第十六話
いつのまにか季節は秋に移っていた。広い庭を取り囲んでいるモチノキの大木は、うす緑色の実をたわわにつけて、冷たさの混じる風にそよいでいた。冬になれば真っ赤に色づいて野鳥の餌になる実も今はまだ若く、厚い葉を茂らせ続ける太い枝は、塀を越えて外の歩道にまで影を落としていた。冬になったら、栄一郎に許可をもらって、植木屋に枝を払ってもらおうとおもった。栄一郎はだめだとはいわないだろう。そんなことを考えながら、莉子は裏庭の赤松のブランコに揺られていた。
洗濯物が入った大きなバスケットが二つ、物干し場の竿の下に放り出されたままになっている。気持ちのよい青空が広がっているのに、何もする気がおきなくて、莉子は背中を丸めてブランコを揺らしていた。
一ヶ月前、雅巳がアレルギーショックで病院に運ばれたが、その後何事もなく元気にしていた。
美里耶は二週間ほど日本に滞在して用事をすませ、アメリカに帰って行った。孝太郎とのあいだにどのような話し合いがあったのかは知らないが、雅巳はいままでどおり谷村家の廊下を靴下で滑って波子に叱られていた。
雅巳はママに会いたいといわなくなった。会いたいのかもしれないが、病院に駆けつけた莉子が、美里耶を激しく責めたので、子供心に、ママに会いたいといいづらくなったのかもしれなかった。
あのとき、なぜわたしは孝太郎さんに「たすけてください」などといってしまったのだろう。なぜ孝太郎さんに縋りついてしまったのだろう。孝太郎さんだったら、助けてくれるとおもったのだろうか。わからない。莉子は重い心を持て余してため息をついた。
なにもかも憂鬱だった。雅巳が美里耶の話をしないことも、孝太郎に縋ったことも、波子の口うるささも、彩華の我がままも、涼が心を塞ぐ原因の一つだったかもしれない吃音と波子の関係も。そして、孝太郎の見合いが進んでいることも、全部憂鬱でしかたがなかった。
ブランコをおりて、ようやく洗濯物を干し始めた。濡れた衣類をパンとはたいて角ハンガーに吊るしていく。上を向いて太陽の光を浴びると目にしみて涙が滲んでくる。寝られない日が続いていた。
起きているときも、寝ているときも、準哉が投げつけた言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。胸の中では苦しさが渦巻いていた。息を吐き出すと、息と一緒に心臓のかけらと血のしたたりが飛び出しそうだった。だからなるべく吐く息を細くした。声も出さず、息さえ殺して、なんとか莉子は生きていた。
洗濯を干し終えてから車庫に入って、車庫の中のごみを掃きだし、使い込んだ自転車を引っ張り出した。
道具箱から布切れとワックスを取り、自転車の手入れをした。孝太郎が、ときどきこの自転車を磨いてくれていたのは知っていた。ところどころさびが浮いて傷も目立つ自転車だったが、長年乗っていたので愛着があった。
この自転車に乗って、いろいろな仕事場に出かけていった。ずいぶんたくさんの仕事をしたとおもう。少しでも時給がいいところを見つけると、そこに移った。伊坂の実父から、けっこうな金を毎月もらっていたのに、時には二つも仕事を掛け持ちして金を稼いでいた。 そんな莉子を、伊坂の妻と息子達は白い目で見ていた。金の亡者と蔭でいわれていたのも知っていた。自分でもそうおもう。浅ましい。しかし、莉子には夢があった。準哉を幸せにすること。結婚して、一緒に暮らして、二人して、幸せになること。
そのための苦労など、苦労のうちには入らない。夢が、光の道しるべとなって莉子を導いていた。その道を、力いっぱい走り続けた。つい、ひと月前までは。
涙が頬を伝わった。こぶしで拭って自転車にまたがった。そのまま庭を自転車で走った。屋敷の周りを何週かして芝生の庭にタイヤを向けた。寒くなれば枯れてしまうが、まだ芝生は勢いを残していた。その芝生の上を莉子は自転車で走り回った。風が顔にかかるように上を向けて走った。涙が乾くように、こぼれることのないように。
