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アジの母親が去った後、三人はしばらく沈黙していた。アジは、アキに食べ物を分けてあげたものの、アキの言動を根に持っていたし、そんなアジの手前、親切に声を掛けるのもはばかられて、シナは黙っていた。アキはおにぎりを食べながら、二人の様子を観察しているようだった。
「シナ、なんでそんなに細いの?」
アキの口調はまるでシナを同い年か何かだと思っているように偉そうだ。無邪気に見えるその瞳は、腕まくりをしたパーカーから出ている痩せ細った腕を見つめている。シナは一瞬何のことを言われているのか分からなかったが、アキの視線に釣られて自分の腕を眺めた。骨が浮き出ていて、棒のようだ。
シナは困って首を傾げた。アジが、眉間に皺を寄せたシナの顔を見て、アキに食ってかかった。
「女の子に体型のこと言うなって母ちゃんが言ってたぞ」
アキは不思議そうに視線をアジに移した。
「なんで母ちゃんがそんなこと言うの?」
母ちゃん、というとき、言いなれない単語を言うような響きがあった。
アジは言葉を詰まらせた。母親が息子に、人に言ってはいけない言葉について教えることは、不自然なことではないとシナは思ったが、それをアジがアキに説明出来るとは思えない。また、アキは母親に毎日会うような環境にはいないようだから、事情は分からないが下手なことは言えない。
「女の子は気にするんだって。だからやめろ」
アジは突っ張ったように言って、質問をかわした。
アキは特に気にする風もなく「ふうん]と視線を地面に落とした。
居心地の悪い沈黙が流れたとき、アキがはじかれたように突然振り向いた。まるで、猛獣のうなり声でも聞いたかのような反応だ。その動作に驚いて、二人もアキが見ている方を見た。
一見、家や作業場が佇んでいるだけで人気がないように見えたが、急に何人分かの足音が聞こえ、黒い服の集団と、その真ん中にカメラを首に下げたメリアナが姿を現した。
シナは、メリアナにはあまりいい印象を持っていなかったので、警戒した目で見やる。
メリアナが後ろに従えている男たちは、皆同じように黒いマントを着ていて、ステッキを手に持っていた。シナが見ると、この辺りの雰囲気とそぐわないこともあって、子どもの番組の安っぽい悪者のように見えたが、恐らくアジにはそうは見えないだろう。恐れているようではなかったが、緊張した面持ちで男たちを睨んでいる。
「その子と一緒にいるなんて。鳶崎貴志に頼る気?」
メリアナはのんびりとした口調で言った。だがアキを見つめるその表情は冷たい。
アキは答えなかった。おそらく、シナと貴志の繋がりがきちんとわかっていないのだろう。一緒にいるところを見たのは一瞬だったし、先程の様子では、そのことは覚えていないようだった。
「鳶崎貴志はあたしの頼みであんたを捕まえたんだから、あんたの味方じゃないの。誰も味方なんかしてくれないんだよ」
メリアナはやんわりと威圧を掛ける。背後に怪しい男たちを従えている辺り、その効果は十分なはずだったが、アキは冷めきった眼でメリアナを見た。
「子どもおどすなんて、最低だね、おばさん」
その場にいた全員が、一瞬凍りついたようだった。可愛らしいアキの口から、まだ若い女の子であるメリアナに「おばさん」などと言う暴言が飛べば、誰だって驚く。メリアナは完全に腹を立てていた。そばかすだらけの白い顔が赤くなっている。
「可愛い顔してるからって、許されると思ってると痛い目にあうよ」
その口調はいつものようにぼんやりとしていて、とても怒っているようではなかったが、どこか怒りがひしひしと伝わってくる。
アキは、怒ったメリアナの顔をその鮮やかな青い瞳に写して尚、全く悪びれずににやり、と笑った。先ほどまでは明らかにメリアナが悪者のようだったが、その顔を見ていると最早立場が逆転して見える。
「おばさん、悪い人なの?」
アキは嫌な笑みを浮かべたまま無邪気な声を出した。確信犯だ。
メリアナの眉がピクリと動く。シナは、メリアナは悪い人とは違うと思っていた。何かの仕事に熱心なだけだ。熱心過ぎて、周りが見えないところがあるのは確かだったが。
「あたしはあんたを捕まえなきゃいけないの。行くところもないんだから、おとなしくついてくればいいのに」
苦々しげに放たれたその言葉に、アキは笑みを消して無表情にメリアナを見た。そんなアキを見ながら、シナはむず痒いような気持ちだった。
シナも、サラに出会わなければ、貴志に出会ってメリアナに写真を撮られなければ、追われる身で行く場所もなく、酷い目に遭っていたかもしれない。アキが何故メリアナに追われるのかは分からないが、自分の境遇と重なって可哀そうに思えた。傍観するには心が痛む。だが、居間は貴志のおかげで平穏無事でいられるものの、アキの力になれるような術を持っていないことも確かだ。
その時、思いもかけずアジが大声をあげた。
「かあちゃーん。大人が子ども攫おうとしてる!」
その声で、周りの家の窓が開いたりして、幾人もの女性がこちらに視線をよこした。シナはこの状況でよくアジが行動したものだと感心し、ほっとしたような気分だった。また、日本と同じような常識が通用するのかどうか、興味もあった。
メリアナは完全にたじろいだ。どうやらここでも、誘拐を堂々と出来ることではないらしい。しかし、すぐには引き下がろうとしなかった。
「その子は家出したんだから、保護するだけだもん」
言い訳がましく言ったところで、近所の女性たちの鋭い視線からは逃れられない。
