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ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
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第一話

 三月の空は抜けるように蒼かった。

 校庭を取り囲むカシの木は、勢いづくように若い枝を上空に伸ばしている。風は冷たいが、卒業式を終えて体育館から出てきた若者たちの頬は上気していた。

 高校を卒業すればそれぞれの進路が待っている。大学に進学するもの、専門学校に進むもの、就職するものと、進む道はちがっていても、どの顔も希望と期待に輝いていた。

 莉子りこはスクールバッグと卒業証書の入った筒を持って、保護者と卒業生たちでにぎわっている校庭に背を向け、事務棟裏のごみ置き場に歩いていった。後ろに太田準哉おおたじゅんやが無言で続く。二人に卒業式の晴れやかさはなかった。

 長い髪をうなじで一つにしばっている莉子は、両足を開いて足を止めた。強い眼差しで準哉に向き合う。準哉のほうは、聡明な顔を気弱に曇らせて、困ったように眉を下げていた。準哉はスクールバッグと卒業証書が入った筒のほかに、剣道部で使っていた年季の入った竹刀を持っていた。

「準哉」

 と、莉子が片方の手を差し出した。静かな声だったのに、準哉は怯えたように竹刀を後ろに隠した。莉子の目が光った。

「よこしな。言ったでしょ。わたしが準哉を大学に行かせてあげるって」

「だけど、そんなことまでして……」

 準哉のためらいは莉子にはよくわかっていた。大学など行けるわけはない。そんな金もなければ環境でもないことを、莉子も準哉もよくわかっていた。それでも莉子は準哉を大学にいかせることにこだわった。優秀な準哉を高校で終わらせずに大学に行かせる。それが莉子の夢だったからだ。

「準哉の就職先にはわたしが電話でことわったよ。あんたが書いて捨てた特待生の書類はわたしが拾って提出しておいた。あとは、アパートと生活費だよね。任せておきな。あてはあるんだ」

「無茶はやめてくれ」

「無茶なもんか。見てな。準哉。わたしの父親に、十八年分のツケを払わせてやるから」

 そういって莉子は、卒業証書の筒とスクールバッグを、ごみ置き場の柵のなかに投げ捨てた。

「だから、それをよこしな」

 ためらったすえ、準哉はおずおずと竹刀を莉子に差し出した。

「じゃ、行ってくる」

 竹刀を掴んで決意を表すように、莉子は一度大きくそれを振った。業者のトラックが出入りする門を出て行く莉子の後姿を、準哉は声もなく見送った。すぐに莉子の姿は角を曲がって見えなくなった。準哉は自分のスクールバッグを、莉子が投げ捨てた柵の中に放ると、莉子のあとを追って走り出した。

「莉子、僕も行くよ」

 筒を振り回して呼び止めたら、莉子が足を止めた。

「ついてくんな。ここからは、わたしと父親の一回限りの真剣勝負なんだから」

 有無をいわせぬ眼差しに、準哉の足が止まった。竹刀を肩にかついで、制服のスカートをけとばすようにガニマタで歩き去っていく莉子を、準哉は遠い目で見つめていた。その手には、きつく卒業証書の筒を握り締めていた。



 皇居の大手濠を左手に見ながら、莉子は内堀通りを歩いていた。まぶしく輝く緑色の堀の水に小さな漣が立ち、向こうでハクチョウが三羽、のんびり水をかいていた。右横を絶え間なく車が走っていくが、騒音はまっすぐ空に上っていくので煩さは感じなかった。

 千代田区丸の内は日本の経済の中心地というだけあって、そうそうたるビルが林立し、華やかな中にも威圧感があった。歩きながらビルのてっぺんを眺めていると首が痛くなってくる。三月の空の蒼さを切り裂くようにそびえている高層ビル郡は、十八歳の莉子には巨大すぎた。

 目的のビルは、重厚さを強調したオフィスビルだった。地上24階、地下4階、高さ約100m、建築面積約6000㎡にも及ぶプロトタイプのビルの頂点に、自分の父親がいると思うと足が震えた。あそこまで、なんとしてもたどりつかなければならない。若い莉子は必死だった。

 ビルに近づくと、入り口を入ったホールに警備員が立っているのが見えた。タイルカーペットを敷き詰めた明るい床が照明を受けて光っている。受付のデスクは横に長くて幅が広く大きかった。デスクの上には何も乗っておらず、受付の女性が三人、間隔を空けて座っていた。衝立式のデスクの下に電話やパソコンなどが置いてあるのだろう。制服姿の女性たちはみな、肩から上しか見えなかった。

