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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
12/18

第十二話

 長かった梅雨が明けた。

 洗濯機の乾燥機が大活躍して電気代を跳ね上げた季節は終わりを告げ、車庫の横の物干し場には、色とりどりの衣類が大量に風にひるがえっていた。

 干すだけで三十分もかかってしまう衣類を干し終わって空を見ると、長雨で水がしみこんだ地面から水気が蒸発していくのが見えるようだった。

 肺炎で入院していたとき、毎日孝太郎が面会時間の終わりごろに顔を見せに来てくれたことがうれしかった。救われたといってもいいだろう。体だけではなく、心も弱ってしまう入院生活では、見舞いに来てくれる人の訪れを待ちわびてしまう。来てくれるだけでいい、顔を見せてくれるだけでいい、それだけで、孤独が消えていく。ひとりぼっちでなくなる。孝太郎への感謝を言葉にだすことはなかったが、孝太郎は屈折した莉子の気持ちを、大きな心で理解してくれているようだった。

 準哉には、入院したことを知らせていなかったので、なにも知らない。莉子の失言で準哉のマンションを飛び出し、冷たい雨の中を濡れて帰ったせいで肺炎になって入院したなどといえるわけがなかった。ほんとうは、準哉に来てもらって甘えたかったのだが、あんな別れ方をしたので電話を入れられなかった。

 なぜ、あんなことをいってしまったのだろう。

 入院しているあいだ、ずっと後悔していた。「施しは受けないよ」と、とっさに頭に浮かんだ言葉を準哉に投げつけていた。

 どんなに後悔しても『覆水盆に返らず』だ。それがわかっていながら莉子は油断していた。幼児期から高校を卒業するまで、兄妹以上に仲睦まじく、庇いあって大きくなった無二の存在である準哉が、莉子の失言に心乱され、自分を見失って、莉子に背を向けようとしていたことを。

 莉子が十年の歳月をかけて尽くした準哉への愛情は無償の愛情だった。準哉の未来をわたしが大きく広げてあげる。わたしにできることは、働いて準哉にお金を送金すること。そう思いつめた十年だった。

 準哉の未来。準哉の幸せ。それだけが莉子の生きる支えだった。愛さずにはいられなかった。それは、母に先立たれ、母の胎内にいたときから父親に捨てられてしまった莉子の、愛されたい、必要とされたいという欲求の裏返しでもあった。

 莉子が準哉を手放さないかぎり、莉子の夢は莉子の心の中で極彩色の幻影のように存在していた。準哉は莉子の夢そのものだった。そんな莉子の想いとは裏腹に、準哉には準哉の想いが、こらえられないほど大きく育っていた。

 莉子に尽くしてもらった十年が準哉には重荷だった。莉子の援助があったからこその今の自分であるのはわかっていた。重い。重くて溺れそうだった。彼が強い忍耐を強いられていることを、莉子は知らなかった。莉子の失言をきっかけに、準哉は莉子に決別して、自分の道を歩き出そうとしていたのだった。

 そんなことになっているとも知らずに、ようやく退院の日が決まって、孝太郎が車で迎えに来てくれて、家に帰ってきたときのことだった。

 荷物まで孝太郎に持ってもらってダイニングルームに入っていったら、意外なことに車椅子の栄一郎がテーブルについてお茶を飲んでいた。あのときは、ほんとうに驚いたものだ。

「傘もささずに濡れて帰ってくるからだ。ばかものが」と、莉子を一瞥して叱るので、「なにがバカだよ」と呟いたら、孝太郎が声を出さずに笑っていた。

 洗濯ネットだけが残っているランドリーバスケットを抱えて裏口から中に入った。栄一郎は孝太郎の車で出社し、雅巳は幼稚園に行き、彩華もしっかり朝食を食べて学校に行った。波子は友人と芝居見物に行くといって、単衣の涼しげなお召しを着て歌舞伎座に出かけていった。涼はいるが家の中はがらんとして静かだ。

 物入れから掃除機を出して順番に掃除機をかけていった。応接間、リビングルーム、ダイニングキチン、仏間とかけていき、波子の部屋は波子が掃除するのでとばして、栄一郎の部屋に入った。

