第十一話
雨に濡れて帰ってきた翌日、莉子は風邪からくる肺炎で入院することになった。
胸部のX線検査に血液検査、検痰などの処置が取られ、酸素吸入のマスクをして、一日二回の抗生物質の点滴を行い、三日ほどは苦しくて動けなかった。
高熱と激しい咳が続いたが、しだいに熱も下がって呼吸や脈拍も落ち着いてきた。しかし咳がなかなか止まらず、咳をすれば胸が痛くて夜も十分な睡眠が取れなかった。
昼夜を問わず咳き込むため、孝太郎が個室に入れてくれなかったら、大部屋でほかの入院患者に迷惑をかけていただろう。しかし、呼吸器もとれ平熱になって、点滴も一日二回から一回になり、体が楽になってくると、個室の入院費用が気になり始めた。個室の静かさにも退屈し始めていた。
孝太郎は、面会時間が終了する19時少し前に毎日顔を見せた。仕事は終わっていないのだろうが、時間を作って来るらしかった。遠慮ぎみなノックが二回して、少し間をあけてから入ってくる。孝太郎はいつもそういう入り方をした。看護師のようにいきなり入ってくるようなことはなかったので、孝太郎だとわかるとベッドから身を起こして髪の乱れとパジャマの襟元を直すことができた。
「具合はどうですか」
いつものノックのあとに入ってきた孝太郎は、イスを引き寄せて腰を下ろした。肺炎は、症状が安定してくれば、ただただ安静を要する病気なので、莉子は時間を持て余していた。
「無理して来てくれなくてもいいですよ。仕事が大変でしょうに」
来なくてもいいと言っているようなものだ。孝太郎は苦笑をもらした。頻繁に病室に顔をだしているうちに、莉子の屈折した感情の表現が少しばかり理解できるようになっていた。
「ほんとうにひねくれているんだな」
そんな軽口も孝太郎の口から出るようになっていた。ビジネスバッグを開いて、中から三十センチほどの緑色の恐竜のレプリカ取り出した。
「雅巳からのお見舞です」
「スピノサウルスか。全長10メートルから18メートル。体重は約9トン。背中にある魚の背びれみたいな突起が大きいのが特徴で、頭はワニ。繁殖形態は卵生で、肉食。見るからに怖いですよね。雅巳はこの恐竜をビニールプールに突っ込んで、金魚を追いかけまわして遊ぶんですよ。逃げ遅れたドジな金魚は、スピロサウルスの大きな口の中に取り込まれて、ワニより鋭くて長い歯に傷つけられて死んじゃうんです」
「呆れたな。そんなことをして遊んでいるのか」
「心配ないですよ。そんなことをするのは子供のうちだけです。だんだんわかってきます。それで、雅巳はどうしていますか。わたしの部屋で一人で寝ているんですか」
「僕の部屋に寝かせています。あの広い部屋に一人はかわいそうなので」
「そうしてください。せっかく親がいるのに、あんな小さな子供を一人で子供部屋に寝かせるのはかわいそうです」
莉子は話し疲れたように下を向いた。少しの間に体重が減って、それでなくても痩せているのに目の下や頬がそげてやつれが目だった。
言葉が途切れると、病室の静かさが意識に上ってくる。個室なので話す相手もいないし、退屈を紛らわせるために雑誌やゲームなどがベッドの横のキャビネットに積んである。それらは孝太郎が持ってきてくれたものだった。カーテンを引き忘れていた七階の窓からは、小雨にけむるビルやマンションの灯りが夜空のなかに物悲しく広がっていた。
「伊坂さんに、入院していることを知らせましたか」
静かさを、さりげなく追いやるように孝太郎がいった。
「いいえ。知らせていません」
「どうして」
「どうでもいいでしょ。そんなこと」
「……。一度ききたいと思っていたのですが、あなたは涼に、自分は施設で育ったといったそうですね」
聞きづらいことではあったが、かねてから気になっていた疑問をあえて口にしたのは、莉子が頑なに伊坂達郎の話を避けるからだった。
