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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
14/18

第十四話


 高卒認定試験を八月の初旬に受けたあと、涼は落ち着かない日を過ごしていた。九月付けで郵送される結果発表を見るまでは、どうにも勉強が手につかないでいた。

 落ちればまた一からやり直しだし、受かったら次は大学受験に向けて頑張らなければならない。いままで参考書や教育番組の高校講座などを見ながらやってきたが、一人で勉強するには限界があった。

 進学塾に行っても自分の実力が現役高校生のレベルに追いついていなかったら、家庭教師という手段もあると孝太郎にいわれてから、思い切って現状から飛び出してみようとおもうようになっていた。

 おねしょ癖が直った雅巳が、子供らしい元気さで家の中を走り回り、少しずつ知恵付いていっているのを見ているうちに、引きこもっていてはいけないと思うようになっていた。

 栄一郎が、彩華の万引きをきっかけにダイニングルームに出てきて、家族と食事をするようになったことも、家族全員に影響を与えていた。栄一郎は口数が少なくて気難しかったが、意外なことにむやみに子供たちを叱ることはなかった。彩華はすっかり甘えてつけつけ栄一郎にものをいったし、波子も栄一郎が聞き役になってくれるので愚痴をこぼすようになり、それが波子の精神を安定させるらしかった。

 すっかり健康的になって、莉子のつくった弁当を持って学校に通っている彩華をみていると、足踏みして、行かずに終わってしまった高校生活を残念におもう気持ちが生まれていた。

 家政婦が来るまでは、波子の小言と愚痴に吐き気がした。ドアに目張りをしていた時期さえあったのに、家政婦が来てから波子はあまり癇癪をおこさなくなった。怒られているのはもっぱら家政婦ばかりで、波子は今は雅巳のことも彩華のこともめったに叱らない。莉子一人が、波子の小言を引き受けていた。

 その莉子は、波子から洋食と和食のマナーだけではなく、茶道と華道、和服の着付けなど、手厳しく指導されていて、かなりへこんでいた。

 もともとじっとしていることが大嫌いな莉子には、それらの稽古事は苦痛でならないようだったが、我慢しているのには理由があるようだった。

 波子が一番口うるさく叱るのは、莉子の言葉遣いだった。家人がそれぞれ会社や学校、幼稚園に行ってしまって、家事が一段落したときなど、莉子はよく涼の部屋にやってきた。

「波子のやつ、みょうに生き生きしちゃって手加減無しだぞ。口うるさくて頭がパンクしそうだ」

 注意されればされるほど、その反動がくるらしくて、涼を相手にするときは口調が乱暴になった。

「じゃあ、やめればいいだろ」

 わざと意地悪に言い返してやったら、ジオラマの山の中のトンネルから出てきた模型の電車を取り上げて涼に投げつけるまねをした。

「やめろよな。壊れるだろ」

 とたんに目くじら立てて怒鳴った。莉子はおとなしく電車を線路に戻した。電車は何事もなかったように川を渡って田園の中の停車場を通過し、またトンネルの中に入っていった。

「試験の結果はいつわかるんだ?」

「結果は九月付けで郵送されてくるんだ」

「もうじきだな。受かったらお祝いしてやるよ」

「祝うほどのことでもないよ」

「謙遜するなよ。一人で頑張ったんだから、お祝いしなきゃな」

「いいったら」

 まんざらでもなさそうに肩を揺らして涼は机に向き直った。部屋のほとんどを占めている鉄道模型を覗き込むと、川で鮎釣りをしている釣り人が一人増えていた。

「人口が増えてるな」

「よく気が付いたね。でもさ、文句をいいながらでもお稽古の成果はあがっているじゃないか。和食のマナーはマスターしたんだろ。茶道のときも、畳のへりは踏まないとか、襖や障子は膝をついて開けるとかさ」

