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真夜中を回った頃、店にはもう食事をする客はいなくなり、飲みに来ている客がかなりの大騒ぎをし出していた。貴志は、カウンター席は海音が危険なので、店の真ん中の二人用のテーブルに移動した。
数時間もの間、貴志は周りの客たちと談笑し、海音はそれを見ているか、紫円が持ってきてくれた本を読んでいるかしていた。余りにも海音が放っておかれて暇そうにしていたので、気を利かせた紫円が、小さい子向けで申し訳ないといいながら、物語本を貸してくれたのだ。
ちょっとした挿絵が付いていて、おとぎ話のような話が沢山乗っている本だ。海音はそれを全て読んだものの、日本の昔話やグリム童話のような架空の話なのか、この世界では現実の話なのかが分からず混乱した。
ある話では、故郷を出て旅に出ている兄を探して、少年が町から町へと旅をする。迷い込んだある町では、どういうわけか言葉が通じない。一体どういうこのなのだろうか、というのだ。
海音にしてみれば、外国に行ったりすれば言葉が通じないのは当たり前のことで、謎でもなんでもないのだが、その物語では「言葉が通じない」というのが摩訶不思議な出来事のように描かれている。結局、少年は兄を探しているうちに、誤って「混沌」に足を踏み入れてしまい、異世界に飛ばされてしまっていたことに気づく、というのがその物語の結末だ。
海音は何度も首を傾げ、難解なミステリーであるかのようにそれを読み直してよく考えた。「混沌」に足を踏み入れるとは、一体どういうことなのだろう。
「ねえ、混沌って何?」
貴志に何度かそうたずねてみたものの、「ああ? 混沌には行くな」などと上の空で答えては、すぐに客たちとの会話に戻ってしまう。
海音は、料理人のおじさんのところに訊きに行きたくてたまらなかったが、「混沌」がここでの常識的な言葉だったとしたら、正体がばれる原因になってしまうため、一人で悶々と考える羽目になった。
その物語を理解することを諦めたとしても、本の中には他にも海音の知らない言葉が出てきて、ほとんど理解できなかった。紫円が客たちに、「ごめんなさい、今日はもう帰るの」と言ったのを聞いたときには、喜んで本から手を離した。
紫円は惜しまれながら出口のドアを開けたので、貴志と海音もそれに続いた。
「また来いよー、シナ!」
料理人の大声と、客たちが「明日も来るぞ」などと紫円に熱く言う賑やかな声を背中に、三人は店を出て階段を降りた。
「そーいやお前、今日は着替えてから帰らねーの?」
階段を降りながら貴志は、紫円の着物姿を見ながら訊いた。手には風呂敷包みを持っていたが、店に出ていたときの恰好のままだ。紫円は先頭に立って階段を降り、店の建物の裏に廻る路地に入りながら、言った。
「だって、着物って着替えるの大変なんだもの」
それを訊いて貴志は「そうか」と言ったが、なんとなく納得していないようだ。
海音は路地に入りながら、通りの人の多さに驚いていた。もう真夜中過ぎだというのに、通りは人であふれている。どう見ても娼婦と思しき女たちや、泥酔した男たちの集団などで、上品な人が居そうな雰囲気ではない歓楽街だ。
お店の裏に廻ると、景色がまるで違っていた。広い道路が通っていて、人は全くいない。どうやら、乗り物専用の道路のようだ。さまざまな乗り物が、速さも走り方もてんでばらばらに走っている。事故が起きないのが不思議なくらいだった。いや、しょっちゅう起きているのかもしれない。道の向こうは木が並んでいて、その向こうに何があるのかは暗くて見えなかった。
紫円は店の建物の裏にあるスペースに停められていた、三輪の自動車のような乗り物のドアを開けた。自動車のような重量感はなく、横にした洋ナシのような形で、前の運転席に一人、後ろに二人ギリギリ乗れるほどの大きさだ。紫円は先に後ろの座席に収まり、海音を隣に座らせた。
座り心地は快適とはいえなかったが、一応クッションが付いている。車体はとても軽くて頑丈な金属で出来ているようで、自動車に比べるとかなり単純な作りだ。また、窓ガラスはなく、後ろと横が一部格子窓になっている。
海音が興味津々でこの乗り物を愉しんでいると、貴志が横の格子から、中を覗き込んで言った。
「あのさー、もしかして俺に漕げって言ってる?」