「アジ! 大声出してなんだよ」
アジの母親が、緊張感もなく面倒臭そうに家から出てきた。反射的に、怯んだメリアナの足がわずかに動いて一歩下がる。
「この人たちがこいつを連れてこうとすんだよ」
アジが文句を言うと、アジの母親は柄の悪い恐い目でメリアナを睨み付けた。乱暴な口調も板についていて、声にドスが効いている。
「あんたたちさあ、どこの誰だか知んないけど、子どもによってたかって何してんだよ。うちの子たちに手出したら、ただじゃおかねえよ」
アジの母親はアジと一緒にシナとアキを家の方に促した。
「情報館の仕事で、家出した子ども探してただけなのに」
メリアナはまるで被害者ぶってそう言ったが、アジの母親は冷ややかに片眉を持ち上げた。
「そういうのは情報館の仕事じゃねえじゃん。どっちにしろ、子どもは渡さないから諦めな」
三人の子どもと一緒に家に入り、勢いよく裏口のドアは閉まった。
シナは、アジの機転と母親の威勢の良さには驚いた。そして、メリアナがアキを連れて行こうとしていたときは日本とは違って治安が悪いのだと思っていたが、近所の人々が即座にこちらの様子を伺っていたことを考えると、むしろ安心できるような気がする。
シナにとって、ここを好きになれることは喜ばしいことだった。
勝手口を入ったところは、ざらざらしたコンクリートの土間だった。古い型のストーブのような、黒くて煙突の付いたものや、四角い七輪のようなもの、大きな作業台と水道のない流しなど、ここが台所であると思われる物が目に入った。まるで野外炊事場のようなその空間の真ん中に、大きな一枚板のダイニングテーブルとイスが6脚置かれていて、三人の子どもたちはその椅子に座らされた。
アジの母親は窓から外のメリアナたちを睨んだ。
「しつけーな。まだいるよ、あの人たち」
そして、当然のことながら、何故メリアナたちがアキを攫おうとしていたのかを知るため、幼いアキの代わりにアジを問い詰めた。
「それで、誰なの?あの人たち」
怒っているようではないが、厳しい口調にアジは焦ったように言った。
「知らねえよ。急に来て、こいつを連れてこうとしただけ」
アジに指で差されて、アキは一瞬不機嫌にアジを睨んだが、アジの母親が優しい顔でアキに話しかけたので、即座に愛らしい無邪気な表情に戻った。それを見て、シナはまだ小さな子供がよくやるものだと内心舌を巻く。言動といい、この裏表の激しさといい、何かアキは問題を抱えていそうな気がしてならない。
「あの人たちのこと、知ってんの?」
小さな子供に話しかけるように訊くアジの母親が、先ほどのアキの態度を知っているアジとシナには滑稽に見えたが、アキは何食わぬ顔で首を横に振った。
「シナちゃんは?」
質問の矛先が自分に向いたので、シナは焦った。アキを追っていることとは恐らく無関係だが、メリアナのことを知らないと言えば嘘になる。しかし、度々耳にする「情報館」という言葉の意味もわからないので、説明は出来ない。
なんと答えようかと迷っていると、アジが助け舟を出してくれた。
「あの人貴志の名前出してたよ。貴志に訊けばわかるかも」
シナはそれに同意して頷いた。
「じゃあ貴志さん呼んできてよ。どこにいるの?」
貴志が海賊船にいるということを思い出して、シナの胸がちくりと痛む。
シナの心境とは裏腹に、アジは事も無げに言った。
「貴志はよくわかんないけど海賊ともめてる」
「なんで。ドルミアとは割と仲良くしてたじゃん」
アジの母親も、驚いたようではあったが、特に大事とは思っていないような顔だ。
「知らねえ。ねえ、なんで海賊船にいたの?」
アジは興味津々でシナに訊いたが、シナにしてみればこれほど聞かれて困る質問はない。シナが「志田海音」でなければ、海賊に捕まることもなければ、貴志が海賊と一悶着起こすことも無かった。
本当のことを言うわけにはいかないが、ここで何も説明しないわけにもいかない。シナは少し考えた末、言い訳は貴志に任せることにし、自分は何もわからない子どもを装うことにした。貴志が保護者だからシナも一緒にいたが、自分は大人の事情はよくわからないということにしてしまえばいい。
「よくわかんない」
精一杯子どもっぽく聞こえるように努力はした。そして、答えながらも貴志が後で説明を迫られたら、困ったことになると考えた。貴志がそのために嘘を用意していなければ、咄嗟に誤魔化すなど無理だろう。
「シナちゃんのことは貴志さんが迎えにくるわけ?」
アジの母親が訊くと、アジはそれもわからないというように肩をすくめたので、会話は行き詰ってしまった。
「とりあえず貴志さんのこと待つか。ちょっと海賊のこと聞いてくっから、仲良く待ってて」
アジの母親はそう言い残してまた勝手口から出て行った。途端に近所の女たちが群がってきて、話をしているのが窓から見える。
シナはこの先のことを考えると頭が痛い。貴志は海賊ともめているし、戻ってくればアジに嘘の説明をしなければならない。そうなれば貴志は咄嗟のことに挙動不審になって、怪しまれるのは目に見えている。そして、このお人形のように可愛いのに、腹の中が真っ黒な子ども、アキ。魔法使いだとかいう点には興味はあったが、これ以上の面倒事を持ち込まれそうで嫌だった。
昨日の朝から今までの間に、余りにいろんな新しいものを見て、いろんなことが起こり過ぎた。自分が海音として退屈な日常を送っていたのが遥か昔に思える。時間の密度の違いで流れが遅く感じられるものだと、シナは実感した。刺激的な時間を過ごすのも、人生経験としてはそう悪くないような気もするが、もう疲れてしまったというのが本当のところだった。