「そんなの常識だよ。常識」

「知らなかったくせに。見栄っ張りだな。でも、洋食のテーブルマナーには苦労しているみたいだね」

「楽勝だよ。みごとなナイフ捌きで肉を三枚におろしてみせるよ」

「魚じゃないよ。呆れるな。でも、服をなんとかしないと。持ってないんだろ。服」

 痛いところを突かれて莉子は顔をしかめた。

「あるよ。服ぐらい」

「兄さんが連れて行くレストランは、古ぼけたTシャツに擦り切れたジーンズなんてだめだからね」

「でも孝太郎さんは何もいわないよ」

「いわなくても店の格でわかるだろ。おれだって、あんたに付き合って兄さんに連れて行ってもらうときには、カラーシャツにスラックスを穿いていくんだよ。よそ行きを買いなよ」

「持ってるったら……。服ぐらい」

 孝太郎は、定期的に莉子と涼を昼の食事に誘っていた。涼は莉子の巻き添えをこうむるかたちで同席させられていたが、最近では孝太郎に慣れてよくしゃべるようになっていた。

 食事をしながら、いろいろな話をした。進学塾のこともそうだし、大学の相談にも乗ってもらった。そんなときは莉子は口を挟まず、黙々とナイフとフォークを使っていた。

 莉子は食事に集中しているのかと思えば、どうやらそうでもないらしく、ため息をついたり、手を止めてぼーとているのを、孝太郎は見逃さなかった。

 ある日、孝太郎がまた食事に誘う電話をよこした。その日は波子も家にいたので、孝太郎は軽い調子で波子も一緒に連れてくるようにいった。それを莉子からきいた涼は、激しい反応を見せた。

「叔母さんが一緒なら、おれは行かない。絶対いやだ」

 顔色を変えていうので莉子は困った。孝太郎には電話で、三人で行くといってしまったし、波子もその気になってうれしそうに服を着替えて下で待っている。

「いいじゃないか。一緒に行こうぜ」

「いや、いや、いや、だ、だ。ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ、たたたいにに、いっ、いっ、いかかかななっい!」

 顔を歪め、口元を捻じ曲げて、体をこわばらせながら必死に言い募る姿に、莉子は驚いて言葉をなくした。涼の吃音を初めて目の当たりにした。こんなに苦しそうにしゃべるものなのかと愕然とした。涼の左手が痙攣するように震えていた。

「わかった。行かなくていいよ。おまえは家にいろ」

 震えている涼の左手のこぶしを取って、強く握りしめて、色を失くしている手の甲をやさしくさすってやった。

「涼は、左利きなんだってな。ここを、もしかして、波子に叩かれたのか?」

 びくっとして手を引っ込めようとしたので、莉子は強く握りしめた。

「もう波子は涼を叩かないよ。波子はすっかり年をとったおばあさんだ。そして涼は、そのぶんこんなに大きくなった。いまでは波子よりずっと強い。それに、涼になにかあったら、このわたしが黙っちゃいないよ」

 みるみる涼の瞳が大きくなって涙が盛り上がった。

「あああんたたっ、なに、なに、なにをししっ、知っているんだ。だれにきいた」

 莉子の手を振りほどいて、涼は小さく叫んだ。

「涼のことが気になって、中学の時の担任の先生に会ってきたんだよ。涼の吃音のこともきいた」

「よけよけよけいなことをすっするな。で出て行け」

 涼から突き飛ばされるようにして部屋を追い出されていた。

 まずかったかなと、莉子は少しばかり後悔した。首を突っ込みすぎたかもしてない。まだ癒えていない古傷をこじ開けてしまったのかもしれなかった。せっかく心を開きはじめたのに、再び殻の中に閉じこもってしまったら、再び暗闇に戻すことになる。浮かない様子で下におりて行くと、波子が軽やかなサマースーツ姿で玄関に立っていた。

「早く着替えてきなさい」というので、「このままでいいです」というと、波子は怒りだした。

 着るものなんか持っていないというと、自分の絽の着物を貸してやるという。着物なら多少のサイズの違いは着付けで調整できるといって譲らない。あまり遅くなっても孝太郎が迷惑するので、めんどうになった莉子は、しぶしぶ波子の着物を着ることを承諾した。