 栄一郎はきちんとした性格なので部屋の中は片付いている。部屋にいるときは冷房を入れているのでテラスのガラス戸や窓は閉めているが、今はいないので窓を開け放って盛大にはたきをかけていった。

 栄一郎が見ていたら、もっと丁寧にしなさいと文句をいったところだろうが、いないのだからかまわない。飾り物が倒れようが、棚から落下しようがお構いなくはたきをかけていく。

 仕事用の机の上にのっていたバインダーの束にはたきの頭が当たって、バインダーの束が床に落ちた。飾り物など壊れても栄一郎は怒らないが、仕事関係の書類となると別だった。莉子は床に落ちたバインダーを拾い上げた。その中に、紺色のビロードの表紙に包まれたA4サイズの薄い本のようなものが紛れていた。拾い上げて何気なく広げてみたら、若い女性の見合い用の写真だった。

 写真スタジオで撮ったありきたりの全身写真で中肉中背。顔立ちは中の上。印象はおとなしめだが育ちのよさがうかがえる。あまり我を張らず、さりとて自分の意思はしっかり持っていますという、妻にするならお勧めナンバーワンという印象の女性だ。莉子は、写真を掴んで栄一郎の部屋を出て二階に駆け上がった。

「涼。開けろよ。おもしろいものを見せてやるよ」

 涼の部屋のドアを叩きながら怒鳴ると、待つこともなくドアが開いた。

「鍵はかけてないから、普通にノックして入ってきていいよ」

 眠そうに目を擦っている涼に、莉子はへえ、と眉を上げた。

「いつから鍵をかけていないんだよ」

「うん。まあ、ね」

「まあいいや。これを見ろよ」

 ずかずか部屋に入っていって、持っていた写真を涼に放り投げた。とっさに左手で受け取った涼は、怪訝な表情で手にしたものに視線をおとした。

「なに。これ」

「へえ。涼は左利きなのか?」

「どうでもいいだろ。そんなこと。それより、これ、なに」

「おとうさんの部屋にあったんだよ。見てみろよ」

 莉子にいわれて写真を広げ、涼は少しばかり目を見張った。

「これって……」

「な? 見合い写真だよな?」

 ニコニコしている莉子を一瞥して、涼はじっくり写真を眺めた。莉子は待ちきれないように涼に擦り寄った。

「再婚するのかな、孝太郎さん。わたしはいいと思うけどな。なあ、涼?」

 涼は返事をしなかった。ただ、じっと写真を見つめている。莉子は涼の顔色を見ながら続けた。

「このまま独身を通すわけにもいかないんだからさ。再婚するんなら、早いほうがいいよ。その人がいい人なら、迷ったりしないで決めちゃえばいいんだよ。なあ、涼」

「そんなに簡単にはいかないよ。結婚って、そんな簡単じゃないんだ。うまくいけばいいけど、失敗したら僕達みたいな子供が残されるんだぞ」

「じゃあ涼は、孝太郎さんの再婚に反対なのか?」

「そうじゃないけど。いまは、いやだ」

 めずらしくはっきりした物言いをする涼に、莉子は驚いた。

「なんでだよ。雅巳には母親が必要だぞ」

「そうかな。僕や彩華にはいなかったけど、それでも平気だったけどな」

「雅巳は違うよ。まだ小さいんだ」

「すぐ大きくなるさ。子供なんて」

「どうしたんだよ涼。なにを怒っているんだよ」

「怒ってないよ」

「怒っているだろ」

「そんな写真は捨てちゃえよ! 他人が家の中に入ってくるのはいやなんだよ」

 莉子は驚いて口をぽかんと開けた。

「わたしだって、他人なんだけどな」

「あんたは他人のうちにも入ってないよ。ただの雇い人だ。いつ辞めていなくなるかわからない定数外なんだよ」

 莉子はがっくりと肩を落とした。

「おまえの言うとおりだよ。でもな、孝太郎さんは、必ず再婚するんだよ。長男だし、この家の跡継ぎだし、会社も継ぐ人なんだ。あの人の肩には、おまえたちと違って、とてもたくさんの責任がのしかかっているんだよ。再婚も、その中の一つさ。そして、孝太郎さん自身の長い人生のためにも、共に支えあって歩んでくれる人が必要なんだよ。孝太郎さんだって、きっとそうおもっているよ」

