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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
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第十三話


「室長。この調査結果をそのまま報告書に上げてよろしいでしょうか」

 部下の女性社員に声をかけられて、孝太郎は物思いから覚めた。いつのまにか、栄一郎が話してくれた莉子の生い立ちを反芻していた。それほど話の内容は驚きに満ちていた。

「その報告書は山本さんのところに持って行って、問題点のチェックをしてもらってから、常務のところに上げてください。それと、研究室のセキュリティーに関して専務から質問がありましたが、どうなっていますか」

「責任者が直接お答えしたほうがいいだろうということになりまして、そのように手配しましたが、念のため書類にして控えを用意しました。もしもセキュリティー会社を替えるというような話が出たときのために、数社をピックアップしておきました」

「その会社の調査もあわせてしておいてください」

「はい。調査はすませてあります」

「ありがとう」

 女性社員は会釈して仕事に戻っていった。孝太郎は席を立ってバックヤードエリアに行った。ランチや秘書室への来客に使うスペースで、自動販売機が二台並んでいる。ゴミ箱と、小さな丸テーブルが六脚しかない殺風景な場所だ。自販機から缶コーヒーを買ってイスに腰を下ろした。窓の向こうには都心のビル郡が真夏の青空にそびえていた。

「伊坂は、なかなか話したがらなかったよ。当然だ。あんな話は俺なら墓の中まで持っていくな」

 栄一郎の声がよみがえる。

 缶コーヒーを口に含む孝太郎の表情は苦かった。

 栄一郎はいつもなら、自分のことは私という。それが、そのときは、俺といった。

「ひどい話だと思ったよ。俺も、自分のこれまでを振り返ると、おまえの母さんや由香里には思いやりがなかったと反省しているが、伊坂のしたことは、男として最低だ」

 苦々しそうに栄一郎は話しだした。

「孝太郎も知ってのとおり、伊坂の祖祖父は伯爵で家柄がいい。イギリスに留学した経験のある祖父が、潤沢な資産を投じて今の会社の礎を作った。伊坂は、いうならば名門中の名門。サラブレッドだよ。伊坂がアメリカの大学を卒業して、そのままニューヨーク支社で働いて日本に帰ってきたのが二十八歳のときだったそうだ。

 将来は会社を牽引していく立場になる伊坂は、自由で自己主張が明確なアメリカの生活に慣れていたため、日本特有の根回しや人脈の派閥、日本人特有の腹芸というものに、へとへとになっていた。日本に帰ってきたうれしさよりも、ストレスのほうが勝っていた。 大学時代の友人は、みな留学先のアメリカにいる。電話でやり取りしていても距離はいかんともしがたい。それで、高校時代の友人と飲み歩くようになった。いつものように、会社が引けた金曜日の夜に待ち合わせて庶民的な居酒屋に入った。そこに京子が働いていた。莉子の母親だ。

 長い髪を項で一つにしばり、前髪を横に流した京子は、そのとき十九歳だった。素顔の頬がばら色で、笑うと真っ白な歯が清潔だった。伊坂は、ひと目で恋に落ちた。アメリカで暮らした経験がものをいった。フランクで、ジョークが上手で話題が巧みな伊坂に、京子の若い警戒心はあっけなく消え去った。貧しい父子家庭に育った京子にとって、家柄のよい資産家の伊坂は、まさに夢に出てくるような王子様だったのだ。

 容姿端麗。品が良くておもしろい。やさしいし、教養も深く頼りがいがあった。金離れもいいから高価な贈り物をふんだんにした。きっと京子は夢中になりすぎて思慮分別を失っていたのだろう。日本では身分制度は廃止されているので存在しないが、見えない形で身分社会が現存していることを忘れていたのだ。

 伊坂は家を捨てて京子と駆け落ちした。京子は伊坂の子供を身ごもっていた。狭いアパートで暮らし始めた伊坂と京子は幸せだったのだろう。だんだん大きくなってくるお腹をした京子の肩を抱いて、幸せそうに写真に納まった伊坂がいたぐらいなのだからな。しかし、破局はあっけないくらい簡単に訪れた。伊坂の家が雇った屈強な男達がアパートに訪れて、伊坂をさらって行ったのだ。もうすぐ臨月を迎えようとしていた京子の驚きと悲しみはいかばかりだったろう」

 唇を湿らせるためにグラスを口に持っていった栄一郎につられて、孝太郎もグラスを口にはこんだ。孝太郎の喉は渇いていた。

 孝太郎は、雅巳を身ごもって、日に日に幸せそうに輝いていく美里耶を思い出していた。妊娠は、女性を幸せにする。お腹の中で順調に育っているわが子に、生まれる前から愛情を抱くのが女性だ。美里耶もそうだった。孝太郎もよく大きなお腹に手をあてて、まだ見ぬ雅巳に話しかけていたものだ。だからこそ、京子が哀れでならなかった。伊坂を連れ去られて、彼女はどんな思いで伊坂からの連絡を待っていたことか。

