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松の木の間から、遭難者のような酷い様子の少女が現れた。
年は十代半ばだったが、痩せ細って肉のない身体はまるで命のない人形のようだ。顎の尖った青白い顔も表情がなく、陶器で出来ているかと思われるほどで、生気が全く感じられない。
灰色の瞳は霧が掛かったようにぼんやりしているが、切れ長の影のある目元からは鋭い印象も受ける。濡れた金髪は束になって緩いウェーブを描き、乾きかけで多少ボサボサだ。そして、病的に細い首には筋が浮き上がっており、目の下の隈や、紫色になっている薄い唇も相まって、今にも死にそうに見えた。
少女の名前は志田海音。生まれも育ちも、日本の首都圏の海に面した町だ。両親は日本人だが、海音が金髪で灰色の目の白人なのは何故なのか、本人は知らなかった。
あの浜で目が覚めた理由も、彼女は知らない。何故ここにいるのかを知ったとして、状況は大して変わらないのかもしれない。この場所は彼女が全く知らない、知るはずのない場所だったから。
海音は見慣れない光景を前に、立ち尽くしていた。
松林を抜けてすぐ、海に沿って通る道路があった。舗装しているのはコンクリートではなく、赤土のような色の細かい砂利を固めたようなもの。それ以外にもその道路には妙なところがあった。二車線分はありそうな広さがあるにも関わらず、歩道がなく、白線も引いていない。
どこか間の抜けた感じがして、まるで、公園や施設の中の道のようだった。
道の向こう側には、人が住んでいるとは思えないような、無駄に飾り立てた個性的な家ばかりが所狭しと並んでいた。
銀色で光を反射する角ばったドーム状の家、全部が竹で出来ているように見える家、テラテラしているエナメル質な家……。世界中の変わった家だけを寄せ集めたようだったが、極めつけは、どう見ても弾力のある家だ。おもちゃの家のように単純な造りで、それがまるでパンででも出来ているようにふかふかして見える。
ここがどこであるのか判断しようにも、道路には人影もなく、車も一台も通らず、波の音がするばかりだった。
海音はその中に一軒の小さなお店らしきものを見つけた。その店の外観は、他の建物と比べるとごく普通に見えた。ミントグリーンの四角い二階建て。道路側はガラス張りで、日差し除けか、布製の白い屋根がついている。
海音は恐る恐る足を進め、外が明るいためか随分と暗い店内の様子を伺った。動くものに目を凝らすと、人影が見える。狭い店内の右奥にあるカウンターの向こうから、金髪の中年女性がこちらを見ていた。
海音が反射的に女性の視界から逃げ出そうとすると、その女性は慌ててカウンターを回って出てきて、店のガラス戸を開けた。駆け寄ってきた女性は、まるで知り合いであるかのように暖かく、心配した面持ちで海音の顔を覗き込む。海音はふらつく足では逃げられないと悟り、凍りついたように突っ立って震えていた。
警戒した視線を向ける海音の眼に、深い緑色の瞳が映った。
「どうしたの? こんな朝早くに。やだ、ずぶぬれじゃないの。――とにかく、中に入って」
歯切れのいいハスキーな声は、どこか突き放したような言い方なのにとても優しそうに聞こえる。海音は痩せすぎているせいで落ち窪んだ目を見張り、首をすくめたまま動かなかったが、不意に女性の暖かい手が海音の背中に触れ、抱きかかえられるように半ば強引に店の中に入った。気が付けば、店に入ってすぐ左にあった小さな洗面台の前に立たされていて、カウンターの向こうに消えようとする女性の背中から声が飛んでくる。
「シャワーもあるけど取りあえず顔や手だけでもゆすぎなさいな。ちょっと待っててね!」
海音は不思議な安心感に包まれてぼうっとしたまま蛇口を捻った。細い指で水に触れると、和らいだ表情に微笑みすら浮かびそうになる。それから、震える左手で洗面台の淵に手を着き、身体を支えながら塩辛い口を濯いだ。ぬるい真水が心地よい。しかし、低い洗面台にかがみこんでいると、身体が震えてふらふらした。恐る恐る台から手を放して両手で顔に水をかける。
