第四話
日曜日に莉子は、デパートで買ったカーテンとベッドカバーを持って準哉のマンションに向かった。
谷村家に来たころは爽やかな季節だったが、一ヶ月がたつかたたないうちに関東は梅雨に入っていた。傘とデパートの袋で両手がふさがっている不自由さも、準哉に会えるとおもうと苦にならなかった。
半袖のTシャツの上に相変わらずの赤のジャージを羽織っているが、下はジーンズをはいている。足元は古ぼけた布のスニーカーだ。雨で濡れた道路を歩いているうちに靴が湿り始めていた。
デパートの紙袋に入った布製品はけっこう重くて、細い紐の持ち手が手にくいこんで痛かったが、準哉に合えるとおもうとうれしくて莉子の心ははずんでいた。最寄の駅で降りて準哉のマンションまではバスで十分。バスを降りて歩いて七分だ。軽い足取りに鼻歌までこぼれて、莉子はいそいそと準哉の住んでいるマンションのエレベーターにのった。
チャイムを押すとすぐに準哉が玄関に出た。そして、肩の辺りが濡れている莉子のジャージを見て笑い声をあげた。
「莉子、その格好でデパートに行ったの」
目ざとく有名デパートの紙袋を指さす。
「うん」
「その荷物は、なに?」
「夏物のカーテンとベッドカバーだよ。雨が続いてうっとうしいから新しいのに替えようと思ってさ」
「いいのに。そんなの」
笑いながら準哉は莉子を部屋に迎え入れた。
玄関を入るとまっすぐ廊下が伸びていて、片側は洗濯機を置いた洗面所にバス、トイレ。もう片側が八畳の寝室になっていて、廊下の突き当りが十二畳のリビングキッチンになっていた。ベランダからの眺めがいい1LDKの賃貸マンションは、独身者が住むには広くて贅沢な印象をうける。新婚の夫婦が住んでちょうどいいくらいだ。
対面式のダイニングテーブルや明るいアボカドグリーンのレザーソファセット、大型テレビや天井まで届くどっしりとした本棚が、十二畳のリビングにセンスよく配置されていた。いつ来ても好ましい部屋だ。莉子は準哉の部屋が大好きだった。
準哉が大学を卒業して、都の職員試験に合格して都庁に勤務が決まったとき、うれしさで胸が破けるかと思った。伊坂の家で暮らして十年。少しでも時給のいい仕事を選んで働きまくったのは、準哉の大学生活の生活費を捻出するためだった。学費は特待生だったから免除されたが、孤児である準哉は、不本意ではあっても莉子に頼るほかはなく、莉子もそのつもりで準哉を大学にいかせてやると約束したのだ。この賃貸マンションは、準哉の就職を機にアパートから住み替えたものだった。
準哉は、それまで住んでいたアパートでいいと言い張って乗り気ではなかったが、それを押し切ってマンションに住み替えさせたのは、準哉にアパートは似合わなかったからだ。 頭がよくて、美しくて、やさしくて上品で、そんな素敵な男性が住むところは、アパートではなくマンションだった。そういう思い込みが莉子にはあって、それは莉子の独りよがりな我侭だったが、さんざん世話になった準哉には莉子に異を唱えることはできなかった。そんな複雑な力関係を莉子が理解できるわけはなく、莉子にとって準哉はいつまでたっても気弱でやさしい特別な存在だった。
対面式のキッチンテーブルに座ってデパートの紙袋を足元に置いた莉子に、準哉は壁の時計を見てからキッチンで紅茶を入れ始めた。お茶を飲んで一息ついて、すこしおしゃべりしたあと、早めに夕食に誘うつもりでいた。なにかおいしいものを莉子にご馳走したかった。
「莉子。で、どうなの?」
「ん?」
「ん、じゃなくてさ」
紅茶を入れ終わって、二人ぶんのティーセットをトレーに乗せ、ソファのほうのテーブルに持っていった。
「こっちにおいでよ。莉子のすきなサバランを買ってきたんだ。一緒に食べよう」
「うん」
莉子は素直に場所を移動した。準哉が冷蔵庫からサバランをだして皿にのせ、運んでくる。サバランは莉子の好物だったが、最近はどのケーキ屋さんにも置いていなくて、探すのがむずかしいフランスの焼き菓子だった。丸くやいたパンに甘いシロップをかけ、香りのいいラム酒をたっぷりかけたサバランは、ケーキというより甘いラムシロップをかけたおとなのパン菓子といったほうがいいだろう。洋酒がきついから、酒に弱い人は酔いかねない。莉子はサバランには目がなかった。