リビングの観葉植物の鉢植えに水をやっていた波子は、芝生の庭を自転車でまわり続けている莉子に気がついて手を止めた。
莉子の様子がおかしいことに、波子はとっくに気づいていた。波子だけではなく、栄一郎も、彩華も、涼も、幼い雅巳でさえ、莉子の様子をそ知らぬ顔で窺っていた。孝太郎だけがいつもと変わらなかった。たんたんと会社に行き、仕事をこなし、付き合いで帰りが遅くなり、休みの日は仕事関係のゴルフでつぶれ、たまに家にいる日は雅巳に纏わりつかれるという日を過ごしていた。
ある日、波子は孝太郎に莉子のことを訊ねてみた。
「失恋したみたいですよ」と、なんでもないことのように孝太郎はいっていたが、波子は不安だった。
「失恋。でも、それにしたって」
「こればかりは、本人が立ち直るのを待つしかないでしょう」
「それはそうだけど」
そんな会話を交わしたのだが、そのとき波子は孝太郎の態度を妙によそよそしく感じた。
「そういえば」と、水やりの続きにもどって呟いた。孝太郎の見合いの話しは進んでいるのだろうか。
栄一郎のてまえ、会う前からことわるわけにも行かないので、ホテルで一席を設けたのだが、乗り気ではなかった孝太郎に反して、相手のほうは孝太郎を気に入ったようだった。
「孝ちゃんが再婚したら、莉子さんには辞めてもらわなければならないわね」
「それとも、孝ちゃんが雅巳を連れて家を出ることになるのかしら」と、波子は首をかしげた。うちのような大家族と同居を望む嫁などいないかと思い直して、そうなったらなったで寂しくなると思った。孝太郎と雅巳の幸せを考えるのなら、再婚が望ましいのだが、いまの状態が心地よいと、波子は、芝生の庭に目を戻した。
莉子が庭の真ん中で、大の字になって寝ころんでいた。そばには自転車が横倒しに倒れている。波子は、莉子の色が褪めたジャージの上下に顔をしかめた。やはりあのジャージはいけない。お客様が見えたとき、ジャージ姿でお茶を運んでこられたときには恥ずかしくて冷や汗が出た。あんな格好でいるような娘だから、ふられるのだとおもった。波子は首をふりふりキッチンに行って、水差しを棚に戻した。孝太郎が、家人に内緒で莉子をデートに誘ったのは、波子がそんなことを考えていた夜だった。
寝巻きに着替えて、眠っている雅巳の横にもぐりこもうとしたとき、サイドテーブルの上の携帯電話が鳴った。雅巳が起きてしまわないように急いで電話をとった。孝太郎からだった。
『こんな時間にすみません。もしかして、寝ていましたか』
「いいえ。だいじょうぶです」
『雅巳は眠っていますか』
「はい。ぐっすりです」
『そうですか』
莉子は電話から聞こえてくる孝太郎の声に耳を澄ませた。夜中の電話は、明るいときに聞く声と違って密やかだった。相手の息遣いさえ鼓膜に滑り込んできた。
いま孝太郎は、自分の部屋から電話していた。無音の部屋で、莉子と同じように、莉子の息遣いを感じているのかもしれなかった。
『こんどの日曜日に、出かけてみませんか』
「孝太郎さんとですか」
『ええ』
「雅巳も一緒に?」
『二人だけで』
「二人だけで」
つかのま会話が途切れた。莉子の反応を窺っているような空気だった。
『気晴らしに、海を見に行きませんか』
「海ですか」
『山でもいいですよ。箱根にでも行って、日帰り温泉してきますか。大涌谷の黒卵は、一つ食べると寿命が七年延びるそうですよ』
「あの……どうして」
『あなたが元気がないのを、みんな気にしています。気晴らしに、行きましょう』
「…………」
孝太郎にしては強引な誘い方だとおもった。孝太郎のような男性は、誘ってことわられたら、スマートに引き下がるタイプだとおもっていた。
『僕とでは、いやですか』
「いやだなんて」
『では、行きましょう』
莉子は押し切られた。
「でも、なにを着ていけばいいか……」
『いつもの普段着でいいですよ。あ、でも、ジャージは遠慮してください。僕はポロシャツにジーンズをはいていきます。そんな感じでどうですか』
