第十五話
東京の経団連ビルで行われた製薬協会の定例会を終えた栄一郎は、孝太郎の手を借りて駐車場で待機していた車に乗り込んだ。折りたたんだ車椅子をトランクに入れてから、孝太郎は栄一郎の隣に座った。運転手がなめらかに車をスタートさせた。
「今回の定例会はどうでした」
シートベルトをしながら孝太郎が訊いた。
「外資系製薬企業がどんどんシンガポールや中国のほうに研究開発基盤を移しているのが問題なっている」
「研究開発の税制を優遇することで製薬産業を基幹産業に育てようとする外国の国家戦略ですね」
「このままでは、世界第三位の新薬創出国である日本が、アジアの国々に追い越されかねない」
「今の日本の税制を変えないと、外資系製薬企業の流出は止められないでしょうね」
「しかし、臨床試験は世界の中でも日本は一番質が高いんだ。治験期間が長いからな」
「長いから費用もかかる。承認申請も欧米より長くかかる」
「臨床試験のスピードを上げること。同時に質は落とせない」
「ところで」と、栄一郎は経営者の顔から父親の顔になった。
「見合いの話しなんだが、今度の日曜日はどうだろうといってきたんだが、おまえの予定はどうかな」
孝太郎の眉間が狭くなった。
「お父さん。その話はことわってくれませんか。いまはそんな気になれないんです」
「いい話じゃないか。会うだけあってみればいい」
「それが……」
孝太郎は、運転手の耳を気にして声をおとした。
「じつは美里耶が、雅巳を引き取りたいといってきたんです」
「美里耶が。しかし美里耶はアメリカ人と再婚してアメリカに住んでいるんじゃなかったのか」
「いま日本に帰ってきているんです。雅巳に会わせろって、何度も電話があって」
「それで、おまえはどうするつもりだ」
「雅巳はわたせませんよ。三年も音信不通でいながら、思い出したように引き取りたいだなんて」
「なぜ今頃になって……」
「美里耶は美里耶なりにたいへんだったみたいです。やっと仕事が軌道に乗って生活が落ち着いたんだといっていました」
「どんな仕事をしているんだ」
「書道です。日本愛好家向けの書を書いて販売しているんだそうです。パフォーマンスがうけて、けっこう忙しくなってきたみたいで」
「パフォーマンスというと、ばかでかい筆で畳一畳ぶんぐらいある紙に、だらだら墨をこぼしながら書く、あれか?」
「それだけじゃないですけどね」
「相変わらず突拍子もないことをする」
「こんどの日曜日は、美里耶に押し切られて雅巳を会わせることになってしまったんですよ」
「では、見合いは、その次の週にしよう」
「いや、ですから、見合いはしませんて」
「会うだけだよ。会うだけだ」
話はすんだというように栄一郎は会話を収めた。もう孝太郎は何も言い返せなかった。
雅巳を連れて美里耶に会う約束の日曜日は、九月に入った第一週だった。涼が受けた高校認定試験の結果も送られてきて、結局涼は試験に落ちた。孝太郎は、涼の学力不足を補うために、中学までさかのぼって基礎をつくる必要があると考え、家庭教師をつけることを強く勧めた。高校認定試験に受かるための受験勉強だけをして試験に受かったとしても、大学に進学したとき、基礎の基礎さえ身についていないのでは、結局勉強についていけないだろうと考えて涼も納得した。
栄一郎は口を出さずに見守っていたが、孝太郎が涼の力になってやっていることに満足しているようだった。涼がこれをきっかけに殻から飛び出して、世間に踏み出していくことを親として願っていた。
家庭教師は、優秀な予備校講師を何人か雇うことになった。五十歳をいくつか過ぎたベテランの男性と中年女性の混合が、月曜から金曜までシフトを組んで谷村家にやってくるようになった。