一体何を漕ぐのかと、海音が首を傾げていると、海音の隣で紫円がすまして言った。
「貴志が一番重くて、一番力があるんだから、当たり前でしょ」
貴志はため息を吐いて運転席に乗り込みながら文句を言った。
「俺が漕ぐのは構わねーけど、お前さっきの嘘だろ。今日は俺に漕がせる気だったから着替えねえんじゃねえか」
「まあ、それもあるわね」
紫円は満足気に笑みを浮かべて言った。
運転席との間は、下半分が仕切られていて上は開いていたので、海音は頭を突き出して、貴志がどうやって運転するのかを見ようとした。
そして、貴志がこの乗り物を動かし始めても首を引っ込める気にならないほど、その仕組みには驚いた。この三輪車は、自転車だったのだ。一体どういう仕組みになっているのか、貴志が足元でペダルを漕ぐと、三輪車はいともたやすく道路に出て、他の乗り物と一緒に道を走り始めた。そして、ロードバイクさながらのスピードが出ている。
海音は貴志の横顔を見つめて訊いた。
「重くないの?」
「全然」
海音が余りに感心するので、貴志は思わず得意になっている。紫円はいぶかしげに、形のいい眉を片方持ち上げて言った。
「この子、ラ・フランスも知らないの?」
海音は思わず振り返り、紫円の顔を不思議そうに眺めた。
「ラ・フランスは知ってるよ」
「お前、ラ・フランス知ってんのか?」
驚いたことに貴志がそう訊き返したので、海音は一瞬黙りこんだ。はっきりと記憶にあるが、ラ・フランスは洋ナシの名前だ。一体なぜ今、ラ・フランスの話が出るのか分からないし、ラ・フランスくらい聞いたことがあって当然だった。
「果物の名前じゃないの?」
海音が自信なさげにそう言うと、貴志と紫円は一体何を言っているんだという目で海音を見た。そうこうしているうちに、貴志は大きな道路を外れ、人がまばらに歩く道に入る。
「ラ・フランスはこれの名前よ」
紫円は、透かすような目で海音を見ながら言った。完全に、何かを疑っているようだ。
海音はそこでやっと、まずいことを言ったと気が付いた。ここの物に付いてまったく知識がないことを、紫円の前で見せてはいけなかったのだ。きっと、この乗り物がラ・フランスに似ているからその名前が付いたに違いない。いや、そうだとして、そんなことはどうでもいい。貴志の姪っ子ではないということがばれてしまうかもしれないのだ。しかし、なぜ貴志も紫円も果物のラ・フランスを知らないのだろうか。
海音がおろおろしていると、状況を知ってか知らずか、貴志が助け舟を出してくれた。
「田舎もんだから、見たことねえんじゃねえか。俺の田舎では見なかったから」
紫円は「そうなんだ」と言ったが、いまだ、気になることがあるような目で海音を見ている。海音は落ち着かなくなり、その後はずっと、ちゃんと席に座っておとなしくしていた。
やがて、貴志は道から外れ、高床式のバンガローの床下に車を止めた。地面から3メートル程の高さのところに建っているそのバンガローは、小さな家程の大きさだ。貴志はまるで自分の家であるかのように、階段を先頭切って上がっていった。
辺りはバンガローのポーチに付いている明かりと、道路脇が何かで微かに照らされている以外は真っ暗で、何も見えない。
紫円がドアの鍵を開けて中に入ると、そこは一部屋だけの住まいだった。ぼんやりとしたオレンジ色のランプに照らされた部屋には、小さなベッドや箪笥ぐらいしか物はない。奥にはトイレらしき扉があり、クローゼットにでもなっているのか、壁一面にカーテンがかかっていた。
紫円は靴のまま中に入り、貴志もそれに続いたので、海音も妙な気がしながら土足で部屋に入った。紫円はドアの横にある流しとガス台のところに行って赤いやかんを出し、流しに付いているコックを捻って水を入れて火にかけた。
どうやら流しの水は水道ではなく、どこかに溜まった水が流れて来て、コックを捻ると出るようになっているらしい。
貴志も海音も座るところがないので突っ立っていると、紫円がカーテンの向こうから簡易ベッドを二つ引っ張り出して、「座るところはベッドしかないわ」と言った。貴志が簡易ベッドを慣れた様子で広げ、一つは紫円のベッドの横に、もう一つは離れた壁際に置いた。そして、「布団どこだっけ?」と聞く。
「カーテンの一番左にある箱の中」
紫円は3人分のマグカップを用意しながら言った。貴志はすぐに布団を見つけて、二つのベッドにどさっと置き、当然のごとく離れた方のベッドに布団を敷き始めた。海音も自分のベッドを整えながら、部屋の中をしげしげと眺めた。
