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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
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第十七話

 幼稚園の運動会が終わってほっとしたのもつかのま、今度は彩華の高校の文化祭が迫っていた。

 彩華のクラスは、若者に人気がある女性集団アイドルのJーPOPを歌って踊るらしく、男子も女装して舞台に上がり、クラス全員参加のパーフォーマンスをするらしい。衣装は手作りで、男子の分も女子が手分けして作るらしく、放課後の合同練習や家庭科室を借りての衣装作りに、帰宅は遅くなっていた。期日が迫ってくると学校だけでは間にあわなくなり、自宅に大量の生地を持ち帰ってきた。

「オヤジ。助けて。手伝って。わたし一人じゃ終わらないよ」

 学校から帰ってくるなり彩華がいった。莉子は生ハムがのったサラダを作っている最中だった。

「何人分つくるんだよ」

「三人分」

「どこまで出来てるの」

「裁断は出来てるけど、ミシンがうまく使えなくて」

「波子にいいな」

 夕飯をつくる手を止めずにいうと、彩華はあからさまに嫌な顔をした。

「叔母さんに? めんどくさいな」

「波子の部屋に年代物のミシンがあるから、縫ってもらえばいいよ。あの人は、花嫁修業だけは年季が入っているからね。もったいないよな。せっかく花嫁修業を積んだのに嫁に行かずじまいなんてさ。あはは」

