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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
10/18

第十話


 雨は本降りになって道路脇の側溝に音をたてて流れ込んでいた。ベランダも濡れそぼり、ガラス戸に水滴が跳ね上がっている。雨風はベランダから見える戸建ての庭の植木を揺れに揺らしていた。

 こんなひどい雨の日にこなくてもいいのに、莉子はそれでも来るという。準哉はベランダのガラス戸の前にたたずんで、ひどい雨をながめていた。

 今からメールを送っても、すでに駅につくころだ。傘をさしても横殴りの雨は莉子の細い体を濡らすだろう。準哉はイライラと親指の爪をひとさし指の爪で弾いた。

 以前は莉子の、そういう性急なところをほほえましくおもったこともあった。思い立ったら即実行しなくては気がすまない強引なところも莉子らしかった。でも、大雨になりそうな気配の外を見ていると、なぜそこまでしてここに来る必要があるのだろうとおもってしまう。天気のいい日に変更すればいいものを、なんと無意味な強引さなのだろう。愚かだと思った瞬間、準哉は自分の赤裸々な感情にうろたえた。

 莉子を愚かだと思うなんてどうかしている。莉子のおかげで施設を出たあとアパートに住めて生活費もまかなってもらえて、友人たちと同じように大学生活を謳歌できたというのに。

 合コンや、小旅行や、飲み会や、サークル活動。なにもかも莉子の仕送りのおかげでエンジョイすることができた。足を向けて寝られない。一生かけても返しきれない恩だ。

 準哉の親指の爪を弾く力が強くなった。苦しい。息苦しい。準哉は無意識に自分の喉首をさすっていた。

 玄関のチャイムが鳴った。準哉は弾かれたように玄関に飛んでいった。ドアを開けたら、莉子が濡れ鼠のありさまで笑っていた。

「あはは。すげえ濡れちゃったよ」

「だから、来るなって言ったのに」

「え?」

「ご、ごめん。あんまり濡れているから、つい雨に腹が立ったんだよ」

「なんだよ、それ。雨に罪はないだろ。へんなの」

 屈託なく笑いながら部屋にあがってくる莉子の手には、相変わらず紙袋がある。ビニールでコーティングされた紙袋は雨滴をしたたらせてふくらんでいた。

「こんどは、なにを持ってきたの」

 不機嫌な声で訊ねる準哉に、莉子は機嫌よく笑いかけた。

「準哉の好きなスイートポテトを作ってきたんだよ。それと、炊き込みご飯とコーンを入れたハンバーグ。たくさん作って冷凍してきたから、会社から帰ったら食べるといいよ」

 莉子が濡れたジーパンの裾を捲り上げて木綿のソックスを脱ぎ、裸足になって廊下を進んだ。濡れた足跡が足の形のままで床に浮かび上がる。

「これからは作らなくていいよ。食べるものなんて、どこにでも売っているんだから」

 準哉は莉子の背中に投げるようにいった。やさしさのない言い方だった。

「そんなのわかってるよ。でも、手作りは別だろ?」

 持ってきた料理を冷凍庫にしまっている莉子から笑顔は消えない。

「こんなにひどい雨のときは来なくていいよ。来ることないよ」

 来る必要はないのだから、と続けそうになって、準哉は言葉を飲み込んだ。莉子の手が途中で止まった。

「なに?」

「いま着替えを持ってくるよ。ひどい濡れようだ」

 準哉は寝室に行ってTシャツとスウェットのハーフパンツをとり、廊下側にある洗面所からバスタオルを取ってきた。

「シャワー、使う?」

 着替えとバスタオルを差し出した。莉子はスウェットのハーフパンツとバスタオルだけ受け取った。

「シャワーはいいよ。下だけ借りる」

 寝室を借りて濡れた顔や髪をバスタオルで拭く。以前、カーテンと一緒に買ってきたベッドカバーが皺一つなくベッドを包んでいた。

 クローゼットの取っ手にかけられたハンガーには、準哉のスーツとネクタイがかけられたままになっている。莉子は大切なものに触れるようにスーツの肩に手を這わせた。次にネクタイに指を滑らせる。ひんやりしたシルクのなめらかな感触に胸がときめいた。紺系のスーツに似合うネイビーブルーとマゼンタとアンバーの三色の色使いが美しいネクタイだ。