「俺が男として伊坂に腹を立てるのは」と、グラスを置いた栄一郎が話を続けた。

「母子手帳に自分の名前を自筆で書いておきながら、入籍していなかったことだ。しかも、莉子が生まれたあとも連絡を取らず、京子さんは失意の中で二十一年間の生涯を終えた。なんという若さで死ななければならなかったのだ。京子さんの父親は、生まれた莉子を抱いて伊坂に会いに行った。伊坂は、土下座して詫びて、金をわたした。京子さんの父親は金を受け取り、莉子を養護施設に預けた。ひどい話しだろ、孝太郎。かわいそうなのは莉子だ」

 怒りに堪えないというように声を大きくした栄一郎に、孝太郎はぎゅっと唇をかんだ。

養女ではなかったのだ。実の娘だったのだと、孝太郎は軽率な自分を恥じた。

「莉子はな、高校の卒業式が終わった足で、伊坂の会社に乗り込んできたそうだ。竹刀一本を片手に握って、伊坂の役員室まで、みごとに上ってきたという。俺はな、孝太郎。そのときの伊坂の驚きよりも、莉子の思いつめた十八年間に同情するのだよ。莉子は、母親が残してくれた母子手帳と、母親と伊坂が同棲していた頃の二人が写ってる写真を持っていたそうだ。その写真の父親が、いつ養護施設に迎えに来てくれるかと、一日千秋の思いで待っていただろうことは想像に難くない。待ち望む気持ちが、いつ憎しみに変わっても不思議ではないのだ。だが、あの娘は、粗野ではあるが、愛情にあふれている。きっと、母親に似たのだろう」

 話し終えた栄一郎は、話し足りない感情を飲み込むようにグラスを飲み干した。

 なんど波子に、波子さんといいなさいと叱られても、波子といいよどむ、ふてぶてしい莉子の顔が孝太郎の脳裏に浮かんだ。雅巳、彩華、涼、と大きな声で呼ぶ莉子の声まで聞こえるようだ。あの笑顔とあの元気な声の蔭には、そんな過去があったのかとおもうと、孝太郎の胸が詰まった。大声で家の中で名前を呼ばれれば、うるさいとおもわないでもないのだが、彼女の声はちっとも耳に刺さらない。また呼んでいる。また怒鳴っているとおもうだけだ。

 彼女の十代は、辛いだけの青春だったのだろうか。楽しい事や、胸はずむことはあったのだろうか。どんなふうに、どのように、苦しいことを乗り越えてきたのだろう。

 車で莉子と涼を拾ってフレンチレストランに連れて行ったとき、莉子は、マナーを教えてほしいといった。どこに出ても恥ずかしくない女性になりたいといって涙を落とした。

 あの涙はなんだったのだろう。涼にからかわれたことが泣くほど悔しかったのだろうか。どちらにしても、今まで習得してこなかった作法を学ぶのは彼女にとってよいことだった。力になってやりたい。彼女が、彼女らしさを失わず、豊かな人生を歩いていけるように助けてあげたいとおもった。

 孝太郎は、残り少なくなった缶コーヒーを飲み干すと職場に戻って行った。



 真っ白な日傘をさして、莉子は涼がかつて通っていた中学校に向かっていた。

 デパートで買った高価なレースの華奢な日傘は、日に焼けている莉子にはおしゃれすぎて似合わなかった。ふちの擦り切れたキャップのほうがよほど似合っている。しかし、意気揚々と日傘を掲げて歩く莉子は、黒縁メガネをかけて白のブラウスに紺のタイトスカート姿だ。相変わらず髪をうなじで一つにしばって前髪を横に流している。ローヒールの黒のパンプスを履いて黒皮の書類入れのようなバッグを持っているから、一見地味な会社員に見えた。

 中学校の校門をくぐって事務室で来意を告げると応接室に通された。すぐに目当ての五十代半ばの男性教師がやってきて小川と名乗った。小川は紺の薄いアルバムを持っていた。莉子は、名前だけ印刷してある名刺をわたした。

「先日お電話を差し上げた伊坂莉子です。お忙しいところ、わざわざ時間をつくっていただきまして、ありがとうございます。名刺には書いてありませんが、人事関係の調査の仕事をしております」