「莉子さん!」

 風呂の湯加減を見てきた波子が戻ってきて大きな声を上げた。

「あ。きこえましたか」

「あんな大きな声ですもの。聞こえますよ。あなたって人は、どうして人の気に障ることばかり言うんですか」

「悪気はないんですけどね。つい、この口が。へへ」

「へへ、じゃありませんよ。ほほほ、でしょ」

「ほ、ほ、ほ」

「もう!」

 悔しそうな波子に、彩華が大きな紙袋を開いて見せた。

「叔母さん。ミシンかけ、手伝ってよ。文化祭に着る衣装なの。ねえ、お願い」

「雅巳。こっちにきてお皿を出すのを手伝いな」

 莉子は、ソファでアニメ番組を見ている雅巳に声をかけた。「はあい」と返事だけして雅巳はテレビの前から動かない。

「これなんだけど」

 紙袋から布地を出そうとする彩華の手を止めて、波子が自分の部屋へ促した。

「こんなところで布を出したら汚してしまうわ。向こうで見せてごらんなさい」

「うん」

 二人は波子の部屋に入って行った。莉子は煮立った土鍋の蓋をあけて仕上がりぐあいを見てから雅巳に声をかけた。

「雅巳。おじいちゃんを呼んでおいで」

「はあい」

 やはり返事だけしてテレビの前から離れない。

「今夜は鍋か」

 車椅子を操作しながら栄一郎がダイニングに入ってきた。

「塩味ですよ。ゆずを利かせて」

「うむ。鍋ならビールだな」

「はい」

 よく冷えたビンビールをだしてグラスを置いた。栄一郎が自分でビールをつごうとするので、莉子はまた雅巳に声をかけた。

「雅巳。おじいちゃんにビールをついであげなさい」

「はあい」

 やはり返事だけで動かない。

「雅巳。おじいちゃんが待ってるよ。雅巳がついでくれたビールはおいしいんだってさ。早くだよ」

「はあい」

 やっとソファから降りて、雅巳がとことこ走り寄る。椅子にのぼって、両手でビンを掴んで真剣な表情でビールをついでいる姿は愛らしかった。栄一郎の目が細くなった。

「孝太郎は今夜も遅いのか」

 雅巳についでもらったビールに口をつけながら訊いてくるので、莉子は「早く帰るといっていましたよ」と、答えた。

「だから鍋にしたのか」

「はい。鍋ならお肉も野菜も足して食べられますからね」

「うむ」

 孝太郎への気遣いに栄一郎は満足そうだった。

「長靴のほう、どうなっていますか」

 油っぽいものを好まない栄一郎へ、ポン酢をかけた焼きナスとニラの卵とじをだしてやる。

「行っているよ。そろそろ新しいのが出来上がるころだ。そうしたら、実際につけてみて微調整して、歩行訓練だな」

「長靴をはいて、彩華の文化祭にきてくださいよ」

「そんなに早くは無理だろう」

「そうか」

「だが、私にはしたいことがあるんだよ」

「なんですか」

「秘密だ」

「へえ。秘密って、楽しみなんですよね」

「ああ。楽しみだな」

 鍋が出来たのでテーブルの真ん中に置いた。

「おとうさん。雅巳が土鍋を触らないように見ていてくださいね。彩華たちを呼んできますから」

 莉子に「おとうさん」と呼ばれて、栄一郎は眉を吊り上げた。何か言いたそうに肩を揺するが、そのときには莉子は波子の部屋にいた。

 畳に広げた布地とデザイン画を確認しながら波子が文句をいっていた。

「なんですか。このデザインは。こんなにスカートが短かったらお尻が見えちゃうでしょ」

「うるさいなあ。もう。見えてもいいのよ。下にジャージをはくんだから」

「男の子も着るんでしょ」

「着るよ。みんなで“失恋フォーチュンクッキー”を踊るんだよ」

「鍋が冷めるよ。ご飯にしよう」

 二人の会話を莉子が中断した。

「そうね。とにかく、一日で出来る仕事じゃないですものね。暇を見て縫っておいてあげるわ」

「ありがとう叔母さん。生まれてはじめて叔母さんがいてよかったとおもったよ」

「まあ! なんてことを。だんだん莉子さんに似てくるんだから!」

「さあ。ケンカはあとだよ」

 笑いながら廊下に出て、二階に向かって「涼。下りておいで。一緒にご飯にしょうよ」と、大声をだす。下りてくるとは思っていないが、莉子は必ず声はかけていた。

 毎日繰り返す平凡な日常を、莉子は大切だとおもうようになっていた。同じことの繰り返しが、一日一日積もっていって記憶となり愛着になっていく。平凡であっても日常は絶えず変化しており、油断していると、するりと手のひらから幸せがすり抜けていく危うさをはらんでいる。谷村家における莉子の立場は不安定で、栄一郎から暇を出されたら、新しい仕事を探さなければならないが、いまは忙しく家事をしていられることがありがたかった。

 準哉とは、あれ以来連絡を取り合っていなかった。孝太郎が気づかってくれたおかげで、なんとか持ちこたえることが出来たが、胸の中は空っぽだった。なにも残っていなかった。空しくて、生きる気力がでなかった。準哉にとって、まさかこの自分が重荷だったとは、考えもしなかった。準哉の未来のためにとおもって援助してきた金銭が、準哉の手足を縛っていたとはなんということだろう。自分の愚かさを責め続けていた。それなのに、準哉のずるさには目をつむった。準哉を責めたら、よけい自分が惨めになるからだった。

 谷村家の人々の前で、いつもと変わらず過ごすのがやっとやっとだった。沈んでいたりしたら、意外な敏感さで孝太郎がすぐ気づいた。莉子が笑っていても、笑い声に力が無いことに気づくのも孝太郎だし、朝、赤い目をしていたら、伺うように目を覗き込んできた。なにもいわずに、莉子が喜ぶドールハウスのキットを置いてくれていたりする。簡単なメールもちょくちょくしてくれるし、時間があるときは雅巳をだしにして車で遊びにも連れて行ってくれた。

 ありがたかった。孝太郎に甘えていた。莉子は甘やかされる喜びを、孝太郎によってはじめて知ったのだった。心が満たされていく安らぎは、莉子自身気がついていなかったが、自分の足で、自分のために、前に向かって踏み出す力になっていったのだった。

 波子に世話をかけさせた彩華の文化祭の衣装は、クラスのだれよりもじょうずに仕立てられていて、彩華は鼻高々だった。彩華の通っている高校は、大学の付属高校だったので体育館のほかに講堂があって、舞台関係の出し物は講堂で行われた。

 文化祭は土、日の二日間にわたって行われ、生徒の家族ばかりでなく、他校の高校生たちもおおぜい来校していた。

 開催二日目の日曜日に莉子たちは出かけて行った。莉子は雅巳の手を引き、波子は小豆色の江戸小紋を着た。今回も涼はビデオ係りに任命されて無理やり引っ張り出された。

 高校に進学しても、結局退学してしまった涼は、活気づいている高校の雰囲気にのぼせたようになっていた。飾り付けられた教室や廊下、売店のメニューなど、高校生とは思えない手の込みようで、腕章をつけた生徒会の役員が急がしそうに廊下を走り回っていた。