「どうしてそんなこと、あんたにわかるんだよ。兄さんは、独身でもいいと思っているかもしれないじゃないか」

「だったら、涼が直接孝太郎さんにきいてみろよ。涼がおもっていることを、孝太郎さんに話して、孝太郎さんの考えを聞いてみろよ」

 涼は黙り込んでしまった。

「写真をよこしな。もとに戻しておくから」

 悔しそうに涼が左手で写真を投げ返してきたので、ひょいと右手で受けとめた。

「やっぱり左利きなのか?」

「うるさいな」

 莉子は涼の部屋を出て階段をおりた。ダイニングルームの電話が鳴りだした。小走りで急いだが間に合わずに切れてしまった。すると、こんどはジーンズのポケットの携帯電話が鳴った。孝太郎からだった。

「もしかして、いま、家に電話をかけてきたの、孝太郎さんですか」

『そうだよ。すこし時間ができたから、一緒に昼食でもどうかなと思って電話したんですよ。神社前のバス停で待っていてくれたら車で迎えに行きますけど、どうしますか。きょうは、だれも家にいないのでしょ?」

「涼がいますよ」

『涼も連れてきなさい』

「わかりました」

『あ、でも、自転車はだめだよ。二人乗りは禁止だからね。歩いてきなさい』

「はあーい」

 電話を切って、莉子は首をかしげた。どういう風の吹き回しだろう。まあいいや、と深く考えないで見合い写真を栄一郎の部屋に戻した。二階に行って、涼の部屋を再びノックして返事を待たずにドアをあけた。

「かってにドアを開けるなよ。返事をしてから入ってこいよ。こんどは何なの」

「いま、孝太郎さんから電話があって、メシを食わせてやるから涼と一緒に出てこいってさ。神社前のバス停で待っていろって。行こうぜ」

「行かない」

「おしゃれしなくていいからさ。そのままでいいから行こうよ」

「一人で行けばいいだろ」

「せっかく、お兄ちゃんがご飯をおごってくれるっていうんだから、素直に行こうぜ。ついでに、何か買ってもらえよ。お小遣いをねだってもいいしさ。うんと年上の兄ちゃんなんだから、甘えてやれよ。喜ぶからさ」

「なんだよ。それ」

「孝太郎さんとわたしの二人だけというのはまずいだろ。なんといっても、似合いの年頃の男と女なんだから、誤解されちゃうよ。ぐはは」

「へんな笑い方をするなよ。誰が誤解するんだよ。誰も誤解なんかしないよ。どう誤解するっていうんだよ」

 行かないと言い張る涼を、無理やり引っ張って家を出た。二人ともTシャツに穿き古したジーンズ姿だ。莉子のポケットには携帯電話と財布しか入っていない。涼は財布さえ持っていなかった。

 まだ午前十一時ごろだというのに、日差しは容赦なく道路を焼いている。ビルやハイツが立ち並んでいる隙間に食堂や商店が入っていて人の往来もある。ビルの入り口や店先を飾っている花壇の緑が暑さにうなだれていた。

 バス停までの道のりを、涼はぶつぶつ文句をいいながら歩いた。逃げ出すそぶりをすれば莉子がTシャツの裾を掴むので機嫌が悪い。最後には諦めて文句もいわなくなった。

 新宿中央公園のバス通りに出て歩道を歩く。右側の公園の森の向こうに都庁のツインタワーが眩しく輝いていた。

「友だちが、あの都庁で働いているんだよ」

 目を細めながら涼に声をかけた。つられて涼も都庁を見たが、すぐに興味を失った。莉子はツインタワーから目が離せなかった。あの中に準哉がいる。準哉はどうしているだろう。元気にしているとはおもうが、少しはわたしのことを気にかけてくれているだろうか。 会いたかった。その気持ちは、おもいのほか強く莉子の心を揺さぶった。このまま準哉が働いている職場まで走って行きたかった。都庁を見上げたまま、いつのまにか足が止まっていた。涼に声をかけられて我に返ったが、前方の歩道橋を何気なく見上げたとき、小さく声を上げていた。

