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次の日の朝、起き出したのは貴志と海音だけだった。紫円は、基本的に夜中に働く生活をしているため、朝には弱いらしい。とはいえ、紫円の家だというのに、貴志は起き出すと早々にベッドを二つとも片づけ、勝手に家を出た。海音は一体どういう関係なのかと訝ったが、ここでの常識はよくわからない。
紫円の家を出ると、貴志は伸びをして言った。
「どっかで朝飯食って、家帰ってシャワー浴びたら、屋根裏の片づけすんぞ」
海音は寝るのが遅かったのに早く起きたので、頭がはっきりしないまま頷いたが、貴志は異様に元気で、「せっかくシャワー浴びても屋根裏掃除したら埃だらけで、またシャワー浴びなきゃいけねえじゃねえか。 どうしよう」などと一人でブツブツ言っている。海音はそれをぼんやりと聞きながらも、いい考えは思いつかなかったので、貴志に勝手にしゃべらせておいた。
明るくなって見ると、紫円の家の周りは、まるでキャンプ場のように、紫円のバンガローと同じ建物が沢山並んでいた。しかし、高床式になっているのは紫円の家だけだ。海音はその光景を眺めながら、自分がここにいることが妙で仕方がなく、現実感のない感覚に襲われていた。
「あー、帰りは歩きか」
貴志が失敗したという顔でぼやいたその時、「それ」は起こった。
突然地面が液状化したかのように動き始めたのだ。周りの地面も空気も、和やかな朝のような顔をしているのに、固い土だった地面が、土とは違う物質で出来ているかのように動きだし、海音の足元をさらって移動している。
現実として受け止めることが出来ず、海音は茫然として、何とか立っているのが精いっぱいだった。気が付けば、地面が段々とどこかに吸い込まれていくような感覚に襲われる。
「おい、走れ!」
貴志の怒号に振り返ると、貴志が海音に手を差し伸べて、必死の形相をしていた。海音はがむしゃらに足を動かして、貴志の手に捕まる。その間も地面は砂か泥のように流れて、海音を転ばせようとした。
貴志の手を掴んだところで、海音が振り返って地面を見ると、海音が立っていたはずの地面は、地面にできた巨大な蟻地獄の巣のようになって、存在しない筈のどこかに向かって吸い込まれていた。
海音はその光景の気味の悪さに身震いすると、貴志の手に引かれてそこから離れた。
動いていない普通の地面のところまで来て、貴志が止まったので、海音は信じられないような気持ちで、もう一度地面の穴を見た。
土が地面に吸い込まれたような形のまま、ただの地面に戻っていて、生き物であるかのように動き出すことはもうなかった。そこの周りは、土が減って地面が下がってしまっている。
海音はあっけにとられてその光景を見つめた。間違いなく硬いただの地面だったのに、吸い込まれた部分はどこに消えたというのか。何か巨大な怪物でも地中に住んでいるのだろうかなどと、恐ろしい想像には切がない。
「危なかったな。 先に説明しときゃあよかった」
貴志は既に何事も無かったかのように落ち着いていたが、少し反省しているようだった。海音は、地面はまた動くのではないかと、不安で目が離せないまま訊いた。
「今の、何?」
貴志は即座に「吸い込み口」と答える。非常にシンプルでわかりやすく、見たまんまの答えだが、何の説明にもなっていない。
海音は貴志のこの癖をやめて欲しいと心底思った。現象の名前が知りたいわけではないのに、貴志はいつも簡潔でいい加減な説明しかしてくれない。
海音がまったく理解出来ていないということに気が付いた貴志は、仕方なく、と言った様子で説明した。
「あそこから外界に物が吸い込まれてんの。 場所によっては落ち穴とか、転空間とか、白い霧とか、いろいろあるから気を付けろ」
貴志はそれだけ言って、丁寧に説明してやったとばかりに偉そうにしたが、海音にはほとんど一言も理解できなかった。「ガイカイ」とか、「オチアナ」とか「テンクウカン」なんて言葉は知らない。「白い霧」だけは言葉として認識することは出来たが、なんの関係性も見いだせなかった。