潮でぱりぱりしていた顔がすっきりすると、潮と砂まみれの髪が気になって洗ってしまいたかったが、洗面台は小さいので諦める。髪は後ろに払いのけて、首についた砂も軽く水をかけて流した。
顔周りだけでも綺麗になって、随分と気分がよくなった。そうなってみると、服から滴り落ちる水滴で店の床を濡らしてしまっているのが、とても申し訳なく思えた。しかし、床はあまり屋内では見かけないようなざらざらした材質で、水を吸っているようだったので、床のことはとりあえず諦めることにする。
洗面台や蛇口についた砂を流していると、せかせかした足音と共に女性が戻ってきた。海音が振り返ると、女性は暖かい笑みを浮かべて言った。
「少しはすっきりしたわね。私の服じゃ合わないだろうと思って娘の昔のワンピースを出してきたけど、シャワーを浴びる?」
海音はしばらく黙って女性の顔を見つめた。目尻に笑皺のある、少し日に焼けた明るい顔の、元気そうな女性だった。海音に比べると背が低く、飾りっ気のない簡単な形の、麻のワンピースを着ている。腕に掛けて持っているのは黒いワンピースだ。海音は無表情にぼうっとそれらを見つめて黙っていた。
女性はそんな海音を見て、肩をすくめた。
「いいからさっぱりして、お茶でも飲みましょ。うちには私しかいないから遠慮しないで」
海音はそれを聞いて、身に着けている水色のフレアブラウスとジーンズが砂だらけな様子を見た。靴は履いていない。勿論、すぐにシャワーを浴びて清潔な服に着替えたいのは言うまでもない。しかし、海音は女性の顔をただぼんやり見つめて、頷きはしなかった。
それでも女性は気にする様子もなく、手招きして海音を店の奥に通し、水の入ったグラスを黙って手渡した。海音は女性の顔をちらっと見て、おずおずと少しだけそれを口に含む。海音がそれ以上飲む様子がないのを見て取ると、女性はすぐにグラスを取り上げてその辺に置き、狭い階段を先に立って上がりながら言った。
「一人だから狭くてね。店も小さいから物が溢れているし」
海音が黙ってついていくと、いたるところに所狭しに物が積まれていて、何かに躓きはしないかと心配なくらいだったが、物が多いなりにきちんと整理されていて、不思議と小奇麗な廊下だった。
「ほら、ここよ」
女性は廊下の突き当たりのドアを開ける。これまた狭い洗面所と、カーテンで仕切られた浴室だ。女性が鏡のついた台の上に持っていた服を置き、奥のカーテンを開けて早口に説明するのを、海音は相変わらず無表情に眺めた。
「こっちを捻ればお湯が出るから。石鹸なんかも適当に使ってね。脱いだ服はその辺に置いといて。終わったら、私は店にいるから」
彼女は戸棚からバスタオルを出して服と一緒に置き、にっこりと海音に笑いかけると、ドアを閉めて出て行った。とんとんとリズムよく階段を下る音がして、あっという間に海音は一人になって鏡を見つめていた。
鏡に映った自分の顔を見つめる眼は虚ろだった。蒼白な顔に細かい傷が出来ている。細い首は筋が浮き出ていて、死人のようだ。家の中は暖かかったが、濡れた身体は冷え切っている。海音はすぐに鏡から目を離して、濡れた服を剥がすように脱ぎ、暖かいシャワーを浴びた。
この店の店主、みんなに母親のように慕われる、明るくて面倒見のいい女性の名前はサラという。海水浴に来る人たちを迎えることも多いこの小さな店は、浜に持って行けるランチやアイスクリームを売っていて、店内でもいくつかの小さなテーブルでコーヒーを愉しめる、地元の人御用達の店だ。
サラは毎朝、吸水性のある白い床を掃き、潮で曇るガラス張りの壁を拭き、赤い椅子を並べて小さなテーブルを拭いて、店を開く用意をする。突然早朝の浜辺に現れた、まるで遭難者のような身なりの少女がシャワーを浴びている間、今日もいつも通りの仕事をしていた。その表情は、少女に向けた笑顔とは裏腹に険しく、眉間に深い皺が刻まれている。
サラは力強くテーブルを拭きながらふと溜息を吐き、店の表に出た。いつもしている仕事用のエプロンのポケットから煙草を出して、マッチを擦る。煙を吐き出して遠くを見ていると、見慣れた姿が松の間に見えた。