 波子の部屋は、これまで立ち入り禁止だったが、作法を教授してもらうようになってからは入室を許されていた。

 床の間付きの和室には、いつも水盤に生花が活けてあって、螺鈿細工の立派な和箪笥と洋箪笥と洋服箪笥の三点セットが華やかに壁を占めていた。床の間の生花の横には、茶道の道具を収める引き違い棚も置かれていて、この部屋でお茶やお花の練習をした。

 波子が和箪笥から出してきたのは紺の絽のお召しと白っぽい絽つづれの帯だった。帯締めは銀地に萌黄と若草色が織り込まれており、半襟は絽塩瀬。手早く莉子に着せ終わって、姿見の鏡台の前に座らされた。

「この髪もなんとかしないと」

 波子は器用だった。莉子の真っ直ぐな黒髪を柘植の櫛でとき流し、くるりとねじって夜会巻きに纏め上げた。鏡台の引き出しから、艶やかなべっ甲の飾りを取って髪に挿す。莉子を立たせて、波子は満足そうに頷いた。

「馬子にも衣装って、ほんとうね。さあ、この口紅をつけなさい」

「いやだよ。口紅なんて。ぬるぬるして気持ち悪いよ」

「莉子さん。そうじゃないでしょ。いやです。ぬるぬるして気持ちが悪いんですもの。と言うのでしょ。なんどいったら、その言葉遣いがなおるのかしら」

「ぬるぬるしてきもちがわるいんですもの。あはは」

 自分で言って笑いだした。

「もういいわ。そのままでいいから行きましょう」

 箸にも棒にもかからないというように頭を振り振り莉子を促した。玄関で西陣織りの草履を莉子に履かせながら、「涼はどうしたの」と、二階を見上げる。

「行かないっていってましたよ」

「しかたがないわね。じゃ、二人でいきましょう」

 いそいそと玄関を出て紺の日傘をさす波子の後ろを、裾を膝までたくし上げてあとに続きながら二階を振り仰いだ。ここからだと涼の部屋は反対側なので見えないが、莉子には涼が傷ついて涙をぬぐっている姿が見えるようだった。

「莉子さん。裾を下ろしなさい。なんてはしたない」

 波子が振り向いて大きな声を出した。莉子はぱっと両手を離した。着物の裾がすとんと落ちる。それを見て波子はさらに嫌な顔をした。

「あなたに女らしさを期待しても無駄でしたね」

 いつものバス停に行ってみると、すでに孝太郎の車が路上駐車していた。波子と莉子に気が付いて車の中で笑っていた。

 孝太郎に向かって、着物の袖を広げて腰をくねくねさせながら回ってみせたら噴きだした。波子にまた叱られた。

「着物を着せられたんですね」

 二人が後部座席に納まると、笑いながらミラーの中で莉子と視線を合わせて孝太郎がいった。

「似合うでしょ?」

「ええ。よく似合っていますよ」

「でも、いくら躾けても、ちょっと目をはなすとお行儀が悪くて、ほんとうに困った人なのよ」と、波子が文句をいってくる。

「涼は、来ないんですか」

「ええ。わたしたちで行きましょう」

 孝太郎は莉子に訊ねたのだが、答えたのは波子だった。ミラーの中の問いたげな孝太郎の眼差しに、莉子は複雑な表情で視線をちらりと波子に向けたが、それだけで孝太郎は、何かを感じ取ったようだった。車の中で、波子ははしゃぎとおしだった。

 こんなふうに孝太郎と外で食事をすることなど、孝太郎がおとなになってからはないことで、その喜び方は、はたで見ているといじらしいほどだった。食事ぐらいでこんなに喜ぶなら、ちょくちょく連れ出してやればいいのにと思う一方で、家で一人で簡単なものを食べているだろう涼のことを思うと、莉子はやりきれない気持ちになった。

 家族のあいだの長年にわたる感情の縺れは、そう簡単にほぐれるものではないことぐらい、莉子にもわかっていた。涼の場合、子供のころに受けた、たぶん波子の過ぎた躾けは、涼の心を深く傷つけ、いまだに波子への反発と憎しみに苦しんでいるのだろう。莉子は波子にきいてみたかった。どうして左利きの涼の左手を、こんなになるまで叩いたのかと。