「涼は、大学で大学祭を楽しめばいいよ」

 莉子にいわれて、涼は強く頷いた。一通り校舎の中を見学してから講堂に向かった。たくさんの観客の中でも、波子の着物姿は目立っていて、舞台に立った彩華のほうからでも見えたらしく、彩華は波子たちに向かって大胆に手を振ってみせた。

 体操着のジャージのズボンの上からはいた超ミニスカートは、会場の笑いを誘い、男子生徒もおそろいの衣装なので、会場のあちらこちらから男子の冷やかしの声が飛んで笑いが起こった。

 彩華の学校の文化祭も終わり、秋が深まってくる十一月に、二回目の高校認定試験があった。涼は緊張しながら受験会場に出かけていった。結果は十二月に郵送されてくることになっていた。

 栄一郎の義足もできてきて、栄一郎は孝太郎に送り迎えされてリハビリに通っていたが、家の中ではまだ義足をつけることはなかった。




 庭の芝生が枯れはてて、冷たい木枯らしが吹く季節になった。一年の締めくくりの十二月は、波子にとっては気ぜわしい月らしく、いまから年末の準備の忙しさを煩っていたが、莉子にとっては、クリスマスも正月も関係ないイベントなのでどうということはなかった。

 年末の二十八日から一月五日まで莉子は休みをもらっていた。べつに休みをもらわなくてもいいのだが、そういうわけにもいかないのだろう。莉子からすれば、いつもと同じように谷村家で正月を迎えたかったが、正月の連休は実家の伊坂の家に帰るものとおもっているらしく、谷村家に居ずらい雰囲気があった。

 伊坂の家に帰るつもりはないし、帰られても向こうも困るだろう。九日間の休みを、どこで過ごしたらいいか、いまから悩んでいた。

 涼が郵便受けを気にする日が続き、ようやく待っていた封筒が届いた。試験の結果を真っ先に知らされたのは莉子だった。莉子は飛び上がって喜び、波子に知らせるために階段を駆け下りた。栄一郎と孝太郎にも涼が高校認定試験に受かったことをメールで知らせた。

 波子が、「お祝いをしなくては」、といえば、栄一郎もご馳走をつくるようにと電話でいってきた。孝太郎からはお祝いにケーキを買って帰るとメールがきた。学校から帰ってきた彩華も大喜びで、家の中が賑やかになった。

 栄一郎と孝太郎は夕飯の時間に間に合うように帰宅した。雅巳は孝太郎が買ってきたケーキの箱をみて飛び跳ねたが、涼が降りてくるまでお預けされた。誰もが、涼は下に下りてくるだろうかと内心不安に感じていた。

 テーブルには莉子と波子が時間をかけてつくった料理とケーキが並べられ、皿小鉢で埋め尽くされた。部屋で着替えを終えた孝太郎が、涼の部屋をノックして、下に下りてきてお祝いしようと誘ったがだめだった。彩華も同じように部屋の前で怒鳴ったが涼は返事をしなかった。波子が二階に行こうとしたので、莉子は波子を止めた。波子が行っても、涼は心を動かさないだろうとおもったからだ。

 たくさんのご馳走が並んだテーブルを前に、みんながため息をついて肩を落としたとき、栄一郎がようやく姿を現した。栄一郎は自分の二本の足で歩いてきた。

「お父さん」

 彩華がびっくりして目を見張った。

「兄さん」

 波子も同じだった。

「わあ。おじいちゃん。あるけるの?」

 と、雅巳。

「練習したんだよ」

 栄一郎はやさしく雅巳の頭をなでた。ちらりと孝太郎と目をあわせる。栄一郎と孝太郎は、二人にだけわかる頷きを交わした。

「さて。涼を迎えに行くとするか。長いこと待ちぼうけを食わせたからな」

 ゆっくりと廊下に出て、階段に向かう。みんなが栄一郎のあとをぞろぞろついて行った。

 半年前、彩華が不祥事をおこして学校から自宅謹慎を言い渡されて家にいたとき、怒り心頭に発した栄一郎が、足に合わない義足をつけて、階段から転落するかもしれない危険を冒して二階に上っていったことがあった。彩華の号泣に何事かと部屋から出てきた涼を、何年ぶりかで見たとき、栄一郎は強いショックを受けたのだった。ここに、もうひとり、助けなければいけない我が子がいる。

 栄一郎は、手すりに摑まりながら、ループ状の階段をゆっくりと上っていった。遅れてあとに続く彩華と波子は、胸を押さえるようにしていた。彼女達の心臓の音が、孝太郎と連れだってあとに続く莉子にも聞こえるようだった。

