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章の中での話数を増やしました。内容は変わっていません。
物騒な問題に巻き込まれて危ない組織に狙われているという恐ろしい状況の海音が、自分のせいで顔写真を取られてしまったという大きな失態を、貴志はまだ気に病んでいた。
写真がどこまで出回ってしまうかはまだ定かではないが、恐らく瞬く間に手から手へと渡り、多くの追手は海音の顔を知ることになる。その悲劇は、単に運の悪さが生み出した結果で、貴志がそれをうまく回避出来なかったという過失であり、単純に貴志のせいとは言えない。しかし、そのあまりの誤魔化しの下手さは、十分落ち込むに値していた。
そんなわけで、貴志はサラの店を出発してから終始無言で、どんよりとした空気と共にどこかに向かって歩き続けていた。偶に後ろを振り返り、海音が遅れずに付いて来ているか確認するのだが、そのたびに、慰めて欲しそうな眼で海音を見る。海音は自分が人を慰めることが得意ではないと知っていたので、貴志の構ってほしいアピールを無視し続けていた。そして、知らない景色を観察するに努めた。
あまり楽しい道のりではなかった。いくら首を伸ばしても、見えるのは生垣や、石垣、木の柵や、コンクリートの壁が視線を遮る。道の両側に延々と続く壁は、全く統一感がなく、数メートル歩くたびに全く違う場所を歩いているような気分になった。しかし見えるのが壁ではなんの面白みもない。
その上、二股に分かれたり、十字に行き違ったりする狭い路地を、くねくねと歩き続けたので、覚えておこうと思っていたサラの店の場所もわからなくなってしまった。いくら気を付けていてもとても無理だった。海音は方向音痴だったからだ。ここではどこに行くにもこんなに入り組んだ迷路のような道を進まなければならないのかもしれない。そう思うと気が滅入った。
気持ちが落ち込むのと共に、疲れが海音を襲っていた。現代の日本で便利な乗り物に囲まれ、なんの疑問も持たずにそれらに頼り切っていた海音は、長い距離を歩くことに慣れていない。また、衰弱していると言ってもいい程痩せていることも、大きな問題だった。しかし、貴志の様子を伺うと、とても休憩したいなどと言えるような空気ではなかったので、海音は根気強く歩き続けた。
それにしても、一体どこに向かっているのかぐらいは教えてほしいものだと海音は思った。貴志の家に向かっているのでなければいいと海音は願った。毎朝、サラに会いに行くためにこの距離を歩くのは辛い。ここには乗り物は一つもなくて、どこに行くのにもこれくらいは歩くのが普通なのかもしれないという、最悪の事態も考えた。気が遠くなりそうだ。不思議なことに、ここにいることが嫌だと感じたのは初めてだった。
海音の方を振り返った貴志が、突然はたと立ち止まった。驚いた海音は悶々としていた思考を彼方に飛ばして、貴志の顔を見上げる。貴志は通常の半分ほどしか開いていない濁った眼で来た道を眺めながら、呟いた。
「やべえ、道間違えた」
それを聞いた海音の顔には、落胆と疲れがどっと溢れている。一体どこまで戻って、それからどのくらい歩くのか、考えただけで海音の足はもう動くことを拒否しそうだ。更に悪いことに貴志は、細めた目で道を睨みながら言った。
「あーだめだ。完全に迷子」
海音は信じたくないと思いながら、貴志を穴の開くほど見つめた。
なんとなく、貴志は地元の人間で、道を知り尽くしていると思っていた。海音にとって、頼れる人間は貴志だけだというのに、何とも恐ろしい展開だ。見知らぬ土地で生きていく人生の一歩を踏み出したはずが、出鼻をくじかれた気持ちだった。貴志は寝起きのようにぼんやりした目のまま、疲れ切った海音を見た。
「しょうがないか」
貴志は独り言を言って、店で海音に見せた、煙をあげるための道具を出した。海音は、それについて貴志が言っていた説明を思い出す。そして、迷子に持たせた方がいいというのは自分自身のことだったのかと呆れた。迷子なら保護者が探すだろうが、貴志のことは一体誰が助けに来るのか、海音は疑問に思った。
黒い煙がもくもくと空に向かって上がると、貴志は気を取り直したようで、慰めるように言った。<
「あんまりいい手段じゃねえんだけど、とにかくもう歩かずに済むぞ」
一体どういうことだろうと海音が首を傾げていると、行く手から聞きなれない音が聞こえてきた。ガランガランと何かがぶつかり合う音と、馬の蹄の音に似ているが、もっと重そうで荒々しい足音だ。それは相当やかましく、段々近づいて来ていると思うと、逃げ出したい気分になった。しかし、貴志はさっきまでの落ち込みようはどこへやら、涼しい表情で到着を待っている。それを見た海音が、貴志が歩く音よりもやかましいと皮肉りたい衝動に駆られた頃、それは見た目にも凄い迫力で、到着した。
「やあ、こんな道を使うなんて物好きだな、鳶崎」
バッファローの首を長くしたみたいな、大きくて長い毛の動物に乗った男が、朗らかに貴志に声を掛けた。彼の後ろから、2頭の同じ動物に乗った男たちが、軽く手を挙げて挨拶する。