両膝を抱え込んで背中を丸め、苛立つように体を揺すりはじめた莉子は、頭痛がするように顔を歪めた。孝太郎には、そのしぐさが拒絶にうつった。
「話したくなければいいんです。個人的なことに立ち入りすぎたようだ。忘れてください」
「たしかに涼には施設で育ったといいましたよ。履歴書には、養護施設育ちとは書いていませんけど、そんなこと、書かなくてもいいんですよね。履歴詐称にはならないでしょ?」
「なりません」
「だったら、いいじゃないですか。なにか問題がありますか」
反抗的に孝太郎を睨みつけてくる。
「莉子さんは、養女だったんですか?」
「娘です」
莉子は強い視線で言い返した。
「そうですか。たしかに入籍したら娘には違いない」
「娘です! 詳しいことが知りたかったら、伊坂の親父に聞いてくださいよ。わたしのような人間が不快なら、いつでも辞めて出て行きますから」
意地のきつそうな莉子の瞳に孝太郎は黙り込んだ。莉子が高卒だったのも、挙措や行動が乱暴で品がないのもうなずける。伊坂達郎の実の娘だったら、こんなふうに育ってはいないはずだ。「恥ずかしくて、娘ですと紹介できない」と伊坂に言わしめた娘は、養護施設から引き取った養女だったのだ。本人は娘だと言い張っているが、養子縁組をしてしまえば娘には違いない。そう理解して孝太郎は納得した。
「テレビカードはまだありますか。あと、ペットボトルの水を買い足してきましょうか」
孝太郎は、腕時計を見ながら立ち上がった。
「おかげさまで足りています。これ、彩華にわたしてください。持ってきてほしいもののメモです」
小さくたたんだメモをわたした。面会時間は過ぎていた。メモを莉子から受け取って、ポケットにいれてドアに向かって歩き出したとき、莉子が咳き込みだした。ぎゅっと両膝を抱えて背中をこわばらせ咳をする。孝太郎が慌てて戻ってきて莉子の背中をさすろうとした。
「まだ苦しそうですね」
孝太郎の手が背中に触れた。それを莉子が、とっさに体をねじって身を竦めた。それは怖いものから身を守ろうとする小動物のような動きだった。孝太郎は驚きを隠して手を引っ込めた。
「看護師さんを呼びますか」
咳き込みながら首を横に振る莉子は、帰れというように手をドアのほうに振った。逆らわずに病室を出た。エレベーターに乗る前にナースステーションに寄って莉子のようすを見てくれるように頼んだ。
エレベーターのドアが開いていたので乗った。明るすぎる照明が照らしだすエレベーターの箱の中で、孝太郎は養護施設で育ったという莉子の半生を想像してみた。しかし、いくら想像しても知らない環境だ。理解できるわけはなかった。孝太郎が知っている伊坂莉子は、言葉が乱暴で、ときに無責任な行動をとる油断のならない女性だ。しかし、それだけでは不十分だ。たとえば、雅巳だ。雅巳は莉子に懐いている。でも子供を懐かせるのは簡単だ。やさしくして一緒に遊んでやればいい。それなら彩華はどうだろう。
彩華は莉子のことをオヤジとよんで悪口ばかり言っている。万引きの一件だって、事を大きくしたのは莉子だ。それなのに、彩華は入院した莉子のことを心配し続けている。涼もそうだ。波子だって、気にしてる。
雅巳は、「おばちゃんはいつかえってくるの」と毎日たずねてくるし、父の栄一郎も口にはださないが、ずぶ濡れになって帰ってきて肺炎になったことを怒っていた。
家の中がやたらに静かだった。大きな声で家族の名前を呼び散らす家政婦がいないからだ。
一階についてエレベーターのドアが開いた。一階ホールの照明は消えていて、受付のスモールライトが小さくあたりを照らしていた。患者がいない待合ホールの壁には自動販売機が並んでいて煌々と明るい。孝太郎は自販機でコーヒーを買った。その場でプルトップを空けて飲んだ。冷たくて甘い液体が喉を滑り落ちていく。仕事はまだ残っていた。空になった缶を専用の缶入れに捨ててから、守衛所のほうの出入り口から外に出た。