 莉子は一度も準哉にネクタイを贈ったことがなかった。ファッションセンスに自信がないのだ。デパートの紳士服売り場でネクタイを選ぼうとしたことがあったが、目移りして、なにを選んでいいかわからなくなってやめてしまった。このネクタイは、準哉が自分で選んだのだろうか。とてもすてきだ。莉子はもっと準哉のスーツやネクタイを見たいとおもった。クローゼットの扉をあければ、莉子の欲望は叶えられるが、さすがにそれはためらわれた。

 ベッドの横にはパソコンがのっているデスクがある。イスは回転式でキャスターつきだ。

その机の上にはルーズリーフがだしっぱなしになっていて、ボールペンが中に挟んであった。ルーズリーフの下から簡易アルバムが覗いていた。莉子は何気なくそれを手にとった。

 職場の飲み会だったらしく、笑い声が聞こえそうなにぎやかな笑顔の写真に莉子の頬もゆるんだ。莉子はおおぜいの中から準哉だけを探していた。笑っている準哉。ビールを飲んでいる準哉。からかわれて困っている準哉。楽しそうにしている準哉を見るだけで莉子は幸せだった。

 何枚かめくったとき手が止まった。それまで準哉の隣には男性が座っていたのだが、席を入れ替わったらしく若い女性に替わっていた。

 莉子は眉をひそめて見終わったページをもう一度最初から見直してみた。最初、その女性は上司と思われる年配の男性の横に写っていた。おとなしい色使いの服装は清楚な彼女によく似合っていた。薄化粧の聡明そうなその人を、莉子はくいいるように見つめた。胸が波立っていた。育ちのよさそうな素直そうな人だった。莉子はつぎつぎに写真をめくって準哉と写っている写真を探した。

「この人……見たことがある」

 一度目は、雅巳を自転車に乗せて都庁前広場まで行って、準哉が働いている都庁を見上げていたら、準哉が数人の男性と都庁から出てきて駅に向かうのを、この人が追いかけてきた。

 二度目は雨の夜。準哉と新宿駅で待ち合わせをしていたのだが、都庁のところで待っていたとき、この人が準哉に声をかけてきた。

 莉子の胸がざわめいた。この人は準哉のことが好きだ。わたしにはわかると、おもった。準哉に向ける表情はきらきらしている。かわいらしいしぐさといい、準哉のほうに傾いている体といい、好きだという言葉を態度に替えて告白している。

 準哉のほうはどうなのだろう。

 莉子はくらりとめまいがした。準哉の男らしい雰囲気は、莉子には見慣れないものだった。莉子は動揺した。揺れ動く心の狭間で強く反発するものがあった。それは、準哉はわたしを裏切らないという確固たる信念だった。

 些細なことでけんかになってしまう子供同士の施設暮らしの中で、莉子と準哉は互いに庇いあい、助けあってきた親友だった。準哉が莉子にとって異性に変化したのは、莉子が小学五年生になってからだった。準哉のほうはどうだったのだろう。莉子だけが準哉を意識していたのだろうか。もしかしたら、今でも意識しているのは、わたしだけなのだろうか。

 莉子は、道に迷ったような表情で寝室を出た。リビングでは準哉が、莉子のジーンズにアイロンをかけていた。

「なにしてるの」

「見ればわかるだろ。アイロンでジーパンを乾かしているんだよ」

「ありがとう」

「これからは、晴れているときにおいで。わかったね」

「うん」

 そうこたえて対面式のテーブルのほうのイスに座った。背中の後ろではソファの前のテーブルにアイロン台を乗せて、準哉が慣れた手つきでアイロンを動かしていた。

 でもね、準哉、と心の中で話しかけた。雨でも出かけていくところがほしかったんだよと。

 平日はいいのだが、休日の谷村家は、莉子には居心地が悪かった。他人の家に紛れ込んだ招かれざる客のような居づらさだ。家政婦の仕事は休みだから家のことはしなくていい。でも、つい家事をしてしまう。そうすると波子から、あなたはお休みの日なのだから何もしなくていいといわれしまう。せっかくのお休みなのだから、お友だちと遊んできなさいといわれてしまう。たまには伊坂様のところに行って、元気な顔を見せてきてあげなさいともいわれてしまう。

