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シナはアジの後に付いて堤防の土台の上を歩き、地上に戻った。その間、アジは使命感に燃えているような、少し得意そうな表情で、どこか楽しげだったが、シナは無言だった。切れ長の目は、開いている気も失せたように伏せられている。
平和な日本で、他の多くの運のいい日本人と同じく、物騒なこととは無縁に育ってきたシナは、つい今しがた経験したことが信じられない気持ちだった。
見知らぬ土地の浜に倒れているのはいい。見たこともないようなものばかり見て、乗ったことのないものに乗り、「魔法」なんて言葉を聞くのもまあいい。妙なことかもしれないが、シナにとっては、海賊船から貴志とともに逃げた数分間が、一番受け入れがたいことだった。
シナは自分でも、一体何がそんなに衝撃的だったのか理解できず、でも泣きそうな気分だった。あっさり海賊に見つかって誘拐され、正体がばれてしまったことだろうか。海賊たちが武器をちらつかせていたことが怖かったのだろうか。海賊の船長が、シナに大層怒っていたことだろうか。どれも違う。
海賊たちはどちらかと言えば親切で、楽しそうで、明るい人たちだった。シナの目の前で大喧嘩をしていたし、怒号ばかり飛び交っていたとはいえ、その雰囲気は生命力にあふれ、人間的で、まるで大きな家族を見ているようだった。
シナは貴志の後ろ姿を思い出した。ここに来てから貴志に随分世話になったが、シナはその間、貴志の後にくっついて、後ろ姿ばかり見ていた。もうすっかり親しんだ人のように、安心しきって貴志の背中を見ていたのだ。
海賊船の上で、自分は貴志のことを全く知らないのだと、思い知らされたような気分だった。
海賊たちと冗談を言い合い、ナイフを投げられても笑っている貴志。仲が良さそうにしておきながら、船内に勝手に入り、爆弾のような物を投げる貴志。何故か、海賊船の構造をよく知っていた。
シナは認めたくはなかったが、急に怖くなったのだ。自分が、全く見知らぬ男に、それも物騒なことに慣れているような男に頼り切っているということが。よく考えもせずに、勘やなんとなく気を許せるということだけで、貴志を信頼していたことが、今では滑稽に思える。
貴志はいつも親切だったし、他の誰に対しても親しげで、基本的に愛想のいい人だ。シナだけが、貴志に心を許せると感じたわけではないに違いない。貴志には、人の心を開く才能があるのだ。
そんな貴志の才能に騙されているだけなのかもしれない。そう思うと、そもそも知り合って間もない上、貴志のことはおろか自分が立っているこの場所のことも何もわからないので、全てが不確かで疑わしく思えてきた。しかし、シナには貴志に頼る以外の道はない。安心しきっていたのは馬鹿だったのだ。なんて頼りない状況だ。
悪い考えはどんどん大きくなって、シナの心にのしかかった。もう、何一ついい方に考えることが出来ず、疑いや恐怖ばかりが湧いて出てくる。
ふと、前を歩いていたアジが立ち止まり、ぎょっとしたような眼でシナの顔を見つめた。幻覚でも見たような顔で、自分を凝視するアジを、シナは目を丸くして眺める。
自らの頬を流れおちた雫に気が付いて、シナは驚いた。慌てて拭うと、手の甲に涙が光っていた。こんな風に涙を流したことなど、今まで一度もない。急に冷静になり、どうしてここまで気が動転してしまったのかと、ぼんやり考えた。
「大丈夫か?」
茫然としているシナを探るような眼で見ながら、アジは掠れた声で訊いた。黙って急に涙を流していたから、驚いたに違いないとシナは思った。そして、すっかり落ち着いた顔で頷く。
「貴志なら大丈夫だよ。パーツ・ドルミアは温厚な方だし、アミヴィア・ロアは殺しが嫌いだから」