傘をさして雨の中を駅に向かいながら、「そういえば、雅巳や彩華たちを呼び捨てにするのを注意し忘れていた」と、独り言をいった。莉子があまりにも自然に呼び捨てにするので、いつの間にか馴れてしまったのだろうか。水溜りを避けながら、孝太郎は知らずに笑みを浮かべていた。はやく健康を取り戻して、また彼女が家族の名前を大声で呼ぶ声が聞きたいとおもった。先ほどの、孝太郎の手を避けて縮こまった莉子の姿を思い出して、「俺はこわい男ではない」と胸のうちで呟いた。莉子に避けられて、がらにもなく傷ついていた。
雨水で濡れている駅のホームで上りの電車に乗った。病院から会社までは地下鉄で三駅なので、それほど時間はかからない。自社ビルの最上階にある役員室に隣接している秘書室に戻ると、まだ三人ほど居残って仕事をしていた。
秘書室というのは、どの部署にも属さない独立した部署で、その仕事は多岐にわたる。
役員のスケジュール手配や調整のみならず、仕事関係のリサーチから、問題が起きた場合には役員の指示に従って専門の研究チームを組んで対応したりする。会社組織と業務内容全般にわたって熟知していなければならない神経をすり減らす職場だ。
孝太郎は自分のデスクにつくと、さっそくパソコンを立ち上げた。部屋に残っていた女性秘書の一人が、コーヒーを持ってきてくれてデスクに置いた。
「ありがとう」
礼をいう孝太郎の目は、パソコンの文字の羅列に集中していた。
孝太郎と入れ違いに看護師が病室に入ってきた。
「だいじょうぶですか。呼吸できますか」
背中をさすりながらきいてくるので、大丈夫だというように頷いた。咳はじきにおさまり、看護師はナースセンターに戻っていった。
咳が収まってほっとして体から力を抜き、大きく息を吐いて枕に頭をあずけた。
はじめの印象と違って孝太郎は親切だった。毎日病室に顔を出してくれるし、テレビカードや、売店で買い物するときのためにと小銭を置いて行ってくれる。雅巳のお見舞だといって、どうでもいいものばかり持ってくるが、それは病院に見舞いに来る口実だとわかっていた。孝太郎は長居せずに帰っていくが、莉子にもそれが孝太郎らしいやさしさだとわかっていた。それなのに、かわいげのないことばかりいってしまう。ひねくれているといわれてもしかたがなかった。
「孝太郎さんは、わたしより六歳年上なんだな」
だから大人なんだとおもった。莉子が憎まれ口を利いても、喧嘩を売るようなことをいっても、さらりとかわしてしまう。きっと頭がいいのだろう。わたしには太刀打ちできないとおもった。
いい人だとおもうようになっていた。やさしいし、思いやりがある。頼りがいがあるし、だいいち、男らしい。でも、と莉子は寝返りをうった。そんなに素敵な男性なら、なぜ離婚したのだろう。雅巳がいるのに、なぜ離婚してしまったのだろう。
「やめ、やめ。わたしには関係ないや」
枕に顔を突っ伏した。
「準哉。会いたいよ」
準哉のことを思うと胸が締め付けられた。なぜあんなことをいってしまったのだろう。“ほどこしは受けない”なんて、とんでもないことを口走ってしまった。あれでは、莉子から援助を受け続けた準哉の立つ瀬がないではないか。プライドをずたずたにしてしまった。わたしはバカだ。莉子は枕に顔を押し付けて唇をかんだ。
自分が準哉に尽くすのはかまわない。でも、準哉からしてもらうのは嫌だった。自分という人間が、骨のない人間に思えて我慢できなかった。どんなに苦しくても、歯をくいしばって生き抜いてやるという負けん気が、人に頼ることで瓦礫と化していくのが恐ろしかった。そんな気持ちがつい言葉になって出たのかもしれない。
わたしは、大バカだ。
莉子は苦しくて涙をこぼした。準哉の呆然とした表情が脳裏に広がる。もしかしたら、取り返しのつかない過ちを犯したのではないだろうか。