 休みの日にまで他人が家にいては、谷村の人々もくつろげないのかもしれない。暇つぶしに街の中を歩き回ったり映画をみにでかけたりしているが、そんなことばかり続くものではない。準哉だって毎週押しかけられたのでは迷惑だろう。だから、一ヶ月に一度くらいならいいだろうとおもって出かけてきたのだ。大雨だろうと、莉子にとっては関係なかった。

「ねえ、準哉。わたしが来るのって、迷惑?」

 アイロンをかけていた準哉の手が止まった。

「どうしてそんなことをきくの」

「だって……」

「雨のときは来るなっていったのを気にしたの」

「そうじゃないけど」

「莉子のことを心配してそういったんだよ」

 怒ったような準哉のいいかたに莉子はうなだれた。

「毎月来ちゃって、迷惑かとおもってさ。でもさ、ほかに行くところがないんだよね」

「毎月来たっていいよ。でも、ひどい雨のときは止めておけっていってるんだよ。それだけだよ」

「うん」

 濡れたジーンズはほとんど乾いていた。準哉はアイロンのスイッチを切ってからキッチンへいってコーヒー豆を棚から取った。ドリップポットに水を入れてガステーブルにかける。アンティークなデザインのミルに二人分の豆をいれ、ハンドルをまわすと、騒々しい音がして雨の音を消した。豆を挽き終えると唐突に静かになった。準哉はサーバーにドリッパーを乗せ、ペーパーフィルターの底を折りたたんでドリッパーにセットした。お湯が沸いた。さかんに湯気を噴出して沸騰するポットの音を聞いていると心が静かになっていく。莉子は耳を澄ませてその音に聞き入った。

 ポットのお湯をカップに入れて暖めているあいだ、挽き終えたコーヒーをペーパーフィルターにいれ、煮立ったお湯が落ち着いた頃合を見計らって細い注ぎ口を静かに粉に回しいれていく。芳醇なコーヒーの香が立ち込めた。

「孝太郎さんも、そうやって丁寧に紅茶を入れてくれたよ」

 独り言のような小さな呟きに、一瞬準哉の手が止まりかけた。

「莉子に紅茶を入れてくれたの」

 何気ない準哉の問いかけだった。

「うん。夜、話があるって呼ばれたんだ」

「二人だけで」

「うん」

「そうやって二人だけで、夜、話をするんだ」

 準哉が置いてくれたカップの湯気を心地よさそうに吸い込んでから、莉子はそっとコーヒーを口に含んだ。ほろ苦さの中にまろやかな酸味や甘みを感じる。こくがあるのに後味はすっきりして、コーヒーの薫りが体の中まで沁みていくようだった。

