もっと速く!
玄関を出るとチュンチュンとなく雀に出迎えられる。毎朝お勤めご苦労様ですと念を送り自転車にまたがる男。
これから学校へ行かねばならない。遅刻寸前なので少し急いだほうがいいだろう。
彼の愛機は赤いMBT。応募した覚えもない懸賞でなぜか当選し、住所を教えたこともないのになぜか送りつけられてきた一品なのだが、その性能とフォルムは気に入っているらしかった。
「おし、行くか」
ペダルを漕ぎ出すと心地いい加速とともに発進する。朝の澄んだ空気が体に当たり、とてもいい気持ちだ。
『くそっ、あの女またご主人をギリギリに起こしやがったな』
「ん?今何かきこえたような」
キッとブレーキを踏み、辺りを見回してみる。が、特に変わったふうはない。女の声が聞こえたような気がしたのだが、勘違いだったようだ、と自己完結し、再び自転車に乗り込む。
「おっと時間が。急ごう」
『あぶねぇー、声は出してないのにアタシの気配に気がつくとはさすがご主人』
『やっぱアタシとご主人の相性は最高だな!!』
『しかしあの目覚まし女、あいつのせいで毎朝毎朝急いで登校しなきゃならなくなるんだ』
『アタシとご主人が一緒にいる時間を減らしやがって。………今度轢いてやろうか』
「うわわっ、急にハンドルが!?」
まるで不機嫌な動物が首を振るう動作をするが如く、ハンドルが急に左右にぶれた。危うくバランスを崩しそうになるのだが、なんとか持ち直す。
『おっと、ご主人に怪我をさせるとこだった』
「なんだろう、小石か何か挟まったのか?」
自転車を止めて、前輪のチェックをしてみる。
『わっわっ、ご、ご主人そんなとこ触ったら……』
特に問題はないようだ。調べている最中にまるでイヤイヤとするようにハンドルがくいくい回されていたのが、そこはかとなく気になるはするのだが。
「まずい、本格的に時間が」
このままだと遅刻ペースである。急いでMBTに乗り込んで思いっきり加速する。
『うひょ~、さすがご主人。すごいスピードだ!やっぱりアタシを乗りこなせるのはご主人しかいないぜ!!』
急いでペダルを漕いでいると、急に機体が持ち上がりぴょんぴょんと飛び跳ねるような動きをし始めた。
「な、なんだぁー!?」
サスペンションがおかしくなったのだろうか。当然ながら俺はそんな動作なんてしていないし制御しようにもバランスをとるのに精一杯だった。
「あら、東郷さん家のぼっちゃんおはよう。今日はなんだかご機嫌ねー?」
「お、おはようございます~」
近所のおばさんに挨拶をされる。傍から見れば彼が巧みにMBTを操り、なにか嬉しいことでもあって飛び跳ねているのかと思われても仕方ないのかもしれない。
『よし!ご主人を遅刻させるわけにはいかない。このままショートカットだ!!』
「え?ちょっ!?ハンドルが効かない、っていうか前!前に塀がっ!!」
まるで意志を持ったかのようにMBTが勝手に進み始め、1mはあろうかという壁をぴょいと飛び越えてしまった。
『まだまだいくぜ!!』
「おい、今度は家っ!!うわ、ぶつかる!!」
思わずその衝撃に備えようとするのだが、2階建ての日本住宅をこれまたポーンと飛び越えてしまう。
「すげぇ、東郷の兄ちゃん自転車で空飛んでるぜ」
「まぁ東郷の兄ちゃんだからな。おーい、兄ちゃん今日もはりきってるなー!!」
「そ、それほどでもー!!」
時々助っ人に呼ばれるバイト先の人達に声をかけられる。この異常事態を俺だからという理由でスルーされてしまったのが軽くショックらしかったのだが、そんなことも言っていられない。
『ぃやっほーい!!アタシとご主人は世界一ィィィィィ!!!』
「頼むからとまってくれー!!」
◇◇◇◇◇◇
そんなこんなでやっと学校近くの信号まで辿り着く。このままいけばなんとか遅刻は免れそうだった。
「どっと疲れた……」
赤信号で止まっている最中に一息つく。家から学校までの正規の道を無視して、家を飛び越え電柱の電線を綱渡りし、車の屋根から屋根へと飛び移るなど、とんでもない道中だったのだ。
「あ、先輩おはようございます!」
「ん?ああ、高屋敷。おはよう」
信号待ちをしている最中に後輩と出会う。スクーターに乗りメットをかぶった様子の彼女は、俺を目に止めると、ほほ笑みかけてきた。
「先輩、疲れた顔してますよ?まるで性悪女にでも振り回されたあとみたい」
「振り回された?……まぁ当たってるっちゃそうだな…」
正確には自転車に、なのだが。
「……それで、あのこと…考えてくれましたか?」
「うん?あのことってなんだ?」
「いや……だから、その……手紙のこと…です」
高屋敷と呼ばれた少女は、なにやらもじもじとして、緊張した面持ちで彼を見つめる。手紙のこと…と数瞬考え、ああ、と案件を思い出す。
「すまん、実はまだ読んでない」
「えぇー!?なんですかそれ。ひどいですよ」