中学、高校の遅れを取り戻すために涼は真剣だった。好きな鉄道模型を作る暇もないようだった。
彩華は、家庭教師が若い女の人だったらよかったのにね、といって涼をからかって笑っていたが、自分は今の大学付属高校から内部試験を受けてそのまま大学にいけてしまうのでいたってのんきだった。
孝太郎の別れた妻が、雅巳を引き取りたいといってきたと波子からきいて、莉子は複雑だったが、雅巳は無邪気に喜んでいた。雅巳からすれば、一歳のときに別れて以来の母親だ。「ママにあいたい」とはっきりいった。その言葉で孝太郎は美里耶にあう決心をしたようだった。
まだ夏の暑さが続いている九月初めの日曜日に、孝太郎は雅巳の手を引いて出かけていった。莉子は門の外で二人を見送った。
孝太郎に手をとられた雅巳が、何度も振り返って、飛び跳ねながら莉子に手を振った。母親に会えるのが、よほどうれしいようだった。二人の姿が曲がり角に消えて見えなくなってから家に入った。心が沈んでいた。理由はわからなかったが、なぜだか二人の後姿が遠ざかっていくのが悲しかった。追いかけて、「行くな」といってしまいそうで、そんな気持ちに動揺した。どうかしていると、おもった。
「ほんと。どうかしてるよ。あの二人は、わたしとは関係ない人たちなのに。寂しくなってどうするんだよ。バカだ。わたし」
ため息がでた。気分を変えるために涼をからかって笑ってやろうとおもって階段を上りかけたとき、ポケットの携帯電話が鳴った。準哉からだった。電話を耳にあてて、莉子は息を整えるように呼吸をした。準哉の電話が怖かった。
「はい」
こわごわ返事をすると、数秒の間があってから準哉の声が聞こえてきた。
「莉子?」
「うん」
互いに探るような声の調子だった。
「このまえは、ごめんね。せっかくきてくれたのに……ごめん」
蚊の鳴くような声で謝ってくるが、莉子が訊きたいのはそんなことではなった。玄関にあった白いハイヒールのことだった。だから黙っていた。
「莉子。聞いてる?」
「うん」
「あのさ。きょうは暇かな。よかったら、昼ごはんでも食べに行かないか」
「……」
「予定があるんだったら、また今度でいいよ。じゃあね」
「行くよ。行く」
電話を切られそうになったので慌てた。電話の向こうでほっとしたような息遣いがした。新宿駅で待ち合わせをすることになって電話を切った。
莉子は階段を一段とばしで駆け上がって部屋に飛び込んだ。胸が高鳴っていた。クローゼットを開けてデパートで買ってきた光沢のあるブルーのタイトスカートと、準哉がプレゼントしてくれた淡いピンクの半袖のブラウスを出した。クローゼットの床には靴を入れた箱があって、蓋をあけると中には真っ白なオープントォーのハイヒールが入っていた。 莉子はハイヒールを胸に抱きしめてからストッキングを用意した。ハンドバッグは冬でも使えるようにとおもって明るい茶色の皮のショルダーバッグを買った。急いで着替えてドレッサーの前に座り、しばっていた髪をほどいた。真っ直ぐで艶やかな黒髪が背中に流れた。ドレッサーの引き出しから口紅を取った。ピンク色の口紅をぬってから鏡の前に立ってみると、おとなの女性が映っていた。
「いいかも。いいよ」
にかーと笑った。ショルダーバッグを肩にかけてハイヒールを持って部屋を飛び出したが、忘れ物をしたことに気が付いて部屋にもどった。クローゼットにしまっておいた白い日傘だった。廊下に出て、涼と彩華の部屋のドアを順番に叩いた。
「出かけてくるからな」と声を張り上げたが、涼も彩華も返事をしなかった。