苦しさのあまり声を漏らした。不安が広がる。でも大丈夫だと思いこもうとした。わたしと準哉は、切っても切れない心の絆でつながっているのだから。長い年月、悲しい環境で励ましあいながら大人になった二人なのだから、なにがあっても信頼が崩れることはないのだ。
それなのに不安は少しも薄れてくれない。莉子は枕に顔を押し付けてうめき声をあげつづけた。
七階の病室の窓から見えるビルの林に、梅雨の晴れ間の薄日がさしていた。退屈を紛らわせる雑誌にも飽きて枕元に放り投げたとき、病室のドアが乱暴にノックされた。孝太郎が来たのだろうかとおもったが、孝太郎がくるのは夜だし、時刻はまだ五時だ。だれだろうと思ったら、彩華が勢いよく病室に入ってきた。
学校の帰りなのだろう、制服のままだ。病院の受付にあるマスクをして、スクールバッグを肩にかけて大きな紙袋を持っていた。
「なんだ、彩華。そんな大荷物を持って。夜逃げでもするのか」
莉子は笑いながら彩華を迎えた。やっと面会の許可が下りて一週間ぶりにみる彩華だった。
「何よ、その言いぐさ。誰のせいだとおもっているのよ。これ、オヤジの着替えだからね」
彩華は大げさに怒ってみせて紙袋をベッドに置いた。
「おまえ、これを持って学校に行ったのか?」
「そうだよ。かっこ悪い」
「あはは」
「なにが、あははよ。で、いつ退院するの」
「まだまだだよ」
「まだって、どれくらい」
「あと二週間くらいかな」
「えええ。そんなに長くかかるの」
「そんなにわたしがいなくて寂しいのか?」
「冗談でしょ。家の中が静かでいいよ」
「そうだろうな」と笑いながら、「で、謹慎明けの学校はどうだった」と水を向けたら、彩華はイスに腰を落ち着けて身を乗り出してきた。
「それがさ、やっぱ、ひやひやもので学校に行ったんだけどさ、クラスのみんなはいつもと変わらなくてさ、なにも知らないみたいだった」
「ほっとしたな」
「うん!」
「で、彩華がつるんでいた仲間とは距離を置いたんだろ?」
「うん。いわれたようにぐずぐずして遅れてついていったら、そのうち仲間はずれにされちゃった」
「だろ? 最初から彩華は仲間扱いされていなかったんだよ。パシリの財布がわりだったんだ」
彩華は傷ついたように口をとがらせたが、気を取り直して眉間を開いた。
「それでね、時間ができたから部活をはじめようかとおもっているの。どこの部にはいろうか悩んでいる最中なの」
「部活か。いいな、それ」
「でしょう? でも、今から入ったんじゃ、同学年の子も先輩になっちゃうんだよね。それがちょっとねえ」
「入るとしたら体育会系か文系か、どっちにするんだ」
「体を動かすほうが好きなんだけど、体育会系は上下関係がはっきりしていてしごかれそうだし」
「やってみたいことを臆せずやればいいよ。とにかく、飛び込んでみろよ。せっかくの高校生活なんだから」
「そうだね。そうだよね」
笑顔になって、彩華は病室をみわたした。点滴をしなくてもよくなっていたので、莉子はいたって元気そうにみえるが、まだ二週間も退院できないということは、見かけほどよくなっていないのだろうか。
彩華は、ベッドを取り囲んでいる医療機器が、どれもスイッチが切れているのを確認してから、莉子の枕元を飾っている縫いぐるみや恐竜のフィギアや絵本を見て笑みをこぼした。
「雅巳のおもちゃばかりじゃない」
「孝太郎さんが、雅巳からのお見舞だって、毎日届けてくれるんだよ」
「お兄さんが! 毎日」
「雑誌やテレビカードを差し入れしてくれるんだよ。ありがたかったのはペットボトルの水だな。けっこうマメなひとなんだね。意外だったよ」
「うそっ……」
彩華は驚いて言葉が出なかった。