 もっともらしい嘘をついて頭を下げたら、小川も一礼してソファを勧めながら自分もテーブルをはさんだ向かい側に腰を下ろした。

「調査関係の仕事といいいますと?」

 名刺に名前だけしか印刷していないのを確認してから小川は莉子に顔を向けた。

「具体的に申しますと興信所です。小川先生が三年前に受け持っていた、谷村涼さんのことを少し伺いたくておじゃましました」

「谷村君のことだと聞いていましたから、卒業アルバムを持ってきましたが」

 テーブルにアルバムを置きながらいう。

「わざわざありがとうございます」

 軽く頭を下げて礼を言ってから、莉子は話を切り出した。

「じつは、谷村涼さんのお兄さんがお見合いをしまして、見合い相手の親御さんからの依頼なんです。弟さんの涼さんが引きこもりで先方様はそれを気にしておられるようです」

 見合いの身辺調査依頼だと話すと、小川は安心したのか急にくだけた。

「そういうことですか。今でも見合い相手の調査なんてあるんですね」

「ええ。宗教関係とか、秘密の恋人がいないかとか、隠し子はいなか、財産はどれくらいか、反対に借金はないか、身内に犯罪者はいなか、などというのが大半なんですけどね。」

「へえ。そんなことを依頼してくるんですか。見合いもなんだか怖いなあ」

 適当な嘘を並べ立てただけなのだが、小川は真に受けたようだった。

「調査結果で破談になるケースもけっこうありますよ。ところで、谷村涼君なんですが」

「そうでしたね。では、引きこもりということは、高校は中退したんですか」

「そのようですね」

「では、今でも治っていないんですか。吃音症」

「は? 吃音症って、なんですか」

「どもりですよ。どもり」

「どもり……」

 莉子は首をかしげた。涼がどもったことろは見たことがない。なにかの間違いではないかとおもった。小川は過去を振り返るような遠い目をして話し始めた。

「谷村君の家庭は、大家族でしたよね。地元では有名なお屋敷だからよく覚えていますよ。私が受け持ったときには、ご両親は離婚されてましてね、情緒が不安定になりやすくて、よく吃音がでたんですよ。あの症状は、焦れば焦るほど言葉がでてこなくなりますから、気の毒なんです。よくからかわれて笑いものになっていました」

「それを先生は、黙って見ていたんですか」

 おもわずかっとなって、莉子は大きな声をだしていた。小川が目を丸くした。

「すみません。わたしの妹もときどきどもるので、ついむきになってしまいました」

 口からでまかせだったが、しおらしく謝ると小川は理解を見せて緊張を解いた。

「そうですか。昔は吃音症の子供はけっこういたんですが、いまは少なくなったのかな。吃音そのものがおもしろがられて、谷村君は辛かったと思います」

「それが原因で不登校になったんでしょうか」

「それが一因だとおもいますが、それだけではないでしょうね」

「と、いいますと」

「家庭がね。複雑でしょ。お父さんは仕事が忙しくて家庭をかえりみないようだったし、お兄さんにお嫁さんが来て、新しい家族が増えたり。それに、お父さんの妹さんという人がいたでしょ。きつくて口うるさい人みたいで、谷村君は一度だけその人のことを嫌だって言ったことがあったんです。おとなしい子だったから、記憶に残っていますよ。もともと左利きなのに、左手を使うと叩くんだそうです。お母さんがいたころは、お母さんが庇ってくれていたらしいんですが、離婚してからは、そのおばさんがますますきつくなったらしいんですよね。だから、顔を合わせたくなくて部屋から出ないんだと言っていましたよ」

「波子のやつ」

「え? 波子っていうんですか?」

「いえいえ。こちらのことです。でも、涼君はどもっていませんよ。治ったんじゃないですか?」

「谷村君にも会ったんですか」

「そんな話は周りから出ていなかったので」

「治ったのかな。しかし、高校に進学したのに引きこもりになったということは、治っていないんじゃないかな。緊張すると言葉がでてこないのが吃音ですからね。家にいる分には、なんともないんじゃないかな」

「なるほどね。きょうはお忙しいところ、ありがとうございました」

 腰を浮かして挨拶すると、小川も立ち上がって「お兄さんのお見合い、うまく行くといいですね」と、いった。

 事務棟を出て、日傘をさして家に向かう莉子の表情は複雑だった。孝太郎に誘われて昼に食事したときも、涼はナイフとフォークは右利きの人と同じように使っていた。どもるのを聞いたことはない。