 準哉が歩道橋の真ん中を歩いていた。準哉の隣には、真っ白なレースの日傘をさした、あの人がいた。準哉のマンションの寝室にあった写真の女性だ。分厚い書類袋を持った準哉に日傘をさしかけている。車で行くほどの距離ではない仕事先に出向くのだろう。彼女が傾ける日傘の影の中で準哉は微笑んでいた。彼女と語らいながら、むこう側の階段を下りていく。

 心臓がドキドキしていた。小さな日傘の影を二人で分けあうぐらい、どうということはない。なんでもない。たいしたことではない。ふつうに親切なだけだ。莉子はそう心の中で繰り返した。目は、向こう側の歩道に下りて脇道に入っていく準哉の後姿を追っていた。

「どうしたの」

 涼が、立ち止まってしまった莉子を待っていた。

「なにかあったの?」

 涼が訊いてくる。

「なにもないよ。どうして」

「なんか、顔色がへんだから」

「気のせいだよ。孝太郎さん、なにをご馳走してくれるのかな。楽しみだな」

 わざとらしくうれしそうな声ではしゃいでみせたら、涼が真面目な顔で頷いた。

「めずらしいことがあるもんだね。兄さんに時間が空くなんてことないのに、わざわざ車で拾ってご飯に連れて行ってくれるっていうんだから。梅雨に逆戻りするんじゃないのかな」

「余計なことは考えなくていいんだよ。すなおにご馳走になればいいんだ」

「だってさ、兄さんは、あんたに電話してきたんだろ?」

 詮索するように莉子を窺ってくる。

「涼も連れてきなさいって言ったよ。ちゃんと涼も誘っているよ。だから拗ねるなよ」

「拗ねてないけどさ。なんか、腑におちないっていうか」

 バス停は目の前だった。日盛りのせいかバスを待っている人はいなかったので、二人はバス停の屋根の下に入って日差しを避けた。待つほどもなく孝太郎の車が来たので、二人は後部シートに乗り込んだ。

「よく涼を連れ出せたな」

 ミラー越しに孝太郎が涼を見て笑った。

「無理やりだよ。逃げようとすれば服を掴んで放さないし」

「そんなことができるのは伊坂さんぐらいなものだな」

「なにが食べたい?」と、涼にききながら孝太郎は車を出した。

 準哉が曲がっていった脇道の前を通るとき、莉子は窓に顔をつけて脇道の先を探った。準哉はいなかったが未練で体をねじって眺めた。

「どうせ兄さんのことだから、顔が利く店に連れて行くつもりだったんだろ」

 涼がいった。

「駐車場があるところとなるとホテルが簡単だから、そこに行こうとおもっていたんだけど、さすがにTシャツに穴のあいたジーンズじゃあな。場所を変えるか」

 信号を左に折れた先にある複合ビルの地下駐車場に車を入れた孝太郎は、エレベーターで三階に上って、落ちついた雰囲気のフレンチレストランに案内した。昼時ではあったが、サラーリーマンの姿は見当たらず、品のいい年配の婦人や男女のカップルが談笑しながら食事を楽しんでいた。

 ウエーターが、莉子と涼の全身をさりげなく一瞥したが、二人の前に立っているサマースーツの孝太郎には丁寧だった。

 テーブルに案内されたので、莉子は椅子を引いて座りかけた。慌てたウエーターが椅子の後ろに回りこんで、莉子が腰を下ろすのにあわせて椅子を動かした。つぎにウエーターは莉子の隣の椅子を引いて涼に会釈した。涼が座ると、最後に孝太郎のところへ行った。椅子の左側に立って待っていた孝太郎は、ウエーターが引いてくれた椅子に、流れる動作で優雅に腰を下ろした。ウエーターが各自にメニューを配り終わって去ってから、涼がクスクス笑いだした。

「自分で椅子を引くなよ。かっこ悪いだろ」

「……」

 莉子は顔を上げられなかった。顔が熱くなってくる。

「伊坂さん。なににしますか」

 やさしい声で孝太郎が訊いてきたので、慌ててメニューを広げた。でも、なにが書かれてあるのかわからない。シェーブルとセルフィーユのキッシュってなんだ。真鯛と帆立貝のミルフィユ仕立て。 マーブルドレッシングソースってどんなのだ。豚頭肉と鴨の燻製のテリーヌって、鴨は知っているけど、豚の頭の肉を食えってか?