「どうかしましたか。きょうの料理は口に合わなかったかな」

 孝太郎に話しかけられて莉子は皿から顔を上げた。いつのまにかうつむいてナイフとフォークが止まっていた。

「孝ちゃん。こんどは懐石に行きましょうよ。予約を取っておいて、ゆっくり時間をかけて懐石料理をいただきたいわ。こんどは叔母さんがご馳走しますから。ね」

 横から弾むように波子がいった。

「懐石ですか。たっぷり二時間はかかりますね」

「いいじゃありませんか。莉子さんのお稽古にもなるし」

 袖が肘のほうにまくりあがって、ナイフとフォークを持つ莉子の腕があらわになっていた。波子がさりげなく袖を伸ばして莉子の腕を隠した。

「莉子さん。お着物を着たときは、手首から上は見せてはいけませんよ」

「はい」

 素直に頷くと、波子は満足そうに笑みをうかべて孝太郎に目配せした。孝太郎もうなずき返して、波子の苦労をねぎらった。


 その夜、彩華が学校に行ってるときに、孝太郎が莉子たちを食事に連れて行っていることを涼からきいた彩華が、自分だけ仲間はずれにされたといって夕食のときに騒ぎ出した。

 栄一郎と孝太郎はまだ帰ってきておらず、彩華の怒りは莉子と波子に向いた。莉子は知らん顔をしていたが、波子のほうは彩華の言い分ももっともだとおもったのか、うるさそうではあったが、こんどみんなで食事に行こうとなだめて、彩華のご機嫌をとったりしていた。

 雅巳は夕飯がすんだあと、涼に風呂に入れてもらって八時には寝てしまった。莉子が涼の部屋へ冷たい飲み物を持っていったら、飲み物だけ受け取ってドアを邪険に閉められてしまった。まだ怒っているのだなとおもったが、あまり刺激しないほうがいいだろうとおもってそっとしておくことにした。

 部屋に引き取って雅巳の寝顔を見てから、ジーンズのポケットから携帯電話をだした。

何度見ても準哉からのメールはなかった。苦しかった。なにもかも苦しい。すでに莉子のほうからメールをしたり電話をする勇気がなくなっていた。連絡を取り合わなくなった時間が長引けば長引くほど、相手の胸中を忖度して電話できなくなっていた。軽い調子で、「元気、してた?」と声をかければ、案外準哉もいつもの調子で「どうしてたの。電話もよこさないで」と、返してくれるかもしれない。でも、もしも、準哉の声が冷たかったら、それだけで膝が崩れてしまいそうだった。怖くて準哉に電話できなかった。しかし、会いたい気持ちは、それらを凌駕していた。

 会いたい。

 会いたいと、心の中で繰り返した。やがて、莉子の中で、徐々に決意が大きくなっていった。

 こんどの日曜日に、準哉に会いに行こう。そう決心すると、もう迷わなかった。

 普段着は、相変わらずボストンバッグとスポーツバッグに突っ込んであるが、準哉からプレゼントされた服や外出用の小物はクローゼットにしまってあった。そのクローゼットの中から服を出した。初夏に着る水色のサマージャケットと淡いピンクの半そでのブラウスだ。長袖のジャケットは今の真夏にはそぐわないが、半そでのブラウスならちょうどいい。スカートはリクルート用の紺のタイトスカートを合わせてみたが、さすがにバランスが悪かった。彩華はおしゃれだから、たくさん服を持っていたので、貸してくれるかきいてみようとおもった。

 時計を見ると、十時を回ったくらいだった。彩華は夜更かしだからまだ起きているだろう。ハンガーにかかったままのピンクのブラウスを持って彩華の部屋のドアを叩いていた。

 彩華に笑われて、おもちゃにされながら、彩華が選んでくれたのは、膝上丈の真っ白なジョーゼットのフレアスカートだった。ちょっと子供っぽくて、いかにも女の子らしいスカートだったが、彩華が持っている超ミニのスカートの中では、これが一番まともだというので、これに決めた。鏡の前でブラウスとスカートをあててみると、まるで別人の莉子が写っていた。