 無心でコーヒーを味わっている莉子のうつむいたまつげを見ながら、準哉は重そうに口を開いた。

「いつもそんなふうに、みんなが寝静まったころ、二人だけでお茶をするのか」

「初めてだよ。みんなが寝たあと、下に呼ばれて叱られたんだよ」

「また、なにかしでかしたのか」

「まあね。自分でもまずかったとおもったけど、あとの祭りってやつでさ。孝太郎さんがすごく怒って、こんど何かあったら、辞めてもらうって言われた」

 ソーサーにカップを戻してため息をつく莉子に、準哉の表情は険しくなった。

「こんどはなにをやったんだ」

「たいしたことじゃないよ。こんな大事になるとは思わなかっただけでさ」

「なにをやったんだよ、莉子」

 大きな声に、莉子は驚いて顔を上げた。

「どうしたの、準哉。そんなに怖い顔をして」

「孝太郎という人を怒らせたんだろ。なにをやったんだ」

「いいじゃないか、終わったことだし」

「僕にも言いづらいことなのか」

「そういうわけじゃないけど、終わったことだから」

「反省して、あやまったんだね?」

「あやまってないかも……。なんとか煙に巻いて逃げてきちゃった。ごまかすんじゃなくて、素直にあやまっておけばよかったかな」

「莉子はいつもそうだ。無茶苦茶ばっかりだ。そばにいられたら注意してあげられるけど、そういうわけにもいかない。もう大人なんだから、もっと注意深くしなきゃだめだよ」

「わかってるよ。でも……」

「でも、なんだよ。どうして莉子は普通の人のようにできないんだ。普通に働いて、普通に暮らして、普通に友だちと付き合ってさ」

「わたしは普通だよ」

「普通じゃないよ」

「どこが。どこが普通と違うんだよ」

「全部だよ」

「全部!」

 莉子は驚いて目を見張った。準哉も自分がいったことに戸惑った。

「そんなふうにおもっていたの。わたしのこと」

「いや、そうじゃなくて」

「普通ってなによ。準哉がいう普通って、どういうことをいうのよ。教えてよ。わたし、頭わるいからさ。ちゃんと言ってもらわなきゃわかんないんだよね」

 言葉で押されて準哉は口ごもった。莉子はテーブルに載せていた手のひらをぎゅっと握った。

「準哉がいう普通ってさ、寝室にあった写真に写っていた女の人みたいな人のことをいうのかな」

「え?」

「職場の宴会だったんでしょ。いっぱい人が写っていたよ」

「ああ。あれね。そうだよ新卒入庁の歓迎会だったんだ」

「準哉の隣に写っていた人、だれ」

「どの人のことをいっているのかな。いいじゃないかそんなこと。それより、莉子の話しがききたいよ。こんどなにかあったら辞めてもらうって、穏やかじゃないよね。莉子も、次の仕事を考えておいたほうがいいんじゃないかな」

 コーヒーを飲みながら、目を逸らして話す準哉を、莉子はじっと見つめた。

 準哉は子供のころから言いたくないことや触れてほしくないことがあると、口の筋肉の動きが悪くなった。目を逸らせて、聞き取りにくい話し方になる。滑舌が悪くなった準哉の癖が悲しかった。知り尽くしているがゆえに、隠し事があるときの準哉の嘘がわかってしまう。

 わたしは、うまく心を隠せているだろうかと莉子はおもった。準哉が好きでたまらなくて、そのせいで迷惑をかけていることへの心苦しさや、女性と一緒に写っている写真を見ただけで嫉妬している醜い心を隠せているだろうか。

 カップの底に残ったコーヒーを飲み込んで、莉子は無理に作った笑顔を向けた。

「次の仕事のことはクビになってから考えるよ。今の仕事、気に入っているんだ。だから、孝太郎さんを怒らせるようなことはしないよ。気をつけるよ。このコーヒー、おいしかったね。準哉はコーヒーを入れるのが上手だね」

「そんなに孝太郎って人は怖いの? 莉子らしくないね。人の顔色を窺うような莉子じゃないのに。夜、呼びつけられて、叱られたほかにも何かあったのか」

 機嫌を取ろうとした莉子から笑顔が消えた。

「なんでそんなことをきくの。何もないよ。あるわけないじゃない」

「住み込みの仕事なんて、辞めたほうがいいよ。アパートを借りて通いにしなよ」

「あの家を出ろっていうの」

「そうだよ。人の家にもぐりこんで、自分も家族の一員になったつもりで一生懸命になっているけど、莉子は他人なんだよ。あの家の中の異物なんだ。それを忘れるなよ」

「異物……」

 莉子の顔色が変わったのをみて、準哉は爪を弾きはじめた。イラついたときの準哉の癖だった。聞こえるか聞こえないかのかすかな爪の軋み音は、莉子の神経も苛立たせた。

「ひどい言いようだね準哉。異物かよ。そうだよ。わたしはいつだって、どこにいたって異物だったよ。施設にいたときも、学校にいたときも、伊坂の親父のところに居座って十年暮らしたときなんか、まさに異物そのものだったよ。こんな性格だからさ、友だちとうまくやれなくて、いつも一人だったしね。でも、準哉にそれをいわれたくないね。わたしはこれでも頑張ったんだよ。わたしなりに頑張ったんだよ。それもこれも、だれのためにだとおもっているんだよ」