 莉子はメニューをテーブルに置いてしまった。だめだ。なんにもわからない。来るんじゃなかったと後悔した。ちょっと頭を使えばわかったはずだ。孝太郎が行くような店は、ぜったい牛丼屋やファミレスのようなところではないということぐらい、想像できたはずだ。

「どうしました」

 孝太郎が心配そうに訊いてきた。

「頭でも痛いの?」

 こんどは涼が訊いてくる。

「なんで?」

「頭を抱え込んでいるからさ」と、涼。

「わたしが?」

 涼に言われて、頭を抱えていた両手を払ってすばやく背中を伸ばした。

「涼はなににするか決まったのかよ」と、莉子はきいてみた。

「うん。Bコースの和牛の赤ワイン煮込みのほうにするよ」

「わたしも、それにする」と、急いでいった。

「では、僕も同じものにしよう」

 孝太郎がウエーターを呼んでオーダーした。

「きょうは、お父さんも叔母さんもいないだろ。だから、ちょうどいいとおもって昼飯に誘ったんだよ。たまにはいいだろ」

 孝太郎が涼に機嫌よく話しかけた。

「ほんと、めずらしいこともあるものだっていっていたんだよ」

「めずらしいのは、おまえのほうだよ。よく出てくる気になったな」

「だから、無理やり」

「それにしたって、部屋から出ようとしないおまえがだよ。引きこもって、どれくらいになるかな」

「そんな話題を振らないでよ」

「先のことは心配しなくてもいいぞ涼。おまえ一人ぐらい、僕が一生めんどうみてやるからな。だから、安心して引きこもっていろ」

「すごい嫌味だな。それが兄貴のいうことかよ。おれの将来のことは心配しないのかよ」

「と、言うことは、自分の将来が不安なんだ」

「あたりまえだろ。不安だらけだよ」

「当然だな。おまえの代わりにおまえの人生を生きてやれる人間はいなんだからな」

「おれの人生はおれのもの。自分の人生は自分のもの、っていうんだろ?」

「いつまでそうしているんだろうって、実はおもっていたんだよ」

 孝太郎は機嫌がよかった。こんな話は家ではできないのだろう。まさか莉子が、ほんとうに涼を連れてくるとはおもっていなかったので、この機会を逃す手はないとおもったのか、さかんに涼に話を振っていた。