「わあ、サバランだ。よく見つけてきたね」
思ったとおり莉子は相好を崩した。仕事の帰りにあちこち洋菓子店を捜し歩いた甲斐があったとおもった。紅茶を飲むより早くサバランにフォークをつけている。
「だから莉子。こんどの家はどんな感じなの」
「うん。おいしい。口の中も鼻の中も甘いラム酒でむせ返るよ。酔っ払って、頭、くらくらしてくるよ」
「そうじゃなくてさ。その谷村の家の人はやさしいの?」
準哉は、子供に根気よくものを訊ねるように言葉をかけた。
「どうかな」
ぺろりと食べおわって、名残惜しげにフォークをなめている莉子に、準哉は自分の分をあたりまえのように差し出した。
「いいの?」
「うん」
ありがとうも言わずに、嬉しそうに二つめにフォークをつけた。
「莉子。住み込みなんて、だいじょうぶなの」
「うん」と言いながら口を休めようとしない。
「困ったりしてない?」
「うん」
「うんじゃなくて」
「子供がいるんだ。四歳の」
「女の子? 男の子?」
「男の子。おねしょばっかして、しょっちゅう波子に叱られてる」
「いたよね。施設にそういう子」
「いた。でも、職員の先生は叱らなかった」
「そうだったね。子供はおねしょをするものだからね」
紅茶を飲みながら上の空で返事をかえしてくる莉子に準哉は質問を続けた。
「波子って、だれ?」
「雅巳を叱ってばかりいるばあさん」
「雅巳くんのおばあちゃんか。でも、おばあちゃんて、孫を叱ったりしないよね。普通はお母さんが子供を叱るんじゃないの」
「波子は雅巳のばあちゃんじゃなくて、じいさんの妹だよ。母親は雅巳が一歳のときに離婚して、いまはアメリカ人と再婚してアメリカにいるんだってさ」
「へええ。おじいさんの妹って、雅巳くんの続柄でいうと大叔母だよね。歳はいくつなの」
「六十三歳」
「もしかして、ずっと一緒に住んでいるのかな」
「しらない」
「離婚したり、あるいは夫と死別して実家にもどってきたのかもね」
「わかんない」
「莉子は波子さんが嫌いなの?」
「べつに。うるさいだけ」
莉子は二つめのサバランを食べ終わって紅茶を飲んでいる。準哉は身を乗り出して質問を続けた。
「それで、ほかの家族は」
「だから、波子の兄さんの栄一郎さん」
「谷村栄一郎。きいたことがあるな。財界人だよね」
「製薬会社の代表取締役だってさ。日経連の理事の一人だってきいたよ」
「伊坂さんの知人なら、そういう関係だろうね。で、歳は?」
「六十六歳」
「やさしい?」
「頑固で偏屈なじいさんだよ」
「谷村栄一郎さん。波子さん。雅巳くん。ほかには?」
「十七歳でひきこもりの涼と、放っておくとやばくなりそうな高一の彩華がいる」
「引きこもりか。あとは?」
「孝太郎さん。三十四歳で雅巳が一歳のときに離婚してる」
「ちょっとまってよ。混乱してきた。谷村栄一郎氏の長男が孝太郎氏でしょ。孝太郎氏は涼くんと彩華ちゃんとはだいぶ歳がはなれているよね」
「じいさんの最初の奥さんとのあいだの子供が孝太郎さんで、二番目の奥さんとの子供が涼と彩華だよ」
「そして、長男の孝太郎さんは一児をもうけて離婚……って莉子。そんな複雑な家庭、たいへんじゃないか」
準哉は絶句した。口が悪く愛想のかけらもない莉子が、そんな複雑な大家族でやっていけるのだろうか。施設で育った莉子が、環境のまったくちがう家庭で、うまく働けるとはおもえない。
「谷村の家庭の事情なんか、わたしには関係ないよ」
「そうだけど、気を使うでしょ」
「つかわないよ。へいきだ」
準哉は言葉を飲み込んだ。莉子は基本的に他人には興味を持たない。他人に興味がないから、その人がなにを言おうが関係ないし気にしない。自分が人にどう見られているかも気にならない。社会性が欠けているといってしまえばそれまでだが、準哉は莉子とちがって人の陰口は気になったし、どう思われているか気に病んだ。だから、莉子のような人間がいつもそばにいてくれなければ、神経の細い準哉には施設暮らしは耐えられなかっただろう。だが、施設を卒業した今、莉子に社会性がないではすまされない。他人とうまくやっていく方法を身につけなければ、あらゆる場面で不都合や軋轢が生じるだろう。それは莉子にとって不幸の種だ。しかし、今回の莉子は今までとはちがうような気がした。よくしゃべるし、ひとりひとりのことをよく見ていると思った。莉子らしい口の悪さではあるが、人物の感想まで入っているというのはこれまでにないことだった。準哉は俄然興味を覚えた。