「やめろ! 絶対僕のためだなんて言うな。絶対言うな!」

 みるみる準哉の瞳に涙がもりあがった。莉子は虚を突かれて息をのんだ。準哉が泣いてしまった。それだけで莉子は狼狽した。

「ごめん準哉。言わないよ、言うもんか。準哉はなんの関係もないよ。わたしのこれまでは、全部自分のためにしたことで、わたしがしたいからしたことで、準哉とは何の関係もないんだからさ。だから準哉」

「そうだよ。僕とは何の関係もないんだ。覚えているか。高校の卒業式のあと、校舎の裏でスクールバッグと卒業証書をゴミ置き場に投げ捨てて、莉子は言ったんだ。『わたしが準哉を大学にいかせてやる』って、莉子が言ったんだよ。そんなことは止めてくれって言ったのに、莉子は僕が部活で使っていた竹刀を持って、一人で伊坂さんのところに乗り込んでいったんだ。『ついて来るな』って言って、たった一人で……」

 莉子の体が震えた。十年前の記憶がよみがえる。三月の冷たい青空とわずかばかりの春の気配をのせた風が校庭に吹いていた。

 卒業式を終えた生徒たちが体育館からぞろぞろ出てきて、校庭がにぎやかになった。莉子と準哉は、それらに背を向けて校舎の裏で対峙していた。二人とも緊張のせいでなかなか言葉が出なかった。準哉から竹刀を受け取り、たった一人で丸の内にある伊坂達郎の会社に乗り込こもうとする緊張がよみがえってくる。

 心臓が破れてしまいそうなほど激しく脈打っていた。莉子と莉子の母親を見捨てた父親は、丸の内の巨大なビルの頂点にいた。そこまで、なんとしても行き着かなければならない。そんなことができるかどうか、莉子に自信があったわけではない。緊張のあまり汗をかき足は震えていた。必死だった。準哉のために、準哉を大学に行かせるためには、どうしても伊坂達郎の財力が必要だったからだ。莉子の夢を叶えるために、莉子の想いを果たすために、なにが何でも父親までたどりつかねばならなかった。

「わたしは、楽しかったんだよ。準哉は自分のせいでわたしが苦労したとおもっているのかもしれないけど、それは違うよ。準哉が大学に通った四年間は、わたしが一番幸せだった四年間だったんだよ。あんなに毎日が充実していたときはなかったよ。準哉が話してくれる大学生活は、聞いていてほんとうに楽しかった。わたしも大学に行っているみたいな気になったよ。だから、準哉はわたしに感謝なんかすることないし、わたしのほうが準哉にありがとうって言いたいくらいなんだ。ほんとだよ」

「じゃあ、なぜ、僕が就職したあとも、そんなふうにバカみたいに働くんだよ。僕が大学を卒業したら、莉子は楽になっただろ? 余裕ができたぶん、人並みな暮らしをすればいいじゃないか。おしゃれして、楽しいことをいっぱいして、友達を作ってさ」

「おしゃれして? たとえば、お化粧して、髪を染めて、かわいらしい洋服を着て、爪を桜色に染めて、準哉の隣に写っていた、あの人みたいに?」

「あの人……。ああ、彼女のことか」

「あんなふうになればいいの? あれが普通の女の人なの?」

「普通の女の人なんて言い方、やめろよ」

「どうして。準哉がいったんだよ。どうして莉子は普通の人のようにできないんだって。普通に働いて、普通に暮らせないんだって」

「やめよう。話しが元に戻っているよ。先の話をしようよ。莉子はアパートを借りるべきだ。住むところを決めて、ちゃんとした会社に勤めるんだ。僕が保証人になるよ。堅実な生活を築こうよ。地に足がついた生活をしよう。僕がいくらでも手助けするよ。それぐらいの力は、今の僕にはあるからさ。経済的な援助もできるよ。アパートを借りるのだってお金がかかるからね」