 第三者の莉子がいることも、感情が抑制できて涼にとってはいいことだった。涼の気持ちや考えていることを、いい機会だから聞いてみたかったのだろう。

 ウエーターがやってきて、水が入ったグラスとアミューズ・ブッシュの皿を置いていった。

「このグラスの水は、指を洗う水だから、飲んだらだめだよ」

 涼が教師のような口調で莉子にいった。先ほどから緊張して喉が渇いていた莉子は、伸ばしかけた手を止めてしまった。

「涼、からかうのはうやめなさい。伊坂さん。そのグラスはウォーターグラスですから、飲んでいいんです」

 涼にはきつく、莉子にはやさしく孝太郎が言葉を添えてくれた。莉子は間髪いれず涼の頭を拳骨で殴った。

「痛いだろ! やめろよな」

「あとでもっと痛い目にあわせてやる。覚えておけよ」

 莉子の剣幕に涼が怯んだ。

「静かにしなさい。二人とも」

 孝太郎にたしなめられた。

「孝太郎さん。涼はね、こっそり勉強しているんですよ。高卒認定の試験を受けるために資料を取り寄せているんです。なあ、涼」

「よけいなことをいうなよ。なんで知っているんだよ」

「だって、部屋に入ったときに、机の上に書類があったじゃないか」

「そうなのか、涼」

 孝太郎が身を乗り出した。

「うん。そのくらいの学歴はほしいかなって、思って」

「で、試験はいつなんだ」

「年二回で、八月上旬と十一月中旬だよ」

「もうすぐだな。自信はあるのか」

「ないよ。だって、ずっと一人で勉強してきたんだもの」

「すまなかったな。もっとはやく気づいてやればよかった。力になるよ。学習塾に行くか? それとも家庭教師を雇おうか」

「兄さん」

 好意的な孝太郎の態度が意外だったのか、涼は目を見張って兄を見つめた。

「涼とこんな話しができるのも、伊坂さんが涼を連れ出してくれたおかげだな。うれしいよ」

 そんなことをいうものだから、涼はますます驚いてしまった。莉子がどんな顔をしているのかと思って、そっと横を盗み見たら、莉子はうなだれて物思いにふけっていた。

 真鯛と帆立貝のミルフィユ仕立てのオードブルがはこばれてきた。莉子は涼がナイフとフォークを取ったのを見てから同じようにナイフとフォークを手にとった。涼のすることをまねしながら、美しく飾られた前菜を口に運ぶ。孝太郎も涼も、ナイフやフォークが皿に当たっても騒がしい音がしない。でも莉子が同じようにまねても皿に当たる金属の音がガチャガチャした。

「涼。独学には限界があるぞ。教師に教えてもらうのが手っ取り早いが、どうする」

「うん。それは自分でも思ってた。どうしようかな。どっちがいいかな」

「八月はすぐだろ。高検は初めてうけるのか」

「いや、毎年受けていたんだ」

「えらいぞ」

 めずらしく孝太郎が興奮した声を出した。涼はまんざらでもなさそうだった。

「涼はね、鉄道模型が好きなんですよ。自分で作るんです。孝太郎さんは涼の部屋に入ったことはありますか」

 沈んだ声で莉子が話しに割り込んだ。

「そういえば、だいぶ昔に涼の部屋に入ったことがあったな」

「一度見せてもらいなさいよ。大作ですげえから」

「すごくないよ。もっとすごいのをつくっている人もいるよ」

 恥ずかしそうに涼がうつむく。莉子はさらに言葉を続けた。

「ほんと、すげえんだよ。あのジオラマには、涼の心がこもっているんだ。自然があふれていて、村があって、大人や子供たちが生き生きと生活していて、その村を、村から村へ鉄道がつないでいるんだ。あれは、涼の豊かな心が生み出した傑作だ」

「そうか。こんどゆっくりみせてもらおう。なあ、涼」

「……うん」

 涼に言葉をかけていたが、孝太郎の視線が向いているのは莉子だった。うなだれて、しおれたような莉子を、じっと見つめる孝太郎の眼差しは深かった。

 涼は、兄と家政婦を交互に見ながら、体の中でぞわぞわしたものを覚えていた。あの兄が、家政婦を食事に誘った。そればかりではなく、さりげなく心を配って庇っている。しかも、家政婦を見つめる眼差しは、やさしさにあふれている。涼はどぎまぎした。男だからわかる微妙な心の機微を、若い涼は涼なりに感じ取っていた。

 ポタージュがはこばれてきた。孝太郎も涼も、音をたてずにポタージュを口にはこんでいる。ポタージュの量が少なくなってくると、皿の手前を持ち上げてスプーンですくう。 莉子は、音を立てないようにポタージュをすするだけでへとへとになっていた。こんな食事なら、しないほうがましだ。ちっともおいしくない。味なんかわからない。

 つぎに運ばれてきたのはヴィヤンドゥだ。和牛の赤ワイン煮込みを孝太郎と涼は手馴れた様子でナイフとフォークを使って食べていく。肉を切り分けていく莉子の肩に必要以上の力が入り、フォークで突き刺した肉を口に運ぶとき、肉を口に入れればいいものを、口から迎えにいってしまう。涼は今にも声を上げて笑い出しそうにしているし、孝太郎は心配そうにしている。冷房が快適な店内で、莉子の背中は汗まみれだった。

 莉子の目に涙が浮かんできた。悔しかった。常識的なことも、みんなが知っているマナーも、なんにも知らなくて、知らないことがこんなに恥ずかしいことだとは、いままでわからなかった。貧乏人は貧乏人らしく、身の丈にあった場所で生きていけばいいとおもっていた。だから、準哉に食事に誘われるたびに、気軽な店にしてもらったのだ。でも、準哉は、きっと、こんなふうにしゃれたレストランで、こんなふうな、名前も知らない料理の出てくるところで、莉子が食べたこともないおいしい料理を食べさせて、喜ばせたかったのだろう。それなのに、ナイフが上手に使えない。フォークがうまく扱えない。気をつけても、ガチャガチャうるさく音を立ててしまう。なにもかも知らないだらけで恥ずかしい。だからファミレスや居酒屋のほうが気楽でいい。でも、準哉はそんなのは嫌だったんだ!