「いやさ、その場で読もうとしたら隣にいた五十嵐のやつに奪われちゃってさ」
「五十嵐先輩が………?」
五十嵐という名前を聞いた瞬間目を見開き、唇をギュっと噛む高屋敷。
「ああ、ごめんな。なにか用事があったのか?なんなら今ここで聞くけど」
このご時勢に手紙とは、何か大事な用があったに違いない。心当たりはなかったが、読まずに放置していたのはあまりに不誠実だ。責任を取らなければならない。などと、物分りがいいのか悪いのか微妙な判断を下す東郷。
「……わかりました。こうしましょう」
信号が青に変わり、スクーターのアクセルに手をかける高屋敷。
「私が先輩より先に学校についたら、なんでも言うことを聞いてもらいますからね!」
そう告げると黒煙を上げて全速力で学校へ向かっていった。
「いや、自転車とスクーターじゃ俺勝ち目無いじゃん……」
ツッコミを入れるのだがすでに高屋敷の姿はなく、一人取り残されてしまった。
「まぁ、いいか。あいつには悪いことしちゃったしな」
しゃーないと自転車に乗り込む。このままゆったり行こうかなどと考えていると。
『あの女……アタシのご主人に色目使いやがった』
『アタシからご主人を奪う気なんだ。アタシとご主人は二人で一つ。二人合わせて最速だってのに………』
『いやだ、嫌だ嫌だ!!アタシはご主人だけいればいい。他のやつなんかいらない』
「あれ……またハンドルが…」
『そうだ、遠くに行こう。アタシとご主人がずっと一緒にいられる場所に』
『誰もアタシ達に追いつけやしない。アタシ達が最速だ。誰もついてなんてこれない』
ドクンドクンと自転車が脈打ってる。いや普通はそんなことありえないのだが、こうしてMBTの鼓動を感じてしまっている。発熱まで起こってきた。
『一緒に風になろうご主人。こんな世界、アタシ達には遅すぎる』
その熱が臨界に達した瞬間、MBTが爆発的な速さで急発進する。
「うあああああああああああああ!?」
必死にハンドルにしがみつく。こうでもしないと体が後方にふっ飛ばされそうなほどだ。操縦者を振り落としそうなほどのスピードで走る自転車なんて存在するのか。
目に止まったと思ったら一瞬で視界から消えていく景色たち。当然ながら東郷が漕いでるわけはない。ただ猛回転するペダルに足を取られまいと必死になっていた。
200mをわずか数瞬で走り抜け、学校が見えてくる。しかし止まる気配などなく。
「くっそおおおお。こうなったら!!」
無理にハンドルを動かし強制的に進路を変更してやる。その先は道路の縁石にあるちょっとしたなだらかな段差だ。
「このスピードと進行方向、そしてあの仰角……頼むっ!!」
縁石をジャンプ台に見立てて大空へと飛ぶ。この街が一望できるほどの高度に一気に達した。
『あはは、楽しい、楽しいなぁ!!!』
「勘弁してくれ……俺は宇宙人乗っけてるわけじゃないんだぜ……」
呟いたのも束の間、羽もないのに空を飛べば、落下するのは自然の摂理なわけで。
「あああああぁああぁぁああぁぁぁああ!!!!?!!」
空で曲線を描いて落ちていく。落下していく先は学校のプールだ。
ドボンとものすごいしぶきを上げて水に突っ込む。衝撃で気を失いかけたが、息苦しさからすぐに水面に顔を出した。
「あわ、あわわわわわ。い、五十嵐先輩、空から東郷先輩が降ってきました」
「落ち着くのだ。私の言ったとおりだろう?朝練を一時中断していて正解だったな」
ごほごほと水でむせたのか咳き込みながら、自転車を担ぐ。そのままプールサイドまで泳いでいき、岸に掴まった。出迎えてくれたのは水着をつけた水泳部の女子数人と……。
「五十嵐、奇遇だな……」
「やぁ東郷、なかなか奇抜な登校の仕方だな。この前君にラブレターが来ていたから、空から雪か槍でも降ってくるかと思っていたのだが、まさか君自身が降ってくるとは思ってもみなかったよ」
「あぁ?ラブレターってなんのことだ?…まぁいい、とりあえずおはようだ」
「ああ、おはよう」
長い黒髪をはためかせ、優雅に礼をする五十嵐。
とりあえず学校にはついたし命も無事だ。まぁ及第点だろう。
「ひぃっ、あの高さから落ちたのにピンピンしてる……」
いくら水に落下したからとは言え、通常では東郷も自転車もタダではすむまい。どこかしらケガなり胡椒なりしていても全くおかしくはない。というよりはしていなければおかしい、のだがそんなことを知ってか知らずか、東郷はケロリとして様子だ。
「あー、びしょ濡れだな。ちゃんと走るかなこれ」
MBTを軽く点検してみる。見たところ落下の衝撃で壊れてしまった、ということはなさそうだった。しかしあれほどのスピードで爆走してはどこか部品が摩耗していてもおかしくはない。
「週末にでもメンテするか」
ぽんとハンドルに手を置いてつぶやく。するとリン、と勝手にベルが鳴ったのだった。