思わず莉子は失笑した。よほどジャージは評判が悪いらしかった。孝太郎の心遣いもうれしかった。莉子にあわせて、ラフな服装にしてくれるという。
「ありがとうございます。日曜日ですね」
『家のものには内緒ですよ。とくに雅巳には気をつけてください。ぼくも行くと駄々をこねられたら、子供連れの遠足になってしまいますからね』
そんな冗談をいって孝太郎は莉子を笑わせた。
日曜日は雲ひとつない青空だった。穿き慣れたジーンズにTシャツを着てデニムジャケットを上から着た莉子は、ショルダーバッグを肩にかけて家を出た。バス停で待っていれば、あとから家を出た孝太郎が車で迎えに来てくれることになっていた。
孝太郎は、電話でいっていたようにポロシャツにジーンズ姿で髪も整えておらず、しぜんに髪を下ろしたままのカジュアルさだった。
「なんだか、どきどきしませんか」
莉子を助手席に乗せて車をスタートさせながら、孝太郎がそんなことをいって笑った。
「そうですね。嘘をついて出てきたんですからね」
莉子も薄く笑った。孝太郎の気遣いに感謝して出てきたが、心は弾んでいなかった。なにを見てもおもしろくないし、なにを聞いても楽しくなかった。重い気持ちから抜け出せなくて、突然悲しくなって泣いてしまう自分に困り果てていた。
みんな、どうやって失恋の痛手から立ち直っていくのだろう。いや、そうではなく、わたしはもともと恋愛していたのだろうかとおもった。
準哉は莉子の気持ちに気づいていた。気づいていながら、知らないふりをしていた。そして、莉子の好意に対して、苦しいといった。
ああ、と苦いため息が漏れた。わかっていて、わたしの好意を利用したのだ。十年間も。
「どこか、行きたいところはありますか」
莉子の屈託を追いやるように、孝太郎が明るくいった。
「とくには」
「では、少し遠出をしますか」
「遠くにいくのは嫌だな。疲れるし」
「では、深大寺植物園にでも行きましょうか。あそこなら駐車場はあるし、深大寺にお参りして蕎麦でも食べて、植物園をゆっくり散歩しましょう。いまはコスモスとバラが見ごろですよ」
孝太郎は楽しそうにハンドルをきった。
「伊坂さんは、いままで、してみたかったこととか、欲しくても手に入らなかったものなんて、あるんですか」
調布に向けて走りながら、孝太郎はそんなことを訊いてきた。なんと愚かな質問だろう。してみたくてもできなかったことばかりだし、欲しくても手に入らなかったものばかりだ。
「なんですか、それ。孝太郎さんみたいに、何でも手に入る環境じゃなかったですからね」
「僕だって同じですよ。人はそれぞれ、求めるものが違うんです。ある人にとっては無価値なものでも、別の人にとっては大切なものであったりするんです。僕の場合は、母が八歳のときに病死していますのでね。母が恋しかったですよ」
わたしだってそうだ。でも、それが何だというのだ。わたしには父親だっていなかった。
急に悔しくなって窓の外に顔を向けた。
「孝太郎さんに同情はしませんよ。孝太郎さんはわたしより、ずっと恵まれているんだから」
「父は仕事に忙しくて、僕はいつもひとりぼっちでした」
「波子がいたじゃないですか」
「叔母さんは子供の育て方なんか知らないから、怖かったな」
「わたしは今でも波子が怖いですよ」
「冗談でしょ」
孝太郎が吹きだした。莉子も少し笑った。
「僕が十三歳のときに父が再婚したんです。そして涼と彩華が生まれた。叔母さんは居心地が悪そうだった。自分が生まれて育った家なのに、父に新しい奥さんがきたら、邪魔にされると恐れたのかもしれない。でも、父は独身の叔母さんのことを心配して家から出さなかったんです。波子が生まれて育った家なのだから、大きな顔をしていろといってね」
車は信号で止まった。街は人と車のざわめきに満ちて活気付いていた。ビルを彩る色彩と通りの喧騒が、車の中まで飛び込んでくるようだった。信号が青に変わったので、また車は走り出した。
「僕が欲しいとおもうものは、父の左足なんです」
「おとうさんの?」