「ちょっと、静かにナイフとフォークを使ってよ。恥ずかしいなあ」

 涼がナイフを止めていった。莉子の手も止まっていた。莉子の目頭からポロリと涙がこぼれた。

 準哉。助けて。わたしには、こんな金持ちの人達と付き合えるような教養はないよ。莉子の両目からぽたぽたと涙がこぼれた。

 でも、わたし、頑張る。準哉が、はるか高みに行ってしまったのなら、わたしも、頑張って追いつくよ。だから、準哉。お願いだよ。真っ白な日傘から、出てよ。あの人と、日傘の影を分けあわないで。あの人に笑顔を向けないで。わたしのことを、いつも思っていて。

 莉子は、ナイフで肉を切ることをやめた。フォークで突き刺し、塊りを丸ごと口の中に押し込んだ。口からあふれそうになる肉を、頑丈な顎でガシガシと嚙んで、ごくんと飲み下す。

「孝太郎さん。お願いがあります」

 莉子の食べ方にびっくりしていた孝太郎は、ナイフとフォークを持つ手を止めた。

「なんでしょう」

 莉子は、ぐいと涙をこぶしで拭いた。

「わたしに、礼儀作法を教えてください。わたしでも、女性の部類に入れるように、なりたいんです」

 思いつめたようすの莉子に孝太郎は戸惑った。

「孝太郎さんにお見合いの話しがあるは知っています。孝太郎さんに奥さんができたら、わたしは谷村家には必要ありません。だから、そうなる前に、わたしを仕込んでください。どこにでても、恥ずかしくないような女性になりたいんです」

「僕の、お見合い、ですか?」

 涼が身を乗り出した。

「お見合いするんでしょ? 父さんの部屋にあったお見合い写真をおれも見たよ」

「知らない。きいていないよ」

「じゃあ、そのうち、父さんから話しがあるよ。でも、おれは嫌だからね。どうせ結婚しても、また、離婚するんだ。だったら、結婚なんかしないでよ」

 涼もフォークとナイフを置いてしまった。

「待ちなさい、涼。見合いの話については僕はなにも知らない。次ぎに伊坂さん。礼儀作法なら適任の人がいます」

 毅然とした孝太郎の態度に、涼と莉子は背筋を伸ばした。

「食事を続けなさい。涼はなにも心配しなくていいから、自分のこれからのことを考えなさい。当面考えるのは、高校認定試験に向けての受験対策だ。それから伊坂さん。あなたの教師は波子叔母さんです。あの人ぐらい、ふさわしい人はいません。お花もお茶も師範ですし、和の礼儀作法も、洋食の作法も完璧です。叔母には僕から話しておきます。定期的に僕があなたを食事に誘いましょう。涼も一緒に来なさい」

「いやだよ。おれは遠慮するよ。二人でレッスンすればいいだろ」

「そうか。でも、たまにはゲストで招待するよ」

 孝太郎が笑ったら、涼が噴出して莉子を横目で見た。

「叔母さんのことを、これからは波子なんてよべないね。先生って呼ばなきゃ」

 楽しくてしかたがないというように涼は笑い転げた。

「そうか。波子はこれから先生になるのか」

 莉子も神妙に考え込む。孝太郎は、笑い転げる弟と、しょんぼりした莉子を眺めながら、久しぶりに心が躍っていた。


 その夜、めずらしく孝太郎は、グラスを二つ用意して、洋酒のビンとアイスペールを持って栄一郎の部屋に行った。

「お父さん。たまには一杯どうですか」

「孝太郎か」

 クローゼットを開けて義足を点検していた栄一郎は、孝太郎が用意した酒に目を細めた。

「めずらしいことがあるものだな。孝太郎が酒を持ってくるなんて」

「ええ。きょうはおもしろいことがあったんですよ」

「ほう。会社でか」

 義足をクローゼットにしまって扉を閉めてから、孝太郎のところに車椅子を進めた。

「そうじゃなくて、きょうはお父さんも叔母さんも留守だったでしょ。それで、ふと思いついて、莉子さんを昼食に誘ったんです。だめでもともとと思って涼も連れてきなさいといったら、ほんとうにつれてきたんですよ」