アジは、シナが貴志の身を案じていると思ったようで、慰めるようにそう言ったが、逆効果だった。シナは、ごくごく当たり前のように命の心配をする状況自体に慣れていない。むしろ、あの状況で海賊船に残るということが、命の危険になる程のことだったとは、考えてもみなかった。
しかし、勝手なことをしてシナを逃がしたとはいえ、貴志はあの海賊たちとは顔見知りのようだったから、殺されるとは考えにくい。シナはぎこちなく笑みを浮かべようとしながら頷いた。
アジとシナは陸についていた。海賊のせいで仕事にならなかったため誰もいない漁港を歩いて抜けると、魚の加工をするための作業場が沢山並んでいて、魚臭いところだった。そこにも人はいない。
「朝飯食ってないんだろ?」
閑散とした作業場を歩きながら、アジはまた少しはしゃいだ様子になって言った。
シナは昨日の夜から何も食べていないことなど気づいていなかったので、面喰った顔で頷いた。すると、アジはすぐ近くの家の裏口らしき扉を開いた。飾りっ気のない、頑丈そうな金属製の扉だ。
「かあちゃーん」
アジは中に入らずに、戸口から顔を突っ込んで大きな声で呼びかけた。
シナはなんどなく緊張してアジの母親が出てくるのを待った。やがて扉から顔を出したのは、シナが想像していたよりもずっと若い女の人だった。アジと同じく、日本人らしい顔だが、これまた日本人らしい濃い化粧をしているので、目は大きくて淵が黒い。白い肌は日に焼けた跡があり、髪は、染めたような金髪だ。
「なんでわざわざ呼びつけんだよ。貴志さん無事だった?」
面倒臭がっているような口調だが、その声には子どもを可愛がる甘い響きがある。母親がアジをじっと見ると、アジは返事はせずに、母親の顔を見上げたまま顎でシナを指した。
シナは妙な気がしながら、小さく頭を下げた。この感覚は、アジやアジの母親の様子からだろう。まるでただの日本人のようだからだ。シナは、「シナ」ではなく、狙われる「志田海音」でもなく、日本で生まれ育った「海音」のことを思い出していた。
環境が大きく変わり、シナとなっていた海音は、シナでいるようになってからまだ幾日も経っていないというのに、日本で生きていた海音のことを忘れそうになっていた。しかし、いくら忘れようとも、別人のような気持ちでいようとも、海音は海音として育ってきた人間なのだ。友達の母親に会うことは苦手だったことを、嫌でも思い出した。
大抵の母親は、娘から聞いていた「海音ちゃん」が金髪であることに驚く。そして、とってつけたような愛想笑いを浮かべ、ハーフなのかどうかを聞く。しかし、海音の両親は日本人だ。海音はいくら不思議に思われても、理由を説明することは出来なかった。
アジの母親は、シナを見ても愛想笑いは浮かべなかった。シナはまるでここが日本であるかのような感覚にとらわれていたが、彼女の反応は日本ではなかった。当然だが、様々な姿の人がいる、この土地の人間だった。
驚きもせずにシナを見て、アジに訊く。
「お友達?」
「貴志の家族。シナって名前」
アジはそう答えたので、シナは驚いた。貴志の家族として紹介されるとは、まったく想像していなかった。先ほどまでの、海音に戻った感覚との反動は大きかった。海音はもう海音ではないのだ。貴志の姪っ子のシナ。一緒に暮らすのだし、一応鳶崎シナということになっている。確かに、家族という言い方が間違いではない。
シナは先ほど感じた貴志への不信感を思い出した。しかし、この場所で何かを疑いだしたら切がないと、自分への言い訳をして不安を仕舞いこむ。
「朝飯食わせてくれって頼まれた」
アジがそう言うと、母親は「ったく、しょーがねーな。まあ、あんたも世話になってるからね」と面倒臭そうに言った。シナは、迷惑を掛けられて怒っているのかと、不安げに彼女の顔を盗み見たが、どうやら口が悪いだけで、そう嫌がっているというわけでもなさそうだ。
