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海音が外にいる二人を不安げに見やると、サラは慌てて戸を開けて海音に笑いかけた。
「なんにも問題なかった? ああ、ワンピースはぴったりね。よかった。今コーヒーを淹れるから、座って」
サラは椅子を一つ引き出して海音に促し、せかせかとカウンターの向こうに回ってコーヒーを淹れ始めた。
海音は椅子にぎこちなく腰を下ろしたが、入口のところに突っ立っている怪しい男が気になって表情が強張るのを感じる。全身チャラチャラしていて、武器のようなものまで身に着けている男は、サラと話してはいたが和気藹々といった感じでは無かったし、海音には危険人物にしか見えなかったのだ。
サラは海音が男を警戒していることに気づいて慌てて言った。
「この人は常連でね――キシ、入って座って」
キシと呼ばれたその男は肩をすくめると、重そうなブーツの足音と金属の音を響かせながら店内に入った。どこに座るか迷った挙句に、落ち着かない様子で海音と同じテーブルに着いた。あからさまに面倒臭そうな表情で、逃げ出したくてたまらない様子で海音とサラに交互に目を走らせている。
海音はそんなキシを見て、なんとなく悪い人だという気はしなくなった。余りにも表情や仕草が子供っぽいし、嫌がりながらもサラのいう通りにしているからだ。それにしても、一体何を身体中に着けているのかと、向かいに座ったキシの金属品をじろじろ見た。
キシはそれに気が付くと、いたずらっぽい表情で、道具のいくつかを引っ張り出してチェーンから外し、得意げにテーブルの上に並べた。
「珍しいか?」
そう聞いて海音の顔を見ても海音は何も言わなかったが、キシはめげずに妙な形のねじれた金属片を見せ、「鍵をこじ開ける道具だ」と説明した。形の違う同じようなものが沢山チェーンに付いているが、誰が見てもこんなもので鍵がごまかせるとは思えない代物だ。
海音は、鍵をこじ開ける道具を持っているなんてやはり怪しいと、一瞬いぶかしげにキシを見たが、キシの顔を見ていると子どもの悪戯程度にしか思えなかったので疑うのは一先ずやめることにした。
サラがコーヒー豆を挽く音がガリガリと店内に響いたが、海音は無言だった。キシは海音の反応が薄いことが気に入らないのか、いくつかの道具を品定めするように見て、今度は竜のような怪物の細工がされている大きなライターを取り上げた。重そうにガチっと鳴らすと、紫色の炎が、ライターの大きさからは想像もできないほど高く上がった。
キシは海音が驚くと思っているようで、得意げに海音を見たが、海音はすぐ近くに見える火を無表情にただ眺めるばかりだ。海音の表情には、感情がなく、何も読み取ることが出来ない。これもウケないとわかり、キシは今度は小さいライターを出して、別の筒状の道具の中に、下から火をつけた。すると、手のひらサイズの筒の先端から、黒い煙がまっすぐ上に向かってもくもくと上がった。
「ちょっと! 店の中でやらないでよ!」
すぐに天井に届いて周りに広がり始めた煙の向こうからサラが鋭く言ったので、キシはすぐに蓋を閉めて煙を消し、説明した。
「これはいろいろ使える。迷子になるような子どもには、まず持たせたほうがいい」
海音はそんな道具は見たことが無かったので、これは面白がった。とはいえ、見た感じではほんの少し興味を持ったようにしか見えなかったのだが。
海音は骸骨みたいに骨っぽい手で、テーブルの上の道具に遠慮がちに触れた。すると、キシは海音の腕の細さを見て、ぞっとしたように身震いした。それを隠す様子も全くない。道具に見入る海音を、痛がるかのように顔をしかめて見ながら、キシはサラに声を掛けた。
「なあ、コーヒーだけじゃなくて、なんか食わせてやれよ」
すると、「わかってる!」とサラが元気よく応えて、山ほどの小さなサンドイッチと、コーヒーが入ったマグカップが3つ乗ったお盆を持ってきたので、キシは慌てて道具を仕舞おうとカチャカチャやった。海音は火傷したかのように素早く、手にしていた望遠鏡から手を離し、落ち着かないようすで硬くなって座り直した。海音はこんな風に食事を用意してもらうことに慣れていなかった。
キシがもたもたと全てのものをまた身に着けている間に、マグカップをそれぞれの前に置き、サラは笑顔で言った。
「さあ、好きなだけ食べて飲んで。おかわりもあるから」
サラとキシの視線を感じながら、海音はゆっくりとカップを手に取り、湯気の立つコーヒーを啜った。それを見て安心したように、キシは早速サンドイッチを口に放り込む。暖かいコーヒーのおかげで海音の血の気のない顔がわずかに色味を帯び、サラは微笑んだ。
キシは、口いっぱいのサンドイッチを咀嚼しながら何か言いたそうに海音を見つめ、飲み込んだ後に口を開いた。
「そんでさ、名前、聞いてないな」