「へええ。馬子にも衣装ってほんとなんだ」と、波子と同じことをいった。

 スカートだけではなく、ブランド物の小さなポシェットも貸してくれた。財布と携帯電話とハンカチ、ティッシュしか入らない華奢なバッグだった。これも貸してあげるといって、彩華の年齢では普段はしていけない高価な腕時計も持たされた。莉子より楽しそうで、そんなふうにおしゃれの話や服を選んだりするのが彩華は好きなようだった。

 当日の日曜日、彩華は莉子の部屋にやってきて、うるさいほど莉子の世話を焼いた。

「ガニマタで歩いちゃだめだよ。わかってる? 男は女の子らしさにだまされるんだからね。それでなくてもオヤジは男らしいんだから、彼の前ではもじもじしてちょうどいいんだからね」

「もじもじかよ」

 莉子が笑うと、彩華は真面目な顔になった。

「初めてのデートなんでしょ。こんなに気合がはいっているんだもの。頑張ってね」

 一瞬、莉子は思いつめた表情をした。電話もメールもしないで、いきなり準哉のマンションを訪れるつもりだった。準哉は喜んでくれるだろうか。もし居なかったらどうしよう。居なかったら居ないでもいいとおもった。とにかく準哉のところに行きたかった。行くだけで気がすむようにおもった。もしも、心に羽が生えていたら、莉子の心はすでに準哉のもとに飛んでいたのだった。


 あれほど彩華にガニマタで歩いてはいけないと注意されたにもかかわらず、バスを降りて準哉のマンションに向かっている莉子の歩幅は、いつもより大きかった。緊張で硬くなった足は柔らかさを失ってギクシャクしていた。心臓がドキドキして、会ったらなにを話そう、まず最初に、とにかく笑顔になろうと、顔の筋肉を動かしたりしてみた。すれ違う人が変な目で見たが、莉子の目には何も写っていなかった。準哉の笑顔だけが浮かんでいた。

 着飾った莉子を見て、「どうしたの。莉子」と、準哉はうれしそうに笑ってくれるだろうか。おしゃれをしたのは準哉のためだった。いつも莉子が身なりを気にせず働いているのを、気重におもっている準哉のために、莉子は慣れないおしゃれをした。

「ほら、準哉。わたしだって、こんなふうに、ほかの人と同じように自分の生活を楽しんでいるよ」と、みせてやりたかった。

 連絡しないのを、準哉だって気にしているはずだ。わたしと同じで困っているはずだ。わたしから行ってやらなければ、気弱な準哉はずっとこのままかもしれない。頭はいいが、引っ込み思案なところのある準哉を、子供のころからぐいぐい引っ張ってきたのは莉子だった。だから、こんども、わたしが準哉のところに行かなくては。

 決意も新たに、莉子は自分を励ましてマンションのエレベーターに乗った。エレベーターを降りて、準哉の部屋のドアの前に立ったとき、莉子の心臓はうるさいほど音を立てていた。深呼吸を繰り返し、くじけそうになる指を励ましてチャイムを押した。

 どうか、準哉が居ませんように。

 会いたくてやってきたはずなのに、いざとなったら不安でつぶれそうだった。

 どうか準哉が、わたしを見て笑顔になってくれますように。

 祈るように目を閉じた。耳を澄ますと、廊下に軽い足音がした。莉子は、ドアが開く前に緊張した頬をゆるめてぎこちない笑顔を作った。満面の笑みになっているだろうか。不自然な顔になっていないだろうかと気にしながら、必死なおもいで笑顔を作った。

 ドアが開いた。いつものふんわりした雰囲気の準哉が現れ、莉子だとわかると慌ててドアの隙間から体を外に出した。ドアが閉じるわずかな間に、白いハイヒールが玄関にあるのを莉子は見逃さなかった。

