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貴志は工場の奥にある階段を、金属音を騒がしく響かせながら駆け上がった。上がって一番手前のふすまを勢いよく開ける。
部屋の中にはシナが待っているはずだったが、誰もいなかった。その代わり、シナのかけていたゴーグルだけは、ちゃぶ台の上に置きっぱなしになっている。貴志はブーツを脱ぎ捨てて中に入り、風呂場やトイレ、事務所を凄まじい勢いで見て回った。
誰もいない。しかし荒らされた形跡も、争ったような様子も無かった。
貴志は再びブーツを履き、ふすまを開けっ放しにしたまま、店の方の引き戸を開けた。その勢いに、静かな店内にいた客が一斉に貴志を見た。
「おい貴志、戸は静かに……どうかしたのか?」
店の店主、バン・ローランドが眉を潜めて貴志を見た。貴志は取り乱したようではなかったが、無表情にバンを見つめ返し、掠れた声で訊いた。
「あいつ見なかったか、シナ」
あいつと言われてバンは首を傾げたが、シナという言葉に頷いた。
「ああ、さっき一人で外に出ていった」
バンは、取り立てて特別なことはないという口調だ。しかし、貴志は急き込んで訊いた。
「誰かと一緒じゃなかったか?」
バンは落ち着かない貴志の様子を横目で見ながら一瞬考え、「いや、一人だった」と言った。
貴志は困惑した顔で黙りこんだ。室内だと黒く見える微かに青み掛かった瞳が、忙しなく動き、百面相をしているかのように表情が変わる。落ち着こうとしているようだったが、状況が掴めないのでそうもいかないらしい。
そんな貴志を見ていたバンが、思い出したように言った。
「なんか忘れ物がどうとか言ってたな。お前んとこに客が来てたから、そいつらだろうな」
貴志は表情をつくることを忘れてしまったかのような、虚ろな顔でバンを見た。しかし段々と、眉間に皺が寄っていく。やがて二、三度瞬きすると、バンに何も言わずに静かに戸を閉め、神妙な顔で再び階段を降りた。
貴志は段々と足早になり、男たちが声を掛けてくるのも無視して工場を通り抜け、大通りに続く道を走り出した。全身からジャラジャラという音をたて、飛ぶように走っていく。走りながら、腰のベルトから小さなピストルのような形の物を出した。大通りに出る前にある歩道橋を渡る手前で、横の細い路地に入り、その時にピストルのようなそれの引き金を空に向かって引いた。それは、耳に刺さるような高い音を響かせ、細い煙を出しながら空に登って行く。
貴志は建物の間を通って道路に出た。落ち着かない様子で道路脇に立っていると、それは周りの乗り物を追い越しながら、ものすごい速さで走ってきた。
4足で馬に似たその動物は、細長くて小さい頭から二本の長い角が後ろに向かって生えていて、長い脚は馬よりも身軽そうに地面を蹴り、灰色の瞳をしている。
貴志の姿を見て、その動物は速度を緩めて貴志の横を通った。貴志はその美しい角を掴んで飛び乗る。山羊と同じくらいの長さの首に生えたその角は、掴むのにちょうどいいのだ。
「シュリミヒー、サラの店だ」
貴志はそう言いながら、どこからか出したコーヒー豆をシュリミヒーのピンクの鼻の前に突き出した。シュリミヒーは、答えるようにフンと鼻を鳴らすと、速度を上げ、泳ぐように空気をかき分け、優雅に走った。
つややかな白い毛と、肉のない細い背中の上で、貴志は角しか掴まるところがなく、颯爽としたシュリミヒーとは裏腹に、その背中で少々無様な姿だ。
貴志が自分で走ってでも行くことは出来たのではという程の距離でサラの店に着き、シュリミヒーが速度を落とすと、貴志は背中から滑り降りた。そのまま、転がり込むようにサラの店に入る。
朝食時で、店の中はかなり込み合っていた。突然、息を切らし、いつもはサラサラの髪を乱して入ってきた貴志を、店中の人間がまじまじと見た。一瞬、店の中は静まりかえる。
コーヒーポットを手にしたサラは、驚いてカウンターの向こうから出てきた。誰も声を掛けられない程、何かありそうな匂いをさせた貴志に、恐る恐る声を掛ける。
「どうしたの? あの子は一緒じゃ――」
そう言いかけたところで、貴志が大声を出した。
「今港に来てる船……誰のだ?……海賊の」
息も絶え絶えで、文章になっていなかったが、客たちは真剣にその質問を受け止め、口ぐちに言った。
「アミヴィア・ロアの船だ。客船みたいな綺麗な船さ」
