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正午になるころ、キシは現れた。朝と同じ出で立ちで、相変わらずやかましい。店が忙しい時間帯で、店内は客たちの声で騒がしかったにも関わらず、入口から入ってきたのがキシだということはサラにも海音にも、他のキシを知る客たちにもすぐにわかった。
「ああ、来たのね。今忙しいの! ちょっと待ってて」
サラはサンドイッチをテーブルに配って回りながら、振り向きもせずに言葉を投げた。キシは店の様子を見て、なるほどと肩をすくめた。空いた椅子も残っていない。キシは仕方なく突っ立ったまま海音の姿を探した。店の中にはいない。だがそれにがっかりした様子もなく、キシの表情はむしろ、まだ海音がいないことにほっとしているようにさえ見えた。
「おう、キシ。また何か頼まれてんのか?」
キシと同じ年頃の、汚い繋ぎを着た男が声を掛ける。まるで上下がつながったスエットのように見える繋ぎで、腰に付けている大工道具のベルトのようなものが無かったら、かなり間の抜けた恰好になりそうなものだ。
キシは客一杯の狭い店内を見回して、その男を見つけると、たいそう遠くに向かって声を掛けるかのように大声を出した。
「ただ働きだ。宿無しのガキに街を案内しろって」
大いに不満そうな口調だった。どうやら不満をアピールするため、店中に聞こえるように大声で言ったらしい。しかし誰からも同情の言葉はなく、繋ぎの男はからかうように笑い飛ばした。
そこに、近くにいた年配の男性が穏やかな深い声で口を挟む。
「宿ならうちに来ればいい。子どもひとりなら安くするよ」
キシはその男性を探すにも一瞬目を泳がせた。自分の立っているところのすぐ近くにいるのを見つけて、大げさに残念そうな顔をして説明した。
「宿無しっつっても宿じゃなくて、住むとこを探すんだ。悪いな、ロブ」
それを聞いてロブは役目なしと引っ込んだが、今度はど派手な恰好の若い女が奥の方から、キシに背を向けて座ったままこっちを振り返って大声を出した。
「漁師の誰かの奥さんがガキ欲しがってたんじゃなかった? 引き取ってもらえば?」
キシは今度は声の主を探す必要はなかった。品がなく、若い女なのに恥じらいのかけらもない声の主が分かっていれば、どこにいるかは一目でわかる。さっきまでの受け答えより、心なしか投げやりな口調でキシは答えた。
「ガキっつっても、もうでかいんだよ。働き口も探すんだ。……つかお前化粧濃いぞ」
「うるさいっつの」
わざとらしく眉を潜めて大げさに身を引くキシと、それを適当にあしらって相手もしない女のこのやり取りは、いつものことだ。周りは面白がって笑った。
「それで、キシ。さっきお前んとこに入った仕事はどうなんだ? 随分でかい仕事みたいだな。一部の人間の間じゃあ、既に大騒ぎになってるぞ」
そう言ったのは繁華街で酒屋を経営している、長くてつやつやした黒髪を後ろで一つに束ねた中年の男だ。骨っぽい顔に含みのある笑いを浮かべている。
みんなこの話題には特に興味を持ったらしく、店中の客が話に耳を傾けた。コーヒーを淹れていたサラも何のことかとキシを見る。
キシは男を無表情に見つめ、妙に硬い表情のままほとんど口を動かさずに「まあまあだ」と言った。
「――棒読みじゃねえか。なんなんだ?」
繋ぎを着た男が笑いながら突っ込む。酒屋の男はにやにやしてもったいぶった口調で語りだした。
「噂じゃあ、デカい組織がこぞって、先に手に入れようと必死らしいな。この仕事がうまくいけば、いい儲け話じゃねえか」
今や店中の者が男の話に耳をそばだてていた。そしてみんな、何の話をしているのかはっきりするのを求めて、キシの顔色を窺っている。特にサラは、いぶかしげにキシを見た。
キシは少しも表情を変えないまま、また不自然なまでに棒読みで「そうだな」といった。顔は無表情だが、目が忙しなく男の顔とサラの顔を行ったり来たりしている。静まりかえってしまった店内に、落ち着きのないキシの全身が立てる金属音だけが響いた。
「ねえ、なんなのよ。気になるじゃん」
ど派手な女が突然空気を破り、不平を漏らすと、キシは慌てて全身をジャラジャラ言わせて、右足を出口の方に一歩引いた。サラが眉を潜めてキシを見つめる。キシの顔にはどう見ても「早く逃げ出したい」と書いてある。店中のみんなにも、それは明らかだった。
「俺もやっと大金が手に入るかもな。そんときは、みんなにおごるよ。――じゃあ!」
不自然な笑顔で早口にそう言って、店を出て行こうと踵を返すキシを、みんなの疑りの視線が追う。
キシは店から逃げ出そうとして扉を開け、あと一歩で逃げ遂せるところだったが、サラが「ちょっと!」ととがめるのと同時に、凍り付いたように止まった。サラの声に立ち止まったわけではなく、酒屋の男が低い声で言ったからだ。
「やべえ奴らが血眼で探し回ってる娘、志田海音って言ったっけな。危ない仕事だ。お前、引き受けたのか?」
その時、食器の割れる耳に痛い音が店内に響いた。その音を合図にしたかのように、キシが咄嗟に扉を開けて逃げ出す。客たちは、皿の方など見向きもせずにキシを目で追った。
「おい!」「なんだよ……」
皆一斉にがっかりした声を上げ、店内は再びざわめきを取り戻した。
