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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
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第二話

 莉子は自転車のスピードをおとした。前方に東京都庁の全容が見えてきた。近代的で硬質なツインタワーは、巨大な権力を象徴するように陽光を猛々しく反射していた。空を威圧するように突きあげているツインタワーの頂上には、たくさんのパラボラアンテナが取り付けられていてものものしい。都庁本舎の輝くように美しいビルが、莉子には手の届かない英知、権力、金の象徴に思えた。

 あのビルに、準哉がいる。今も準哉はあのビルの高いところで仕事をしているはずだ。大学を優秀な成績で卒業して都庁の職員になった準哉が、莉子は誇らしくてならなかった。

 都民広場で自転車をとめて一息入れた。長いこと自転車をこいでいたので汗をかいていた。白いブラウスの襟のボタンをはずして風を入れる。初めて訪れるお宅にジャージ姿では礼を失するぐらいの常識は持ち合わせているので、むかし買ったリクルートスーツを着てきたが、十年前よりウエストのあたりは細くなっていた。

 高校の卒業式の日に、準哉を大学に行かせてやると宣言したとおり、莉子は働きとおして目的を果たした。伊坂達郎の家に住まわせてもらい、多額の小遣いをもらうことができたおかげで果たせた約束だったが、莉子はそれだけでなく少しでも時給のいいところを選んで職を転々とした。準哉に惨めな学生生活をさせたくなくて頑張りとおした。

 親のない子、施設で育った子と陰口をいわれないように、準哉が身につけるものにも気を配ったし、持ち物も安ものは持たせなかった。サークル活動にかかる費用も、友人たちとの旅行も飲み会も合コンも、準哉のために、惜しみなく働いた金を使った。

 そして準哉は、いまこの都庁で働いている。やさしくて、美しくて、聡明な準哉。準哉は莉子の夢そのものだった。

 莉子は都議会議事堂前の半円形の広場の真ん中で、五月の風に髪をなびかせながら都庁を見上げて満足そうにほほえんだ。谷村家から都庁までは歩いていける。自転車ならいくらも時間はかからない。準哉の顔をみたくなったら、いつでも自転車を飛ばせばいい。準哉のそばにいたい。いつも準哉を見ていたい。だから伊坂から住み込みの家政婦の話があったとき、準哉の近くにいられるのならと承諾した。どちらにしても潮時だったのだ。そろそろ伊坂の家族を解放してやってもいいころだった。なにせ十年も莉子の同居を我慢してくれたのだから。大きく深呼吸して胸のふくらみをなだめてから、莉子は自転車のペダルに足を戻した。

 新宿中央公園を突っ切って信号機のある横断歩道を渡り、住友不動産ビルの前を素通りして、バス通りをスーパーマーケットを目印に走った。ほどなくしてスーパーが見えてきたので小学校脇の道を左折した。

 谷村家は、周りをマンションや事務所が入った低層ビルに囲まれて高い塀をめぐらせていた。屋根つきの金属の門は、大型の車を前に停めても道路を走る車の邪魔にならないように、前にスペースが贅沢にとってあり、門扉の横に人が出入りするドアがついていた。そのドアの前で自転車をとめた。髪の乱れを手で撫でつけ、はずしておいたブラウスの襟のボタンもとめた。リクルートスーツの上着を整え、タイトスカートのずれてしまったウエストも直した。そしておもむろにインターホンを押した。

 インターホンからの応答はなかなかなかった。きょうの午後二時に訪問することは、事前に連絡してあったので不在は考えられない。時間を確認すると、ちゃんと午後二時になっている。日曜日だし六人家族だときいているから、誰か一人ぐらいは家にいるはずだ。

莉子はもう一度インターホンを押した。こんどは待つほどもなく相手が出た。

「お待たせいたしました」

 歳を取った硬い女性の声だった。

「伊坂達郎の紹介で参りました、伊坂莉子です」

「お待ちしておりました。そこのドアはあいておりますので、どうぞそちらからお入りください。おわかりになりますね」

「はい。わかります」

 指示に従って重そうに見えるドアを押すと案外軽く開いた。前と後ろに身の回りの荷物を山積みにした重い自転車をひいて屋敷の中に入ったら、まず敷地の広さに目をみはった。外から見たときはモチノキが塀からこぼれるようにはみ出していたが、中から見たら、ちょっとした森のようだったし、庭は手入れされた緑の芝生が広がっていて、じつに気持ちがよかった。柔らかそうな五月の芝生は、風に吹かれて流れるままに雲の影が落ちて斑模様に染まっている。なんとも贅沢な眺めだった。