「ええ。あの事故さえなかったらと、今でもおもいますよ」
「なかったら、どうなっていたんですか」
「涼と彩華の母親は家を出て行かなかったし、僕も離婚しなかったでしょう」
莉子は眉をひそめた。
「なにもかも栄一郎さんの事故のせいだというんですか。栄一郎さんを恨んでいるんですか」
「恨んでなんかいませんよ。不和の種は長い時間をかけて土の中で芽を出し、育っていたんです。それが事故をきっかけに一気に土を破って地上に飛び出してきたんでしょうね」
「抽象的で、よくわからないな」
車の窓に顔を寄せて、流れる景色を眺めた。孝太郎の話しに関心がないわけではなかったが、谷村家の家族の歴史を聞かされても興味はなかった。見慣れた高層ビルが林立している谷間の道を、孝太郎は縫うように車を走らせた。太陽がビルの窓の鏡面に反射して眩しい光の粉を降らせていた。
「伊坂さんにも、何かあるでしょ。本当にほしいもの」
車は新宿パークタワーの前を通り過ぎた。三本並んだ氷の柱のようなビルは、光を跳ね返して輝いていた。
「ええ。わたしにもありましたよ」
「それはなんですか」
「ピアノです。グランドピアノ」
「ピアノか。縦型でよかったら、彩華の部屋にありますよ。使わせてもらえばいいですよ」
「わたしが欲しかったのは、おもちゃの小さいピアノです」
「なんだ。おもちゃか」
「子供のころ、美幸ちゃんのお父さんが、美幸ちゃんの誕生日にピアノを持ってきてくれたんです。美幸ちゃんというのは、わたしが育った施設の子です。うらやましくて、美幸ちゃんに弾かせてってお願いしたんだけど、弾かせてくれなかった。悔しくて、わたし、そのピアノを地面に叩きつけて壊したんです。美幸ちゃんが怒って取っ組み合いのケンカになって、園長先生や養護の先生からもすごく叱られて、悲しかったな。誕生日のプレゼントなんか、もらったことはないもの。園では、その月に生まれた子のお誕生会をまとめてしてくれるんですけど、でも、やっぱり……」
準哉と二人で、隠れてお誕生会をしたっけと、莉子は遠い目をした。施設からは、毎月お小遣いが支給されるが、金額は微々たるもので、満足にお菓子を買うこともできなかった。誕生日になると、ためた小遣いでショートケーキを一つ買って、ロウソクをサービスにつけてもらって、準哉と二人で隠れて互いの誕生日を祝ったものだった。
準哉は、そういう思い出のひとつひとつが惨めで嫌だったのだろう。思い出したくないのだろう。しかし、莉子にとっては、どんなにせつなくても、準哉とつながる思い出なら宝物だった。
中央高速に乗って調布インターで降りて深大寺植物園に行くつもりでいた孝太郎は、西新宿JCTのてまえでコースを変えた。見慣れた街に戻ってきたことに気がついた莉子は、シートから身を乗り出して高層ビルを見渡した。
「あれ? 植物園に行くんじゃなかったんですか? 道、戻ってますよね」
「ピアノを買いに行きましょう」
「はああ?」
孝太郎は笑っていた。
「グランドピアノをプレゼントしましょう」
「はああ?」
銀座まで出て、有料駐車場に車を置いて孝太郎が連れて行ったのは、玩具専門店のビルだった。劇場やレストランもあるビルは、子供ばかりでなくおとなまで楽しめた。見るもの手に取るもののなにもかも目を引くものばかりで、莉子は夢中になった。
「ここにはよく来るんですか」
陳列している縫いぐるみを撫でながらきいてみると、孝太郎はたくさんの縫いぐるみのなかから、ワニやカエルの人形を指差した。
「あは。雅巳が持っているものばかりだ」
莉子が笑うと、孝太郎も笑った。ビルは親に連れられた子供たちで混みあっていた。若者のカップルもいるし、年配者もいる。色彩と音楽と造詣がごちゃ混ぜになったような楽しい世界を、孝太郎は莉子を導くようにして進んだ。
五歳くらいの少女が、おもちゃの楽器売り場で、ピアノを弾いて遊んでいた。気の向くままに白い鍵盤と黒い鍵盤を細い指で叩いている。騒々しい音が楽しいのか、少女は夢中だった。
「あなたも触ってみたら」