「お金ならあるよ。貯金はあるんだ。ほどこしはいらない!」

 さっと準哉が青ざめた。

「ほどこしだって?」

 莉子も青ざめていた。ごめんという言葉が喉に絡んでなかなかでてこなかった。準哉が目を見開いてまじまじと莉子を見つめていた。準哉の開いた瞳孔は真っ暗だった。アイロンで乾かしてくれたジーンズを掴んで、莉子は寝室に走りこんだ。ハーフパンツを脱いで着替え、寝室を出ようとして、思い出したように机のところに戻った。

 簡易アルバムを開いて彼女と写っている写真をとり、裂こうとして我に返った。手の中の写真を見つめた。やはり準哉は男らしかった。もう莉子の助けなど必要ない独立した男性だった。

「準哉……」

 わたしはもう、いらないの? と、写真に問いかけた。みるみる涙がもりあがる。写真を元に戻してアルバムを閉じた。破こうとしたなんて、いやな女になるところだった。わたしの心は醜いとおもった。汚いものをいっぱい抱えている。自分は、醜くて、汚い女だとおもったら、涙が止まらなくなっていた。準哉に好かれるわけがない。莉子はシャツの裾で涙を拭いてリビングに戻った。

「準哉、わたし、帰るよ。休みのなのに邪魔して悪かったね」

 急いでバッグを掴んで玄関に行き、裸足のまま靴を履いて部屋を出た。エレベーターで一階に下りて、エントランスから外に出ようとして傘を置いてきたことに気がついた。しかし、取りに戻る気にはなれなかった。準哉が傘を持って追いかけてきてくれるかもしれないとおもって、ガラスドアの向こうで吹き荒れている風雨を眺めた。

 人通りは絶え、灰色の厚い雨の幕がビルやマンションの路地を埋め尽くしていた。待っても準哉は降りてこなかったので、雨の幕を体で突き破る勢いで雨の中に飛び込んだ。冷たい雨だった。体中に当たって痛い。雨は痛いものだということを、莉子は初めて知った。バス停まで走りながら、準哉が傘を持って追いかけてくるのを心の中で待っていた。


 バタンとドアが閉まった音で振り返ると、もう莉子の姿はなかった。玄関には、莉子の傘が置き忘れてあって、雨水が水溜りのようになっていた。

 準哉は突っ立ったまま、耳を澄ませた。莉子が傘を取りに戻ってくるだろうとおもっていた。窓をみると、雨はホースでガラス窓を洗い流しているようなありさまになっていた。

 ソファに腰を下ろして頭を抱えた。雨が建物の壁面を打つ音が、まるで準哉の心を鞭打つように聞こえていた。

 待っても莉子は戻ってこなかった。走れば追いつけるかもしれないとおもったが、莉子を追う気持ちがなくなっていた。もう、莉子を追いかけるのはいやだとおもった。やおらソファから立ち上がってキッチンへ行った。冷凍庫を開けると、莉子が持ってきてくれた食べ物がきれいに並んでいた。それを取り出し、ゴミ箱の中に全部放り込んだ。ゴミ箱の蓋を閉めて、準哉は力尽きたようにしゃがみこみ、声を放って泣いたのだった。


「どうしたんです。そんなに濡れて」

 孝太郎は驚いて大きな声をだした。ふらふらになって玄関に転がり込んできた莉子は、ずぶ濡れだった。髪から水が滴り落ち、衣服も肌に張り付いて水が染み出てくる。唇は紫色で全身で震えていた。わななく足で靴を脱いであがった。靴の中は水だらけで、玄関の床もわずかな間に水溜りができていた。孝太郎に返事もせずに階段を上っていく。

 孝太郎は階段の手すりに手を乗せて莉子の姿を目で追った。莉子の歩いたところがびしょびしょだった。雑巾を取りに行って、濡れたところを拭いていった。階段を上り、二階の廊下を拭きながら莉子の足跡をたどっていると、彩華が部屋から出てきた。