階段を駆け下り、玄関から廊下の奥に「出かけてきます」と、声をかけてハイヒールを履いた。波子がキッチンから顔を出したが、そのときには門を出てバス停に向かって走っていた。白いレースの日傘が、残暑を跳ね返して眩しいほど光っていた。
駅の南口にあるデパートの二重ドアの中で準哉を待った。外で待っているよりずっと涼しいので、準哉はわざわざこのデパートを待ち合わせ場所に指定したのだ。待ち合わせ時間より三十分も早かったが、待つのは苦痛ではなかった。ガラスに映る自分の姿を飽かずに眺めた。
わたしをみて準哉はどんな顔をするだろうかと想像すると自然に笑みがこぼれた。デパートに向かって歩いてくる人の波と、デパートから出て行く人の波が、押しては返す波のように莉子の横を通り過ぎていった。履きなれないハイヒールのつま先が痛みだした。気を許すとつい背中が丸くなってくる。いつ準哉が現れてもいいように、莉子は背筋を伸ばしてモデルのような立ち姿で準哉を待った。
約束の時間より十分早く、準哉がデパートに続く広い高架橋に姿を現した。カジュアルなシャツにジーンズをはいて、髪は自然に流していた。庁舎に出勤するときと違って気取りのない装いは、莉子が見慣れた、よく知っている準哉の姿だった。
莉子はうれしくなって思わず手を振っていた。準哉も莉子に気がついて大きく笑った。準哉の足が心持速くなった。近づいてくるごとに莉子は落ち着かなくなってきた。急に自分の姿が恥ずかしくなった。準哉が来るまでは、今までの自分とは違う自分を見せてやるのだと意気込んでいたのに、いざとなったら身につけているなにもかもが自分らしくなくて恥ずかしくなった。背中に流している髪も、慣れない口紅も、痛み出したハイヒールのつま先も、みんな嫌になってきた。だが、莉子のところにたどりついた準哉は、感動したように頬を紅潮させた。
「莉子。すごいね」
「な、なにが、かしら」
「え?」
「だ、だから、なにが、かしら?」
準哉が噴きだした。
「ほんとにどうしたの。莉子じゃないみたいだよ」
準哉に笑われてうつむいた。顔が真っ赤だった。
「準哉。そうじゃないだろ。こういうときは、ウソでもきれいだよって言うもんだろ」
「きれいだよ。莉子!」
うつむいて顔を真っ赤にしている莉子の耳まで赤くなった。準哉の部屋の玄関にあった、白いハイヒールのことなど、どうでもよくなってしまうくらいうれしかった。もやもやとしたわだかまりで電話もメールもできなかった胸苦しさがみるみる消えていった。胸の中に幸せ色の爽やかな風が吹き抜けていった。
顔にかぶさる髪を片手で押さえて、莉子ははにかみながら目を上げた。笑って見つめてくる準哉の目頭に、うっすら涙が滲んでいた。
「準哉?」
「ほんとうにきれいだよ。僕が夢に見た莉子の姿だ。莉子にはいつもこういうふうに幸せそうでいてほしかったんだ」
しみじみとした口調でいわれて莉子は困ったように笑った。
「大げさだな。なんだよ準哉。これくらいで感動するなよ。ちょっと服を着替えてきただけじゃないか」
「だって、莉子がすごく女らしくなったから。もしかして、好きな人でもできた?」
莉子の表情がみるみる一変した。
「わたしに好きな人ができたら、準哉はうれしいのか」
「えっ」
急変した莉子の態度に準哉の笑顔が消えた。
「準哉こそ、好きな人ができたんじゃないのか。このまえ、マンションに来ていたお客は女の人なんだろ?」
「…………」
つい今しがたまでのはずむような雰囲気が、ぬぐったように冷めていった。
「だから、わたしを部屋に入れられなかったんだろ?」