海音は名前を聞かれたことにとても驚いたかのようにぱっと顔を上げた。同時に半分落としたみたいにカップをテーブルに置いたので、静かな店内に陶器の音が響く。
サラは今まで名前のことを思いつきもしなかったことに驚いたようだった。
「まだ名前聞いてなかったのね。私の名前も言ってなかった」
それからサラは取って作ったような笑みを浮かべ、「サラってよんで」と海音を見たが、海音は自分の手を無表情に見つめたまま反応しなかった。表情が再び硬くなっている。
サラもキシも、海音の顔を見つめてじっと待った。催促はせず、海音が名乗るのを息を止めて待っていた。
何秒たっただろうか。沈黙のなか、キシの金属が微かに触れ合う音が小さく響き、それを合図にしたかのように海音はすっと小さく息を吸った。一点を見つめた瞳が揺らぐ。つぶやくように海音が名乗るのを、サラもキシも固唾を呑んで聞いた。
「海音」
思えば、ここに来てから海音はまだ一度も声を出していなかった。初めて発した海音の声は低くて少し掠れていた。
「いい名前ね。よろしくね。ウミネ」
サラは笑顔を浮かべていたが、海音は何か言いたげな眼でサラを見た。しかし、キシが名前を聞いて満足したようにジャラジャラやかましく立ち上がったので、何も言わなかった。キシの顔を見ると、キシも無表情に海音を見つめ返しながら、サラに向かってぶっきらぼうに言った。
「俺仕事あるし、もう行く」
それを聞いて、海音は目を逸らしたが、キシは尚も海音を観察するような目で見ていた。サラが慌てて立ち上がって声を掛ける。
「あとでまた寄って」
キシは探るような目つきでサラを見て、また一瞬海音に目を走らせた。意味ありげな表情で躊躇うように口を開いたまま、何か言うべきか迷っているようだったが、何も言葉が出てこない。そのまま素早く踵を返して扉に手をかけながら諦めたように言った。
「わかった。ごちそうさん。またな」
チャラチャラと手を振りながらあっという間に消えて行ったキシの背中を、海音は無表情に眺めた。
キシの姿が見えなくなると、サラが立ち上がって海音の顔を見た。一瞬の間の後、サラは何気ない口調で訊いた。
「私も店の用意があるの。ウミネはどこか行くところはあるの?」
ストレートな言い方はしなかったが、サラの質問はかなり核心を付いていた。サラは、どこから来たのかも、何者なのかもわからない海音に、帰る場所やすべがあるのかどうかを聞きたかったのだ。
海音は一瞬傷ついたような顔をした。それはすぐに消えたが、海音は顔を歪めて力なく首を横に振った。サラは心配そうな目で海音を見つめたが、なかなかかける言葉が見つからない。ほんの一瞬、眉間に深い皺が刻まれ、考えこんだような顔をした後、いつも通りの明るい口調で言った。
「今夜はうちに泊まる? 家は狭いから、二人はキツいかもしれないけど、一晩くらいなら何とかなるでしょ」
海音はサラの顔を見つめて、サラの目がさっきまでは見えなかった影を湛えて海音を見つめているのを見た。親切すぎるくらい親切なサラが一晩だけと言ったのだ。海音が本当のことを告げれば、サラを困らせることになる。海音は、申し訳なさそうに視線を落とした。しばらくうつむいて考えこんでいたが、やがて決心を固めたようにテーブルを睨み、顔を上げずに小さな声で言った。
「ここは全然知らない土地で……帰るところもない」
ここで顔をあげて、サラを不安げな眼で見つめる。サラは落ち着いて話を聞こうとしていた。言葉を探すように口ごもる海音は、自分の状況を説明することを迷っていた。口は役目を失って半開きになったままでいる。ずっと表情の無かった顔が、必死に何かを伝えようとしているように見えた。海音はただ、掠れた声でやっとのことでこれだけ言った。
「助けてくれてありがとう」
それを聞いてサラは嬉しそうに海音に笑いかけた。心配そうにサラの顔色をうかがっていた海音の顔が緩む。海音は、微笑む方法を長い間忘れていたかのような不器用な笑みを微かに浮かべた。それは、微笑む努力をした、程度のあまりにも未完成な笑みだったが、ずっと何かにおびえているようで、または全てを諦めたようだった海音が、一人の当たり前の少女らしく見えた一瞬だった。それは刹那に消えたが、その一瞬を捉えたサラの目からは、影が消えた。
サラは少し思案して、てきぱきと言った。
「この辺りは外から来た人でも住みやすいところよ。街を少し見て、身の振り方を考えるといいわ。キシに案内してもらいなさい。顔が広いからいろんな人に紹介してくれるとおもうし。構わない?」
海音は少し驚いたような顔をしてすぐに頷いた。サラはいそいそとカウンターの裏に回り、ごそごそと引き出しや戸棚の中を探り、クリーム色のエプロンを引っ張り出して、立ち上がりかけた海音に勢いよく差し出した。
「お店の準備、手伝ってくれる?」
海音は不意打ちを食らって半ば押し付けられるようにエプロンを受け取り、戸惑ったような顔をしながらも何度もうなずいた。
次話から物語は動き始めます。