あの兄が、こまめに病院に顔を出しているとは思いもしなかった。仕事のことしか頭にないような人なのに、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。兄と家政婦が、病室で二人だけで和やかに会話している姿は想像できなかった。
「なに考えているんだ?」
莉子がニヤニヤ笑った。
「べつに。なにも」
「まあいいさ。ところで、彩華の父ちゃんはどうしているんだ」
「父ちゃんなんて、やめてよ。お父さんだよ」
「そのお父さんは、相変わらず自分の部屋で食事をとっているのか」
「うん。オヤジが入院しているから、わたしが持っていってるんだけど、あのひと、好き嫌いが多いね。残すし」
「そうなんだよな。車椅子で動かないせいもあるんだろうけど、ちゃんと食べて、もう少し太ったほうがいいよな」
「そうなのよ。痩せすぎだもの。わたし、びっくりしちゃった。自分の父親が、いつの間にかおじいちゃんになっていて、わたしが大人になる前に死んじゃうんじゃないかとおもったら怖くなったもの」
「焦ったんだ」
「うん。もう、困らせたりしないわ。かわいそうだもの」
「それがわかれば上等だよ」
「うん」
「で、雅巳のことなんだけど、一人で風呂に入れてないよな」
「え? 一人で入っているけど。だって、オヤジ、入院してるし」
「そうか。じゃあ、今夜から彩華が雅巳を風呂に入れてくれよ」
「なんでよ。なんでわたしが」
「おまえ、あの年のときに、一人で風呂に入っていたか?」
「あっ。そういえば、当時はお母さんがいたから……。お母さんと入っていたわ」
母の由香里が栄一郎と離婚したのは、彩華が十一歳のときだった。
「わたしのお母さんはね、お父さんと年が十歳離れているのよ。お母さんは初婚だったけど、お父さんは再婚で、最初の奥さんは乳がんで亡くなったんだって。お兄さんはそのときの子供で、わたしと涼ちゃんは二番目の奥さんの子供なの。このこと、知ってた?」
「知らないよ。そんなこと」
「そうか。どうしてうちはみんな離婚しちゃうんだろうね。お兄さんも離婚しちゃったし」
「知るかよ。おまえの家族、みんなおかしいんじゃないのか?」
「おまえなんてよばないで。わたしは彩華よ」
「わたしもオヤジじゃなくて莉子だよ」
笑いながら言い返されて彩華は肩を落とした。
「そうね。おかしいのかもね。うちの家族は。叔母さんは結婚もしないであの年まで独身で家から出て行かないしね」
「波子のことを悪くいうなよ。あの人がどれだけ大変だったか、家族は誰もわかっていないんだ」
意外なことをきいたように彩華は目を大きくした。
「なにオヤジ。叔母さんのかたをもつの」
「だれのかたも持ちたくないね。わたしにとってはみんな他人だからさ。関係ないし」
投げやりな言い方に彩華は気を悪くした。
「かんじ悪いなあ。態度でかいし」
「もう帰りな。雨もやんでいるし、もうすぐ夕飯の時間だ」
「うん。洗濯物を持って帰るね。このビニール袋でしょ」
「わたしの汚れ物は別にして洗濯してくれよ。病人の汚れ物だからさ。彩華がしてくれるとうれしいんだけどな」
キャビネットの上の袋をとろうとしている彩華にいった。
「わたしがするの?」
「そうだよ。頼むよ。波子の仕事を増やしたくないんだよ。家の中のことって、意外に重労働なんだよ。波子の年齢なら、たいていは、娘や息子が結婚して家を出て行って、夫婦二人だけののんきな生活になるんだよ。でも波子は」
「わかった。叔母さんも年を取っているってことなんでしょ?」
「子供は親の手伝いをするもんだからさ」
「叔母さんは親じゃないわよ」
「親なんだよ。母親代わりだ」
胸を突かれたように彩華は目を見張った。
「そういえば、叔母さんて、お兄さんのことも育てているんだよね。お兄さんのお母さんが亡くなったとき、お兄さんは八歳だったんだって。お兄さんが離婚したときは、雅巳が一歳だったから、赤ちゃんの雅巳を育てるのはたいへんだったでしょうね。そう考えると、叔母さんて、なんだかかわいそうだね。人の子供ばかり育てて年をとっちゃってさ」