「なにやってるの、お兄さん」

 素っ頓狂な彩華の大声に、孝太郎は少しうろたえた。

「いや、ちょっと」

「やだ。廊下がびしょびしょじゃない。なにこれ」

 彩華が、濡れた跡をたどって行った。

「オヤジの部屋だ。また雅巳が廊下にジョーロで水をまいたのね」

「雅巳はそんないたずらをするのか」

「雅巳!」

 孝太郎を無視して彩華は雅巳の名を呼びながら莉子の部屋を開けようとした。

「おばちゃんがかえってきたの?」

 自分の部屋でおもちゃをあさっていた雅巳が、部屋から飛び出してきて、すばやく莉子の部屋に入っていく。開けっ放しになっているドアから中を覗くと、キングサイズのベッドの足元にびしょ濡れの服がひとかたまりになって脱ぎ捨ててあり、莉子は頭から上掛けをかぶって丸くなっていた。雅巳はその上掛けの中にするするもぐりこんでいった。

「おばちゃん。きょうはかえってくるのがはやかったね。どうしたの。あたまがぬれているよ。それに、はだかだよ。どうしてはだかなの。ねえ、おばちゃんたら」

 上掛けの中から雅巳の声が聞こえてくる。ドアの前でそのようすを見ていた孝太郎と彩華は、思わず顔を見合わせていた。いつの間にか涼も部屋から出てきて隣にいた。

 改めて部屋の中を見回してみると、孝太郎が使っていた当時のまま美しさを保っていた部屋は、雅巳のおもちゃであふれかえっていた。壁はクレヨンのいたずら書きで汚れまくっているし、ラジコンカーや縫いぐるみは散らばり放題だ。

「雅巳がオヤジの部屋に住み着いてるよ」

 彩華が呆れた。

「オヤジって、なんのことだ」

 孝太郎が訊いた。

「このオバサンのことよ。オヤジみたいにガニマタでガシガシ歩くから“オヤジ”なの。そうよね、涼ちゃん」

 涼は返事をしなかったが、困ったように孝太郎に首をすくめて見せた。孝太郎は苦笑して部屋の中に入っていき、莉子の濡れた服を取って、洗濯機のところに持っていった。戻ってきて、濡れている絨毯をタオルで拭きはじめた。彩華と涼は思わず顔を見合わせた。

「雅巳、雅巳」

 床を拭きながら小声で呼びかけるが返事がない。大きな山と小さな山が寄り添って、静かに呼吸している。

「寝てしまったみたいだな」

 孝太郎は彩華を振り返った。

「彩華。雅巳を僕の部屋に寝かせてくれ。雅巳がいたんじゃ伊坂さんがゆっくり眠れないだろうから」

「うん」

 そっと上掛けをめくると、雅巳が莉子の顔に鼻をつけるようにして眠っていた。雅巳の寝顔はすこやかだったが、莉子の寝顔は苦しそうだった。濡れた髪が肌に張り付き、ぎゅっと眉が絞られている。顎も噛みしめているのか耳の下あたりの筋肉が盛り上がっていた。 雅巳を抱き取りながら、いったいどうしたのだろうと彩華はおもった。何かあったのだろだろうか。彩華が莉子を気にしながら雅巳をはこんでいこうとしたら、涼が横から雅巳を抱き取って部屋を出て行った。孝太郎も濡れたものを持って部屋を出た。

「わたし、あしたから学校なんだよね。一週間ぶりだよ」

 ベッドの枕もとに立って、彩華がだれにいうともなく呟いた。

「へいきな顔で登校しな。いつもの仲間とは距離をおきな。ぐずぐずして先に行くように仕向けるんだ。そのほかは、いつもと同じように普通にしていればいい」

「う、うん」

 眠っているとばかりおもっていた莉子が上掛けの中からそういった。不安を見透かされたようでぎょっとしたが、彩華はすこしほっとした。もしかしたら、自宅謹慎になったいきさつが噂になって広まっているかもしれないとおもうと、あしたからの学校が気重だった。

「少し眠るから、もう行きな」

「ねえ、何かあったの。へんだよ」

 莉子は返事をしなかった。彩華は、人の形にふくらんでいる上掛けをつかのま睨みつけた。とにかく、あしたから学校へ行こう。なにか言われたら、そのときはそのときだ。彩華は腹をくくって部屋を出た。