 雅巳が莉子の手を振りほどいて、階段をかけ上り、彩華たちの脇をすり抜け、栄一郎の横をかすって走り抜けた。

「危ない」

 莉子が息を飲んだ。

「だいじようぶだよ」

 孝太郎が、落ち着かせるように莉子の手を握った。栄一郎は落ち着いていた。義足も今度はしっかり足に合っているとみえて、階段を上る膝や足首に震えは見られなかった。みんなが息をつめて見守るなか、栄一郎は無事に階段を上り終えた。

「涼ちゃん。おじいちゃんがくるよ。おじいちゃんが、かいだんをのぼってくるよ」

 雅巳が、ドアを小さなこぶしで何度も叩いていた。二階ホールまでたどりついた栄一郎は、慌てることなく廊下を進んで涼の部屋の前まで行った。

「涼。お父さんだ」

 雅巳の頭に手を置いて、栄一郎はドアの前に立った。ドアの向こうは沈黙していた。

「したいことって、これだったんだ」

 その様子をみていた莉子は、栄一郎が義足で歩けるようになったら、したいことがあるといっていたことを思い出した。

「なんのこと」

 孝太郎がきいてくる。

「おとうさんは、義足を作り直したら、したいことがあるっていっていたんです。わたしは、てっきり、今までできなかったことをするつもりでいるんだとおもっていたんですけど、そうじゃなかった。涼のところに自分の足で歩いていくことだったんです」

 莉子の手を握る孝太郎の手に力がこもった。温かくて大きな手だった。固唾を呑んでみんなが見守るなか、涼の部屋のドアがためらうように開いていった。

「涼ちゃん。きょうはね。ごちそうなんだよ。けーきもあるよ。パパがかってきたんだよ」

 雅巳が大きくドアを開けて涼の腰に飛びついた。涼は呆然と栄一郎を見つめていた。栄一郎の左足をまじまじと見る。栄一郎はズボンの裾を上げて見せた。

「新しいのをつくったんだよ。彩華のときには怖いおもいをしたからな。雅巳の運動会にも行きたいしな」

 涼は言葉が出ないようだった。瞬きもせず栄一郎を見つめている。そして、栄一郎の後ろに、彩華、波子、少し離れたところに手をつなぎあった孝太郎と莉子がいることに気がついた。

「今夜は試験に受かったお祝いだ。下におりてこい」

 栄一郎にいわれて、涼は瞬きした。波子が視界に入った。涼の眉間に皺がよった。莉子は涼の感情の変化に反応して前に出ようとした。涼が波子を憎んでいるのを知っていたからだ。だが、莉子より雅巳のほうが早かった。

「涼ちゃん。はやく。はやく」

 涼の腰を、力いっぱい押して部屋から押し出してくる。そのまま雅巳に手を引っ張られて、廊下に出ていた。

「よく頑張ったな。焦らなくていいからな。涼」

 そう声をかけて、栄一郎は廊下を歩いてゆっくり階段を下りていった。魔法が解けたように、いっせいにみんなは動き出した。

「涼ちゃん! 一人でご飯を食べるのは卒業だよ!」

 彩華が元気な声を張り上げれば、雅巳も「ケーキ。ケーキ」と踊りだす。みんなに取り囲まれて、なにがなんだかわからないうちに、涼はダイニングのテーブルにつかされていた。

「彩華。ビールをもう一本持ってきなさい」

 栄一郎にいわれて、彩華は冷蔵庫に飛んでいった。何年ぶりかで家族全員が揃った食卓は、大きな声と笑い声が絶えなかった。

 莉子が谷村家に来た当時に感じた不幸の臭いは、笑いさざめく人々の声が消し去っていた。みんなが涼に、これも食べろ、あれも食べろと世話を焼いている。涼はうるさそうだったが、嫌がってはいなかった。莉子は孝太郎に勧められるままビールを口にはこんで、彼らを眺めていた。

 わたしは、この家族に混じることはないだろうと、おもった。わたしは他人だ。他人は、いつかは去らねばならない。

 準哉という希望が消えたいま、莉子はどこに新たな希望を求めていいのかわからなかった。孝太郎はやさしくしてくれるが、それは同情だとおもっている。莉子は孝太郎が見合いを断ったことを知らなかったので、孝太郎には見合いの相手のように高学歴で資産家の娘が似合うとおもっていた。孝太郎の再婚がきまったら、この家を出て行こうとおもった。