説明してほしいのは、「なぜものが跡形もなく消えるのか」だ。ものが別の場所に移動したり、圧縮されたりするのでもなく、なくなってしまうなど、「ガイカイに吸い込まれている」などという説明で事足りるわけがない。
海音はわからないことを聞き返そうと思ったが、わからないことが多すぎて、とても順番に訊く気にはならなかった。むすっとした顔で押し黙っていると、貴志はじれったそうに突然ペラペラとしゃべり出した。
「お前だって波の綾でここに来たんだろ? 繋がるはずのない場所との繋がりって、どこの世界にもあんの。 なんかの拍子に引っ張られて、繋がる。 ここはその繋がりがくっつきあって出来てるから、たまにああやってごっちゃになるんだよ」
海音はその説明を虚ろな眼で聞いていた。今やっと、ここに来てからあやむやにしてきたことの全てが、納得出来そうな気がした。自分がここに来たということ。この場所の全てがちぐはぐな違和感。貴志はなぜはじめにこうやって説明してくれなかったのだろう。
貴志がいい加減な説明しかしてくれなかったのも事実だが、海音が訊きたいことをろくに訊かずに、貴志に全てを任せていたことが、このあやむやの一番の原因だった。ここがどこなのかも知らずに、ただ導かれるままに今日を過ごすなんて、まるで物心つく前の子どもだ。目の前のこの貴志という人や、目先に突きつけられたことをこなすことに精一杯なようで、本当は逃げていたのだ。自分がここに来た経緯や、この場所から。
海音は、自らせき止めていた情報が脳内を駆け巡るのを、混乱したまま受け止め、フィルターが掛かっていたような曇った世界が、突然目の前に鮮やかに迫ってきたような、この感覚を全身で味わった。
それは一瞬の間のことだった。ほんの一瞬の間だけ、再び生を手に掴んだ気がした。しかし、それもまた、千切れ雲のようにあっという間に目の前から消えてなくなってしまう。
海音は貴志という保護者だけを目の前にして、何事もなかったかのように訊いた。
「こんなことがしょっちゅうあったら、困らないの?」
貴志は意外そうな顔で海音を見た。
「そうか? 逃げれば大抵は平気だぞ」
貴志は当たり前のことを言うような口調なので、海音はくじけそうになりながらも訊いた。
「ここに家とか建ってたらどうすんの?」
「だからバンガローなんじゃねえの? 土台を直しやすいように」
全く疑問などないという貴志の顔は、嘘ではないようだ。まったく、常識というものは残酷だと思う。海音にとって、今しがた起こったことは、何一つ納得できないというのに、貴志にとっては説明の余地もないようだ。海音は続けて質問したいことが山ほどあったが、一体何が腑に落ちないのか、貴志に伝えるのも一苦労だった。
「貴志の家は?」
結局、苦し紛れにそう訊いたのだが、伝わるかどうかは定かではない。
この世界の全ての家がバンガローというわけでもないのだから、他の家はこのような現象を一体どうしているのかと訊きたかったのだ。しかし、貴志はそれも、どうしてそんな質問をするのか分からないという顔でさらりと答えた。
「俺ん家の辺りは、たまに岩が地面から湧いてくる。どかすの大変だし、家に食い込んだら直さなきゃなんねえけど、大したことにはなんねえよ」
海音は突然床から岩が突き出してくる光景を想像して、言葉を詰まらせた。こんなに奇想天外な答えを一つ一つ聞いていたら、頭がおかしくなりそうだ。あやむやにしておいた方が生きやすいこともある。海音ははっきりとそう感じた。
「ほら、吸い込まれなくてよかったんだから、もう行くぞ」
貴志は投げやりにそういうと、再び歩きだした。海音は、もう一度吸い込み口を眺めてから、それに続く。
暫く人気のない道を歩くと、さまざまな乗り物が走り抜ける道路に出た。海音は、見慣れない乗り物の中でも、宙に浮いている、大きなバイクのような乗り物に目を奪われていたが、貴志は困った顔で道を眺めている。