 自転車を引きながら、門から玄関に続いているカーブしたアプローチを歩いた。芝生の庭が表庭なら、屋敷を中に挟んだ右側が裏庭になっていた。その裏庭にはひときわ立派な赤松の大木があって、赤松の太い枝は屋敷の屋根にかかって二階の窓のほうに枝を伸ばしていた。幹の下のほうの枝に太いロープでブランコが取り付けてあって、ブランコのそばには補助輪のついた子供用自転車や子供が遊ぶビニールプールがあった。水を張られたビニールプールにはおもちゃのヨットやアヒルが浮かんでいた。遠目でちらりと見ただけだからわからなかったが金魚もうようよ泳いでいた。

 物干し場と車庫もあった。ポリカーボネートで屋根をかけた物干し場は、雨が降っても大丈夫なようにできているし、横の屋根つき車庫にはシルバーのワゴン車とフォードアが収まっているが、あと二台は止めるスペースがあった。自走式の芝刈り機も収納されていた。

 四本の物干し竿には、洗濯物を吊るされた角ハンガーがずらりと並んでいて風に揺れている。それらを目のすみにとめて玄関ドアのチャイムを押した。玄関に姿を現した谷村波子たにむらなみこは、藤色の七分袖のブラウスに紺のタイトスカート姿で、白髪のせいか六十三歳にしては老けて見えた。波子のスカートに隠れるようにして、小さな男の子が興味津々で莉子を見上げている。素直な髪を揺らして首をかしげ、親指をくわえているのは四歳になる雅巳まさみだった。莉子が世話をすることになる子供だった。

「伊坂達郎の紹介で参りました、伊坂莉子です」

 莉子はさきほどと同じせりふを繰り返した。

「これ、あなたのお荷物?」

 波子が自転車の前後に積んである荷物に目をやった。

「はい」

「いきなり荷物ですか。いくら伊坂様のご紹介でも、一度くらいは顔合わせをしてからでしょう」

「わたしのほうは決めていますので」

「あなたのほうはそうでも、物事には順序があるでしょ。こちらのほうは、どんなかたかお会いしてからでないと。きょうは、面談にいらしたとおもっていましたよ」

「では、面談をお願いします」

「いきなり荷物を持って来ておいて図々しいこと」

 呆れたように顔をしかめる。そのとき、雅巳がちょこちょこと寄ってきて、自転車の後輪を短い足で蹴飛ばした。派手な音をたてて荷物ごと自転車が横転する。波子が「雅巳!」と叱る前に、雅巳は家の中に逃げ込んでいた。

「もう、ほんとうにいたずらなんだから。叱っても叱ってもいうことをきかなくて」

 波子は落ちた荷物を拾おうと身をかがめた。

「お構いなく。わたしが拾います」

「そう。では、とにかく、お入りなさい」

 自転車を起こして荷物を乗せなおし、倒れないようにスタンドのロックをかけてから、書類入れのような飾り気のないバッグを持って玄関に入った。

 広々とした明るい玄関は吹き抜けになっており、玄関ホールから二階への階段は壁に沿って優雅に曲線を描いて上にのびている。採光のいい天窓から差し込む光が、垂れ下がるシャンデリアに跳ね返ってきらきら光っていた。一階の玄関ホールの正面に長い廊下が伸びていて、廊下の両脇にいくつもの部屋が並んでいた。

 雅巳の靴が転がっている玄関で小さな靴をそろえてから、莉子は古びたスニーカーを脱いだ。布地がほつれてくすんだスニーカーに波子は嫌な顔をした。廊下の突き当たりの陰から雅巳が顔の半分だけ出してこちらを窺っている。莉子は知らんふりをして波子のあとにつづいた。