「ついさっき着いたばっかだぞ。それも漁港にだ」
「あんなでけえ船に無理やり来られて、漁師が仕事になんねえってよ」
狭い店内の客たちが、こぞって貴志に自分の知っていることを言った。
貴志は「ありがと」と死にそうな嗄れ声で言ったあと踵を返し、すぐさま店を出て行こうとしたが、出て行きざまに振り返って咳払いし、いつも通りの声でサラに言った。
「今日の分のコーヒー全員分俺がおごる。悪いけど、つけといて」
客たちが喜んで、店内は盛り上がった。
貴志が外に出ると、シュリミヒーが道端の草をはみながら待っていた。貴志はシュリミヒーの背中を軽く撫でると、もう一度またがって、先ほどまでよりは落ち着きを取り戻して言った。
「漁港までもう一走り、頼むよ」
そして、シュリミヒーを呼んだ時に使ったピストル型の物を再び出し、サラの店のある道の先、ずっと真っ直ぐ続く行く手に向けて、それの引き金を引いた。細い煙が道を走ると、シュリミヒーは間髪入れずに走り出した。道には馬が引く馬車が一台、のんびりと走っていたが、その速度が亀の歩みに思えるほどの速さだ。
海沿いの道を真っ直ぐ走ると、閑散とした漁港が見えてくる。いつもは、町中の漁師たちがせっせと働いているため、賑やかで活気のある漁港なのだ。しかし今日は、サラの店に居た客たちが言っていた通り、誰一人としてまともな仕事が出来なかったようだった。
漁港は、真っ白い堤防に囲まれていて、その外側の一部だけが、船の出入りのために開いている。漁船用の港にはさすがに入れなかったのか、その巨大な帆船は、外側の堤防に寄せられて停泊していた。余りに大きいので、漁港がとても小さく見える。
とてつもなく大きく豪華なその船は、平たくて長い船体で、帆は全て畳まれているが黒い。焦げたような色の木に、緑と金で装飾が施され、洒落ていて上品だが、ずらりと並ぶ金の砲門が、物騒な雰囲気もまた醸し出している。
貴志は、漁港に入る前にシュリミヒーから降り、船のマストのてっぺんで、遠くまで目を光らせているであろう見張りから見えないように一旦建物の間に身を隠した。とはいえ、ここまでの道のりは平地だったので隠しようもなく、貴志がシュリミヒーに乗って現れたことは海賊共に知られてしまっているはずたった。
貴志は望遠鏡を取出し、植木の間から海賊船を見た。とてつもなく大きく、また平坦な甲板なので、望遠鏡で拡大していると、船のどの辺りを見ているのか把握することすら困難だった。
幸い、貴志はこのアミヴィア・ロアの船をよく知っていた。少しそり立った船首の方には、甲板の上に洒落た船室が立っている。そこには、船の航行に重要な部屋があり、その上は甲板の上では一番高くなっていて、更にその上に甲板を見渡せる見張り台があった。そして、この船の船長、海に咲く一輪の花とも、世界の美姫とも称される美しさと、そのリーダーシップによって得た数々の手柄で世界に名を轟かせる、アミヴィア・ロアという女がいるのも、大抵その船室の上だ。
貴志は望遠鏡でその船室の上を探した。わかりやすく一番目立つところだったので、簡単に見つけることが出来た。アミヴィア・ロアだ。
貴志は何度か彼女に会ったことがあった。小麦色の肌に波打つ栗色の髪が金色に光り、引き締まった細い手足と、完璧なプロポーション。すっきりとした輪郭の顔に、愛らしい微笑みを浮かべ、びっしりとまつ毛に囲まれた艶やかな目は、一度見たら目を離せなくなるような強烈な美しさを持っていた。ハイビスカスの花のような、愛らしさと華やかさを持つ彼女だ。
その輝きからなんとか焦点を外した次の瞬間、貴志はなんとも情けない顔をした。見つけたのだ。先ほど別れたままの姿で、シナが無事にアミヴィア・ロアその人の前に立っていた。そして、貴志にとっては困ったことに、女船長をことごとく怒らせているようだ。
貴志が見たところ、シナは尋問されていた。シナはどうやら黙り込んでいて、そのせいでアミヴィア・ロアを怒らせているらしい。しかし、アミヴィア・ロアは憤慨しているものの、危害を加えたり、報復したりするような怒り方ではなく、どちらかと言えば子ども同士のけんかのような光景だ。
貴志は周りの状況を見ようと視点を動かした。アミヴィア・ロアの後ろには、いつも通り、大男のマクスウェルが立っている。彼は、アミヴィア・ロアの補佐、もといお守り役なのだ。彼が動いていない辺り、シナはまだかなり安全と言える。