「こんな時間だと脚がないんだよなー」
貴志がそう呟くと、海音は乗り物に奪われていた意識の2割ほどを呼び戻した。
目の前を横切る道路を歩いている人はいないし、昨夜ラ・フランスに乗ってきた距離を考えると、歩いて貴志の家まで戻るのは大変そうだ。
海音はぼんやりと、デイビットたちのバッファロー馬を呼んで乗せてもらうのだろうと考えていた。道路には、生き物に乗った人たちもたくさんいたからだ。しかし、海音はバッファロー馬の本当の名称を知らなかったので、貴志に訊いてみることは出来なかった。
二人して早朝の道路脇に突っ立っていると、もの凄い速さで走っていた、馬のない馬車のような乗り物が目の前で止まった。道の脇によけたりわけではなかったので、後ろから来た乗り物は、黙って避けて言った。道路の流れの一部を完全に止めてしまっていたが、通りすがりに毒づく人はいても、道路交通法だなんだという人はいない。速さも大きさも動力も違う乗り物が一緒くたに走っているのだから、道路にルールが存在するかさえ、定かではなかった。
「おーい、貴志。 どうしたんだい? こんなところで」
馬のいない馬車の窓から、ツルツルした丸い顔が出てきて、陽気に言った。一見、中世ヨーロッパの貴族風の太った青年だったが、海音の知っている中世ヨーロッパとは少し違っていた。現実感がないというのではないが、どこかはっきりしない所が確かに違う。そもそもが、馬の引いていない勝手に走る馬車に乗っている時点で大きな違いだが。
「おう、カーシー。 丁度いいところに来た。 万葉の辺りまで乗せてくんないか?」
貴志が顔を明るくして言った。海音には「カズハ」というのがどこなのかはわからなかったが、カーシーはすぐに「もちろん」と答えて扉を開けた。
馬のない馬車は大きくて、横幅の少々広いカーシーが居ても、貴志も海音も悠々と座ることが出来た。海音が座ると、御者のような人がいつの間にか外に居て、扉を閉めてくれる。海音はこの乗り物は一体どうやって動くのかと御者を目で追った。
御者は御者席に収まり、手綱も持たずにただ行儀よく座った。操るはずの馬がいないと、間の抜けた姿だ。
「サミュエル、聞いていたな? 万葉に寄ってくれ」
カーシーは御者に、まさに主人といった口調で言いつけた。海音が興味深々で見守る中、御者は馬車のどこかを軽く二回叩いた。すると、馬車は緩やかに走り出し、どんどん速さを増して周りの乗り物を追い越し始めた。乗り物を避けるときも、御者は何かしているようだったが、よく見えない上、カーシーが海音に関して随分と興味を持っているようだったので、海音はこの乗り物がどうやって動くのかを知ることは出来なかった。
「一体どこのお嬢さんかな?」
カーシーはキラキラした目で海音を見やりながら、貴志に訊いた。貴志は少々飽きた様子で、散々繰り返して語った嘘を、カーシーにも語った。それで十分に納得のいく答えだったはずだが、カーシーは面倒な質問を沢山してきた。
「どこで教育は受けるのかな?」
海音は自分がここで教育を受けるかもしれないなどと考えてもいなかったので、御者から目を離して貴志の顔を伺った。貴志はタジタジしていて、大きな目が忙しなく車の中を泳いでいる。
本当は海音は十六歳で、日本で義務教育も終了し十分に勉強したので、働くという方が自然なくらいだろうと海音は思う。しかし、シナは十二歳ということになっているのだ。ここの教育制度がどうなっているのか、教育制度が存在するのかどうかも疑問だが、確かに、教育を受けるべき年頃かもしれない。
「急な話だったから考えてねえよ。 それに、俺の家族は教育熱心な方ではないしな」
貴志がそう言ったので、海音は正直ほっとした。もし正体を隠しながら教育を受けるとしたら、相当な苦労になるに違いないと思った。
カーシーは納得したようにうなずいたが、更に訊いた。