 莉子は竹刀を引きずりながら、ためらわずに自動扉をくぐった。警備員がすぐさま近寄ってきた。

「あなた、ご面会のかたですか。それとも、面接ですか」

 若い警備員は、学生服の莉子が引きずっている竹刀に注意を向けながら、言葉だけはていねいだった。

「面会です。伊坂達郎いさかたつろうに会いに来ました」

「伊坂、達郎?」

 聞いたことのある名前だな、というような顔つきの警備員に隙ができた。その一瞬をのがさず、素早く受付に走った。受付の女性が一人、驚いて腰を浮かせた。

「伊坂達郎に北尾京子の娘が会いに来たと伝えてください」

 立ち上がった女性にそういった。

「ご、ご面会のご予約を確認させていただきたいのですが」

 かろうじて応対した女性に、莉子は薄く笑みをもらした。

「娘が父親に会いに来るのに、面会の予約が要るんですか」

「あ、あの、それって」

 女性がまごついているうちに走り寄った警備員が莉子の二の腕を強い力で掴んだ。

「はなせよ。用はこれからなんだからさ」

 言いざま警備員の腕を振り切って、デスクに竹刀を叩きつけていた。

 激しい音が乾いた空調のホールに響いた。受付の女性たちが叫んだ。周りの来客が、何事かというように振り向く。近くのドアが開いて、数人の警備員が飛び出してきた。野太い中年の男の声が響き、莉子を取り押さえようと詰め寄ってくる。莉子は伸びてくる何本もの腕をかいくぐって、もう一度竹刀でデスクを叩いた。そして、みずから竹刀を床に投げ捨てた。飛びかかってきた警備員に両腕を背中にもっていかれて拘束され、乱暴に肩を小突かれて警備室に連れて行かれた。

 警備室の事務所で、事務机の前に座らされた莉子は、無言で周りを見まわした。すこし開いたドアの隙間から向こうの部屋が見えた。壁一面にモニター画面が並んでいて、社内だけでなく外の駐車場や庭の映像も映し出されていた。

「名前は?」

 莉子の正面に座った年配の警備員が苦々しげに尋ねてきた。制服姿が板についている責任者は、高校の制服を着た莉子にかなり腹を立てていた。

「名前はと聞いているんだよ。あるだろ。名前ぐらい」

「北尾莉子です」

「未成年だね。まず、どうしてこんな乱暴なことをしたのか、理由をきこうか」

「父親に会いに来ただけです」

「ふつう、そういうときは、お父さんと連絡をとって、下におりてきてもらうだろ。どうしてそうしなかったんだ」

「電話番号を知りません」

「お父さんの職場は? 電話して来てもらから」

「役職は代表取締役社長。名前は伊坂達郎」

「真面目に答えないと警察に突き出すぞ」

 腹を立てた警備員は怖い声をだした。莉子は制服のジャケットのポケットから、おもむろに折りたたんだ薄い経済専門雑誌を取り出した。雑誌を広げてページをめくり、伊坂達郎のカラー写真を見せた。警備員はちらりと写真に目をやった。

「この会社の社長がなんだというんだ」

「おじさんが知っている社長に間違いありませんよね」

「間違いないよ。それがどうしたんだ」

 またもや莉子はポケットから一枚の写真を取り出した。十九年前の若々しい伊坂達郎と、長い髪をうなじでひとつに束ねて前髪を横に流した若い女性がうつっていた。二人は肩を寄せ合い頬をくっつけて幸せそうに笑っていた。女性は妊娠していて、大きくふくらんだ腹を抱くように腕を回している。その手を伊坂達郎の手がおおっていた。警備員は、写真と雑誌の伊坂達郎を何度も交互に見直した。

「この写真の女性は母です」

 そういって、莉子はポケットから母子手帳と戸籍謄本を出した。警備員は、ひったくるように母子手帳を取って父親の欄を見た。顔色が変わっていた。父親の欄には、伊坂の字で伊坂達郎と明記されていた。そして北尾京子の戸籍謄本をひろげて確認する。血相を変えた警備員が部屋を飛び出していった。