それから、下の甲板では、数人の男たちが派手に喧嘩をしていた。武器を使う程の騒ぎにはなっていないようだが、素手で随分とやり合っている。他の海賊たちが傍観している辺り、喧嘩はシナとは関係なく、個人的なものらしかったので、貴志はさして気にも留めずにそれを受け流した。男ばかりの集団で、同じ船にずっと乗っているのだから、喧嘩の種はいくらでもある。
その二か所以外は、至って平和で、緊張感も非常じみた雰囲気も見られなかった。
志田海音という利用価値の大きい獲物を得て浮かれているか、それを知れば接触してくるであろうものに対して警戒しているかのどちらでもない。まるで、志田海音の利用価値に気づいていないか、持て余してでもいるようだった。
貴志はその様子を見て拍子抜けした。先ほどまでの真剣ぶりはどこへやら、望遠鏡で海賊たちを観察しながら、暫く動く気が無くなったようですらある。
貴志が再びシナの方に焦点を戻すと、シナはアミヴィア・ロアを怒らせる一方で、状況が好転しているようには見えない。しかし、それを見ている海賊たちも、困っているか黙って見ているかで、どうにも緊張感がない。放っておくわけにもいかないが、颯爽と助けに行くには危機感に欠ける、中途半端な状況だった。
「ったく、あいつは何してんだ……」
貴志が望遠鏡を覗き込みながら思わずつぶやいたとき、貴志の背後に人影が現れ、貴志は面倒臭そうに振り返った。
「鳶崎貴志ですか?」
ぶっきらぼうで愛想のかけらもなく、敬語を使っているにも関わらず無礼な聞こえ方をする声でそう訊いたのは、シナの実際の年齢と同じ年頃の少年だった。貴志は彼をじろじろ見ながら、肉眼で船をちらりと見た。船を見る分には、巨大なので十分に近い。
「鳶崎貴志を探したら、あんたが見つかったんですけど。鳶崎貴志ですよね」
少年はそう続けたが、やる気のない声だ。顔に掛かる黒髪の向こうから覗く目は、この世の全てがつまらないと語っているかのようで、ふてぶてしいことこの上ない。貴志は、眉を潜めて少年の顔を眺めた。
「どっかで会ったか?」
少年はわずかに眉を持ち上げた。「まさか」と呟くように言う。まるでせせら笑うかのような顔だったので、貴志は一瞬気を悪くしかけた。
「俺は海賊になったばかりの田舎者です。都会の有名人の名前だって知らないんですよ」
自嘲気味に言った彼の言葉で、嘲るような態度は彼自信に向けたものだとわかる。しかし、語尾に付けただけの敬語が、印象が悪いのは確かだ。しかし貴志は興味深げに少年を見つめた。
「会ったこともねえのに、どうやって探したんだ?」
貴志が問うと、彼は歪んだ笑みを浮かべた。嬉しそうだが、どこか皮肉が含まれたその笑みで、少しはっきりとした口調になって、彼は言った。
「魔術師として育ったんです。でも、こんなに近くにいたから見つかったんだな。俺はまともに術を使えないから」
貴志はそれを訊いて納得したように、再び望遠鏡を船に向けて覗き込んだ。貴志はシナのいるところを見ながら「それで、海賊が俺に何のようだ」とぶっきらぼうに訊いた。
最早、船長のアミヴィア・ロアは泣き出すか叫びだすかしそうな程ご機嫌を損ねていて、海賊たちはたいそう困った様子だ。
海賊たちが、貴志とシナ(志田海音)の繋がりをどこまで知っているのかはわからないので、何故貴志が呼ばれるのか、見当をつけることはほとんど不可能だった。しかし、少年はなかなか答えようとしなかった。答えは決まっているのに、それを口に出すことを躊躇しているようだ。
貴志は少年をじっと見据え、答えないのが分かると訊いた。
「だいたいお前ら、あいつ捕まえてどうすんだ?」
少年はまたも、答えなく無さそうに嫌そうな顔をしたが、短く答えた。
「決まってない」
貴志はそれを聞いて声を出して笑った。それから、口の端を歪ませながら言う。
「俺を呼びつけてオーザの情勢を聞きだして、それから考えるんだろ」
貴志の口調は至って柔らかく、敵意のかけらもないように聞こえたが、少年は顔を険しくした。貴志はそこで、少年が不機嫌になったことに気づいたようだった。やる気も何もなさそうだったのに、海賊を小馬鹿にされて腹が立ったのだろうか。
貴志は望遠鏡を仕舞うと、顔をしかめて言った。
「もう船長と直接話すからいいわ。さっさと船まで連れてけ」
貴志は連れていけと言っておきながら、少年の反応も待たずに、先に立って歩きだしていた。