「で、孝太郎さんという人はどんな人?」
「家族に関心がない。これは、じいさんもおんなじだな。じいさんと長男の孝太郎さんは、二人とも家族とか家庭とかに興味がないんだ。自分の子供にも無関心で、子供たちのことなんか、なにも知らないんだよ。あきれたもんだ」
準哉は驚いた。他人に興味を持たないはずの莉子の口から、そんな言葉をきこうとは思わなかった。他人に興味をもたないはずの莉子と、家族に関心がない栄一郎と孝太郎という男……。
食べ終わった二人ぶんのケーキの皿と紅茶のカップを、まとめてシンクに持って行って、莉子はダイニングテーブルのところに置いておいた紙袋を手に取った。
「莉子。その人たちは、いい人たち? 莉子にやさしくしてくれるの?」
紙袋から、買ってきたカーテンを取り出している莉子のそばに行って急くようにきいてみた。莉子はベランダの窓のカーテンをはずし始めた。
「莉子ったら。いやなこととか居づらいこととかないの」
「へいきだ」
「でも、莉子」
「彩華がわたしのつくった弁当を持っていかないで学校に行こうとしたから、弁当の角で頭を思い切り叩いてやった。おもしろかったよ。すげえ音がした。ごつんだって」
「莉子!」
今まで使っていたカーテンをはずし終って、こんどは鮮やかなブルーと淡い水色とパープルカラーの濃淡が織りなすアラベスク模様のカーテンにとりかえた。初夏らしい涼しげなカーテンが新鮮だ。莉子はそれを満足そうに眺めた。準哉は莉子にのしかかるようにして声を荒げた。
「莉子! 叩くなんてとんでもないよ。どうして莉子はいつもそうなんだ。なんのために言葉があるんだ。乱暴だよ。叩くんじゃなくて、口で言わなきゃだめなんだ。そんなやり方ばかりしているから、莉子は人に嫌われて友達ができないんだ」
準哉は自分で言った言葉にはっとした。言いすぎたと思った。
「友達なんかいらない。準哉がいればいい」
怒ったように莉子は言い返してきた。古いカーテンを抱えて、廊下側のところにある洗濯機の中に入れてから隣の寝室にことわりもなく入っていった。準哉もあとを追った。
「彩華ちゃんを叩いたりしたら、家の人に叱られただろ?」
「波子が怒った」
「ほらごらん。クビになっちゃうぞ」
「いいもん。へいきだもん」
「開き直るなよ」
べつに開き直ってもいいのだ。ただ、そんなことばかり繰り返していたら、莉子はどうなってしまうだろう。準哉はそれが心配でならなかった。
十年前の高校の卒業式が終わった日、校舎の裏のゴミ捨て場に学生カバンと卒業証書を捨てて、竹刀を掴んで伊坂達郎のいる丸の内のビルに、たった一人で乗り込んでいった莉子。ガニマタで、制服のスカートを蹴飛ばすように大またで去っていった緊張した後姿がよみがえる。平和より戦いを挑むような莉子の表情が目に浮かぶ。あの時はまだ十八歳。十年たっても莉子は変わらない。肩肘張ってガニマタで歩き、雇い主の家の娘を弁当箱で叩いてクビになってもへいきだと強情をはる。
準哉は泣きたくなった。力が抜けていく。どうして自分という人間は、莉子の前ではこうも無力なのだろう。そんなことをしてはだめだと、なぜ教え諭す勇気が出ないのだろう。莉子のことをおもうのなら、たとえ怒らせても教え諭さなければいけないのに、それが準哉にはできなかった。
寝室のベッドに歩み寄って、莉子は慣れた手つきで、やさしい色使いのパッチワーク柄のベッドカバーをはがしはじめた。そのベッドカバーは去年莉子が買ってきたものだ。きちんとベッドメークされた寝室は、莉子の目に触れることを想定していたかのように整っていた。紙袋の底から大胆なエスニック柄の布を取り出してベッドにかぶせ始める。
「ねえ、莉子。その家、居心地がわるいなら出ちゃえば」
「悪くない。意外と気に入っている」
「そんな家のどこが」
「不幸が充満しているんだ。すげえ楽しい」
準哉は言葉が出なかった。
「不幸が充満って……」
不幸なら、二人とも嫌になるくらい味わってきただろう。いまさら他人の不幸になんか興味はないだろうに、莉子はなにをいっているのだ。準哉は混乱した。