「客が女性だから莉子を部屋に上げられなかったんじゃなくて、お客がいたから莉子には遠慮してもらったんだよ。いきなりやってきた莉子が悪いんだ」
「やっぱり女の人が来てたんだ」
「そうだよ。莉子に嘘はつきたくないから、訊かれたら本当のことをいうよ。それが莉子に対する、僕の誠意だとおもうから」
「準哉の誠意……」
莉子はめまいがした。なにか、恐ろしいものを目の当たりにしたようだった。見てはいけない。聞いてはいけない。触れてもいけない。とにかく、今すぐここから逃げ出せと、もう一人の自分が警告していた。
「こんなところで立ち話もなんだから、どこかに入ろう」
「その女性のことが、好きなの?」
歩き出そうとする準哉の横顔に言葉を投げていた。訊いてはいけないのに、訊かずにはいられなかった。振り向いた準哉は、困ったように首を横に振った。
「莉子が幸せになるほうが先だよ。僕の番はそのあとだ」
「順番で幸せになるのか? 一緒に幸せにはなれないのか? 一緒に幸せになる夢を見てはいけないのか?」
みるみる莉子の瞳に涙が盛り上がった。準哉は虚を突かれたように一瞬目を見張った。
「莉子……」
頬のあたりをこわばらせた準哉が、莉子の腕を掴んで歩き出した。引っ張られるままに莉子も歩き出す。手に持った日傘の先が路面を擦って耳障りな音を立てた。
新宿御苑まで歩かされてプラタナスの木陰のベンチに腰をおろした。並木に沿った木製のベンチはほとんど人でふさがっていたが、隣との間隔があいていたので、大声を出さなければ話し声を聞かれる心配はなかった。頭上のプラタナスの葉は、まだ色づくには早すぎて濃い緑が風にそよいでいた。
途中で買ってきたペットボトルのお茶を莉子に渡してから、準哉はキャップをあけて喉の渇きを潤した。莉子も一口飲んだ。喉は渇いていたが、飲む気力さえわかなかった。むやみに苦しくて、顎を噛みしめるだけだった。準哉の本心をきいたとおもった。あれは準哉のほんとうの気持ちなのだ。きっと準哉は、わたしと一緒に暮らす気はないのだ。わたしの夢が消えていく。どうしよう。莉子の唇が震えた。
「莉子が僕のために費やしてくれた年月の重さはわかっているつもりだよ。ほんとうに感謝している。親兄弟でもできないことをしてもらった。僕のために、しなくていい苦労をかけ続けた。心苦しかったよ」
「……どうして」
「え? なにが」
「どうして……」
「莉子?」
どうして。どうして。
準哉の腕を掴んでゆすぶりながら訊いてみたかった。どうして、わたしじゃだめなのと。どうしてほかの人なのかと。
うつむいていると涙がしたたり落ちてスカートを濡らした。
「こんなに頑張ってきたのに、どうしてなの準哉」
涙とともにこぼれたのはそんな言葉だった。
「ごめんね莉子。彼女といると、楽しいんだ。家族から愛されて伸び伸び育った彼女といると幸せなんだ」
「あのさ、わたしさ! いままで黙っていたけど、準哉のこと、好きだったんだよ」
いままで言えないでいたことを、投げつけるように言っていった。
「わたしの気持ち、ぜんぜん気がつかなかった?」
返事をごまかすように準哉はペットボトルを口にはこんだ。全部飲み干してもうつむいて唇をかんでいる。
「なんだよ。わたしには本当のことをいうのが準哉の誠意なんだろ? 訊かれたことに答えろよ。いったい、わたしのことを、どうおもっていたんだよ」
こぼれる涙をこぶしでぬぐいながら、震える声で問い詰めた。準哉は険しい表情で、開き直ったように顔を上げた。
「莉子といると、苦しいんだよ!」
これ以上言わせないでくれというようにまた下を向く。
「なんで苦しいんだよ。わたしがいつ準哉を苦しめたんだよ。夢中で支え続けたじゃないか」