 でも、と家の門の前まで来て足を止めた。以前、莉子が孝太郎の見合い写真を持ってきて涼に放り投げたとき、とっさに左手で受けとめたときがあった。

 左利き。吃音。叩かれる。波子。

 莉子は考え込んでうつむいていた。

「どうしたのよ。日傘なんかさしちゃって。似合わないわねえ」

 元気な声に顔を向けると、制服姿の彩華がスクールバッグを肩にかけて笑っていた。

「なんだ。彩華か」

「なんだはないでしょ。めずらしいね、スカートなんかはいちゃって。それにその日傘。どうしたの。買ったの」

「いい傘だろ? 素敵な女性は、こんなふうな日傘をさしてしとやかに歩くんだよ。かっこいい男にさしかけて、小さな日陰の中で寄り添って微笑むんだよ」

 ぷっと彩華が吹き出した。

「どうしたのよオヤジ。暑くて頭がおかしくなっちゃったんじゃないの」

 門をくぐって玄関に向かいながら、笑い転げている彩華に日傘をさしかけた。

「なあ、彩華」

「なに」

「涼のことなんだけどさ」

「うん」

「涼の引きこもりの原因って、なんだ」

「さあ。学校を休みがちになって、いつのまにか行かなくなっちゃったんだよね」

「いつからだ」

「ええと、中学の三年ぐらいからかな。高校には行ったんだけど、一年の一学期ぐらいまでで、でも、どうして?」

「涼のような生活は、たいがい自分でもこれではいけないとおもっているものなんだよ。抜け出すきっかけが必要だな」

「難しいとおもうよ。叔母さんがずいぶん叱っていたけど、だめだったもん」

「波子はなんと言って叱っていたんだ」

「ええと。学校に行けとか?」

「涼はどもるのか」

「あ。そうだった。小さい頃はどもっていたね。でも、いまはどもらないよ」

「やっぱりどもったのか。左利きは?」

「涼ちゃんはもともと左利きだよ。でも、叔母さんが厳しく矯正したから右手で何でもできるよ」

「そういうことか」

「なに。どうしたの。なにかあったの」

「いいんだ。気にするな。家に入ろう」

 門から続いているアプローチを歩いて玄関のドアを開けた。揃って階段を上って廊下を歩く。

「なんとかしないとな……」

 莉子の呟きを耳にしても気にすることなく、彩華は大きな声で「お腹がすいたあー」といいながら自分の部屋に入っていった。

「お菓子なんか食うなよ! メシが食えなくなるぞ」

 怒鳴ったが、きいているとはおもえなかった。


 夜、風呂をすませて自分の部屋に戻ってきた孝太郎は、机に置きっぱなしになっている見合い写真にため息をついた。栄一郎からわたされた写真に添付された釣り書きを見ると立派な経歴だ。家族どころか一族がそうそうたる顔ぶれで、見合いの女性の離婚暦などは取るに足らない。それどころか、一児をもうけて離婚した孝太郎には、もったいない相手だった。写真を見てみたが感じのいい女性だ。だが、孝太郎は気乗りしなかった。

 雅巳のことを考えると、できるだけ早いうちに再婚したほうがいいとはおもうのだが、再婚したら子供ができるだろう。雅巳の新しい若い母親は、自分の子供に夢中になって、雅巳に寂しい思いをさせるかもしれない。そんな細かいことを考えるとは、自分でも神経質だとおもうのだが、雅巳が莉子のベッドにもぐりこんで顔をくっつけて眠っている姿を見てしまったら、わざわざ再婚しなくてもいいのではないかとおもってしまう。

 雅巳と莉子のことが頭に浮かんだら、無性に二人の寝顔が見たくなった。帰国子女だった美里耶は、子供の育て方もヨーロッパ式で、小さいうちから雅巳を一人で子供部屋に寝かせた。しかし乳児の雅巳は夜中に目覚めて泣いていたかもしれないのだ。莉子が、こんな小さな子供を、一人で寝かせるのはかわいそうだといっていたが、今では孝太郎もそうおもうようになっていた。

 なぜ、あんなかわいそうなことができたのだろう。莉子が来て、莉子と一緒に寝るようになってから、雅巳はおねしょをしていない。よく笑い、さかんにいたずらをして波子に叱られているが、以前と違って表情に落ち着きがでてきていた。莉子が来る前は、考えることをしない危うさがあった。叱られても叱られてもケロリとしていて、なにも考えないのだ。でもいまは、なぜ叱られたか、考えるようになった。莉子にまつわりついても、莉子はうるさがらないから、受け入れられていると自信がついて、落ち着きがでてきたのだろう。

 孝太郎は、無性に雅巳の寝顔が見たくなった。パパはおまえを愛していると、寝ている雅巳を抱きしめたかった。あんな幼い子供を、いかに大変な時期だったとはいえ、よく放っておけたものだとおもう。波子がめんどうをみてくれていたとはいえ、雅巳は自分の子供だ。子供がいちばん頼りにするのは親なのだ。そのことに思い至ると、孝太郎は莉子のことも憐れにおもうのだった。