海音は、初めて見る動物に目を奪われたのは確かだが、それ以上に、男たちの身に着けている色彩豊かな服に目が釘付けになった。一瞬、貴志の恰好がかなり地味に思えたほど、彼らは煩い身なりをしていた。形は海音のイメージのカウボーイのような服だが、目立つために着ているのではと思うような色使いで、原色の鮮やかな色が反発し合っている。そして、よほど派手なのが好きなのか、服にも、動物に付けられた鞍にも、金が多用されている。ガラガラと聞こえていたのは、動物の首輪に付けられた大きな金色のカウベルだった。
「ディーナの店までなんだけど、通りに出ないで連れてってくれるか?」
貴志は眉根を寄せて難しい顔をしながら男に頼んだ。
海音はその言葉で、貴志が自分をなるべく人に見られないようにしようとしていたことに気が付いた。それと同時に、貴志がこの手段を使うことを嫌がる理由がよくわかった。この人と行動をともにするとしたら、目立ちたいとしか思えない。
海音が男たちの服を眺めていると、動物がうなるような低い声で鳴いたので、驚いて一歩下がった。鼻息が荒く、距離を置いても息がかかりそうなほどだ。
海音の様子をじっと見ながら先頭の男が言った。
「仕事か?」
「いや、こいつはえーと……連れだ」
貴志が悩んだ末に歯切れの悪い口調でそう言うと、男は海音に向かって笑いかけた。
「デビッド・マックフォールだ。デビッドと呼んでくれ。こっちはアフロディーテ」
煩いほど大きな声でそう名乗ったデビッドは波打った明るい茶髪で、立派な口髭を生やした中年の男だ。褐色の肌は健康的に日に焼けててかてかしている。赤いジャケットと、その赤の邪魔をしようとしているとしか思えないような蛍光緑のズボンは、海音の好みではなかったが、彼には、海音が嫌うような要素は何もないように思えた。
アフロディーテの方はどうやら、デビッドが乗っている動物の名前らしい。海音はその動物の種がなんというのかわからなかったが、まるでバッファローと馬を混ぜたようだと思った。。
海音がぎこちない笑みを浮かべ、名乗ろうとして口を開くと、貴志がそれを制して大声で言った。
「急いでるんだ。こいつはアンディのとこに乗せりゃいいか?」
「ああ」
デビッドがそう言ったので、貴志は海音の肩を押して、デビッドの後ろのバッファロー馬に乗った男のところに促した。
黒髪で真っ黒に日焼けした、顔の濃い男がアンディのようだ。アンディは気難しそうだったが、海音を見やると帽子に軽く手をやって挨拶した。
海音が、目の前の巨大な動物を見ながら、意外にもつやつやした美しい毛並に感心していると、後ろから貴志が、海音の腰の辺りを掴んで軽々と持ち上げた。不意にそんな風に持ち上げられて驚いた海音は、咄嗟に身をよじって逃げようとしたが、貴志は海音の抵抗は気にもせずに、「お前、気持ち悪いほど軽いな」などと言っている。
「ほら、自分でまたがれよ」
貴志がなだめるようにそう言ったので、海音は離して欲しい一心で鞍に足を掛け、バッファロー馬にまたがった。アンディの背中の後ろに、掴まるための大きくて派手な取っ手が付いていて、海音はそれをつかんでやっと落ち着いた。周りを見回すと、下は一面黒っぽい毛で覆われているような感じで、地面からは想像したよりずっと高さがある。
「道が狭くてUターンは無理だ。大回りしなきゃならないぞ」
アンディの背中で見えない前方で、デビッドがよく通る声で言った。
貴志はどこにいるのかと、海音がきょろきょろ辺りを見回すのと同時に、真後ろから「おう、よろしく」と貴志の声がした。首と体を最大限に捻って貴志の方を見ようとすると、アンディが低い声で「出るぞ」と言った。
前方でデビッドの乗ったアフロディーテが動いたことを知らせるガラガラとやかましいカウベルの音が鳴り、海音は緊張して身体を固くした。動物に乗って移動するなんて、生まれて初めてのことだ。
唐突に、急発進と言った感じでバッファロー馬が走り出し、海音の下でもカウベルが派手に鳴った。離れて聞くと騒音にしか聞こえないが、近くで聞くとなかなかリズミカルで楽しい音色だ。しかし、その音を楽しんでいる余裕は無かった。
くねくねとした狭い路地なので、行く手が見えず、どんどん景色が過ぎていく様を見ていると、タイムトラベルでもしているようだ。そして、海音には車より倍も早く感じた。実際はそんなことはないのだが。しかし、このような狭い路地を走る場合で言えば、車よりずっとスピードを出しているに違いない。
アンディの後ろに乗せてもらっているだけとはいえ、この動物を乗りこなすのはコツが必要だと海音は気づいた。前にも後ろにも揺さぶられて、頭がグラグラしたし、すぐにお尻が痛くなった。
道筋どころか海からの方向すら考える余裕もないまま、前方からずっと聞こえていたカウベルの音が止まっ
た。それをはっきりと確認する前に、海音の乗っているバッファロー馬も止まる。バッファロー馬はぴたりと止まって、その後は行儀よく銅像のように動かなかったが、海音はまだ揺さぶられているような感覚にくらくらしていた。後ろで貴志の声がするのをぼんやりと聞く。
「ありがとな。――ああ、帰りは大丈夫だ」
ようやく揺れの名残りが収まって来て、周りを見回すと、景色はすっかり見慣れない妙なものに変わっていた。そこは窓のない建物がキノコのように密集して並ぶ町だった。すぐ近くに人の多い賑わった町があるようで、その喧騒が微かに届いている。しかし、辺りには人気がなく、不気味な静けさが漂っていた。濁ったようなはっきりしない色の、のっぺりとした味気ない大きな建物ばかりが並んでいて、海音は、自分が日本で生きていれば決して見るはずの無かった世界に、足を踏み入れたのだと実感した。