「彩華に同情されても波子は喜ばないよ。じゃあ、洗濯、よろしくな」
なんだか莉子に丸め込まれたみたいで釈然としなかったが、彩華は素直にうなずいた。洗濯物が入ったビニール袋を紙袋に入れ直してスクールバッグを持って病室をあとにした。
電車の中で、家に帰ったら洗濯機を回して、雅巳をお風呂に入れて、古文の宿題をしてと、せわしなく頭を回転させた。
「とにかく、お夕飯を食べて、雅巳をお風呂に入れなくては」
電車を降りた彩華の足は、地を蹴るように弾んでいた。
「ただいま」
リビングを覗いて声をかけたら、ちょうど夕飯ができていて、波子が忙しくキッチンとテーブルを行ったり来たりしていた。
「おかえりなさい。ちようどいい時間だったわ。ご飯ですよ」
波子がフライパンを揺すりながら彩華をちらりと振り向いた。
「はーい」
雅巳を見ると、リビングのテレビの前に座ってスナック菓子を食べながらテレビを見ていた。荷物をかかえたまま歩み寄り、菓子袋を取り上げた。
「雅巳、ご飯の前にお菓子を食べたらご飯が食べられなくなるでしょ」
「あ。彩華ちゃん。おかえりなさい。おばちゃんのところにいってきたんでしょ。おばちゃんは、いつたいいんしてくるの」
「まだまだだよ」
「なんだあ」
がっかりしながら、またスナック菓子に手を伸ばしてくる。
「だめだったら」
ダイニングテーブルのほうを見ると、すでにテーブルには栄一郎の食事がトレーに用意されてあった。
「叔母さん。着替えてくるから待っててね」
声をかけて二階に向かう彩華に、波子はおもわず振り向いた。
「まあ。めずらしい。あんなに機嫌がいいなんて、あしたは嵐になるかもね」
「あした、あらしなの?」
ダイニングのほうにやってきた雅巳が、イスを使ってダイニングテーブルによじ登ろうとする。
「ネコじゃないんだから、テーブルにのるのはやめなさい」
「はあーい」
彩華が着替えて下りてきた。キッチンを素通りして栄一郎の部屋に走っていく。ノックもせずにドアを開けて父親の部屋に入っていった。
栄一郎は机に向かって書類のバインダーをめくりながらパソコンを操作していた。
「騒々しいな。静かに入ってきなさい」
振り向きもせず栄一郎が叱責してくる。
「お父さん。お夕飯はむこうで一緒に食べようよ。今までがおかしかったんだよ。食事をはこばせて一人でごはんを食べるなんて、へんだよ。だから、もう食事ははこばないからね。ご飯ができているから早く来てね」
いうだけいって、彩華は部屋を出て行ってしまった。
「なんだ。いきなり」
再び書類に目を戻して、栄一郎はその手を止めた。娘のはずんだ声がよみがえる。彩華はいま、なんといったのだろう。むこうで一緒に食べようと、いったのではなかったか。食事をはこばせて一人で食べるのはへんだよとも。
栄一郎の視線は、遠くを見るように焦点がぼやけた。いつから自分は朝も昼も夜も、一人で食事をするようになったのだろう。そうだ、思い出した。あの頃からだ。
栄一郎は、ぎゅっと焦点を現在に合わせた。七年前の事故のときからだ。退院してきて、ベッドで療養していたときからの習慣で、そのまま部屋で食事をとるようになってしまったのだ。
目が覚めたように栄一郎は頭を振った。七年間も自分は、部屋というシェルターの中で、たった一人の時間に埋もれて仕事だけして生きてきたのかとおもった。子供たちや孫の成長も見ずに、まだ働けるという自負を支えに、仕事にばかり目を向けていたのかもしれない。
ふしぎに思うのは、彩華が明るいことだ。あんな問題行動を起こしたのは、人にいえない鬱憤や不満が高じてのことだろうに、さきほどの彩華は、素直な明るさで自分の気持ちを言葉にして伝えてきた。子供はときに哲学者よりも雄弁に大人に大切なことを伝えてくる。