顔をゆがめて噛み付くように責める莉子に、準哉はもがくような身振りをした。
「それだよ。莉子は、そうやって僕を金で縛り付けたんだ。これからも、そうやって縛り続けるんだ。僕が一生かかってその恩に報いるようにしむけるんだ」
「なんだって!」
「わからないのか。莉子といると、自分の過去に決別できないんだよ。辛かった子供時代。惨めで寂しくて、子供でいるのも大人になるのも怖くって、なんで母親は自分を生んだんだろうって泣いてばかりいた。莉子は気が強いから、いつも何かに立ち向かっていったけど、僕は、施設で育ったことを忘れたいんだよ。なにもかも忘れて、生まれ変わって明るく生きたいんだよ」
「過去を思い出させるわたしが邪魔なのか」
「彼女は僕の過去を知らないから、このままの僕を見てくれるんだ。彼女の前では、僕は頼れる男性なんだよ」
「でも、いつかは施設育ちだということを言う日が来るんじゃないのか」
「言う必要がきたら言うよ。へいきな顔をして、施設育ちなんて、なんでもないというように話すよ。施設で育っても、僕は優秀な成績で大学を卒業して、都庁に努める上級公務員だから、世間に引け目を感じることはないんだ。胸を張って彼女と付き合う資格があるんだ」
「準哉……」
「金は返すよ。莉子が援助してくれた諸々の費用は、何年かかっても返すよ。必ず返すよ。それでいいだろ」
呆然と莉子は準哉をみつめた。自分の姑息さを糊塗するような準哉の強情な顔つきは、子供のころから見慣れたものだった。この顔をした準哉は、てこでも動かない。わかりすぎるほどわかっている。莉子は準哉にはかなわなかった。最後の最後には、莉子はいつだって準哉に負けた。好きだったから、莉子は負けるしかなかったのだ。
いつから、どこで、わたしは準哉を見失ってしまったのだろうとおもった。自分よりも大切におもって、全力で守ってきた準哉が、わたしを拒否し、わたしから去ろうとしている。
莉子は泣くことも忘れて呆けたように準哉の歪んだ顔を見ていた。体全体が震えていた。夏の暑さと変わらない九月の太陽だというのに、莉子の体はおもしろいようにわなないていた。
ショルダーバッグの中で携帯電話が鳴っていた。準哉が何かいいつのっていたが、もう莉子の耳は何も聞いていなかった。機械的にバッグを開けて携帯電話を耳に当てた。孝太郎からだった。
電話をしまって、莉子は走り出した。足が震えてうまく動かせなかったが、孝太郎からの電話は莉子の意識をつかのま準哉から逸らせた。
「雅巳。雅巳が」と、うわごとのように呟きながら、莉子は夢中で駅に向かって走っていた。後ろで準哉がなにか大きな声でいっていたが、もう莉子には孝太郎の声の残響しか聞こえていなかった。
電車を降りて、病院への案内表示板にしたがってホームを進み、改札を出てから莉子は走り出した。信号が変わるのを待って横断歩道を渡り、交番の先にある総合病院に走りこんだ。休診日の受付で記入をすませて、雅巳がいる病室をきき、教えられたエレベーターに乗った。
七階でエレベーターを降り小走りになった。気が急いて走りたかったが、入院患者が点滴をぶら下げたポールをひきながら歩いていたのでは走れない。ナースセンターがある廊下を右に折れたところのルームナンバーを確かめてから部屋に飛び込んだ。
「雅巳!」
莉子の声に振り向いたのは、孝太郎と美里耶だった。雅巳はベッドに寝かされていた。ぜいぜいと苦しそうに喉を鳴らして青ざめている雅巳に駆け寄り、「雅巳」と叫んで顔を寄せた。
「だいじょうぶか。苦しいのか」
「おば、ちゃん」
莉子の顔を見て気が緩んだのか、雅巳が泣き出した。
「おば、ちゃん……」