「なんか持ってったげるから、その辺に座ってな」
彼女は扉の向こうに消えた。アジは、近くの作業場の表にある、細かい砂利の塊のような赤いものに腰かけた。まるでコンクリートブロックのようなものだ。シナも隣に座る。一体何を持ってきてくれるのだろうとぼんやり考える。
突如、二人の視線の先に緑色のつなぎを着た男の子が現れた。
シナもアジも目を瞬かせて、ほんの3メートル程先に立っている男の子を見た。現れる瞬間をはっきりと見ていたわけではないが、見間違いでなければ、あの男の子はどこからともなく現れたようだった。
そこ子はなんだかふらふらしているようだったが、やがてしっかりと立ってこちらを見た。
顔を見てシナは気が付いた。貴志が今朝捕まえていた、あの男の子だ。名前はなんだったか思い出せない。それにしても、あのカメラのメリアナに引き渡されたはずなのに、何故一人きりでここに居るのだろう。
シナは声を掛けようか迷ったが、男の子の方からこちらに近づいてきた。茶髪に真っ青な瞳、5、6歳に見えるとても可愛い男の子だ。
「名前は?」
つぶらな瞳でシナを見ながら、その子は唐突に言った。シナは、一瞬だけ会ったが自分のことを覚えているだろうかと思いながら、咄嗟に「シナ」と言った。考えなくても、シナと答えられた。
「ぼく、アキ。どっかで会った?」
随分大人びた口調だ。
シナはなんと説明していいか困った。シナがアキに会ったのは、アキが貴志に捕まった時だ。貴志の連れだったと言えば、いい顔はされないだろう。
「お前、どっから出てきたんだよ。魔術師?」
シナが答える前に、アジが尖った口調で口を挟んだ。アキがどこからともなく湧いて出たように見えたのは、シナの見間違いではなかったらしい。アキは、少し敵意を抱いているかのような眼でアキを見ていた。
アキは、首を傾げた。その様子がまた何とも愛らしい。
「わかんない。魔法使いって言われた」
「オレ、魔法使いに会うの初めてだ」
アジは興奮した面持ちでシナに向かってそう言った。シナには、何故アジが驚くのかが分からない。魔法使いは珍しい存在なのだろうか。魔術師の魔法使いの違いも判らないし、一体どんな人種かが分からないので相手は子どもとはいえ少し怖かった。
「ぼく、貴志って人を探してんだ」
アキがシナをじっと見るので、シナは狼狽えた。なんと言えばいいのだろう。自分は貴志の姪っ子だから、貴志の居場所なら知っているとでも言えばいいのだろうか。しかし、シナは出来れば自分に関する嘘を他人に言いたくなかった。貴志が言いふらしているのだから、皆のことを騙していることには違いないが、自分の口から言うのは避けたいという気持ちがある。卑怯なだけだとは分かっているが、どうしても嫌だ。
すると、またしてもアジが代わりに答えてくれた。
「貴志は今はいないけど、シナを迎えにくる。お前、なんで貴志のこと探してんの?」
「お前にきいてないよ」
アキはその無邪気な顔にはおおよそ似合わない不機嫌な表情を浮かべて、言い放った。アジは唖然として言い返すことも出来ないようだ。幼い男の子にそんなことを言われれば、誰だってどうしていいかわからなくなるだろう。
いたたまれなくなって、シナは言った。
「お母さんは?」
「ずっと会ってないよ。なんでそんなこと訊くの?」
アキは不思議そうに首を傾げたので、シナも言葉に詰まった。シナがそう訊いたのは、一人で町中にいそうな歳には見えなかったからだ。日本では、幼い子供が一人でうろついているのを見かけたら、大抵の大人がそう声を掛けるだろう。しかし、この世界では子どもに必ず母親がついているわけではないらしい。それとも、アキに何か事情があるのか。どちらにしても、失言だった。