 吹き抜け玄関の左側が独立した応接間になっていたが、波子が案内したのはその並びのリビングキッチンだった。リビングとキッチンの境のドアを全開にしてあるのでキッチンの様子が丸見えだ。リビングルームにはソファセットと大型テレビとどっしりしたサイドボードが置かれており、観葉植物の鉢植えを中にはさんだキッチン側には、ダイニングテーブルセットが置かれていた。ガラス戸の向こうには眩しい緑の芝生が広がっていた。

 応接間ではなく、家族が使っているリビングキッチンに案内されたということは、客扱いされていないということだが、礼儀として波子が椅子を勧めてくれるまで行儀良く立ったまま待った。

 波子は莉子を立たせたままキッチンへ行ってお茶のしたくをはじめた。二人ぶんの緑茶を盆にのせて戻ってくると、いま気がついたように顔をしかめてみせた。

「お掛けになっていればよろしいのに」

「はい」

 椅子をすすめてくれないのに勝手に座るわけにはいかないことを承知の上での意地悪だ。莉子はダイニングテーブルの椅子とソファのほうを見比べた。

「おすきなところにお掛けになればいいわ」

 うなずいて莉子はダイニングではなく革張りのソファを選んだ。背筋を伸ばして膝を揃え、きちんと両手を腿の上に置く。波子はお茶をテーブルにおいてからゆっくりした動作でソファの端に浅く腰を下ろした。

「わたしは、谷村栄一郎たにむらえいいちろうの妹で波子と申します。伊坂様からはどのようにお話を聞いておりますか」

「父からは、住み込みの子守兼家事手伝いと聞いています」

「そうですか」

 莉子はバッグの中から履歴書を出してテーブルに置いた。波子が手にとって目を通す。

「大学は出ていらっしゃらないんですね。伊坂様のお嬢様なのに」

「勉強が苦手だったんです」

「伊坂様が、まさかご自分のお嬢様を紹介してくるとは思いませんでしたよ」

「はあ」

「少しお待ちになって」

 と、波子は席をたって部屋を出て行った。ドアの隙間から丸い目と小さな鼻が覗いている。雅巳だ。莉子は知らんふりをしてお茶をすすった。波子が戻ってきて、覗き見している雅巳を叱って追い払った。

「お待たせしました。兄のところにご案内します」

 波子と共に廊下に出た。廊下のつきあたりには風呂場や洗面所、トイレ、洗濯室、物置などが並び、栄一郎の部屋はその廊下を右に折れたところにあった。

 栄一郎の部屋は広々とした三十畳ほどの洋間で、テラス付のガラス戸から裏庭の赤松の木や物干し場、車庫などがぱらりと見渡せた。栄一郎は車椅子に座って大きな木製の事務机の前にいた。パソコンが二台、ファックスにプリンター、電話、スタンプや事務印など、一通りの事務用品が机の上にある。背の高い書棚兼書類棚が壁の一面を占めていて、ソファセットや大型テレビのほかに食事用の小テーブルも置かれていた。私室とはいえ、ほとんど仕事用のしつらえで、仕切りの向こうにベッドが置いていなかったら、役員の執務室のようだった。

 栄一郎は携帯電話で話中だった。波子と莉子は栄一郎の電話が終わるのを待った。

「うん。今ついたところだよ。きみの家から自転車で来るというから、大丈夫なのかと思っていたが、あんがいタフな娘さんのようだ。ちょっと待ってくれたまえ」

 笑みを浮かべながら栄一郎が携帯を莉子に差し出した。

「伊坂くんだが、代わるかね」

「けっこうです」

 にべもない莉子の返事に苦笑を浮かべて電話を耳に戻した。

「では、たしかに娘さんはお預かりするよ。いやいや、礼はこっちのほうだよ。なにせ家の中に他人を入れるんだ。やたらな人間は入れられないよ。――そういうことだな。では」

 電話をきって車椅子を回しながら莉子の正面に体を向ける。笑みが消えた栄一郎は、別人のように気難しげで冷淡な印象に変わった。

「伊坂くんからどういうふうに聞いているかは知らんが、私が求めているのは孫の雅巳の世話をしてくれる人だ。長男の孝太郎は離婚しているので、雅巳はいつも寂しい思いをしている。子供の世話はたいへんで、これ以上妹に負担をかけたくないのでね。それでなくとも次男のりょうと娘の彩華あやかがいるんだ。二人ともむずかしい年頃だから波子は手をやいている。他人の家の中に入って働くのはたいへんだろうが、頑張ってくれたまえ」