「なんで、どうして、こんなことに」
雅巳の体を撫でさすりながら、孝太郎と美里耶に問いただすような目を向けた。
「さきほどアドレナリンを注射していただいたから、そろそろ落ち着くはずよ」
青ざめた美里耶がおろおろとこたえた。プレタポルテのしゃれたワンピースを着こなした垢抜けた女性だった。
「アドレナリン? なんだよ。それ」
「アナフィラキシーのショックを防ぐためのお薬よ」
「アナ、フィラ、キシーってなんだよ。わかるように言えよ」
乱暴な口調で詰め寄られて、美里耶はおもわず後ずさった。助けを求めるように孝太郎に擦り寄る。
「このかた、どなたなの」
孝太郎がこたえようとしたとき、雅巳がか細い声を出した。
「ぼくね。デザートのフルーツをたべたんだよ。ママがたべなさいっていったから、だから、だから」
「なにを食べたんだ」
莉子は雅巳に鋭い声を放った。
「あのね、いちごにバナナにキウイだよ。アイスクリームとなまクリームがかかっていて、はじめてたべたけど、すごくおいしかったよ」
「みんな種ごと食べるものばかりじゃないか。雅巳のアレルゲンじゃないか」
みるみる莉子は青ざめた。やおら振り向くと、孝太郎に掴みかかった。
「孝太郎さんがついていながら、なんでそんなものを食べさせたんです」
「あのね、パパはでんわがかかってきたから、でんわをしにむこうにいったんだよ。そしたら、ママが、デザートも、たべなさいって」
「なんだって」
雅巳の話しに驚いた。莉子は美里耶に歩み寄ると、いきなり肩を突いた。
「あんた。雅巳を殺すきか」
よろめいた美里耶が孝太郎の胸に支えられる。なおも莉子は美里耶の肩を突いた。
「あんた、母親だろ。まさか雅巳のアレルギーを知らなかったわけじゃないよな。孝太郎さんがいたからよかったけど、そうでなかったら、雅巳はショックで死んでいたかもしれないんだぞ」
怒りに任せてさらに美里耶の肩を突こうとしたとき、孝太郎が莉子の手首を掴んだ。
「やめなさい。美里耶は知らなかったんだ」
別れた妻を庇うような孝太郎に、莉子は怒りで顔が真っ赤になった。
「知らなかった? 知らないですむんですか。雅巳の命にかかわることなんですよ。こんな女に雅巳をわたす気じゃないでしょうね。アレルギーの子供に、アレルゲンの食べ物を食べろって強要する親がどこにいる」
「落ち着きなさい」
目をつり上げて美里耶に飛び掛っていこうとする莉子を、孝太郎が止めた。こんどは孝太郎の胸倉を掴んだ。
「あんなに苦しそうな雅巳ははじめてだ。わたしが谷村の家に入ったとき、一番初めに波子から注意されたのは雅巳のアレルギーだった。わたしだってアレルギーの怖さぐらい知っている。それなのに」
「落ち着きなさい」
莉子! と強く呼ばれてはっとした。
「落ち着くんだ。莉子」
「孝太郎さん」
「雅巳はもうだいじょうぶだ。だいじょうぶだから」
「孝太郎さん……」
孝太郎の胸倉を掴んでいた莉子の手がゆるんでいった。つりあがっていた眦がみるみる下がっていく。怒っていた顔が泣き顔になって、涙が滴り落ちた。
「どうしたんだ。なにかあったのか」
孝太郎が莉子の目を覗き込んだ。孝太郎の胸に置かれた莉子のこぶしに、男の熱い体温が伝わってくる。心配そうに見つめてくる孝太郎の眼差しに、莉子は縋りついた。
「くるしい」
孝太郎は、いつもと違って、精一杯装った莉子の姿に気がついていた。
「デートだったんだね」
「たすけてください。孝太郎さん。くるしくてたまらない」
「莉子」
二人の様子を、美里耶が瞬きもせずに見つめていた。ベッドでは、雅巳がか細い声で「おばちゃん」と莉子のことをよんでいた。