莉子は、寂しい笑みをうかべて孝太郎がついでくれたビールを飲むのだった。




 涼は、家庭教師を終了して塾に通いだした。食事は下でみんなととるようになった。初めのころはぎこちなかったが、しだいに慣れて波子とも単語程度ではあるが会話するようになった。

 お歳暮のコマーシャルがテレビで流れ出すと、波子は、お歳暮の送り先に送る品物を書き込んだ手帳を持ってデパートに出かけていった。お歳暮コーナーで大量のお歳暮を送ってきた波子は、それだけで疲れてしまったようで、帰ってくると自分の部屋で昼寝してしまった。

 幼稚園から帰ってきた雅巳は、近所の翔君のマンションに遊びに行っている。彩華は学校から帰ってきていないし、涼は部屋で勉強していた。栄一郎は会社のセキュリティーに関しての報告があるとかで出勤しているし、出張に行っている孝太郎の帰りは遅くなるようだった。

 インターホンがなったので玄関に出てみると郵便局員だった。莉子宛の現金書留だったので判を押して受け取り、裏を返してみたら準哉からだった。

 時刻は四時を少し回ったくらいで、そろそろ夕飯のしたくに取り掛かろうとするところだった。

 キッチンに行って、鋏で封を切った。中には新札で五十万円入っていた。莉子はさっと青ざめた。便箋が一枚同封されていた。

『彼女と結婚します。金は、必ず返します。今回は五十万円入れておきました。来年の年末に、また送ります。長いあいだ借りっぱなしにしてすみませんでした。太田準哉』

 太田準哉という姓名を、莉子は長いあいだ見つめた。いつも準哉とよんでいたから、準哉の姓を忘れていた。彼は、太田、準哉。

 苦しくて自分の胸を叩いていた。息をするのを忘れていた。むさぼるように呼吸して肩を喘がせた。手紙の内容がよく理解できなかった。

 彼女と結婚する?

 準哉が?

 借りた金は返す?

 なにをいっているのだ。金を貸した覚えはない。貸したのではなく、尽くしたのだ。気持ちを尽くしただけだ。

 結婚する?

 そんなばかな! 準哉がほかの誰かと結婚するなんて!

 莉子は錯乱した。心臓に刃物を突き刺されたような痛みがはしった。体が震えてくる。準哉が結婚。結婚するなんて。

 自分よりも大切におもっていた人が、自分以外の人のものになる。そのことに莉子は耐えられなかった。激しい怒りがじわじわと湧き上がってきた。莉子から準哉を奪っていった女のところに行って、髪を掴んで殴りかかってやろうかとおもった。

 夏の盛りに、真っ白な日傘を準哉にさしかけて微笑みあっていた姿がよみがえった。準哉のマンションを訪れたときに見た玄関の華奢な白いハイヒール。およそ莉子とはちがう優しげな女らしさが、彼女の持ち物や身につけるものからうかがえた。莉子もまねをしてみた。準哉が、そういう女性を望むのならと白い日傘を買った。白いパンプスも履いてみた。スカートをはいて、口紅をさして、準哉がプレゼントしてくれたピンクのブラウスを着て、ドキドキしながら準哉との待ち合わせ場所に向かったのに、準哉からかえってきたのは、「金は返すよ」という言葉だった。

 傷ついて、苦しんで、やっと孝太郎のおかげで立ち直ってきたというのに、なんとひどいことをするのだろう。

「あんまりだよ、準哉」

 よろよろと廊下に出て階段に向かった。金が入った封筒を握り締めて、もう片方で手すりを掴み、はいずるように二階に行った。むくむくと、準哉への憎しみが生まれてきた。 こんなに尽くしたのに!

 爪の先が磨り減るほど働いて、伊坂の妻や息子達から、金の亡者と蔑まれ、陰口に耐えてきたのは、未来に準哉と歩む人生の希望を見ていたからだ。

 わたしの一人相撲だったんだ。わたしが振り込むお金を受け入れていただけで、ほんとうは、わたしのことは必要なかったのだ。

 そのことに思い至ったとき、怒りや嫉妬や憎しみが跡形もなく引いていき、無気力だけが残った。

 わたしは、結局、だれからも必要とされない、ゴミのような人間だったのだ。

 自分の部屋へは行かず、孝太郎の部屋に入った。男性の部屋らしく簡素で装飾品のない部屋にあるドールハウスが華やかだった。

 莉子はしゃがみこんでドールハウスを長いこと眺めた。そして孝太郎の机の前に座って、何かを探すように視線をさまよわせた。机の引き出しを順番に開けていく。カッターは二番目の引き出しに入っていた。空ろな表情のまま、カッターを掴んで刃を出した。右手は金の入った封筒を握り締めていた。邪魔なので封筒を置こうとしたが、白く強張っている指は固まって開かなかった。しかたがないので、左手でカッターを掴み、封筒を握っている右手首の上で一気にカッターを引いていた。