「はい」

「部屋なんだが、波子、案内してやってくれ」

「その前に、谷村さんに確認したいことがあります」

「なんだね」

 栄一郎は、怪訝な面持ちで莉子を見た。人に命令することに慣れている人間特有の傲慢な反応だった。

「いま、孫の雅巳の世話をしてくれる人を求めているといいましたが、子守だけでいいんですか」

「と、いうと?」

「子守兼家事手伝いと聞いています」

「ああ。そうか。家の中のことも必要だな。しかし、君にできるのかね」

「どういう意味ですか」

「伊坂くんの娘さんに家政婦のような仕事ができるのかと聞いているのだよ」

「一般的な家事程度ならできます。でも、住み込みとなると、会社勤めのように時間で終了できない場合もあります。たとえば、お子さんが熱を出したときなど、夜も介護が必要でしょう」

「つまり、それ相応の待遇を要求するということだな」

「そういうことです」

「いいだろう。労働契約の締結に際しては、労働基準法で、労働者に対して賃金、労働時間、その他の労働条件を明示しなければならないということになっているが、住み込みの家政婦の場合は労働基準法116条2項で、『この法律は、家事使用人については、適用しない』となっている。というわけだから両者の話し合いで待遇を決めていいということだ。後ほど細かいことを話し合うとして、波子。部屋を見せてやってくれ」

 話を終えて、栄一郎は車椅子を回してデスクに戻った。パソコン画面を再起動したあと、国際電話を入れる。流暢な英語で相手と話しながら書類をめくり始めたのを見て、波子と莉子は部屋を出た。

「おどろいたわ。初対面の兄にむかってずけずけと。あなた、兄が怖くないの」

 波子にいわれて莉子は肩をすくめた。無表情で愛想のかけらもない莉子の顔をつくづく眺めて、何を言っても無駄だと思ったのか、波子はつんとすまして廊下の向かい側の部屋の襖を開けた。

「ここは仏間です」

 廊下に立ったまま中を見せてすぐに襖をぴしゃんと閉めた。仏間の並びの和室の前を通り過ぎるとき、「ここはわたしの部屋です」と、足を止めずにそのまま玄関ホールの階段に向かう。後ろからカスタネットのような足音が近づいてきて、階段を上り始めた波子のスカートに雅巳がぶらさがった。

「危ないでしょ!」

 とたんに邪険に小さな手をもぎ離した。雅巳は叱られることに慣れているようでケロリとしていた。先に階段を上りきって踊り場でぴょんぴょん跳ねて無邪気に笑っている。波子たちが階段を上りきると、1階と同じ間取りになっている廊下を靴下で滑って遊びだした。

「おやめなさい雅巳。靴下に穴があくでしょ。自分の部屋で遊んでいなさい」

 雅巳は廊下の突き当たりの部屋のかどから顔だけ出して、波子に向かって片ほうの目の下をめくって舌をだしてみせた。

「ほんとうに。もう」

 これが日常なのだろう。莉子は黙ってそんな二人を眺めていた。

「ここは孝太郎さんの部屋です。きょうはお仕事でいません」

 階段ホールのすぐ左側にある部屋を示して波子がいった。

「そこはパパのへやなんだよ。パパのへやはほんがいっぱいなんだよ。ぼくのパパはね、せがたかくてハンサムでかっこいいんだよ」

 雅巳が波子に飛びつくように抱きついた。

「あっちへ行っていなさいっていったでしょ。うるさいこと」

 こんども波子は乱暴に雅巳をもぎ離して、孝太郎の部屋の隣のドアを開け、莉子に入るように促した。

「この部屋があなたの部屋です」

 戸口に立ったまま中を一瞥した。十分に広い部屋だった。シングルベッドがあり整理ダンスも置かれている。

「先に家族の方を紹介してください」

「いいですけど」

 つっけんどんな莉子に波子は不満そうだったが、向かい合わせになっている部屋の前で足を止めた。

「ここは彩華のへやです。彩華は高校一年生です」

 波子はめんどくさそうにドアをノックした。

「彩華。住み込みで働いてくださるかたがみえたからご挨拶しなさい。彩華」

 波子が大きな声でノックを繰り返しても返事がない。

「おかしわね。いるはずなんだけど」

 波子は首をかしげたが、部屋の中で窓が開閉する音を莉子はかすかに捉えていた。裏庭の立派な赤松の大木が、屋根に枝を伸ばしていることが意味するものを、莉子が理解しないわけはない。枝をつたって逃げ出したなとおもった。