「それはすごいな」

 栄一郎の弾んだ声に孝太郎は笑みを大きくした。食事用のテーブルに腰を落ち着けてグラスに酒をついで氷を満たす。

「つまみがありませんでしたね。なにか持ってきましょう」

「いいのがあるんだよ。かくれてこっそり食べていたんだ。ちょっと待っていなさい」

 車椅子を器用に操って仕事用の机に行き、引き出しの一番下からクラッカーとキャビアの缶詰とスプーンを皿に載せて持ってきた。

「隠れて食べることないのに」

 孝太郎はくすくす笑った。家族には見せない栄一郎の茶目っ気を、長男の孝太郎だけは知っていた。

「それにしても、あの娘は、よく涼を連れ出せたな」

 孝太郎がつくってくれたオンザロックを口にはこぶ。

「ええ。莉子さんだからできた荒業みたいですよ。無理やりだそうです。逃げようとすると服を掴んで放さなかったそうです」

「あの娘らしいな」

 孝太郎が開けてくれた缶詰の中身にスプーンを伸ばしながら笑う。孝太郎もオンザロックをひとくち口に含んだ。

「それがお父さん。涼は高校認定試験を来月受けるそうなんです。ずっと一人で勉強していたらしいですよ。高卒の資格ぐらいはほしいといっていましたから」

「なに。ほんとうか」

 意外なことを聞かされて、栄一郎の表情が変わった。

「知らなかった。なんということだ。私は彩華だけでなく涼のこともわかっていなかったのだな」

 うなだれる栄一郎に、孝太郎は優しい眼差しを向けた。

「お父さん。莉子さんが涼を連れてきてくれたから、こんな話が聞けたんですよ。莉子さんがいなかったら、知らなかったままだったでしょう。家族だけだと、へんなところに遠慮があって距離が遠いということがありますからね」

「そうかもしれんな。ああ、そうだ」

 いま思い出したというように、栄一郎は机からA4サイズの布張りの写真を取ってきて孝太郎にわたした。

「ああ。これが例の見合い写真ですね」

「なんだ。知っていたのか」

「ええ。莉子さんが見つけて、涼のところに持って行ったらしいんです。涼がたいへんな剣幕で怒りましてね。再婚なんかするな。どうせ離婚するんだから、って。こうですよ」

 栄一郎が渋い顔をした。

「そんなことを言っていたのか。しかしな、再婚しないわけにもいかんだろ」

「そうですね。雅巳のためにも、そのほうがいいんでしょうね」

「外資系の会社の社長の令嬢だ。一度結婚に失敗しているが子供はいない。年齢はおまえより三つしたの三十一歳だ。年は似合いだとおもうがな」

 孝太郎は写真を開きもせずにテーブルに置いた。

「涼は嫌がっています。彩華もきっとそうでしょう。雅巳は莉子さんに懐いていますし、叔母さんも、怒りながらも莉子さんをかわいがっています。いま、この家はいいバランスを保っていますよ。僕は居心地がいいですね」

「伊坂の娘か……」

 黙りこんでしまった栄一郎のグラスに、孝太郎はボトルを傾けた。

「伊坂の娘のことなんだがな……」

「莉子さんが、どうしかしたんですか」

 浮かない顔つきの栄一郎に、孝太郎は不安を覚えた。

「きょう、伊坂君と食事をしてきたんだよ」

「ええ」

 どんな話の展開になるのか予測がつかずに孝太郎は栄一郎の話を待った。

「以前、言っていただろ。伊坂の娘が、施設で育ったと」

「そのはなしですか。覚えていたんですね」

「ああ。気になってな。ききづらかったんだが、思いきってきいてみたんだ」

「なんと言っていましたか」

 急きこむ孝太郎をなだめるように手で押しとどめて、栄一郎はグラスの酒を口に含んだ。

「驚いたよ。こんなことがあるのだろうかと思ったよ。あの娘は、ほんとうにかわいそうな娘だったんだ」

 目を閉じて、苦痛を飲み込むような栄一郎に、孝太郎は冷たい胸騒ぎがした。


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