではない。なぜそのことにもっと早く気がつかなかったのだろう。準哉を追いかけてきた若い女性を見るまでは、準哉の周りにいる女性など気にしたこともなかった。準哉は昔から、莉子だけが知っている莉子だけの準哉だったからだ。あのときのジャケットとブラウスは大切にボストンバッグの中にしまってある。いつか着たいと思っていた。大切なときに、大切な準哉と会うときに。
莉子の胸に小さな不安が生まれていた。莉子だけにやさしい準哉は、もしかしたら、ほかの女性にも優しいのかもしれないと、はじめて思い至ったのだった。
「雅巳。帰ろう。そろそろお昼だからね」
「うん」
雅巳を自転車のうしろに乗せてペダルをこいだ。来るときと違ってペダルが重く感じた。グリップを握る莉子の指に力が入る。新宿西口公園のほうの信号を渡って区民センターの交差点の手前の道路を入り、ビルの隙間を縫うようにして走った。いままで感じたことのない、恐れにも似た不安が莉子の胸に広がっていた。
新宿西口公園の信号が黄色から赤に変わった。孝太郎は横断歩道の前で車を止めて時間を見た。家はすぐ近くだから昼食をとりに寄ってもいいのだが、あまり時間がなかった。顔をあげて前を向いたら、ママチャリのうしろに乗った雅巳が、ペットボトルのお茶を飲みながら横断歩道をわたっているところだった。
「雅巳?」
驚いて孝太郎は雅巳の姿を目で追った。自転車をこいでいるのは赤いジャージだ。上半身を大きく前に倒して力いっぱいペダルをこいでいる。自転車の軋み音まで聞こえてきそうなスピードだ。歩道を歩いている人々を、ベルをジャンジャンならして脇にどかせ、どくのが遅れたら服をかすったまま強引に突っ走っていく。なんて乱暴な走り方だろう。孝太郎は雅巳が心配ではらはらした。しかし雅巳のほうは慣れているのか、少しも怖がらずにぐらぐら体を揺らせながら器用にお茶を飲んでいた。さては、いつもあのように自転車に同乗しているのだな、とぴんときた。
事故を起こしたらどうするつもりなのだろう。自転車だからといって楽観はできない。実際に自転車事故で死傷者がでているのだから。
地区センターの手前の道路を右折して走り去っていった自転車の赤いジャージに、孝太郎は怒りを覚えた。子供に何かあったらどうするつもりだ。あんな乱暴な赤ジャージにまかせて、何かあってからでは取り返しがつかない。
孝太郎はまともに顔を見たこともない家政婦に舌打ちした。信号が青に変わった。家には寄らずに新宿三丁目のほうに車を走らせた。
その夜、谷村家の人々が寝静まってから、莉子はボストンバッグから取り出した服を眺めていた。これから梅雨にはいって、肌寒い日に着るのにちょうどいい薄物のジャケットは、莉子も知っているブランド物で、若い女性が好んで着る服だった。
明るい水色のスリーボタンのジャケットに、淡いパールピンクのブラウスをあわせてドレッサーの前に立ってみると、これが莉子かと見違えるほど娘らしく見えた。
どうして気がつかなかったのだろう。準哉に女性の服が選べるわけはないのだ。あのおとなしい準哉がブティックやデパートの婦人服売り場に一人で入って行けるわけがないのだ。どんな服を選んでいいのかだってわからないだろう。一緒に行ってくれる人がいたのだ。そんな親しい女性が。
それがあの人だ、と莉子は昼間見た若い女性を思いうかべた。あの人を見る準哉の表情が優しかったからだ。莉子に笑いかける表情ともちがう輝きがあった。
準哉のマンションに行ってみなければとおもった。女性の気配の片鱗でもあれば許せない。あそこは準哉の世界。準哉の世界に入っていけるのはわたしだけだとおもった。
鏡の前で胸にあてていた服をボストンバッグにしまった。ジャージを脱いでパジャマに着替えようとしたとき、車の音がして、音は車庫に入っていった。窓に寄ってみると、孝太郎が帰ってきたところだった。
照明をつけて明るくなった車庫に車を入れ終わると、ネクタイをはずしてワイシャツの襟を広げ、袖をまくり始めた。
莉子が二階の部屋から見ていると、車庫の隙間に入れておいたママチャリを引っ張り出してきて、奥から工具箱を持ってきた。
なにを始める気なのだろう。興味を覚えて莉子は目を凝らした。孝太郎はタイヤを何度か指で押してから空気入れを持ってきて空気を入れ始めた。それが終わるとブレーキの利き具合を確かめてドライバーを使い始めた。ライトがつくかどうかも車輪を回して確かめる。子供用椅子のネジが緩んでいないか丁寧に確かめてから、機械油を要所要所に差し始めた。チェーンの回転具合を見てからギアチェンジがうまくいくかどうかも確認している。一通り見たあとクリーナーで自転車を磨き始めた。
莉子はパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。照明を消すと寝室に静寂がおりてきた。枕に頭をうずめて耳を澄ませた。自転車のメンテナンスが終わったらしく、車庫に戻す音や工具箱をしまう音がして、最後に車庫の照明を消すスイッチの音がした。土を踏む足音が玄関のほうにまわり、鍵をあけるひそやかな音。階段を上ってホールのすぐ左側の自室のドアが開いて閉じる。少しして再びドアがあき、廊下をあるいて突き当たりのバスルームのドアが開く。孝太郎が動かす空気の流れを、耳でたどるように聞いていた。眠りに落ちる寸前、彩華はまだ帰ってきていないとおもった。