「彩華ちゃんはね、ごはんのときしかへやからでてこないんだよ。彩華ちゃんは叔母ちゃんがきらいなの。いつもいつもおこってばかりだから」

 雅巳が波子のスカートから顔をだしていった。

「お黙りなさい。叔母ちゃんが怒るのは彩華がわがままだからです。彩華がいけないの!」

 スカートからもぎ離された雅巳は親指をしゃぶり始めた。

「指しゃぶりはやめなさいっていったでしょ。幼稚園にもなって」

 雅巳の口から指を乱暴に引き抜こうとしたとき、莉子がその手を止めるように声をかけた。

「波子」

「な、波子、ですって!」

 波子の目がまん丸になった。

「波子さんとおっしゃい」

「波子、、さん」

「続けて言いなさい」

「波子、さん。隣の部屋は、誰の部屋ですか」

「時間差はいりません。波子さんと普通にいいなさい」

 目を吊り上げて怒る波子の顔は怖い。彩華の隣の部屋に移動して気を落ち着かせるように波子は息を吸い込んだ。

「この部屋は涼の部屋です。涼は十七歳です。訳あって高校は中退しました。涼。こんど来た住み込みの家政婦さんですよ。あなたもご挨拶しなさい。涼」

 しかし、物音ひとつしない。

「涼ちゃんはね、ずっといえにいるんだよ。ごはんのときもでてこないんだよ。ひきこもりなんだって。ひきこもりって、なあに?」

 雅巳は無邪気だったが、莉子は返事をしなかった。

「雅巳! ほんとに、よけいなことばかりいって。あっちへ行っていなさい」

 波子が雅巳を叱っている間に、莉子は廊下をはさんだ向かい側の部屋のドアをあけていた。波子が莉子に使うようにいった部屋の隣にあたるその部屋は、たくさんのおもちゃや絵本が足の踏み場もないほど散乱していて、ベッドはぬいぐるみで山のようになっていた。

「ぼくのへやだよ。おばちゃんはカードゲームってしってる? テレビゲームもあるんだよ。ほら、みてみて」

 雅巳が莉子の腰を押して部屋の中に入れた。

「いつもいつも散らかして。どうしておかたづけができないの雅巳。ご本は本棚。ミニカーは赤のボックス。ゲームは黄色のボックスでしょ。ブロックは青のボックスに入れなさいっていったでしょ。もう、これだから」

 波子が文句をいいながら片づけようとするのを莉子はとめた。

「あとでわたしがします」

「そうでしたね。あなたの仕事でしたね」

 ほっとしたように眉間をひらいた。

「まだ、ほかにも部屋があるようですね」

 廊下に出て、洗面所や風呂、トイレ、用具入れのドアが並んでいる廊下を右に曲がり、ちょうど栄一郎の部屋の真上にあたる部屋にはいった。

 その部屋は、明らかに夫婦の寝室だった。ウォーク・イン・クローゼットがあって、セミダブルとキングサイズのツインベッドがあり、それぞれのベッドの枕元にはサイドテーブルがあった。イタリア製の高価な猫足のドレッサーやチェストが配置良く置かれ、カーテンは趣味のよい落ち着いた色柄で、レースのカーテンは極上のイタリアレースだった。かつては使っていた部屋だったのだろうが、今は使われていないらしく、幸福だった頃の残りかすがわずかに残っていた。

「この部屋は使っていないみたいですね」

「ええ。孝ちゃんが、いえ、孝太郎さんが離婚してから使っていません。雅巳が生まれて、なにもかも順調だったのに」

「そこはね、パパとママのへやだったんだよ。パパとママはりこんしたの。ママはアメリカじんとさいこんしてアメリカにいるんだって。でも、ぼく、ママのかおをおぼえていないんだ。あかちゃんだったから。ママにあいたいな」

