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二人はそれから広い通りまで戻り、真ん中の堀を橋で渡り、右斜めに続く、海臨丸通りと同じくらいの広さの通りに入った。どうやら、最初に出た通りが一番大きく、他はそこから枝分かれしているらしい。海音は、基本的な地理をなんとか覚えようとしていた。
そこは少し人通りが少なかったが、沢山のネオンが辺りを埋め尽くす繁華街だった。大通りよりも建物がみな高くそびえていて、日本の都会の景観に最も近いと海音は思った。看板を見る限り、宿や飲食店ばかりが並んでいる。ここも、歩行者天国状態だった。
辺りが暗くなっている分、海音は見慣れない身なりの人や、人間とは違う姿形の人が怖くなっていた。ネオンに照らされていると、益々現実感がなくなって不気味だ。
貴志は、海音の恐怖感を察したのか、やや乱暴にだが海音の腕を掴んで、引っ張るようにして道を歩いた。
ここでも、いろんな人が貴志に話しかけてきた。店に寄ろうとか、一緒に飲もうとか言う人が多かったが、貴志はここでも「姪っ子と飯に行くんだ」と言ってあしらった。
妙な服装や、武装した人ならまだしも、たまにいる角が生えた人や、異様に頭が大きい人、肌が凸凹している人などを見て、海音は震えあがった。 しかし、人々は物珍しそうに海音を見るだけで去って行った。
幸い、貴志の言った通り、少し歩いただけで目的地に着いた。瓦屋根が天守閣のように連なった背の高い建物の二階辺りに「和笑亭」と書かれた茶色い看板が暖かく光っているところで、貴志は立ち止まり、狭い階段を上がった。
木の扉からはオレンジ色の光が漏れていて、たくさんの人の声が聞こえる。貴志は海音の腕を離して扉開け、海音の背中を押して、先に中へと促した。
「いらっしゃい」
明るくて艶っぽい女の人の声が飛んでくる。海音が店内を見回すと、真ん中に大きなカウンターがあり、テーブル席もある居酒屋のような店だった。店内は和風で、現代的だったので、海音は一瞬自分が日本に戻ったかのような感覚を覚える。
若草色の着物を着た綺麗な女性が、カウンターを回って入口の方に来た。海音の後ろから貴志が入ってくるのを見て、女は色っぽい笑みを浮かべて歩み寄る。
「貴志、子ども連れなんて、珍しいわね」
「隠し子の一人かって聞くなよ、お前まで」
貴志が不機嫌に女を睨んで言うと、女は驚いたように貴志を見たあと、いたづらな笑みを浮かべて言った。
「いま聞こうと思ったのに」
「うそつけ」
貴志は拗ねたように言ってから、店内を眺めている海音の肩を掴み、女の方を向かせて言った。
「姉貴に押し付けられた俺の姪っ子。シナだ」
海音はぎこちなく笑みを浮かべて女を見た。色白で、鼻筋の通った面長の顔に、なんとなく影のある目が魅力的だ。自分の美しさを十分わかっていて、上手くそれを利用していそうな、高飛車な感じがする。しかし、花が咲いたように明るくて、物腰が柔らかなので、嫌な感じはしない。
彼女は真っ赤に彩った唇で優しそうににっこりして言った。
「初めまして。女同士仲良くしましょ。紫円って呼んでね」
海音がこくりと頷くと、紫円はカウンター席に貴志と海音を座らせ、自分はカウンターの向こうに戻った。
海音が座った席の隣には、酒を呑んでいる若い男が居て、落ち着けなかった。その男はボロを何枚も重ねたような服を着ているし、随分と飲んでいるようだ。海音は椅子の端に座ってなるべく男から遠ざかろうとした。
貴志がその様子を見て、「おい、代われ」と言って席を替わった。
「紫円ちゃん、もう一瓶頼むよ」
「こっちに来て酒注いでくれよ」