「一人なの?」
シナはおずおずと言い直した。すると、アキは即座に頷く。
その時、アジの母親がおにぎりの乗った皿と、何かのフライらしきものが乗った皿を持ってきた。
「アジ、海賊船いなくなったって、なんで最初に言わないわけ?」
文句を言ってやってきたアジの母親は、アキを見て自然と笑みを浮かべた。
「この子も友達?この辺じゃ見ない顔だけど」
「友達なんかじゃねーよ。こいつちびのくせに態度悪いんだ」
すると、途端に母親に頭を叩かれてしまった。
「ちびのくせにじゃねえよ。年上なんだから、ちっさい子には優しくすんの」
アジの母親は乱暴な口調で怒ったあと、おにぎりをシナに手渡して、フライの皿をアジに持たせた。それから、突っ立っていたアキに、しゃがんで視線を合わせてにこにこと言った。
「こいつほんっと意地悪でごめんね。よかったら一緒に食べてね。これ、うちの人が捕った魚だから」
そして、家の中に戻って行った。アジは苦々しい顔をしている。アジの母親は、アキの態度を見たら同じように怒っただろうかとシナは思った。
三人はしばしの間、気まずい空気の中で黙っていた。アジが「食えよ」と言ったので、シナはおにぎりを口にする。なんだか懐かしいような味だった。
「これ、魚のフライ。好き?」
アジに訊かれて、シナは頷いた。実際に自分が魚が好きだったかどうかはよくわからない。
フライには楊枝のような物が刺さっていたが、アジは手で持って口に放り込む。母親の言葉は無視し、アキにはあげるつもりがないようだ。しかし、アキは二人が食べる姿を物欲しそうに見て、ぽつりと言った。
「おなかすいた」
おにぎりはたくさんあったので、シナは一つ渡そうとしたが、アジがそれを止めた。
「こんな奴に上げることねーよ」
先ほどのアキの言動をよっぽど根に持っているらしい。相手は随分年下の子どもだというのに、アジは強情だった。シナは、いくら口が悪いとはいえ、こんなに幼い子供が一人っきりで、おなかが空いたと言っているものを無視することは出来なかった。
しかし、アジをどうやって説得していいものか迷う。本当は十代も後半で結構な年上なのだ。しかし、同じくらいの歳の振りをして、上手く納得させなければならない。難しいとしか言いようのないことだ。
シナが困ったように二人を交互に見ると、アジが突然、ぶっきらぼうにおにぎりを手に取り、アキの方に突き出した。それを見つめて戸惑っているアキに「ほら!」と怒ったように言う。
アキは、アジの顔を油断なく観察しながら、おにぎりを受け取った。そして、何かの罠ではないとわかると、その場でがつがつ食べ始める。よほどお腹が空いていたような食べ方だった。
シナの視線を感じたのか、アジはぼそぼそと「母ちゃんに怒られるから」と言い訳のように言った。怒られるのが嫌であげたわけではないことはすぐにわかった。シナはアジを見くびり過ぎていたと、少し反省した。アジはもうそれほど幼稚な子どもではないし、子どもの方が心優しいこともある。
広い心を見せたアジを褒めるためのように、アジの母親が再び出てきた。小さめの瓶を三本持っている。それを三人に手渡しながら、アキの持っている食べかけのおにぎりに目を留めた。
「ごめん飲み物忘れてた。あんた、ちゃんとあげたんだね。偉いじゃん」
アジの母親は、アジが意地を張るかもしれないことを予想していたらしく、意外そうに言ってアジの頭を乱暴に撫でた。アジはその手を振り払って、恥ずかしがる。シナは微笑んでその様子を見た。アジの家庭はきっと楽しいのだろうと想像できる。
シナとは違い、不思議そうに、微かに眉を潜めてそれを見ているアキがいた。
海音の過去を少しだけ、短編として書きました。「注文された犬」という題名です。物語の筋とは関係ありませんが、ぜひ読んでみてください。