孝太郎が横で促した。莉子は首を横に振った。
「どうして。欲しかったんでしょう?」
莉子はまた首を振った。
「欲しかったのは子供のときです。いまはもう、欲しくない」
弱弱しい声だったが、孝太郎には聞こえたようだった。
「では、せっかく来たんだから、雅巳にお土産でも買って帰りましょうか」
「はい」
人に押されたりしながら、二人はぶらぶらと店内をめぐった。莉子の足が止まった。莉子の足を止めさせたのは、ドールハウスだった。幼稚園から小学生の年頃の少女達が身を屈めて覗き込んでいる。精巧に作られたドールや家具調度が、ミニチュアの家の中に納まっていて、童話の世界のようだった。
「こういうのが好きなの?」
やさしく訊ねられて、やはり莉子は首を横に振った。しかし、目を逸らせなかった。なんて暖かい家だろうとおもった。小さなテーブルには家族分の食器が並び、湯気が立っていそうなカップと皿が並んでいる。キッチではロングエプロンをかけたお母さんがご飯の支度をしていて、暖炉の前ではお父さんが幼い娘達に本を読んで聞かせている。二階には子供部屋と夫婦の寝室。温かそうなセピア色の壁や床。かわいらしいカーテン。夢に出てくるような幸せの家だとおもった。見ているだけで心が温かいものに包まれた。
「これが気に入ったの?」
「幸せそう」
「買ってあげるよ」
「えっ?」
聞きまちがいかとおもって孝太郎に振り向いた。孝太郎は笑っていた。
「あなたにもおもちゃを買ってあげよう」
「でも、これ、値段、高いし。それに、置くところがないし。部屋に置いたら雅巳がいじって駄目にしちゃいそうだし」
「僕の部屋に置けばいい。僕の部屋なら誰も入ってこないし、雅巳も叔母さんから勝手に入っちゃだめって言われているらしくて、入ってきませんよ」
「でも、まさか孝太郎さんの部屋に出入りするわけにはいきませんよ」
「かまいませんよ。僕のいないときに、ドールハウスで遊ぶのも、いい気晴らしになるでしょう」
「でも、これ、すげえ高いし。ハウスとキットがセットで二十五万もするし、買ってやるよ、ありがとう、のレベルじゃないよな」
孝太郎が笑いだした。「ちょっと待っていなさい」といって、店員を探す。配達したほうがいい大荷物になってしまったが、こっそり部屋に運び込むので車に積んで帰った。
その荷物は、夜中、みんなが寝静まってから、孝太郎と二人で車庫から運び入れた。孝太郎の部屋は荷物が少なくて片付いていたが、包装をほどいてハウスを置いてみると、けっこうな大きさだった。
孝太郎は、「これじゃあ、涼の部屋とおんなじだな」と笑っていた。床にじかに置かれたドールハウスは、莉子の腰のあたりまである大きさだった。店で見たときはそんなに大きいと思わなかったが、部屋に置くと場所取りで恐縮した。夜も遅いということで、キットの包装はそのままにして、その夜は終わった。
久しぶりに莉子はぐっすり眠った。その寝顔を孝太郎が見ることができたら、ドールハウスの出費は無駄ではなかったとおもったことだろう。
次の日から、密かに孝太郎の部屋でドールハウスを飾りつける日が続いた。波子や彩華、雅巳の目を盗んでの作業だったから長時間はいられなかったが、心弾むひと時だった。
木造建築の三階建てのハウスは、最上階が屋根裏部屋になっていて、子供たちの隠れ家のような雰囲気だった。三角屋根のところに両開きの白い窓枠の窓があって、そこに莉子は鉢植えの花を飾った。子供たちが遊ぶときのためにラグも敷いて、オママゴトのセットも置いた。
孝太郎は家に帰ってきて、ドールハウスを覗くのが楽しみになった。三角屋根の窓辺の鉢植えを見て、さっそく莉子にメールした。
――ハウスの屋根部屋に花を飾ったんですね。水をやるジョーロはありますか――。
時間は夜の十一時。寝ているだろうから、返事はあしただろうとおもってネクタイをはずしていたら、すぐに返事がかえってきた。
――お帰りなさい。ジョーロはありません。でも、コップがありますから、それで水をやります――。