 その夜、莉子は熱をだした。悪寒がして咳が出る。風邪を引いたと思ったので、雅巳は孝太郎のベッドに避難させた。雅巳は大はしゃぎした。

 翌朝、咳込みながらキッチンに立っている莉子に、波子はあからさまにいやな顔をした。一番先に起きてくるのは孝太郎で、苦しそうにしている莉子に無理をするなといった。

「だいじょうぶです。体だけは丈夫にできていますから」

 だるそうなようすを見れば熱がありそうだとだれでもわかる。孝太郎は波子に声をかけた。

「叔母さん。きょうは伊坂さんを休ませて上げてください。風邪をこじらせるといけない。雅巳の送り迎えもお願いします」

 波子は迷惑そうだった。

「しかたがないわね。風邪をうつされても困るし。あなた、もういいから、お薬を飲んで寝ていなさい」

 言い終わる前に、莉子は崩れるように倒れていた。

「莉子さん!」

 波子が大きな声をだした。孝太郎が飛んできて莉子を抱き起こす。ひどい熱だった。呼吸も浅く、額に冷や汗をかいている。咳が止まらず、咳をするたびに体が跳ね上がった。

「叔母さん、救急車を呼んでください」

「救急車でもいいけど、うちの会社の系列病院のほうがいいんじゃないかしら」

「そうだね。電話してくれ。僕が車で連れて行くから」

「ええ」

 波子がリビングにある電話に走っていく。彩華が起きてきて、キッチンで倒れている莉子に驚いた。

「オヤジ、どうしたの」

「ひどい熱だ。咳が止まらないらしい」

 孝太郎の腕の中で、莉子がもがいて背中を丸めた。

「彩華、ティッシュを持って来い」

「うん」

 彩華が走って持ってきたティッシュの箱からペーパーを抜き出すと、莉子はそれを掴んで気管を塞いでいた痰のかたまりを吐き出した。孝太郎はそのティッシュを取って、新しいティッシュを莉子に持たせる。腕の中からずり落ちそうになる莉子を抱えなおした。電話を終えた波子が戻ってきた。

「すぐ連れてきてくださいって」

「どこに。病院?」

 彩華がおろおろしながら波子と莉子を交互に見た。

「そうよ。孝ちゃんが車で連れて行くって。彩華はごはんを食べちゃいなさい。きょうから学校なんだから」

「でも、オヤジが……」

「オヤジって誰」

 波子が変な顔をした。

「だから、オヤジみたいにガニマタで歩くから、オヤジなの。いやだもう!」

 もどかしそうに足踏みしている。

「叔母さん。毛布を持ってきて伊坂さんを包んでくれ。車を出してくるから」

「わたしが持ってくるよ」

 彩華が二階に駆け上がっていった。莉子を波子にあずけて孝太郎は車庫に急いだ。夜半まで強く降っていた雨は小降りになっていて、傘をささずに車庫に走る孝太郎の肩を濡らした。車を玄関の前につけると、波子が、毛布で包んだ莉子を抱えて玄関までやってきた。

 心配そうな彩華に、背広の上着とビジネスバッグを持ってくるようにいいつけて、孝太郎は莉子を助手席に乗せた。

「伊坂さんを病院に連れて行ったら、そのまま会社に行きます」

 彩華から背広とビジネスバッグを受け取りながら波子にそういった。

「わたしも行きましょうか」

「叔母さんは雅巳をお願いします」

「そうでしたね」

「電話しますよ」

「ええ」

「彩華。ちゃんと学校に行けよ」

「わかってるよ」

 助手席のシートベルトを莉子の体に回すとき、顔が近づき莉子の息がかかった。熱い息だった。

「あんなに濡れて帰ってきたからだ」

 叱責するような孝太郎の声が聞こえたのか、莉子は眉を強く絞って顔を背けた。門に向けて動き出した車を見送る波子と彩華が、玄関の軒下で肩を寄せ合っていた。


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