 心細さに眠れぬ夜をすごしている子供のころの莉子を、いったい誰が慰め励ましてくれていたのだろう。孝太郎は、気の強さの陰に隠れている傷ついた莉子に気がついていた。

 肺炎で入院しているとき、帰りがけに咳き込んだので戻って莉子の背中をさすろうとしたことがあった。そのとき莉子は、孝太郎の手を怯えたように避けたのだ。愛されて育った人は、愛情を疑わないからためらわずに自身を委ねる。人の厚意に尻込みするのは、愛される自信がない人間だ。なんと憐れなのだろう。

 半乾きの髪をかきあげ、パジャマ代わりのTシャツに軽い素材のパンツをはいた孝太郎は、莉子の部屋の前にたたずんだ。いくら我が子の寝顔が見たいといっても、女性の部屋に入っていくわけにはいかない。子供の顔が見たかったら早く帰ってくるしかないのかとため息をついたとき、玄関に人の気配がした。その気配は、玄関の作り付けのシューズボックスから靴を出して、そっと外に出て行った。

 急いで廊下に出た孝太郎は、莉子の後姿がドアの向こうに消えるのを見て、とっさに後を追いかけていた。


 高層ビルの隙間を走る車の列が、夜の中に光の川となって流れるその横の歩道を、莉子は走っていた。初めは急ぎ足程度だったのが、しだいに早くなって、今では夢中で走っていた。

 準哉に会いたい! 準哉! 準哉!

 肺炎で入院しているときは我慢していた。入院するきっかけになったいきさつを思い出すと、きっと準哉は怒っているだろう。でも、退院して、梅雨が明けて、夏が真っ盛りになっているのに、一度も準哉からメールがこないことに心がかきむしられるような痛みを覚えていた。

 いつもの交差点に差し掛かった。ふだんは左に折れて中央公園の真ん中を突っ切るのだが、夜の公園を行くは無謀なので、真っ直ぐ進んで第一庁舎の前の広場に向かった。

 時刻は夜の九時前だ。もしかしたら、準哉はまだ仕事をしているかもしれない。うまくすれば帰る姿が見られるかもしれない。

 息を切らせて都庁前広場の銅像の影に座り込んだ。見上げるツインタワーの窓は、消えているところもあれば灯っているところもあって電光パズルの画面のようだ。あの窓の中に準哉はいるだろうか。

 莉子はひと目でいいから準哉を見たかった。自分から電話すればいいのはわかっていた。そうすれば、準哉のことだからいつものように返事をかえしてくれるだろう。でも、準哉のほうからメールも電話もこないなどということは、これまでなかったことだった。どんなに烈しく言い争っても、あげくに絶交状態になっても、心が離れたと感じたことはなかった。

 心が離れる! 莉子は身震いした。そんなことがあるわけがない。絶対ない。だって、わたしと準哉は特別だから。わたしたちは、特別なんだ!

 銅像の影で、莉子は震えた。無性に怖かった。理屈のない恐怖が、足の先から這い登ってきた。

 銅像の影にうずくまって考えた。この恐怖は、どこからくるのだろう。わたしの失言か、それとも連絡を取り合わなかった時間の長さか、あるいは準哉のそばにかいま見える女性の姿か。

 準哉はまさか、わたしを捨てるつもりなのだろうか。わたしのほかに好きな人ができて、わたしなんかいらなくなってしまったのだろうか。

 その考えは、莉子を震え上がらせた。銅像に寄りかかって、きつく両腕を体に巻きつけた。

 そんなはずはない。だって、わたしは、必死で準哉に尽くしてきた。準哉の幸せのために。準哉の未来のために。

 何度も胸をさすりながら、心の奥底から浮かび上がってくる声に耳をふさいだ。ぞろりと動き出す恐ろしい感情。黒々とした心の闇から囁いてくる自分の声。

「準哉は、なぜ一緒に暮らそうといってくれないのだろう」

 莉子は目をきつく閉じて頭を抱えた。心の中でしゃべりだす声を聞きたくなかった。

 信頼されて大きな仕事を任せられるようになってきたころだもの。

 給料も、ボーナスも、やっと満足できるくらいもらえるようになったころだもの。

 これから余裕ができれば、わたしのことを考えてくれるはずだ。準哉はわたしのことを、いつまでも放っておかないはずだ。

 きっと、いつか、言ってくれる。「一緒に暮らそう、莉子」と。

 莉子は縋るおもいで自分にそういいきかせた。


 銅像の影にうずくまって、退庁して駅に向かう職員たちに目を凝らしている莉子を、孝太郎は少し離れたところから見守っていた。もう、三十分以上もああしている。誰かを待っているのだろうが、無意味な行動が理解できなかった。