『莉子、時間だよ。さあ、起きよう。元気をだして、頑張ろうね』
準哉の目覚ましボイスに起こされて、眠い目をこすりながら目覚まし時計の音を止めた。
「おはよう、準哉。きょうも頑張るからね」
返事をかえして大あくびをする。のろのろとジャージに着替えて洗面をすませると、やっと目が覚めた。下におりたら彩華の靴が玄関にあった。波子に指示されなくてもすることはわかっていたので、手早く朝食の準備にかかった。
一番最初に朝食を食べるのは孝太郎だ。次に彩華が起きてきてくる。雅巳を起こしにいって一緒にご飯を食べてから幼稚園に送っていき、雅巳を幼稚園バスに乗せて帰ってきたころには波子が自分で朝食をすませている。それから栄一郎と涼の朝食の支度をしてそれぞれの部屋に持って行く。朝はいつもこんな具合だった。
慣れた手つきで和食の食材をテーブルに並べていると孝太郎が起きてきた。
「おはようございます」
顔を上げずに孝太郎に声をかけて、いれたばかりのコーヒーを持っていった。
「おはよう」
孝太郎も椅子に座りながら返事をかえした。波子は最近起きてくるのが遅くなって、朝のしたくはもっぱら莉子が一人でしていた。
孝太郎は挨拶はするが話しかけてくることはなかった。莉子も話しかけない。食べ終わったらたら車で出勤していく。毎日そんな具合なので、「伊坂さん、ちょっと」と、声をかけられたときには驚いた。莉子はダイニングテーブルの孝太郎のところに行った。
食事を終えてコーヒーを飲んでいた孝太郎が、カップをソーサーに置いて初めて莉子を正面から見据えた。
「きのう、あなたと雅巳を見かけたんだが、あなたの自転車の乗り方は乱暴だな。歩道をあんなスピードで走るなんて非常識だ。事故を起こしてからでは遅いので注意しておきます。雅巳を乗せているときは特に気をつけてもらいたい」
莉子の返事を待っているのか、孝太郎は強い眼差しで莉子を見つめた。
「僕の話は理解できましたか」
やはり返事を待っていたのだ。莉子は軽くうなずいた。
「言葉で返事をしなさい」
「はい」
「それでいい」
孝太郎はスーツの上着とビジネスバッグを持って立ち上がった。そのまま玄関に向かう。追いかけていって急いで靴べらをとって手渡した。靴べらを使って靴を履き、莉子にかえしてくる。受け取って二人は束の間見つめ合った。
玄関ドアに手をかけた孝太郎の背中に「いってらしゃい」と声をかけると「いってきます」と返事をかえして孝太郎は出て行った。
閉まったドアを、つかのま莉子はぼんやりと見つめた。驚いていた。雅巳と自転車に乗っているところを見られていたのだ。だから孝太郎は、昨夜、遅く帰ってきて疲れているのにわざわざ自転車の整備をしたのだ。雅巳のために。雅巳が怪我をしないようにと莉子を叱ったのだ。孝太郎は雅巳のことをどうでもいいとおもっているわけではなかったのだ。叱られたことよりも、そちらのほうがうれしかった。ふやけた頬をパンと叩いてキッチンに戻った。
「莉子さん。孝太郎さんにはお返事をして、どうしてわたしには返事をしないの」
起きてきた波子がみていたらしく、莉子に噛み付いてきた。莉子は小さく舌を出して肩をすくめただけだった。
孝太郎と入れ替わりに彩華が起きてきた。相変わらず顔色が悪くて機嫌が悪い。用意された朝食を行儀悪くひじをついてまずそうに食べている。莉子はコップに牛乳をついで彩華にだしてやった。
「女の子は牛乳を飲むと胸が大きくなるんだよ。知ってたか?」
からかいを含んだ莉子の口調に彩華が顔を背けた。
「いやらしいなあ。ほんと、下品なんだから。話しかけないでよ」
莉子はクスクス笑った。
「ゆうべ、どこで遊んでいたんだよ。どんなのとつるんでいるんだ? まさか族じゃないよな」
「うるさいな。オヤジに関係ないでしょ。使用人のくせに」
背中を丸めて言い返してくる。
「何時に帰っても、だれも心配してくれないって、悲しいよなあ、彩華」
囁くような小声だったが、彩華には莉子の声がはっきり聞こえた。彩華の顔色が変わった。薄ら笑いをうかべている莉子を激しい眼差しで睨みつけてくる。
「オヤジこそ自分の家があるのに、他人の家に住み込んで働らかなきゃなんないなんて、悲しいを通り越して惨めのかたまりじゃないの。貧乏たらしいジャージ姿で、みっともないったらないわ」
勝気に言い返してくる彩華の目が怒りに燃えていた。食事を途中にして彩華は学校に行ってしまった。波子がキッチンで莉子を睨んでいた。
「また彩華になにかいったのね」
「ちょっとからかっただけですよ」
「あなたのはからかうのではなくて意地悪よね。でも、少しは彩華も悔しい思いをするといいんだわ。あの子は自分がどれだけ甘やかされているかわかっていないんだから」
「そうかなあ。それはちがうだろ」
「なんですって」
莉子は肩をすくめて雅巳を起こしにいった。