――こんど買ってきてあげましょう。ほかに欲しいものはありますか――。
ネクタイをほどく手を止めて返信した。
――犬が飼いたいです。これも子供のころの夢でした――。
――雅巳も犬を欲しがったんですけど、叔母が反対しました。世話をするのは雅巳だけでたくさんだといってね。犬、買ってきましょうね――。
――ありがとう。ワンワンワン!――。
孝太郎はくすくす笑った。こうしてドールハウスは充実していき、孝太郎の机には莉子がつくった夜食が置かれるようになった。幼稚園児が食べるような小さなおにぎりが二つにたくあんが添えてあったり、卵焼きをはさんだサンドイッチだったり、どれも腹にたまらない少量だった。孝太郎の部屋に入ったことを知らせるための莉子の夜食作りだったが、孝太郎はそれも楽しみだった。
帰宅した孝太郎は、いつものように真っ先にドールハウスを覗いた。するとドールのお父さんが、庭ではちまきをして腕まくりし、爪楊枝に紙を貼り付けた手作りの旗を持って走る格好をしていた。ドールの娘達とお母さんが手を叩いて応援している。子犬がお父さんにじゃれついていた。旗には細かい字で何か書いてあった。
“来週の日曜日は雅巳の運動会です。パパ、今年は来てね!”と書いてあった。予定表を調べてみると、その日は見合いの相手と会う日だった。
「親父、もう寝たかな」
時間を確かめてから、着替えは後にして栄一郎の部屋に向かった。
「お父さん。起きていますか」
控えめにノックしたら、すぐに返事があった。
「孝太郎か。どうした」
「入りますよ」
栄一郎は食事用のテーブルで寝酒を飲んでいた。テーブルには洋酒やグラスのほかに見慣れないものが置かれていた。
「どうしたんです。それ」
テーブルの上の義足を指して孝太郎がきいた。
「うん。伊坂の娘がうるさくてな」
「なにがうるさいんです」
「そこのコップを持ってきなさい」と栄一郎がサイドボードを指さした。グラスを取って戻ると、ブランデーを注いでくれた。
「いや、それがな。今度の日曜日は雅巳の幼稚園の運動会なんだよ。いままでは波子が行っていたんだが、伊坂の娘がおじいちゃんも来なきゃだめだって、うるさくてな」
「ほう」
「車椅子だから、行けないといったら、長靴を履けと、こうだ」
「その義足のことですか」
「うむ。このところ、すっかり元気になって、元気になったらなったでうるさくてな」
思わず孝太郎の頬がゆるんだ。義足を手に取る。
「でも、これをつくってからずいぶんたちますから、もう足に合わないでしょ。作り直しますか」
「そうなるだろうな」
「つくりましょう。また、自分の足で歩きましょうよ。そのほうが、いまよりもっと働ける」
「おいおい。もっと働くのか」
「車椅子を、卒業してみませんか」
「伊坂の娘が来てから、どうも勝手が違っていけない。あれはわたしを少しも恐れない。愛想はないし、口は悪いし、ずけずけものを言う」
「でも、雅巳は懐いていますよ」
「彩華もだ。悪口ばかりいうくせに、伊坂の娘から離れない」
「ところで、見合いの件ですが、お父さんの顔を立てて一度は会いましたが、ことわってくれませんか。いい人ですが、まだ若いし、子連れとの再婚では気の毒です。あの方なら、もっといい人と恋愛しますよ」
「おまえは、結婚しないつもりか」
「そんなことはないですよ。見合いを断ってほしいだけです」
「だれか、おもう人がいるのか」
「いやあ、まだ、なんとも……」
「ふうん? まあいい。急ぐこともあるまい。見合いの話は断っておくよ」
「ありがとうございます。それと、雅巳の運動会には僕が行きますよ」
「そうか」
「あと、義足をつくる予定を組んでおきますから、気が変わらないうちに行きましょう」
「伊坂の娘とおまえから、せっつかれているみたいだな」
渋い顔で栄一郎は義足を取って足を入れた。やはり、車椅子ばかり使っていたので筋肉が落ちていて、新しくつくらなければならないようだった。