皆がいましがたのキシの不可解な行動について話し合っている間、サラが皿の割れる音がしたカウンターの方を振り返ると、いつ戻ってきたのか、布巾を取りに行っていた海音が、布巾を握りしめて茫然と突っ立っていた。足元には割れた皿が粉々になって散らばっているが、気にする様子もない。無理もないとサラは思った。
サラは海音をこれ以上動揺させないよう、落ち着いたふりに勤めながら、すぐさま海音に怪我がないか確かめ、塵取りで皿を掃き集める。それから、蒼白な顔でピクリとも動かない海音の耳元でささやいた。
「奥の倉庫に行ってて。すぐ行くから」
海音は虚空を見つめたままそれを聞き、布巾を握りしめたままそろそろした足取りで店の奥に消えた。
サラは息を止めていたかのように短く息を吐き、心配の色を顔に浮かべて店内を振り返る。幸い、客たちはまだキシが逃げて行ったことについて興味深々で話し合っていて、こちらには目もくれていない。サラはそのことに安心すると同時に、中心で話している酒屋の男の話に耳を傾けた。
「連中が欲しい兵器の情報を娘が握っているらしい。どこにいるのか誰も見当もつかねえってんで、奴の出番さ……」
サラはいつも彼の言っていることはほとんど信じていなかった。彼は酒場で働いているという立場を生かし、本当か嘘か定かではないような話をして、人の興味を引くのが好きなのだ。彼の話すことは大した内容もない、噂話ばかりで、サラはそんな彼の話など、聞くたびに笑い飛ばしている。今回のことももちろんそうしたかったのだが、少し引っかかる部分もあった。
しかし、サラは酒屋の男を睨みつけて、誰も逆らうことが出来ないような厳しい口調で叱った。
「あんたの言うことはいつも大仰なんだよ。よく知りもしないのに伝え聞いた話をいいふらすんじゃない。少なくとも、私の店ではお断り」
酒屋の男はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、サラが相当怒っているのを見て取ると、すごすごと店から出て行った。男がいなくなると、周りの客も面白い話のネタもなくなったので、三々五々退散し始め、店は段々と落ち着いてきた。サラは後片付けに追われながら、困り果てた顔で溜息をついた。
海音はサラに言われた通り、店の奥の階段の向こうに、漂うような足取りで歩いて行った。途中何度も、床に置いてある商品の箱や、ガラクタに足を取られそうになる。
階段の向こうには、物に埋もれそうになっている引き戸があった。取っ手に細い指を掛け、ぼんやりしたまま引こうとしたが、戸はピクリとも動かない。海音はそこで少し意識を取り戻して両手でしっかり取っ手を掴み、思いっきり引いた。
サラがなぜ「倉庫に行ってて」などと言うことが出来たのかと思うほど、倉庫は狭くて、ほとんど海音の居場所はなかった。しかし、海音は物をいくつか動かしてスペースを作り、大きな木箱に浅く座った。
いましがた聞いたことについて、考えたくはなかったが、恐怖や不安が波のように押し寄せてどうしようも無い。
酒屋の男が話していたことは、海音にとっても完全に寝耳に水だった。自分が追われる理由がわからない。第一、ここがどこであるかもさっぱりわかっていないのだ。自分が今置かれている状況を考えると、とにかく、恐ろしくて手の震えが止まらなかった。
一体何があったのかもわからないが、知らない土地に流れ着いて目が覚め、サラのような親切な人に会えて幸運だと思ったのも束の間、たった今聞いた話はどう考えてもまずい。不運が降りかかってくる音が聞こえそうなほどだ。
海音はこういうとき「これは夢だ」と思ったり、夢であってほしいと思うほど普段幸福でもなかったが、この何もかもが理解できない、薄気味悪い状況からは逃げ出したくてたまらなかった。
店から聞こえてくるざわめきが段々小さくなっていくのを感じながら、自分の手と、潮でばさばさになった金髪を見つめて座っていると、背後でコツコツと音がした。ガラスをノックしているような音だ。
驚いて倉庫中を見渡したが、積みあがる物ばかりで窓は見当たらない。
「おい、ここに窓があんだよ」
すぐ後ろにいるかのようにキシの声が聞こえて海音は飛び上がった。とりわけ高く箱が積んである辺りから声がする。それにしても、ガラスの向こうからしゃべっているような声には聞こえなかったので、海音は不思議に思って用心しいしい物をどかし始めた。
それは簡単な作業ではなかった。何しろ、高く積み上げられた物をどかそうにも、持って動かすだけでも重労働なのに、そのあとそれを置く場所がないのだ。
海音は仕方なく自分が座る場所を残すことを諦め、座っていた木箱の上に物を移すことにした。
積み上げられていた木箱や、段ボールのような軽い箱の中には、厳重に包まれた食器や、山のような紙ナプキン、テイクアウトのサンドイッチを包むための包み紙のような物など、さまざまなお店の備品が入っていた。小さな店なのに、ここまで沢山の備蓄が必要なのは理解できないと海音は思った。
実際は大して時間は経っていなかったのだが、海音は随分と長い時間をかけて作業をしたように感じながら、最後の箱をどかした。すると小さな80センチほどの幅の窓が現れ、その向こうにキシが焦っているような表情で立っていた。海音の顔を見て、ますます困り果てているようだ。
海音は最後の箱が軽かったので、いい加減にその辺に放り投げて窓の掛け金を外した。その間もキシは、後ろを振り返って見たり、足を踏み鳴らしたり、下を向いたりと忙しない。海音は砂が引っかかっているような感じに開きにくい窓を、なんとか開けた。