「雅巳! むこうに行っていなさい」

 波子が雅巳の幼い肩を乱暴に押しやった。

「この部屋を使わせてください」

「なにをいっているの。そんなことできるわけないじゃないですか。孝太郎さんが許しませんよ」

「孝太郎さんが帰ってきたら聞いてみます」

 莉子は波子が文句を言う前にさっさと荷物を取りに行った。自転車は車庫の隙間に入れた。雅巳は莉子から離れようとせず、絶えず何かを話しかけてくる。莉子はいちいち返事をしないが、それでも雅巳は楽しそうだった。

 夕飯の時間になっても彩華は帰ってこなかった。高校一年で十五歳だというから、夕飯までに帰ってこないなんて叱られて当然だ。ふつうなら、どこでなにをしているのか気になるし心配する。しかし、いつものことだといって波子は気にもとめていないようだった。 莉子は波子に彩華の携帯番号を聞いてみたが、彩華が教えてくれないのだと平然としていた。聞いても教えない彩華がわるい、だから、何かあってもこちらに責任はなく、彩華が悪いのだという理屈なのだろうか。そんな印象を受ける波子の態度だった。

「これを涼のところに持って行ってちょうだい。ドアをノックして廊下に置いておけばいいから」

 トレーにのせた夕飯の一皿一皿にラップをかけたものを受け取って、莉子は階段を上った。廊下の突き当たりの右側にある涼の部屋の前で立ち止まってドアに耳をつけてみると、かすかに脆弱なモーター音が伝わってきた。電動の機械でも動かしているみたいだ。ドアからわざと遠ざけてトレーを置いた。ノックして、急いで突き当たりの廊下に走って壁に身を隠して様子を窺った。鍵をはずす音がして、ドアの隙間から鏡を取り付けた棒を伸ばしてくる。誰もいないのを確認する用心深さだ。納得すると部屋から出てきて左手でトレーを取って引っ込んだ。高校に行っていれば三年生だという十七歳の涼は、ぼさぼさ髪の色の白い、かわいい顔立ちの痩せた少年だった。

 リビングルームに戻ると、次に栄一郎の部屋に夕飯を持っていくようにいわれた。栄一郎の部屋をノックすると、少しの間があってから入るようにと返事があった。

 栄一郎は莉子が挨拶に行ったときのままデスクで仕事を続けていた。パソコンで打ち出した資料をプリンターで印刷しているところだった。

「きみ、印刷できたらナンバーをそろえてホッチキスでとめてくれ。全部で三十部あればいい」

「食事はどこに置きますか」

「そこのテーブルに置きなさい」

 裏庭を見渡せるところにある食事用の小テーブルに置いた。カーテンが開いたままだったので部屋中のカーテンを閉めて回る。

「彩華さんが帰ってきていないんですけど。もう七時ですよ」

 ついでのように軽い調子で言った。

「いいから、さっさと資料のほうを片づけなさい」

「よくあるんですか、こういうこと」

「ほうっておきなさい。ホッチキスはここにあるから」

「でも高校生になったばかりですよね。心配じゃないんですか。十五歳でしょ。携帯に電話してみましょうか。おとうさんは携帯の番号をきいていますか」

「お父さん……って。私のことは谷村さんでよろしい。それと、娘の携帯電話の番号など知らんな。みんな波子に任せてある。波子にききなさい」

「波子にまる投げかよ」

 莉子はぼそりとつぶやいた。

「彩華のことなど気にせんでいい。そんなことより早く書類のほうを片づけなさい」

 最後まで聞かずに莉子は無言で部屋を出た。

「おい、きみ」

 ドアが閉まるとき、栄一郎の怒った声がした。ダイニングルームへ戻ると、雅巳が波子に小言を言われながらテーブルに身を乗り出して夕飯を食べていた。箸の持ち方がでたらめなので、挟んだものがぼろぼろこぼれる。汁物で服は濡らすし、こぼしたものを手で掴んで口に入れるし、まるで浮浪児のようだ。