幼稚園の運動会は、前日が雨だったので気をもんだが、当日は朝から晴れわたって孝太郎はほっとした。雨のために順延になったら、次の代替日にこられるかわからなかったからだ。雅巳は孝太郎が運動会に来てくれるというので、朝から興奮状態だった。波子も安心したようで機嫌がよかった。運動会が始まる三十分前には、栄一郎を除いた全員が、莉子も含めて観覧席にいた。
彩華にしつこく誘われて、涼まで引っ張り出されていた。留守番になった栄一郎は、家でテレビを見ながら、本気で義足を新しくしようとおもっていた。来年の運動会には、一年成長した孫の元気な姿を見に行こうとおもった。
万国旗が青空に翻る下で、運動会が始まった。かけっこでは、雅巳は猛然と走ったが、走る姿ばかり大げさで五人中3着だった。お遊戯では女の子と手をつなぐのを嫌がって先生から無理やり手をつながされて踊っていた。いよいよ波子が愚痴をこぼしていた騎馬戦になった。孝太郎が勇んで出て行く。
「孝ちゃんは、お勉強もできたけど、スポーツもよくできたのよ。高校のときなんか、リレーの最終レースで五人抜きして一着になったのよ。すごかったんだから」
波子の声が弾んでいた。
「へええ。お兄さんにも高校生のときがあったんだ。わたしが知っているお兄さんは、最初からおとなだったから」
彩華は笑いながらそんなことをいった。涼がビデオカメラを構えたのをみて、去年もこんなふうだったらよかったのにと、波子はおもった。
去年は寂しい運動会だった。波子は必要に迫られて来たが、あとは誰も来なかった。雅巳がかわいそうだった。でも、今年はみんな見に来ている。留守番をしている兄さんでさえ来たそうにしていた。
波子は、ビデオカメラを回している涼を見つめた。こんなに背が伸びていたのだ。痩せてはいるが、もう子供の骨格ではない。顔つきも大人びてきて、十七歳という年齢を考えると、涼は自分の部屋から出ることなく、一人でおとなになっていたのだとおもった。波子の胸に痛みが走った。小さかった涼に、きつくしすぎたことを、いまさら後悔しても遅いが、涼はここに、こうしてわたし達と一緒にいるとおもった。それが、涙が出るほどうれしかった。
「お、いよいよはじまるぞ! 雅巳、がんばれよ」
莉子が恥ずかしいほどの大声で声援を送った。波子は顔をしかめたが、振り返った雅巳と孝太郎は笑っていた。
「孝ちゃんが笑っているわ」
思わず呟いていた。あんな笑顔は何年ぶりだろう。はつらつとした孝太郎の笑顔に、波子はまた涙ぐみそうになった。わたしが育てた子。泣き虫で、かわいかった。
独身のまま八歳の孝太郎を育てるはめになった波子は、どうやって育てていいのかもわからずに右往左往していた当時を思い出して胸がつまった。夢中だった。わたしも若かったから。
「孝太郎さん! 頑張って!」
また莉子が叫んだ。あまりの大声に周りから笑い声がおこった。波子は恥ずかしくなって莉子のデニムジャケットの裾を引っ張ったが、莉子はうるさそうにその手を払った。彩華と涼が目を見交わしてクスクス笑った。
騎馬戦は、馬になった人が園児を背負って、相手の帽子を取り合う競技だ。高校生あたりになると、かなり激しい攻防で観客を沸かせるが、幼稚園は幼い子を相手にするのでそういうわけにはいかない。父親がこれないところは母親が、あるいは祖父が馬になって園児を背負う。
「涼ちゃん。ビデオ、ちゃんと撮ってね」
彩華がビデオ係りの涼の背中を叩けば、「うるさいな」と言い返す。莉子は、孝太郎の背中にまたがった雅巳に声を張り上げた。
「雅巳。ガンガン行けよ。帽子を取られそうになったら、帽子をおさえて、隙を見て相手の帽子をむしりとれ」
雅巳を背負った孝太郎が振り向いて笑った。
「パパのせなか、おっきいね。わあ、叔母ちゃんとちがって、すごくたかいや」
背中で飛び跳ねる雅巳を落とさないようにしながら、ホイッスルと共に孝太郎は園庭の中央に出て行った。どの馬も、背中に乗せているのが幼児なので動きはゆっくりだ。孝太郎は身長が高いので、そのぶん雅巳も頭一つほかの園児たちより飛び出している。親達は笑いながら子供を乗せているが、子供たちは真剣だった。早くも帽子を取られてべそをかいている子供もいれば、雅巳のように善戦している子供もいる。