「将来はどうするんだい? お嫁に出すのか?」
海音は面喰った。ここで大人になった後「お嫁に出される」なんて、とんでもなくおかしなことに感じる。まだ半ば、この場所が自分の生きていく場所だと思えないせいかもしれないが、将来のことを考える余裕も無い。それに、カーシーの個人的な価値観であり、世間的にも貴志的にも「嫁に出す」なんて、海音にとっては古臭く思える概念はないと思いたかった。いや、もしかしたら、当たり前のことなのかもしれないと、海音は恐る恐る貴志の返事を待ったが、答えは単純で、至って海音の感覚とも違わないものだったので、海音は胸をなでおろした。
「こいつが誰かと一緒になりたきゃなるだろ。 俺はわざわざ面倒見たりしねえよ」
貴志は当たり前のような口調で、この話題を鬱陶しく思っているようにも見えた。しかし、カーシーはこの答えには納得いかないようだ。
「いつまでもこの子が居たら君だって困るだろう。 女の子が家に居たら……ほら、貴志の方もいろいろあるだろうし」
カーシーは意味ありげにニヤニヤしている。どうやら、貴志の女性関係について言っているらしい。
海音はちょっとした衝撃を受けたような気がした。自分のせいで貴志の恋愛に支障が出るという考え方はしていなかったからだ。今までに会った人たちの言いぐさだと、貴志は随分と女性関係が盛んなようだ。海音は何となく、貴志には恋人はいないような気がしていたが、もし恋人がいたら、確かに海音は邪魔だろう。この先、出来たとしても、海音は邪魔な「こぶ」扱いになってしまうのかもしれない。
「俺は別に困らねえよ。嫌な言い方すんな」
貴志はさらりと言ったので、海音はほっとした。カーシーの方は面喰ったような顔をしている。違う答えを期待していたような顔だ。それからも、海音に関する質問は続いたが、その調子でカーシーの考えは否定されてばかりいた。
海音は、カーシーが海音と貴志の生活について質問する度に、一種の違和感を感じていた。海音がここにいて、身よりもなく、「志田海音」が狙われている限り、貴志にずっと世話になるということはわかっていたが、やはりどこか真剣に受け止めていない自分がいる。自分がここに居て、ずっと暮らしていくのだということを実感できない。まるで、いつかは覚める夢のように、仮の生活だと思ってしまっているのだ。
しばらくして、道が段々と込み合ってきた頃、馬車は道の脇にある広場に入って行った。馬や、乗り物が停めてあるので、駐車場のような所らしい。御者が下りてきて、海音のためにドアを開けてくれた。
「今度うちの夜会に招待するよ。 勿論、シナさんも一緒に」
海音と貴志が馬車から降りると、カーシーはそう言ってウインクしたが、海音は目を合わせないようにした。カーシーは悪い人ではないが、話を聞く限りでは、夜会に招待されたくはない。カーシーは、中世ヨーロッパ風の見た目通りの、お坊ちゃまのようだったからだ。
貴志は「おう」と返して歩きだしたが、カーシーの車が再び走り出してから、「お前は絶対連れていかないから安心しろ、シナ」と言った。そんなに嫌そうな顔をしていたかと、海音は反省した。
道路脇の広場は、紫円の働く和笑亭同様、建物の裏側にあるようだった。土を塗り固めたみたいに見える建物と、落書きだらけのコンクリートの四角い建物の間を通り、表側の通りに出る。
そこは物騒で下卑た雰囲気の、怪しい店の並ぶ通りだった。ほとんどの店に営業している様子はなく、人影といえばどこかに向かって速足に歩く人しかいない。ギラギラ光るナイフの並んだショウウィンドウを見つめて、ここには銃刀法はないのだろうかと海音は考えた。
「朝飯どこで食おう……」
その通りを歩きながら、貴志がぼんやり言ったので、海音は思わず咎めるような目でじっと貴志を見た。海音は強く自分の意志を主張したかったが、何分立場があるので、遠慮がちに訊く。
「サラの店に行かないの?」