 痛いというより熱かった。みるみる血があふれてきて滴り落ちた。机に身を伏せて目を閉じた。意識が遠のいていった。


 出張先の仕事が予定より早くすんで、孝太郎は夜の九時過ぎには家に帰ることができた。波子が待っていて、夕飯を食べそびれた孝太郎に夜食を出してくれた。

「伊坂さんに夜食を用意しておくようにメールしておいたんですけどね」

 箸を使いながら孝太郎がいうと、波子が浮かない顔をした。

「莉子さんたら、お夕飯のしたくもしないでどこかに行っちゃったんですよ。部屋を覗いてもいないし、携帯に電話しても出ないし、どうしたんだろうとおもっていたら、あの人、携帯を自分の部屋に置きっぱなしにして出ちゃったみたいで」

「連絡はないんですか」

「ないのよ。出かけるなら出かけると言ってくれなきゃ困るわ。ほんとうにかってなんだから」

「どうしたんだろうな」

 ごちそうさま、と箸を置いて、孝太郎は二階に行った。ネクタイを揺るめながらドアをあけて孝太郎はぎょっとした。セットした時間に照明がつくようになっている室内で、莉子が机に突っ伏していた。

 両手は机の下に垂れ下がっていて、左手の下にはカッターナイフが落ちており、右手側には血で汚れた現金書留の封筒が落ちていた。床に溜まったわずかな血溜まりは乾いて固まっていた。

 青白い顔をのぞくと、失神しているようにも眠っているようにも見えた。首の頚動脈を押さえてみたら脈はしっかりしていた。右手首の傷は浅く、すでに凝血している。

 室内は冷え切っていて、莉子の体は冷たくなっていた。慌ててエアコンの暖房をいれ、ベッドの羽毛布団をまくって莉子をベッドに寝かせようとした。

「莉子。しっかりしろ」

 声をかけたら、莉子は孝太郎の腕の中でぼんやりと目をあけた。

「あ。孝太郎さんだ」

 莉子はうっすらと笑みをうかべた。

「手首を切ったのか」

 叱責するような厳しい声に、莉子は無言で頷いた。

「どうして」

 莉子の目が泳いだ。

「なんとなく。もう、どうでもいいやとおもって」

「なにがあったんだ」

 揺すられて、莉子は痛そうに顔を歪めた。体は冷え切っており、何時間も同じ姿勢でいたために体の節々が痛かった。切った手首の痛さもよみがえってきた。莉子は孝太郎から逃げるように身をくねらせた。しかし、孝太郎は強い力で莉子を放さなかった。

 莉子が、血がついた封筒を床から拾おうとするので、孝太郎が先にその封筒を取った。札束がのぞいていた。

「この金はどうしたんだ」

「それは……」

 口を濁して孝太郎から封筒を奪おうとする。その拍子に便箋がひらりと孝太郎の胸元に落ちた。便箋に目を走らせた孝太郎は、険しい表情に変わった。

「説明しなさい。この文面はどういうことなんだ。これを読んで、きみは手首を切ったのだろう」

 厳しい表情で睨まれて、莉子は慄いた。孝太郎の澄んだ目は、莉子に嘘を許さなかった。

「準哉が、準哉に、でも、貸したわけじゃなくて、わたしは、好きだったから、だけど、準哉は、ほかの人と結婚するって、わたしは、悲しくて、悔しくて、もう、どうでもいいかなって、どうでもいやとおもって、わたしなんか、ゴミだから、ゴミなんだよ、わたし。だから、捨てられたんだ」

 意味のつながらないことを口走っているうちに感情がぶり返してきて涙があふれていた。

「おちついて、順番に話してごらん。準哉というのは、だれなんだ」

「準哉は、施設で一緒に育った人。同じ歳の子。頭が良くて優しくて気が弱くて、大好きだった。高校の卒業式に、わたし、竹刀を持って、伊坂の親父の会社に乗り込んだんです。十八年間、わたしの存在を知りながら、施設に入れっぱなしにしていた卑怯な親父を脅して、金を要求したんです。準哉を大学に行かせてやりたかったから」