 携帯電話で電話なりメールをすればいいことだ。それとも、そういう相手ではないのだろうか。思いつめたような様子は莉子らしくなかった。それが孝太郎には気になった。誰を待っているのだろう。なぜ待ち伏せのようなまねをしているのだろう。

 孝太郎は、莉子が気になって帰るに帰れなくなっていた。夜も更けて、都庁のビルの窓の明かりが次々と消えていった。いつまでそういているのかとしびれを切らした頃、ようやく莉子は動き出した。

 悄然と来た道を引き返していく。ほっとして孝太郎はあとを追った。真っ直ぐ家に帰るのかとおもったら、途中の飲み屋の暖簾をくぐって入っていった。孝太郎はどうしたものかと思案した。何も持たずに出てきたため、財布もなければカードも持っていない。だが、放っておけない気がした。さりとて、偶然をよそおって店に入っていくには不自然すぎる。今の孝太郎の服装は寝るときのTシャツと柔らかなパイルコットンだ。この格好で、しかも金も持たずに店に入っていって莉子の前に立ったとき、なんといって取り繕っていいのかわからない。立ち去るべきだが、店に入るなら今しかないと瞬時に判断した。孝太郎はおもいきって暖簾をくぐった。

「いらっしゃい」という野太い店員の声に迎えられる。カウンター席のほかに四人がけのテーブルが六脚しかないこじんまりした焼き鳥屋で、カウンターをはさんだ向こう側のコンロから、炭火で焼ける肉のいい臭いがしていた。

 莉子は、一番奥のテーブルで、ハツやつくねののった皿を前にしてチューハイを飲んでいた。背中を丸め、うなだれて、片肘で体を支えてチューハイのグラスを持って動かない。

 孝太郎は、莉子と向かい合わせに座った。莉子が、怪訝な面持ちで顔を上げた。孝太郎だとわかると、驚いて見開いた目からポロリと涙が落ちた。

「タバコが切れて買いにきたら、ちょうど店に入っていくところを見かけてね」

 孝太郎の言い草に莉子は薄く笑った。

「タバコなんか吸わないくせに」

「隠れて吸うんですよ。家のものには内緒ですよ」

「高校生かよ」

 孝太郎が笑った。

「タバコを買ったら金がなくなっちゃたんですよね」

「まだいってるよ。なんで孝太郎さんがここにいるんですか」

「偶然ですよ」

「偶然なんか、そうあるもんじゃないですよ。まさか、あとをつけて来たりしてないですよね」

 詮索するように孝太郎を窺ったが、「どうでもいいか。そんなこと」と、投げやりになった。

 店員がお絞りと水を置きに来た。お通しの小皿も孝太郎の前に置く。

「ビールをたのんでもいいですか」

 行儀よく莉子に訊いてから、頷いたのをみて店員に生ビールを注文した。莉子はうつむいてチューハイのグラスを口にもっていった。孝太郎への興味は失せたように浮かない表情で濡れた唇を手のひらでぬぐった。

 ビールがはこばれてきた。ジョッキを口に持っていきながら、孝太郎はさりげなく莉子を観察した。

 肩を丸めて、首が折れてしまいそうなほどうなだれているので、酔っ払っているのかと勘違いしそうだが、声もなく泣いているのだとわかった。器用な泣き方をするとおもった。身動きできない卵の殻の中に閉じこめられて、息さえとめて、声を出さずに泣いている雛鳥のようだ。

 先ほど孝太郎を見上げた拍子に涙をこぼしてしまったが、下を向いてじっとしていれば、もしかして、涙はこぼれず吸収されてしまうのかもしれない。そんな泣き方をする女性は初めてだった。

 冷えたビールを飲み干してジョッキを置いた。孝太郎は莉子に言葉をかけなかった。話しかけないほうがいいとおもった。目の前に孝太郎はいても、いま莉子は、一人で自分と向き合っていた。孝太郎は黙って莉子を見つめ続けた。莉子のグラスはなかなか減らなかった。皿の焼き鳥も減っていない。

 店員がテーブルとカウンターを往復する足音。調理場のコンロで爆ぜる備長炭の燃える音。客のざわめきと笑い声。店の隅にあるテレビから演歌の曲が流れている。客が出入りするたびに「いらっしゃい」と「ありがとうございました」の声が響く。