「よし。終わった」
ベットカバーを取り替えて満足した莉子が、寝室を見回して頷いた。
「じゃあ、ご飯を食べに行こうか」と、準哉がうろたえ気味に腕の時計を見ながらいった。
「食べに行く? いや、つくって持ってきたよ」
「それじゃあ、それは冷蔵庫に入れて、あした食べるよ。今夜はおいしいものを食べに行こう。ご馳走するよ」
莉子は聞こえていないようなそぶりでキッチンに戻り、紙袋の底から密閉容器をだして食器棚から皿を出しはじめた。
「外に食べに行こうよ。莉子を喜ばせたくて、いいお店を何軒か聞いてきたんだよ。フランス料理とかイタリアンとか、日本料理がいいなら懐石もきいてきた。ねえ莉子、たまには、外でごはんを食べようよ」
莉子はこのとき、準哉の顔を見るべきだった。準哉の必死な表情を見ていたなら、彼がこの夜のために、いろいろ準備して心を弾ませていたのがわかっただろう。でも莉子は、食器棚から皿を出して、密閉容器から手作りの料理をだして盛り付けるのに集中していた。
皿に並んだものは、すべて準哉の好物ばかりだった。一ヶ月近く準哉に会えなかった寂しさが、その料理にこもっていた。準哉も、皿に並んだ料理を見て、莉子の気持ちを理解して口をつぐんだ。今夜のために準哉は、同じ職場に勤めている五歳後輩の吉川結花に相談に乗ってもらって、実際に食事にも付き合ってもらっていたのだ。
莉子を喜ばせたい。世話になり続けだったから、一人前になった今は、莉子に恩返しをしたい。感謝を伝えたい。莉子の笑顔が見たい。幸せな気持ちになってもらいたい。それだけだった。それだけのために、準哉は忙しい時間を割いて、今夜、莉子を連れて行く店をいろいろ見て回ったのだった。
次々とダイニングテーブルに並んでいく料理を見ながら、準哉はこみ上げてくるものをこらえた。腹に力を入れていないと、涙が出てきそうだった。準哉の好きなものばかり、たくさん作ってもってきた莉子の心づくし。愛情が伝わってくる。でも、伝わるだけの愛情なんて、なんの意味があるのだろう。儚すぎるではないか。準哉はそっと唇をかんだ。そして、今夜のために食事に付き合ってもらった吉川結花の、まだあどけなさの残る笑顔を思い出していた。
新卒で配属されてきた結花は、化粧も服装もおとなしくて、声や話し方にも節度があって清らかだった。仕事ののみこみも早く、質問のしかたも的確で要領がよかった。職場では堅物で通っていた準哉だったが、結花には親しく声をかけることができた。恵まれた環境で愛情をいっぱいもらって育った結花のあたたかな人柄が、準哉の心をやわらかく撫でたのかもしれなかった。
「莉子。外に行こうよ」
弱い声でいいながら、対面式のテーブルのすみに置いておいた紙袋を取り、赤いリボンがかかったプレゼントを莉子に差し出した。結花に選んでもらった服だった。
「なに? まだ誕生日じゃないよ」
「着てみてよ。気に入ったなら、これを着て食事に行こう」
莉子は、はにかむような笑顔をうかべた。めったに見ることのできない愛らしい笑顔だった。
赤いリボンを丁寧にほどいて、包装紙もゆっくりはがしていく。莉子の指は働きづめだったから、まだ若いのに指の節が硬くなっていた。爪も短く切りっぱなしで結花とはまったくちがう。結花の爪は美しく手入れされていて桜色のマニキュアが透き通るような白い指に彩りを添えていた。準哉は知らず知らず莉子と結花をくらべていた。
リボンと包装紙をたたんで横においてから箱を開けた。初夏らしい素材の水色の長袖のジャケットとインナーの淡いピンクのブラウスがセットになっているブランド物の服を見て、莉子は大きく笑った。
「わあ。すごいな」
「莉子が太っていなければ、サイズはだいじょうぶだと思うよ」
準哉は冗談めかしていった。休みなく働いている莉子に、太る暇はないのだ。それも準哉には悲しかった。若い娘らしく着飾って、色あせたスニーカーなどではなく、ハイヒールをはいて、都会の街を闊歩すればいいのにと思った。莉子の手を握り締めて、もう、そんなに頑張らなくてもいいんだといってやりたかった。僕のことはもういいんだと叫びたかった。しかし準哉は、悲しそうな笑みを唇の端にうかべて莉子の笑顔を見つめることしかできなかった。