「やあ、準哉。久しぶり」

 莉子の声は裏返っていた。

「莉子……」

 途方にくれたように準哉が呟いた。

「近くまで来たからさ。寄ってみたんだよ。元気だったか?」

 準哉はドアを背に莉子の前に立ちふさがった。

「いきなり来るんだもの。電話ぐらいしろよ」

「うん。ごめん。元気だったらいいんだ。あの、ほら、しばらく電話もメールもなかったからさ。どうしているかとおもってさ」

「莉子のほうこそ、メール一つ寄こさなかったじゃないか」

「うん。だから、ごめん。あの、お客さんなのかな」

「そうだよ。莉子が来るってわかっていたら、ほかの人と約束なんかしなかったのに。いきなりなんて、おとなのすることじゃないだろ」

「ごめん。帰るよ。帰るから。怒らないでよ」

 無理に笑って背を向けた。急ぎ足でエレベーターに向かう。

 追ってきて。準哉。

 莉子は心の中で叫んでいた。

 追いかけて来て。追いかけてわたしを捉まえてよ。準哉。

 しかし、準哉は追いかけてこなかった。エレベーターの中で、壁に体を預けてずるずる座り込んだ。

 あの白いハイヒール。

 見なきゃよかった。

 知らなきゃよかった。

 準哉が、わたし以外の女性と部屋にいる。わたしが選んだカーテン。わたしがそろえたインテリヤ。わたし好みのベッドカバー。わたしが愛してやまない準哉。なにもかもわたしのものなのに。

 どうして準哉。

 わたしじゃないの?

 一緒に暮らそうといってくれるのを、十年待ったのに。ひどい。ひどいよ。準哉。

 わたしの着てきた服に気が付いてくれた? ねえ、準哉。おしゃれしてきたんだよ。ドキドキしながら、会いに来たんだよ。

 涙があふれてきた。胸が痛くてたまらない。頭が熱くてぐらぐらした。こぶしで何度も胸を叩いた。胸の中の焼けつくような塊を叩き潰したかった。

 準哉、追いかけてきて。

 しかし、準哉の足音はとうとう聞こえてこなかった。


「おそいわねえ。莉子さん」

 夕飯をそろそろ終えようとする時刻になっても帰ってこない莉子のことを気にして、波子が壁の時計を見上げた。今夜は涼以外は全員テーブルについていて、雅巳は栄一郎と孝太郎のあいだに挟まって、食後のスイカを食べていた。種を指でほじくりだすので果汁がだらだら皿にたれている。栄一郎も孝太郎も、雅巳のすきにさせていた。

「帰ってこないわよ。だって、デートだもん」

 彩華がいった。孝太郎がお茶を飲む手を止めた。

「ほほう。伊坂の娘がデートか。そんな相手がいたのか」

 栄一郎が笑いながら彩華にいうと、彩華は大きな身振りで話し始めた。

「スカートはわたしのを貸して上げたのよ。でもブラウスは自分のみたいだったけど、あれは彼氏にプレゼントされたんじゃないかな。だって、雑誌で紹介された若い女性に人気のブランドだったもの。絶対オヤジが買ったものじゃないとおもうよ。ポシェットと腕時計も貸してあげたの。だってオヤジったら、あの歳してなんにも持っていないんだもの。女じゃないみたい」

「彩華。あの人を悪くいうのはやめなさい」

 孝太郎がぴしりと叱った。

「悪口じゃないよ。ほんとのことだもの。入院したときに、オヤジの着替えや下着を持って行ったことがあったんだけど、安物ばかりだった。ねえ、あの人って、どこかの会社の社長の娘なんでしょ。なんで住み込みの家政婦なんかしているの」