貴志はそれを聞いて無表情に海音をチラリと見た。それから、視線を砂埃の地面に落とし、黙り込む。表情豊かな貴志にしては珍しく、何を考えているのかまったく読み取れない。海音が覗きこむようにして貴志の顔を見ると、貴志は短く溜息を吐いた。
「あの店ではお前、顔見せてたじゃねえか」
ぼぞぼぞと低い声で言ったその言葉は、本当は説明したくないとはっきり伺わせる言い方だ。そして海音は、硬い表情で貴志を見つめ続けた。海音がそのまま引き下がる様子も無かったので、貴志は長めの黒髪を掻き上げてうんざりしたような口調で言った。
「あそこの常連客に顔覚えられてるかもしんないだろ。せっかく変装したんだぞ?」
海音は硬い顔のまま、人形のように光のない灰色の瞳で貴志を見つめ続けた。本当は、貴志の言わんとすることはわかっていた。その事実を認めたくないあまり、貴志に否定させたい、何か解決策を言ってくれるはずだ、そんな気持ちで見つめ続けた。しかし、貴志の顔は険しくなるばかりだ。
「あの店には行けない」
貴志は何気ない口調にしようとして、不自然に明るい声でそう言った。海音と眼を合わせようとせず、段々と歩調を速めて歩き続けている。
とうとう、海音は「サラに会いに行けない」という事実を、認めないわけにはいかなくなった。貴志が、それを心底残念に思っていることも、どうにかする策がないことも、痛いほどに分かった。
しかし、悲しくて、もどかしくて仕方がない。見知らぬ土地で、全身海水と砂にまみれて震えていた海音に、暖かいコーヒーを淹れてくれたサラに、会いに行くことが出来ないのだ。毎朝コーヒーを飲みに来て、と言ったサラの暖かい笑顔が思い出される。
海音はどうしても納得できず、駄々をこねる子どものような気持ちになった。足が勝手に動くことをやめて、突然立ち止まってしまう。今すぐ、絶対にサラに会いに行かせてほしいと泣き出したい衝動に駆られた。しかし、貴志が安全に海音が暮らしていけるように考えてくれているのに、そんなわがままを言うことも出来ない。
海音は顔を微かに歪めて地面を睨みつけたまま、その場に立ちすくんでいた。
貴志は海音を置いて数歩歩いたのち、立ち止まって海音を振り返った。口は真一文字に結ばれ、眉は八の字に下がっている。なんと言葉をかけていいのか迷って四苦八苦した挙句、力なく肩を落としてしまった。
海音が落ち込むのも当然のことだったが、貴志にもどうにも出来ないことだ。しかし、海音はつい貴志に八つ当たりをしていた。黙っていて困らせることは十分わがままで、自分本位だと自覚している。相手が貴志だと、何故か気を許して素になってしまう。子どものように、気分のままに振る舞ってしまう。海音は他人にそんな風に振る舞ったことが無かったので、この状況をどうすればいいのかわからなかった。
その時、静かだった通りで、ガラスの割れる音が大きく空気を破った。その音は後ろの方から聞こえたので、海音は反射的に振り返る。2、3軒後ろの店のショウウィンドウが派手に割れていて、怒り狂った男が割れたガラスの間から出てきて怒鳴った。
「おい! 逃げる気か? 行くところもねえガキが!」
ワニの皮で出来ているようなごつごつした服を全身に被った男の視線を追うと、5、6歳の男の子が走り抜けていくところだった。緑色の着ぐるみのような服を着ていて、濃い色の茶髪だ。追手が来ていないかと、一瞬止まって振り返ったその顔を、海音は見たことがあった。ぱっちりと大きな目に真っ青な瞳の、愛らしい顔。海音が記憶を掘り起こす前に、貴志がつぶやくように低く言った。
「あー、あのガキだ」
海音が聞き返す前に、貴志が走り出し、怒り狂ったワニ革男よりも先に男の子を追いかける。海音は驚くのと同時に思い出した。貴志がカメラの女の子から探すよう頼まれていた、あの写真の男の子だった。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。ぜひご意見ご感想を、よろしくお願いいたします。