「雅巳、頑張れ!」
彩華と莉子が声を張り上げるなか、終了のホイッスルがなったときには、雅巳の手に二つの帽子が握られていた。鼻高々で防止を振って見せる雅巳に、莉子たちは大拍手をした。
涼がその様子をビデオにおさめた。
「ねえ、あの人……」
「ええ。谷村さんのところのお手伝いさんよ」
「送り迎えだけじゃなく、大きな顔して応援にまできているじゃない」
「ほんとうに家政婦なの。態度でかいし」
莉子の後ろで囁きあっているのは、幼稚園の送迎バスで一緒になる主婦達だった。振り向いて莉子がひと睨みすると、彼女達はすごすごと向こうに行ってしまった。
「ふん」
ふんぞり返って腰に手を当て、鼻から息を吐いた莉子に、「どうしたの。オヤジ」と、彩華が顔を向けた。
「なんでもない。うるさいババアたちがいるからさ」
彩華はまわりをキョロキョロした。
「ババアなんて、いっぱいいるよ。おじいちゃんも来てるし」
「ババアがなんですって」
波子が怖い声を出したので二人は黙った。涼は会話には加わらなかったが、今のこともビデオに撮っていた。
孝太郎が笑いながら戻ってきた。
「お疲れさまです」
莉子が声をかけると、孝太郎は頷いて横に並んだ。
「来てよかったよ。ありがとう」
「なんのことですか」
「運動会のことだよ。教えてくれたおかげで楽しかったよ」
「うん。雅巳もうれしそうだ」
莉子と孝太郎が交わす会話や眼差しを、涼はビデオカメラで丹念に映していた。
夜、涼は運動会で撮ったビデオを再生していた。波子はたしかに歳をとっていた。いつだったか、莉子が、いまでは涼のほうが波子より強いといったことがあった。波子はもう、涼に暴力はふるえない。なにかあったら、わたしが黙っちゃいないよ、と。
涼は顎をかみ締めて画面に映る映像を見つめた。
もともと吃音ではなかった。左利きだっただけだ。母の由香里は左利きを直そうとはしなかった。左のほうが使いやすいのなら、左を使えばいいという考え方だった。しかし、離婚して母がいなくなったら、波子が左利きを矯正しようとした。字も道具も、右利き用に出来ているのだから、右手を使いなさいといって、食事のときなど厳しく直され、そのたびに左手を叩かれた。
両親の離婚という心の傷に、波子の与えたストレスは深刻だった。波子に厳しく叱られるごとに涼は言葉を失っていった。舌が喉に絡んで痙攣したようになり、ついに吃音を発症した。学校でからかわれ、笑いものにされ、部屋から出なくなった。波子の顔をみたくなくてドアに鍵をかけた。
波子への怒りと憎しみは、いまだに心の奥でくすぶっている。一生許せないとおもう。しかし、映像を見つめる涼の中で、何かが起こっていた。
家の中に、自分を受け入れてくれる人ができた。この人だ、と、涼は莉子が幼稚園の送り迎えで一緒になる母親達を睨みつけて追い払った場面を見ていた。
この人は、人に嫌われることを厭わない。自分にとって邪魔だとおもう人間は追い払う。でも、この人は、おれのことを守ろうとしてくれた。
次に涼は、莉子の隣で笑っている孝太郎に目をとめた。騎馬戦を終えて戻ってきた孝太郎が、上気した顔で莉子に話しかけていた。
「兄さんは変わった」
この人が来てから、兄さんは、雅巳がいたことをおもいだした。この人がおもいださせたのだとおもった。そして兄さんは、雅巳だけでなく、彩華のこともおもいだし、おれの存在も思い出した。兄さんがおれ達をおもいだしたら、次に父さんも思い出したんだ。いままで、何年も忘れていた、父さんの子供たちのことを。
涼は唇をかんだ。遅すぎるよ。もっとはやく気が付いてほしかった。
もうすぐビデオが終了するというとき、涼は嚙んでいた唇をほどいた。
「兄さんは、この人のことを愛しているのかもしれない」
莉子へ向ける孝太郎のやさしい眼差しに、思わず言葉が転がり出ていた。