 以前から疑問におもっていたことを、彩華は栄一郎と孝太郎を交互に見ながら口に出した。

「伊坂君に家政婦がいつかなくて困っていると言ったら、娘をあずかってくれといわれたんだよ。ほんとうなら、家政婦なんかしなくていい娘なんだ」

 何気ない口調で栄一郎が彩華の疑問に答えた。

「じゃあ、なんで家政婦しているの」

「本人が希望したんだ。働きたいと」

「ふうん。なんか、オヤジらしいかも」

 栄一郎の説明に納得したのか、彩華はテーブルに身を乗り出して雅巳のスイカで濡れている顔をお絞りで拭った。

「ぼく、キウイをたべてみたいな。あのね、オーストラリアのひとは、キウイをかわごとたべるんだって。みくちゃんがいってたよ。かわごとのほうがえいようがあるんだって」

「へええ。キウイって皮ごと食べられるの」

 彩華が雅巳の話しに頓狂な声を上げた。

「雅巳は種ごと食べる果物や野菜はアレルギーだから食べられないのよ」

 波子が雅巳のスイカの皿を片付けながらいった。

「そうなんだよね。ぼく、あれるぎーなんだよね」

 残念そうな息子の呟きを聞きながら、孝太郎は壁の時計に目を走らせた。そろそろ八時になろうとしている。

「雅巳。今夜はパパと一緒に寝ようか。おばちゃんは帰ってくるのが遅くなりそうだから」

「おばちゃんといっしょにねる。ねてまってる」

「そうか」

 ちょっと寂しそうに孝太郎は笑った。


 夜の十一時を過ぎても莉子は帰ってこなかった。彩華がいうようにデートなら、遅くなるのはめずらしいことではない。まして彼女はれっきとしたおとなの女性だ。そう孝太郎は自分を納得させていったんは寝ようとした。しかし、どうにも気になってしかたがなかった。

 莉子が自分の妻だったら電話できるのだが、家政婦ではしにくかった。まさか、いまどこですか、何時ごろ帰ってくるのですか、とは訊けない。あらためて自分と莉子の関係は、プライベートを抜きにした仕事だけの繋がりなのだとおもった。

 先日、莉子が夜の八時ごろに都庁に向かって走っていったことがあた。都庁から出てくる背広姿の人々を長いこと目で追っていたが、目当ての人はいなかったらしく諦めて帰ったが、途中で飲み屋の暖簾をくぐって酒を飲みだしたことがあった。

 心配になって店に入った孝太郎だったが、そのとき莉子は「準哉」という男の名前を口にした。たぶん、その男性と会っているのだろうとおもった。だが、あのときの彼女の口ぶりだと、準哉という男性とはうまくいっていないようだった。付き合いが行き詰っているのか悩んでいるようだった。ふだんおしゃれには無関心な彼女が、彩華から服を借りてまで着飾ってデートに出かけていったのなら、それは本気の恋なのだろうとおもった。真剣で、必死なのかもしれない。あの人は不器用だから、うまく気持ちを伝えるすべを知らずに足掻いているのかもしれないともおもった。

 もう一度時計をみてから孝太郎は椅子から腰を上げた。シャツとジーンズに着替えて家の鍵と財布を持った。莉子が気になってならなかった。苦労した人なのかもしれないが、危なっかしくてみていられなかった。もしかして、またあの焼き鳥屋にいるかもしれない。いなかたら帰ってこようとおもって孝太郎は家を出た。


 日曜のせいか、焼き鳥屋は以前きたときより空いていた。莉子はいつかと同じ奥のテーブルにいた。孝太郎は、カウンターの向こうに生ビールを注文して奥のテーブルに向かった。

 莉子は酒の入ったコップを持ったまま、テーブルに突っ伏していた。髪で隠れて顔は見えなかったが、疲れ果てた印象だった。

 彩華がいっていた、淡いピンクのブラウスは、莉子なら絶対に手に取らないような女らしい服で、たしかにこれなら誰かから贈られたものだろうと想像できた。

 上質な白いジョーゼットのフレアスカート、高級な腕時計、ブランド物のポシェット。いかにも借りものですといわんばかりに彩華の持ち物を身につけて、テーブルに突っ伏している莉子に、孝太郎の胸は痛んだ。

 テーブルに座ると、すぐに生ビールがジョッキではこばれてきた。ビールには手をつけず、莉子のようすを伺う。完全に眠ってはいないようだった。

「旦那さん」と、店主がカウンターの中から声をかけてきた。

「奥さんを連れて帰ってくれませんかね。飲みすぎで寝ちゃったんですよ。起こしてもおきないし」

「もうしわけない」

 店主にそう返して孝太郎は莉子の肩をそっと揺すった。

「おきなさい。帰ろう」

「準哉。遅いよ。どれだけ待たせるんだよ」

 すねたように肩を揺らして孝太郎の手を払いのけ、突っ伏したまま莉子はくぐもった声をもらした。ビールには手をつけないまま孝太郎はレジに行って会計をすませた。戻ってきて莉子の両肩を掴んで体を起こさせる。