 波子が、「あなたもお夕飯をすませてしまいなさい」というので、雅巳の隣に座って雅巳の世話をしながら夕飯を食べた。

 施設育ちの莉子は子供の世話に慣れていた。年齢がまちまちの子供たちが一緒に暮らすのだからケンカや諍いは絶えないが、年長者が順にお姉さんやお兄さんの役割をになって小さな子供たちの世話をする。だから雅巳のひどい食事の仕方をみてもばかにするようなことはなかった。叱らず、急がせず、手をそえて箸の持ち方を教えていく。そんな莉子の様子を、波子は冷ややかな目で観察するように眺めていた。

 夜の九時になると波子は自分の部屋にひきとり、雅巳もベッドのぬいぐるみに埋もれて眠ってしまった。下も二階も静かになって、莉子はリビングルームのソファにだらしなく寝転がってテレビを見ていた。テレビのボリュームを絞って連続ドラマをみていたら、十時半ごろ、車が敷地の中に入ってくる音がした。玄関の前を通り車庫のほうに音が移動していく。テレビを消して耳をすませていると、車庫のほうから車のドアが開閉する音がして、足音が玄関のほうにまわってきた。

 帰ってきた孝太郎が、玄関の鍵をあけて中に入り、重い足取りで階段を上っていく。二階の壁のスイッチで玄関の照明を消すと階段ホールが暗くなった。莉子はソファに寝転がったまま孝太郎の歩幅が廊下を歩いて自分の部屋に入る時間を見計らった。頃合を計って二階に行き孝太郎の部屋をノックした。

「どうぞ」

 疲れた声が返ってきた。雅巳がいっていたように、本がほとんどを占めている部屋は無機質で、寝に帰って来るためだけにあるような部屋だった。孝太郎は背中を向けてスーツの上着をハンガーにかけてクローゼットにつるし、ネクタイを緩めているところだった。

「夜分すみません。伊坂莉子です」

「ああ、そうか。伊坂さんの娘さんか。きょうから来ることになっていたんだったね」

 はずしたネクタイをネクタイ掛けにかける。

「彩華さんが帰っていません」

「またか」

 と、孝太郎はうんざりしたようにため息をもらした。

「彩華さんのお父さんにもいいましたけど、波子に言えって。いつもこんな感じなんですか」

「うん……彩華はまだいいほうですよ。学校に行っているんだから」

「へええ、ほんとかよ。それと、孝太郎さんが結婚していたときに使っていた部屋を、わたしに使わせてくれませんかね」

「いいですよ。僕には用がないですから」

 ワイシャツのボタンをはずしながら投げやりにいう。莉子には部屋だけでなく彩華のこともどうでもいいといっているように聞こえた。莉子は黙って孝太郎の部屋を出た。莉子が挨拶もなく部屋を出て行ったことさえ孝太郎の意識には残っていないようだった。孝太郎は一度も莉子を振り向かなかった。

 階段を降りて、孝太郎が消した玄関ホールの照明をつけた。玄関の鍵も開けておく。上がり口に腰を下ろして携帯電話をいじりながら彩華が帰ってくるのを待った。三十分ほど経過した頃、玄関ドアのくもりガラスに彩華の姿が映った。玄関に照明がついているのが腑におちないらしく、忍び足で中に入ってきて天井のシャンデリアを見上げて首をかしげる。まっすぐな長い髪をした顔色の悪い十五歳の少女は、自分のために玄関に照明をつけて帰りを待っている人間がいるなどど夢にもおもっていなかったのだろう。天井に向けた顔を下げて正面を向いたとたん飛び上がった。

「うわああ。びっくりした」

「彩華」

「な、な」

「わたしは伊坂莉子。この家にしばらく居つくからな」

「な、な、な」

「夜遊びは五年早い。未成年のうちは、夕飯までには帰ってこい」

「な、な、な、なに」

「玄関に鍵をかけて電気を消して早く寝な」

 あっけに取られている彩華を残して、莉子はのしのしと階段をのぼっていった。玄関で、彩華は脱力したように階段を見上げていた。

「なに、あのガニマタ。居つくって……おまえは野良猫か!」

 彩華の独り言がかすかに聞こえたが、莉子は自分の部屋になった広い寝室に入ってドアを閉めた。


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