 孝太郎は行儀よく膝に手を置いて莉子を見つめていた。やがて、うつむいたままの莉子が口を開いた。

「孝太郎さん。いつもお行儀がよくて疲れませんか。会社でも、家でも」

「それが普通ですからね」

「そんなもんですか」

「そんなものです」

 莉子は手に持っている酒を思い出して一気に飲み干した。店員に声をかけて冷酒を注文する。孝太郎のビールがなくなっていたので、「孝太郎さんはビールでいいですか」ときくので、それでいいといったら、ビールと焼き鳥も適当にたのんだ。待つほどもなく注文したものが運ばれてきたので、莉子は手酌でガラスの杯に冷酒をついだ。孝太郎も二杯目のジョッキを口にはこんだ。

「そんな格好で外に出て……」

 孝太郎の服装に目をとめて莉子が顔をしかめた。孝太郎が笑った。

「知らない人は寝巻きだとはおもいませんよ」

「そりゃそうだ」

 莉子も失笑した。

「孝太郎さんも食べなさい。わたしのおごりです。遠慮は要らないですよ」

「ええ」

 莉子の目元は湿っていたが、自分の世界からこちら側に戻ってきたのがわかって孝太郎はほっとした。なにがあったのかは知らないが、こんなとき、気の利いた話題で笑わせることができたらいいのにとおもった。莉子も、もっと何か話してくれたらいいのにとおもった。何でもいい。最近おもしろかったテレビとか、友人のこととか、何でもいいのだ。どんなつまらない話でも、くだらない話題でも、真剣に耳を傾け笑ったのに。しかし莉子は、ふたたび背中を丸めてしまった。黙々と杯を口に持っていって、酒を放り込むように飲みこみ、また手酌でつぐ。その繰り返しに孝太郎は眉をひそめた。そんな飲み方はよくないと注意しようとしたとき、「ねえ、孝太郎さん」と、酔いの回った不安定な瞳が孝太郎をとらえた。

「わたしの友達のことなんですけど」

「うん」

「彼氏から、電話もメールもこないんだって。ほかに女ができたんじゃないかって心配しているんですけど、どうなんでしょうね。孝太郎さんは男だから、男の立場でどうおもいますか」

 揺れ動く眼差しが、すがるように孝太郎を見つめていた。

「仕事が忙しいのでしょう。女性はすぐそんなふうに勘ぐるからかなわない」

 孝太郎は軽くかわした。

「でも、メールぐらいなら時間はかからないでしょ。どうしてメール一本してこないのかな」

「そんなことは彼に聞きなさい」

 喧嘩を売るような孝太郎の言い方に莉子はむっとした。

「はああ? 友だちの話しなんですけどお」

「そうじゃないでしょ。女性は自分の話をしづらいとき、友達のことなんだけどって断りをいれるんです。そうでしょ」

 きつく睨まれてぐっと詰まった。悔しそうに唇を曲げる。

「そうですよ。幼なじみの兄妹みたいな男です。気まずくなって三ヶ月になるんです。」

 みるみる涙が盛り上がったが、目の中で揺れる涙はこぼれることなくとどまっている。孝太郎はいまいましそうに唇を歪めた。

「泣くのはやめなさい。こんなところで、みっともない」

「おおきなお世話です。泣こうが笑おうが、わたしの勝手です。一人で飲んでいたのに、邪魔したのは孝太郎さんのほうじゃないですか。なんで寝巻き姿でここにいるんですか。なんでわたしがここで飲んでいるってしっているんですか。えらそうに。説教たれやがって」

「声が大きいよ。静かに話しなさい」

「学校の先生かよ。そうだ、先生といえば、涼の中学のときの担任の先生が言っていましたよ。涼はどもりでみんなから笑われていたってね。それが原因で学校に来なくなったって」

「どうして、そんなことを」

 孝太郎の表情が硬くなった。莉子は酔いが回って頭を揺らしながら続けた。それでも涙はこぼれなかった。

「担任だった先生に、どもりで苛められたのが原因で登校拒否になったのかって訊いてみたんですよ。そうしたら涼が言ったそうですよ。波子が左手を使うと叩くんだって。だから波子の顔をみたくなくて部屋から出ないんだって」

 みるみる孝太郎の表情が変わった。

「人の家庭のことを詮索するとはなにごとです。わきまえなさい」

「彩華にきいたら、涼はもともと左利きだったって。でも、涼は左手を使わない。どこで、なにが、涼の人生を曲げたんですか。お母さんがいたころは、お母さんが庇ってくれていたそうだけど、離婚してからは、波子がきつくなって、涼は辛かったみ、」