紫円の手が空いたのを見て途端に、客たちは一斉に紫円に声を掛けた。店の中はまだ早い時間だというのにかなり賑わっていて、その中の少なくとも半分は、紫円目当てに来ているようだった。
「それで、夕飯食べに来たの?」
酒の用意をしながら、紫円は貴志に訊いた。貴志は「それがよお……」と言いかけたが、客たちの大きな声に遮られて、話を続けることが出来なかった。
「おい、馴染みだからっていつまでも紫円さんを独占すんな」
「注文ならあっちのおっさんにしろ」
海音が、客たちが指差した方向を見ると、無精ひげを生やした暑苦しい濃い顔の男が、カウンターの奥で料理をしている。店の奥の方のボックス席には、そこから料理が盛んに運ばれているので、お酒を呑む為の店というわけでもなさそうだ。
料理をしている男は、客たちの声を聞きつけて怒鳴った。
「おっさんってなんだ。俺のことはシェフと呼べ」
「お前はただの料理人兼ウエイターだろーが。かっこつけんな」
口の悪い客たちは容赦がない。
「うるせーとりあえず料理してんだからシェフだ」
言い返す料理人も頑固だ。結局客たちは料理人と言い争いを始めてしまい、貴志は見慣れた様子でそれを見ながら紫円に言った。
「急だったから俺ん家受け入れ準備が出来てねえんだ。今夜俺たち泊めてくんねーか」
紫円はカクテルを作りながら、少し目を丸くして貴志を見た。その目は何か聞きたそうにしていたが、「いいわよ」と言う。それから、喧騒を面白がって眺めている海音を見ながら、怪訝そうな顔をして咎めるように言った。
「あんたみたいなろくでなしに、急に子どもを押し付けるなんて、一体どんなお姉さんなの?」
海音は視線を戻して紫円をじっと見た。紫円の言ったことは至極当然の考え方だったが、海音にはなんとなく、紫円が貴志の話を疑っているように聞こえた。貴志が事情を言って回っても、怪しがったり、訝ったりする人は今まで一人もいなかったからだ。
貴志は「ろくでなし」と言われたことを咎めもせずにこころなしか嫌そうな顔をして、少し引っかかるような言い方で言った。
「ひでえ女なんだよ。夫が家を離れている間に浮気して出来ちまった隠し子で……」
その時、貴志の隣で話を聞いていたらしい男が、突然口を挟んだ。
「鳶崎貴志が姪っ子の面倒見るって、ほんとの話だったのか」
貴志はものすごい速さで振り向いて、ほとんど泥酔状態の男をじっと見た。早い時間からもうかなり出来上がっている男の様子を見て、眉を潜めながら疑わしそうに訊いた。
「それ、もう誰かから聞いたのか?」
海音も随分と情報が早いことに驚いた。貴志が「姪っ子のシナ」を連れて初めて現れたのはついさっきのことの筈だ。
今にも眠り込んでしまいそうな目で貴志を見ながら、男は答えた。
「噂になってたからなー。鳶崎貴志がガキの面倒なんてよ……今朝のー……なんだっけ?志田海音とかいう不運な女の話より驚いたな……ははは」
途切れ途切れにそれだけ言うと、男は大きな音を立ててカウンターに突っ伏し、寝入ってしまった。
一瞬、貴志も海音も紫円も、口を半分開けて男を眺めた。まだ日が落ちたばかりだというのに、酔いつぶれて寝る客なんてそういない。
海音は別の意味でも驚いていた。男は志田海音を「女」、鳶崎貴志の姪っ子を「ガキ」と言ったのだ。どうやら変装はうまく行っているらしい。
貴志は、自分がせっせとついた嘘が、すでに広まり始めていることにご満悦だった。すっかり寝てしまった男をどうしようかと困っている紫円に、ニコニコして言う。
「そーゆーわけで、今日はよろしくな。お前が上がるまではここにいるからよ」