栄一郎は、七年間の孤独から這い出るために、車椅子のハンドリムを回してドアに進んだ。
「うわあ、おじいちゃん。どうしたの」
車椅子でキッチンに入って行った栄一郎に、雅巳が頓狂な声を上げた。
「お父さんはこっちに座って」
栄一郎が来るのがわかっていたように、彩華がダイニングのイスを一脚抜いて場所を空けた。その場所は、リビングの大型テレビがいちばん見やすい場所だった。
栄一郎は彩華が招く場所に車椅子を進めた。雅巳がさっそく栄一郎の膝によじ登ってくる。孫の重さを両膝に心地よく感じながら、栄一郎は機嫌よく渋面を作った。
「少しは重くなったのか? 雅巳」
「うん。ぼくね、ごはんをいっぱいたべるよ。でもね、おさかなより、おにくがすき。だけど、ほんとうにすきなのは、おかしなの」
「雅巳ったら、重いからお父さんからおりなさい」
彩華がはしゃいだ声で雅巳を抱いて降ろした。雅巳はけろりとして栄一郎の隣のイスに座った。
「おじいちゃん。ここでごはんをたべるの?」
「そうだよ。これからは、ここでみんなとご飯を食べるんだよ。彩華に叱られたからな」
「ふうーん? ぼくね、アレルギーがあるんだよ。おじいちゃん、しってた?」
「ああ、ええと、ううむ、そうだったな。なんだったかな」
しどろもどろで答えられない栄一郎に、彩華が晴れやかな笑い声を上げた。そのやり取りをキッチンで聞きながら、波子は乱暴に鍋を洗っていた。兄が部屋から出てきて、家族の食卓についたことに、驚きを超えた感情が沸き起こっていた。彩華のはしゃぐ声や、雅巳の遠慮を知らない子供らしい無邪気さが、何年ぶりかでダイニングのテーブルについた栄一郎を歓迎してた。それが、波子の心に胸苦しいものを増大させた。
家のことには無関心を押し通して仕事を優先させ続けたあげく、二度目の妻に愛想をつかされて離婚し、子供たちをわたしに育てさせた。この家を守ってきたのは自分なのにと、悔しいおもいがこみ上げてくる。何年間も家族と乖離してしていたくせに、今頃になって団欒に加わってくるなんて、なんと勝手なのだろう。蛇口から水が流れるまま、洗い物の手が止まっていた。
「叔母さん。あとで洗濯機の使い方を教えて」
彩華に声をかけられてはっとした。
「洗濯機? 洗濯物なら出しておけば洗濯しておきますよ」
水道を止め、気を取り直して手を拭きながら振り向くと、三人は波子がテーブルにつくのを待っていた。
「オヤジの洗濯物を頼まれたの」
「洗濯ぐらいしてあげますよ」
雅巳の隣のイスに腰を下ろして、キャスター付ワゴンの上の炊飯ジャーから、栄一郎のご飯茶碗に、炊きたてのご飯をよそりながらいった。
「わたしが洗濯するようにいわれたの。叔母さんがたいへんだからって。家政婦の癖に生意気だよね。ほんと、えらそうなんだから」
ご飯をほおばりながら彩華が機嫌よく笑った。
「それで、伊坂の娘は、もうだいじょうぶなのか」
栄一郎がみそ汁をすすりながら彩華に訊ねた。
「元気そうだったけど、退院までには二週間ぐらいかかるみたいね。お兄さんが毎日会社の帰りに顔を出しているみたいよ」
栄一郎と波子が顔を見合わせた。
「孝ちゃんが?」
「孝太郎が」
ヒレカツにたっぷりソースをかけてご飯と一緒にかきこんでいた彩華が、かたまりを飲みこむように口の中のものを飲み下してから雅巳のほうに顔を向けた。
「雅巳。お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ろう」
「彩華ちゃんと?」
なにか魂胆でもあるのかと疑うような雅巳の反応に、彩華が口をとがらせた。
「オヤジが雅巳をお風呂に入れるようにいうんだもの。小さい子供を一人でお風呂に入れるなってさ。わたしだって忙しいのに。宿題もあるし」
栄一郎は、黙って口の中のものを咀嚼していたが、部屋の中で一人ですごしていたときには知らずにいた家族の生活が、会話の中から垣間見えてきた。