散歩をしているようなのんびりした足取りでこちらに向かって歩いてくる人影は、この店の常連客で、サラもよく知る人物だ。その馴染の顔が道の向こうに現れた時、サラは煙草を店の外にある吸殻用のごみ箱に捨て、手を振った。背の高い男はサラに気が付き、手を挙げて挨拶する。チャッチャッと金属のぶつかり合う音を全身から響かせながら、その男は左右の確認もせず道を渡った。
「やあ、珍しいな。店の準備終わった?」
親しげにサラに声を掛け、店の中を覗く男は、肩まである長めの黒髪をピアスだらけの耳にかけ、全身にごちゃごちゃとさまざまな金属品を身に着けた、見かけにも少々煩い身なりの若い男だ。顎の骨の浮き出た面長の顔は陽に当たったことがないのかと思うほど白く、人懐っこそうな大きな目に、曇った日の夜空のような深い群青色の、髪と肌によく映える瞳をしている。
黒い細身のカーゴパンツにも、Vネックの紺のシャツの上に羽織った黒いジャケットにも、可能な限りのポケットやベルトループがあり、日常生活で使うちょっとした道具は全て身に着けているのではと思うほど、いろんな物がチェーンやフックでぶら下げられている。というより、日常生活で使わないような道具も全てだ。
刃を仕舞った様々な種類のナイフや、折り畳み式の望遠鏡や双眼鏡、ライターや数えきれないほどの鍵、腰のベルトには、銃のような形のものもたくさん持っている。何に使うのかわからないような物もたくさんあったし、何一つ普通の形や見かけをしていない。凝ったデザインの洒落たものが多く、見かけには、装飾品として身に着けているように見えた。どっちにしろ、慣れない者には彼は不審人物にしか見えない。ちょっと動くたびにそれらをガチャガチャ鳴らしながら、男は人当りの良さそうな声でブツブツ言った。
「まだ準備出来てないのか。早く開けてくれよ、サラのコーヒーがなきゃ目が覚めない」
サラは男の言葉を無視して、男の胸のあたりについている、銀の懐中時計の鎖を引っ張った。すると、どこで繋がっていたのか、胸ポケットを突き破ってコルク抜きらしきものが突き出した。サラはそれに目もくれず、睨むように男の顔を見上げながら囁いた。
「見ない顔の女の子がね、服着たまま全身ずぶぬれで海の方から来たんだよ」
サラから遠ざかろうとして仰け反りながら、男はとぼけた声で聞いた。
「それが?なにか問題でも?」
サラは店内をチラリと見て、少女が戻っていないことを確認してから困り果てた顔で言う。
「一体どこから来たっていうの? 一言もしゃべらないからわかんないのよ」
男はさりげなくサラの手から鎖をふりほどいて、ポケットから飛び出たコルク抜きを元に戻しながら眉を潜めてサラを見た。
「とりあえず俺は知らない。海からじゃないの?」
サラはそれを聞いてわざとらしく溜息を吐いた。呆れ顔で腕を組み、「そりゃ海からだろうね」と噛みつくように言う。それから気を取り直したように続けた。
「近くで事故でもあって漂流したんじゃないかと思うの。あんたその辺顔が効くだろう? 調べてよ」
それを聞いた途端に男はあからさまに嫌な顔をした。信じたくないという目つきでサラを見つめたまま、どこかのポケットから細長い皮の袋を取り出し、妙にギラギラした変わった形のがま口を開いてちらっと見た。ジャラジャラと軽い音がする中身を振って確認しながら、わざとらしく困った顔をしてブツブツ言う。
「顔が効くっつっても……連中に会うのは嫌いだし、金はないし」
男の愚痴の意味に気がつき、サラは一瞬呆れた顔をした。しかし、男が考えを変える気がないとわかると、口を真一文字に結んで男に詰め寄り、有無を言わせない口調で言った。
「一週間コーヒーただにしてあげるから、調べてちょうだい」
男はそれを聞いて、不満そうに片眉を持ち上げて、文句があるとばかりに口を開きかけたが、ふと口を閉じて店の中を覗き込んだ。興味津々といった面持ちだ。すると、店の奥から少女がぼんやりした顔を出した。
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