「もういい。やめなさい」

 怒りもあらわな瞳に睨まれて、莉子はがっくりうなだれた。

「波子を庇っているつもりなんでしょうけど、長男の孝太郎さんの役割は、弟妹のめんどうをみることでもあるですよ。小さくて弱い弟妹を、お兄ちゃんが守ってやらないで誰が守ってやれるんですか。涼はいま、だいじなときなんです。高卒認定試験は間近です。自分でも、いまのままではいけないと思っているから、一歩前に踏み出そうとしているんです。波子を責めているわけじゃありません。目を逸らさないでください。涼のために……」

 ゆらゆら揺れながら酒を飲み干す莉子の姿に、孝太郎は言葉が出なかった。腹が立つし無性に悔しい。いまいましくて怒鳴り返してやりたい。それらを飲み込んで孝太郎は、声を抑えて目元も定まらない莉子を覗き込んだ。

「涼の中学校の先生に、会ってきたんですか」

「はい。なんで涼が引きこもりになったのか、知りたかったから……」

 眠そうに間延びした言い方だ。

「おせっかいだな。実に腹立たしい」

「うん。よく準哉にもそういわれた。莉子はおせっかいだ。よけいなことはしないでくれって。かわいかったな。子供のころの準哉は。でも、おとなになっちゃったら、なんだか、遠くて、昔みたいになれないんだ。こんなに好きなのに。どうしようもないほど好きなのに。準哉がどんどん遠くに行ってしまう。追いつけないかもしれない。どうしよう。準哉」

 こぼれそうでこぼれなかった涙がついにこぼれた。孝太郎は辟易した。何が準哉だ。なにがかわいかっただ。

「しっかりしなさい」

 滴り落ちた涙がテーブルに落ちた。じょうずな泣き方をするとおもった。涙だけ落として頬は濡れていない。妙な感心のしかたをしながら、酒を飲もうとする莉子の手からグラスを取り上げた。

「帰るから会計をしてきなさい。僕は無一文だ」

「はい。会計してきます」

 立ち上がったが、足元も定まらない。よろよろとレジに行ってジーンズの尻ポケットからしわくちゃな札を引っ張り出す。財布も持っていないのかと呆れた。つり銭を受け取って無造作に尻ポケットに戻す。「ありがとうございました」の声に送られて外に出ると、真夏の夜気が熱く絡み付いてきた。

 ふらふらと、雲を踏むように歩いていく莉子の後ろについて行きながら、孝太郎は涼のことを考えていた。

 思い当たることが多々あった。胸が痛む思い出だ。あの頃は、家族全員が苦しみの中で喘いでいた。みなが自分を守ることに精一杯で、周りのことには目をつむっていた。波子を責めているわけではないと莉子はいった。目を逸らさないでくれといった。心が苦しかった。傷口を開いて膿んでいる内部を見る勇気がなくて閉じている瞼を、力任せに広げられたような気がした。

 涼の引きこもりの原因が波子だったら、波子の罪は大きい。それを自分は断罪できるだろうか。波子の彩華に対する厳しさも、雅巳を叱るときの邪険さも、思えばすべて、雅巳や弟妹を哀れに思いながら見てみぬふりをしていた。自分もまた卑怯だったということだ。莉子という女性は、なんと苦しいことを突きつけてくるのだろうとおもった。

 準哉という男性への想いをほとばしらせる熱い血が流れるこの人は、俺の目の前を酔ってふらふら歩いている。きっと泣きながら歩いているのだろう。何度泣いたかわからない人生を、この人はひたすら生きている。

 高校の卒業式が終わったあとで、竹刀一本を片手に伊坂達郎の役員室までたどりついたという莉子のことを思うと、孝太郎は体中の血がざわめいた。

 なんという勇気だ。そんな勇気のある女性が、一人の男のことで泣き疲れるほど揺らいでいる。

 目の前で、莉子が大きくよろめいた。とっさに手を伸ばした孝太郎の手を、莉子は邪険に跳ね除けた。

「さわるな。一人で歩ける。歩いてきたんだ」

 ガニマタでふらつきながら歩いていく莉子の不恰好な後ろ姿が哀れだった。それと同時に、人の家庭の中に土足で踏み込んでくるような礼儀知らずに苛立ちも覚えた。家庭を騒がせる波風は立ててもらっては困る。

 波子のこと。涼のこと。どうしたらいいのだろう。それに、見合いの話を聞きつけたわけでもないのだろうが、美里耶が雅巳を引き取りたいといってきた。母親なのだから、我が子をそばにおきたいという気持ちはわかるが、一歳のときに別れて以来会っていない母親を、雅巳は覚えているはずがない。覚えていなくても、会えばすぐに懐いて母親と暮らすと言い出すだろうか。莉子の後ろを歩きながら、孝太郎は重いため息をこぼしたのだった。


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