雅巳をいつから一人で風呂に入らせていたのだと、波子に訊ねたい気持ちを抑えて、黙々と食事を続けた。彩華が、さかんにオヤジという言葉を連発することにも気がついた。なぜ、結婚前の娘がオヤジなのか、それも尋ねてみたいところだが、栄一郎は質問を控えた。これから、毎日家族と食事を共にすれば、知らなかったことが少しずつわかってくるだろうとおもった。
「そうだ、涼はどうした」
思い出したように栄一郎は、食卓に欠けている次男の名前を口にした。
「お夕飯は廊下のところに置いてきましたよ」
波子の冷たい言葉に栄一郎はぎょっとした。
「廊下に?」
「そうですよ。引きこもりですもの。食事は廊下に置いておいて、食べ終わったらお盆を廊下に出しておくんです。ずっとそんなふうですよ。いまさら驚くことはないでしょ」
驚くことはないだと? 栄一郎は言葉が出なかった。
「お父さんが涼ちゃんを呼びに行けばいいんだわ。わたしのときみたいに、義足をつけて、二階に上っていって、涼ちゃんを部屋から引きずり出せばいいのよ」
彩華はなにを言っているのだ? この娘は、こんなに過激な性格だったのだろうか。これではまるで、伊坂の娘のようではないか。栄一郎は恐る恐る彩華を盗み見た。
「ぼくね、おじいちゃんのぎそくのながぐつをはいたことがあるんだよ。おしいれにかくしてあったんだよね。でも、あのながぐつは、いたいよね。おじいちゃんもいたいからはかなかったんでしょ?」
雅巳が義足をはいただと? 私の部屋に忍び込んだのか? 押入れを荒らして義足で遊んだだと?
「あの義足、捨ててなかったんだね。でも、あれを作ってから何年もたっているでしょ。足に合わなくなっていると思うから、作り直したほうがいいんじゃないの? よくあんなので二階に登ってこれたよね。ほんと、驚いたわ。転落しなくてよかったね、お父さん。転落していたら、死んでいたよね。あはは」
彩華はこんなにつけつけものをいう子だったのか? 遠慮とか、相手に対するいたわりや思いやりというものを知らないのだろうか。言いたい放題とはこのことだ。
「でもさ、久しぶりにお父さんを見て、びっくりしちゃった。あんまり年をとっていて、わたしが大人になるまで生きているかどうか、心配になっちゃったわよ」
大口を開けて、豪快に笑う彩華に、栄一郎はついに堪忍袋の緒を切った。
「彩華。黙って食べなさい。行儀が悪いぞ」
「古いなあ、お父さん。食事は楽しく会話しながら食べたほうが消化にいいのよ。ところでお父さんは、毎日自分の部屋でなにをしていたの?」
ポテトサラダをほおばりながら訊いてくる娘の、あっけらかんとした顔を見ているうちに、栄一郎は激しい脱力感に襲われた。部屋にこもって必死に仕事をしていたあいだに、自分の知らない新種の生物が成長していたことを思い知たのだった。
食べ終えた雅巳が、またもぞもぞと栄一郎の膝によじ登ってくる。世間では、孫のことを目に入れても痛くないほどかわいいというらしいが、このいたずらで怖いもの知らずの小さな人の子は、かわいいというより栄一郎には恐ろしかった。
大きな声で叱れば泣くだろうし、邪険に膝からおろせば細い骨が折れてしまうかもしれない。膝に尻を据えて栄一郎のみそ汁を勝手に飲んでいる雅巳をどうしていいかわからずに、戸惑いながら波子を見ると、波子は知らん顔をしてそっぽを向いていた。
年をとって皺が増え、髪もほとんど真っ白になっているが、その顔は、波子がすねたときの顔で、栄一郎はすこし笑ってしまった。兄妹だから、いくつになっても子供のときの顔は記憶に残っているものだ。
「波子。おまえも、いつのまにか年をとったなあ」
「お兄ちゃん!」
つい子供のころの呼び方で栄一郎を呼んでしまったのは、昔のころのやさしい兄の眼差しを見たせいだった。