 ぼろぼろ涙をこぼしながら、つっかえつっかえ話す莉子は、子供のように頼りなかった。

孝太郎は、声に出さずにうめき声を上げた。竹刀一本もって丸の内の巨大ビルに乗り込んだ莉子の話は栄一郎から聞かされていた。しかし、莉子本人の口から語られると、まるで映画のようだとおもった。卒業という、社会に出て行く門出の日に、十八歳の少女は、好きな少年のために、たった一人で自分を捨てた父親に戦いを挑んだのだ。

「伊坂の家に入るのは、ほんとうは嫌だった。嫌だけど、伊坂の家に住めば、アパート代が浮いたし、食事代もかからなかった。親父からもらう高額な小遣いと、手当たりしだい働いた給料で、準哉のアパート代と生活費がまかなえたんです。だから、辛かったけど、我慢した。準哉が大学を出て就職するまでの辛抱だとおもったから」

 準哉は頭がいいんですよと、莉子は笑みをうかべて誇らしげに続けた。

「特待生で、学費がただだったんです。そして、都庁に就職したんです。わたしね、谷村の家に働きにきたのもね、都庁に近かったからなの。準哉が働く場所に近かったから」

「そんなに、好きだったのか!」

 搾り出すような声で孝太郎は莉子を見つめた。

「いつか言ってくれると思っていた。莉子、一緒に暮らそうよ、ってね。それだけを楽しみに、頑張ってきたんだけど……だめだったみたい」

「莉子」

「わたしが、わるかったのかもしれない。わたしだけが、好きだったのかもしれない。準哉は、金で縛られているとおもっていたみたいだった。もしかしたら、わたしのことを、心の底では憎んでいたのかもしれない」

 そうかもしれないと、孝太郎はおもった。男なら、女から援助されている自分を情けなくおもう気持ちはあっただろう。幼なじみで、ともに喜びと悲しみを分け合ったもの同士、複雑な感情が絡み合って、やがて金銭の援助を受けているふがいなさが、莉子への反発に変化したとしても不思議ではなかった。しかし、そんなことはいわずに、孝太郎は莉子の話しに耳を傾けた。

「孝太郎さん。お願いがあります」

「言ってごらん」

「このお金を、準哉に返してきてくれませんか。お金は返さなくていいと。そんなつもりでしたんじゃないと。してあげたかったわたしの気持ちとおもって、忘れてくれと、準哉に伝えてください」

「わかった。携帯は?」

「今でなくていいですよ。出張から帰ったばかりで、疲れているでしょう」

 手首を切って死のうとした自分より、孝太郎のことを気づかう莉子を、強く抱きしめていた。

「僕のことはいいんだ。携帯はどこなんだ」

「わたしの部屋に」

 莉子を抱き上げて、ベッドに移した。布団をかけて、横になっているようにといって莉子の部屋に行った。ベッドの片側で、莉子を待つ雅巳がぐっすり眠っていた。我が子の髪をそっとなでてから、ドレッサーの上の携帯を取って洗面所に寄り、消毒薬と軟膏と包帯を取って部屋に戻った。手早く傷の手当をする。消毒液で傷を流してみると、皮膚は切れているが筋肉まではいっておらず、手首というより手首寄りの内腕だったのが幸いした。

「彼のところに電話しなさい。つながったら替わってくれ」

 薬を塗って包帯を巻きながらいった。莉子は孝太郎を見つめてから携帯を操作した。数コールめで出たらしく、すぐ孝太郎に携帯電話を差し出してくる。莉子は準哉の声を聞くのも辛かった。

『もしもし。莉子? 僕だよ』

 孝太郎の耳に、低くて甘い男の声が伝わってきた。孝太郎は返事をしなかった。相手が話しだした。

『ごめんね。莉子』

 囁くような男の声に、突然孝太郎は、激しい嫉妬を覚えた。

『ごめん莉子。おもいきって、僕が施設育ちだということを彼女に打ち明けたんだ。そしたらね』

 男が、すすり泣くような息遣いをした。孝太郎は、身震いした。こんな声を耳元で聞かされたのでは、莉子のような寂しい育ち方をした娘は、盲目になってしまうだろうとおもった。