 最上階の役員室は、思ったより広くなかった。執務する大型のデスクには決済書類を入れる木の箱と筆記用具、あとは電話とパソコンがのっているだけだ。そのほかには、装飾のないテーブルと椅子のセットが置かれている。部屋を飾っているのは、大きな額に入った油絵と、面談用のテーブルに置いた花ぐらいなものだ。もうひとつドアがあるから、そちらのほうは個人的な使い方をする部屋なのかもしれない。

 高級感はあるが簡潔な執務室で、莉子は伊坂達郎と向き合っていた。二人とも立っていて、伊坂は莉子に椅子を勧めることを忘れているようだった。伊坂の後ろの大きな窓から陽光がまぶしく差し込んでくる。窓の向こうに広がるのは皇居の堀と緑の森だった。

 伊坂が、手にした母子手帳と写真と戸籍謄本をデスクに置いた。莉子に目を戻し、感に堪えないように瞳を揺らした。しかし、唇はいつまでたってもきつく結ばれ、言葉を発しなかった。

「はじめまして。お父さん」

 莉子に挨拶されて、伊坂の引き結んだ唇がわずかに震えた。返事をかえさない伊坂に失望することなく莉子は続けた。

「わたしはさきほど、高校を卒業してきました。高校を卒業したら、わたしが育った養護施設を出て行かなければなりません。その昔、あなたが実家の人に無理やり連れ戻されたあと、母はわたしを産んで失意の中で亡くなったそうです。あなたがわたしを探して施設に迎えに来てくれるのを十八年間待ちました。でも、あなたは来なかった。十八年分のツケを払ってもらいに来ました」

 伊坂の瞼がピックと痙攣した。莉子と伊坂は、互いに目をそらすことなく、相手の腹のうちを探るように見つめあった。徐々に青ざめていく伊坂に反して、莉子の顔は激情をおさえるように真っ赤になっていった。伊坂は、莉子を睨みつけたまま、デスクの電話をとって弁護士を呼んだ。弁護士が到着するまで、一言も口を利こうとはしなかった。

 それから十年の歳月が流れた。




 伊坂莉子はまっすぐな長い髪をうなじでひとつに束ねて前髪を横に流し、五月の風に素肌を向けて軽快に自転車をこいでいた。

 自転車の前かごと後ろかごには引越し荷物を山積みにしている。着ているのは、いつものジャージの上下ではなく、きょうはリクルートスーツだ。莉子にとっては、改まった場所に着ていく唯一の正装だった。

 莉子が向かっているのは谷村家だった。父の伊坂達郎から、谷村家で住み込みの子守兼家事手伝いを探しているので行ってみないかと声をかけられたのが先週だった。体裁をつくろわない言い方に莉子はうなずいていた。

 父の伊坂達郎には妻と息子が二人いたが、その家の中ですごした十年の歳月は、莉子にとっても伊坂や伊坂の妻子にとっても実に居心地の悪いものだった。

 伊坂にとって莉子は、「私の娘です」と紹介するのもはばかられるほど口が悪く粗野だった。なんど注意しても口のききかたや態度が直らない。働くことには熱心で、アパートを借りて一人暮らしできるくらいの小遣いを渡しているのに、少しでも時給がいいと転職してしまう。小遣いと給料を合わせれば、けっこうな収入になっているはずなのに、着ているものは量販店で売っている安物のジャージだった。外聞が悪いので着るものや言葉遣いに注意するようにいってもいっこうに効果がない。妻や息子たちに嫌味をいわれ続けた伊坂は、ついに莉子に家を出て行くようにいったのだった。

 高校の卒業式終了後に竹刀を掴んで、準哉を大学に行かせてやると宣言したとおり、同じ施設で育った準哉を援助し続けた。学費は特待生免除だったので、莉子が働いた給料と、伊坂達郎から毎月もらう小遣いが、準哉の生活費になった。量販店で買った安物のジャージ姿でアルバイトに通う莉子を、準哉がどんなおもいでみつめていたか、莉子は知らない。莉子はただただ、勉強がよくできて、やさしくて、なにもかも美しい準哉を、自分の夢を育てるように懸命に守っただけだった。

 守るもの。たいせつなもの。失いたくないもの。それが準哉だった。

 準哉のために頑張れた。準哉がいたから突っ走れた。そして、先月、準哉は二十八歳になった。莉子ももうすぐ二十八歳を迎える。自転車をこいで谷村家に向かっている莉子は、ばら色の頬を五月の風にさらして微笑んでいた。


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