「帰るんだ。さあ、立って」

「だいじょーぶだよ。だいじょーぶ」

 目をつむったままよろよろと立ち上がる。

「目をあけてごらん。それじゃ見えないだろ」

「うん。あける」

 薄目をあけたが、酔った目はとろんとしていた。孝太郎は莉子の腕を掴んで店を出た。外に出ると、もうじき九月になる夜気は、少しも冷めずに生暖かく頬を撫でた。莉子は孝太郎に腕をとられていることに気づくことなく、雲を踏むような足取りで歩いた。

「ねえ、準哉」と、回らない舌で甘く準哉の名を呼びながら、莉子は孝太郎の手を握ってきた。

「子供のころは、よくこうして手をつないで歩いたよねえ。ホームに帰りたくなくてさあ。でも、門限に遅れると先生に叱られるから、しかたがなくて、こうして手をつないで引っ張り合いながら帰ったんだよねえ」

 そういって莉子は孝太郎の手を、酔っているとは思えない強さで引っ張った。孝太郎はよろけて莉子にぶつかった。

「あはは。準哉はいつだって力無しだなあ。でも、だいじょーぶ。わたしが助けてやるよ。一生、わたしが、準哉を助けてやる。そのためには、なんだってしてやるからな。準哉」

 握った孝太郎の手を機嫌よく振り回しながら、莉子は悲しそうに笑った。

「早くおとなになりたかったよね。早くおとなになって、施設を出ようね、って話したよね。おとなになることが夢だったよね。おとなになれば、なんだってできると思っていた。おとなになれば、いいことだらけだって……」

 孝太郎は無言で莉子の言葉に耳を傾けていた。強い力で握ってくる莉子の手を見た。この手を離すものかというような強さだった。ふと莉子の足元を見ると、莉子はいつもはいている色あせたスニーカーを履いていた。それを見たとき、孝太郎の胸は震えた。なんと憐れなのだろうとおもった。どんなに着飾っても、この人は己の貧しさを隠せない。生きてきた足跡を隠せないのだとおもった。自分を偽ることの出来ない愚直さが悲しかった。

 家の前まで来たとき、莉子は足を止めてまともに孝太郎と向き合った。

「ん、あれ? 孝太郎さんじゃないか。準哉は?」

「さあ。しりませんよ」

「へええ? ああ、そうか。そうだった。準哉のところに行ったら、女の客がいたんだった」

 自分の額をぺチンと叩いて莉子は笑った。その顔は、涙か汗かわからないもので汚れていた。

「で、なんで孝太郎さんが?」

「酒を飲みに行ったら、きみがいたんだよ」

「そうか。じゃあ、こんどは二人で飲みに行きましょう。一人より二人のほうがたのしいからね」

 そういって莉子はよろよろと門をぐぐって玄関に向かった。鍵を取ろうとポシェットの中をかき回しているうちに孝太郎が玄関を開けてやった。

「じゃ、おやすみなさい」といって手すりにつかまりながら莉子は階段を上っていく。危うげなので、後ろからついて行って寝室に入るのを見届けた。

 自室でシャツを脱ぎながら、孝太郎は準哉という男のことを考えていた。同じ養護施設で育った人物のようだが、莉子ののめりこみかたが心配だった。相手の男は、莉子を愛していないと直感した。このまま莉子が傷つき苦しむのは忍びなかったが、自分が立ち入る問題ではないとも思い返した。

 孝太郎には見合いの話しが進んでいたし、アメリカ人と再婚してアメリカに住んでいる美里耶が、雅巳を引き取りたいと再三言ってきていた。片づけられる問題は、さっさと片づけないと面倒なことになる。

 ベッドに横になって枕の高さを調節した。眠ろうとするのだが、準哉という名前が耳にこびりついて、孝太郎はなかなか眠れなかった。


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