「話の途中ですが、私は谷村孝太郎といいます」

 硬い声で電話に向かっていうと相手は息を飲んだ。

『え。莉子じゃないんですか』

「これからおめにかかれませんか。お話があります」

『あなたがですか。それとも、莉子に頼まれたんですか』

「ええ。莉子さんの代理としてお会いしたいんです」

『莉子にかわってください』

「彼女に頼まれたので、あなたが送ってきた金を返しに行きます」

『莉子にかわってくれ』

「いやです」

『……わかりました。会いましょう』

「これから車であなたのお住まいに伺います」

 準哉のマンションまでの行き方をきいて孝太郎は電話を切った。喧嘩越しの孝太郎に不安を覚えた莉子は、自分も行くといったが、孝太郎は許さなかった。

「ここで待っていなさい。車で行けば一時間で帰ってこられる。いいですね。休んでいるんですよ」

 言い置いて、車のキーを掴んで孝太郎は階段を駆け下りていった。


 準哉のマンションの前に車を置いて、孝太郎はエレベーターで教えられた階に昇った。ドアの前でチャイムを押す前に、孝太郎は乱れた髪をかきあげた。緩んだネクタイも整える。背広のボタンもとめた。身なりに隙があってはいけないとおもった。これから会う相手に、使いとしてやって来た自分が、隙のない人間であることをみせなければならないとおもった。

 チャイムを押したら、待っていたように人の気配がしてドアが開いた。華奢できれいな男だった。莉子は、こういう男が好きなのかとおもった。相手の男も、目を見開いて孝太郎をみていた。

「あなたが、莉子がいっていたひとですか。どうぞ。入ってください」

 ドアを大きく開いた。孝太郎は軽く会釈して玄関に入った。

「どうぞ」と、準哉はスリッパをそろえて出したが、孝太郎はその場から動かなかった。

「ここでけっこうです。すぐに帰ります」

「そうですか」

 準哉も無理には勧めなかった。

「先ほど電話で話した谷村孝太郎です。太田準哉さんですね」

「はい」

「伊坂さんから、これをあずかってきました。お返しするそうです」

 背広の内ポケットから現金が入った封筒をさしだすと、準哉は怒ったように顔を赤くした。

「莉子はなんて言っていました」

「金は返さなくていいと。してあげたかったからしただけなので、忘れてくれといっていました」

「そういうわけにはいきませんよ。借りた金は返しますよ」

「あなたは、彼女に、金を貸してくれといって借りたのですか」

「そんなこといいませんよ。莉子が勝手にやったんです。莉子が僕を大学に行かせてやるといって、勝手に金を用意して、アパートを借りてくれて、通帳に毎月金を振り込んでくれたんです。僕が頼んだわけじゃないですよ。でも、大学を出られたのは莉子のおかげですから、金を返すといっているんです」

「返せばあなたは気が楽になりますからね。でも彼女は受け取りませんよ。絶対に受け取らないとおもいます。受け取ったら、いままでのきれいなものが、無残に汚れてしまうからです」

「無残に汚れるって、なんですか、それ。莉子にそんな感傷はありませんよ。男みたいに無神経で乱暴なんだから」

 さっと孝太郎の顔色が変わった。

「あなたを一発殴ります」

「殴る? そうか! 莉子がそう言ったんだな。僕が結婚するのがおもしろくなくて、金を返すついでに殴ってこいと言ったんでしょ。そういうやつなんだよ莉子は」

「殴るのは私の意志です。どうしても、あなたに我慢できない。失礼します」

 準哉が身構える暇もなく、孝太郎の平手が準哉の頬に打ち下ろされていた。大きな音がした。男の力で手加減無しに叩かれて、準哉は廊下に吹っ飛んだ。唇の端が切れて頬が真っ赤になった。準哉は尻餅をついたまま、呆然と孝太郎を見上げていた。孝太郎は、預かってきた封筒を、廊下の床にそっと置いた。

「金は、ほんとうに返さなくてもいいんです。なにもかも、なかったこととして忘れてください。彼女のことも、金のことも、みんな忘れてください。それが私と彼女の望みです」

 一礼して孝太郎は準哉のマンションをあとにした。

 しばらくして、廊下に置かれた封筒を手に取った準哉は、封筒がべっとりと血で汚れていることに気がついた。血は乾いていて、中の札も汚れていた。準哉は床にへたり込んだ。

「そんな、まさか……。ごめん。ごめんね。莉子」

 準哉は、声を放って泣き崩れた。


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