居酒屋で粋な着物を着こなして働く、洒落ていて颯爽とした紫円を見たあと、この部屋を見ると、なんだか意外な気がする。部屋は綺麗だが質素だし、シャワールームすらないようだ。着ている衣装を見ると、貧乏では無さそうなのに、と海音は不思議だった。
しかし、貴志もある意味全く住まいと釣り合っていないことを考えると、ここにはここなりの事情があるのかもしれない。
ほどなくして、ハーブティーのようないい香りと共に、紫円がマグカップを持ってきて貴志と海音に手渡した。それぞれが自分のベッドに座り、ハーブティーを啜る。
「あ、私着替えなくちゃ。ちょっと貴志、向こう向いてて」
思い出したように紫円が言って、マグカップを箪笥の上に置くと、貴志は壁を向いて座り直した。
紫円はカーテンの向こうから着物用の四角い衣紋掛けをだし、箪笥からトレーナーとスエットパンツを出した。海音もなんとなく目線を逸らしていたら、帯を取りながら紫円が何気ない口調で言った。
「で、この子本当は何者なの?」
海音は心臓を大きな木槌で叩かれたかのような感覚に、マグカップを落としそうになった。なんとか落とさずに済んだが、手が震えて中身をこぼさないようにするだけで必死だ。海音は飲み物を見つめて、紫円の顔を見ないようにしていた。
貴志は「お前っ……」と言って振り返りそうになり、「ちょっと!」と紫円に怒られた。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
貴志が恥ずかしそうにしながらもごもご聞くと、紫円は着物を脱ぎながら、真顔で言った。
「だって、本当に姪っ子押し付けられたりしたら、貴志は他にうまく面倒見てくれそうな人、いくらでも探せるでしょ」
貴志の様子や紫円の口調から、紫円は親しいのでばれても大丈夫なのだろうと決めつけ、落ち着きを取り戻した海音は、意外な話になるほどと頷いた。しかし、貴志は先ほどまでの余裕はどこへやら、相当焦っているらしい。冷静なふりをしてハーブティを啜り、むせこんでいる。
「お前っ……それ、他の誰かもそう思ったりすると思うか?」
咳込みながら貴志が聞くと、紫円は「さあ……」と思案した後、どうでも良さそうな気のない声で、
曖昧な答え方をした。
「貴志がなんだかんだ言って面倒臭がりだってことが分かってる人は、そう考えてもおかしくはないんじゃない」
貴志は紫円の言ったことを考えているようで、暫く静かになった。海音は何故か、紫円にばれてしまったことは、心配すべき事態ではないとはっきり感じた。貴志はどうやら、紫円にいとも簡単にばれたということは、他の人にもばれる可能性があるのではと気に病んでいるようだ。
海音は、自分がへまをしたせいで紫円にばれて、追い込まれた状況になった、という最悪なシナリオではないことがはっきりしたので、すっかりほっとしていい香りのハーブティーを愉しんだ。
「――お前って鋭い方だよな」
難しい顔をして貴志は紫円に訊いた。紫円は着替え終わり、着物を片づけながら答えた。
「そうね、女の勘は鋭い方。――あ、もうこっち向いていいわよ」
紫円の口調は、貴志の状況を面白がっているようだったので、貴志は振り向きながら紫円を睨んだ。
「うまく行ってると思ったのによー。心配になってきた」
紫円はコットンで化粧を落としながら笑った。海音は、完璧な美しさを誇る紫円が、化粧を落とすとどうなるのかと、それをじっと見ていたが、化粧を落とした紫円はツルツルした肌が美しく、真っ赤な口紅を落とすとまるで少女のように見えた。それを見た海音は微かに、紫円はまだかなり若いのかもしれないと思う。
「もう遅いし、シナちゃんが本当は何者なのか、貴志が白状したら寝ましょう」
紫円は布団に入りながらにっこりと笑って言った。海音もパーカーを脱ぎ、ゴーグルを取って布団に入った。慣れない場所で一日を過ごしたので、大分疲れていて、もう瞼が落ちそうになる。貴志も上着をジャラジャラさせながら脱ぎ、ズボンからもいろいろ取り外してから布団に入り、壁の方を向いてもごもごと言った。
「いや、シナがもう寝るから、説明はまた今度な」
紫円は拗ねたような顔をして、何か反論しようと身を起こしかけたが、隣で海音が寝息を立て始めていたので、諦めたように横になった。