紫円は「うん」と答えて、諦めたように男を一瞥すると、酒を注ぎに他の客のところに行った。
貴志は奥で料理しているさきほどの料理人を見つけ、大声で声を掛けた。客たちはもう料理人をからかうのは飽きたようで、寄ってたかって紫円に構っている。
「おーい、おっさん。今日の定食二人前」
「おっさんじゃねえ。おっさんって呼ぶなら作らねえぞ」
料理人は憤慨して、お玉を振りかざしながら怒鳴った。貴志は機嫌よく緩んだ顔のまま料理人に言った。
「シェフって呼ばれたいなら、豪華ディナーでも作れよおっさん」
料理人はふてくされて包丁を手に取った。刃物を持って暴れるつもりではなく、黙って定食を作る気になったらしい。
その後、貴志は機嫌よく周りの客と冗談を言ったりして楽しそうにしていたので、海音は黙って座っていた。ほとんどの客が貴志のことを知っているらしい。
「おい貴志、実はお前の隠し子なんじゃねえかって噂になってるぞ」
テーブル席の方から声が飛んできて、周りの客が一斉に笑った。
男性の低い笑いが一斉に響くのや、海音をよく見ようと首を伸ばす客たちが嫌で、海音は顔をそむけていた。
「違うって言ってんだろ。俺はまだ若いの。んなガキいるわけねーだろーが」
貴志は怒って言い返したが、目が笑っている。どんな形にしろ、噂が煽られれば煽られる程、海音のことを皆始めから貴志の姪っ子だと思いこむため、変装がばれる心配はなくなる。今朝から、貴志に関する噂といえば「志田海音」についてだったが、この調子で、「姪っ子を預かる羽目になった貴志」という絶好のからかいのネタが広まれば、「志田海音」と「貴志の姪っ子シナ」を結びつける人もいないだろう。
貴志は思惑がうまく運んで、浮かれていた。海音は、貴志の作戦がうまく行ったことは、自分のためなのだから勿論喜ばしかったが、社交的な方ではないので、貴志の姪っ子として、いろいろな人に絡まれるのは嫌だった。
それにしても、どこに行っても貴志を知っている人が声を掛けてくるし、貴志に関する噂も異様に速く廻る。貴志の嘘がうまく行ったことは認めるが、ディーナの言っていた通り、貴志に面倒を見てもらって、ひっそりと暮らすなんてことは不可能なのではないかと、海音は思い始めていた。
「お前、和食は好きか? ハンバーガーとかが好きそうな髪の色してるが」
突然、目の前にアジのフライの定食が出てきて、掠れたような低い声に、海音は驚いて顔を上げた。海音を見下ろしてにっこりしているのは、シェフと呼ばれたがっていたあの料理人だ。
海音は和食という言葉に驚いた。無論、和とは日本のことだ。誰がそう言ったわけでもないが、海音は、ここには日本という場所は存在しないし、誰も日本のことを知らないと思っていたのだ。しかし、重い返してみれば貴志は、日本や地球のことを話していた。それに、出てきた料理はまさに日本の定食だった。紫円も粋な着物を着こなしていたし、この店も、貴志の家も、日本と無関係だとは思えない。そろそろ、今いる場所と、日本との関係性をきちんと教えて欲しいものだと思う。
なにはともあれ、料理人は優しそうだったし、和食は好きだったので、海音は頷いた。
「そうかそうか。俺の料理はここらの和食店の中では一番だからな」
満足げに笑いながら、料理人は威張って言った。海音は彼の気さくさになんだかほっとして、先ほどのやり取りを思い出して言った。
「いただきます。シェフ」
料理人は一瞬、信じられないという目で海音を見た。海音は半ば冗談のような軽い気持ちで彼をシェフと呼んだのだが、彼があまりにも驚いた様子なので、何か間違ったことを言ったかもしれないと焦った。
次の瞬間、料理人は店中に響く大声を出した。
「おい、この子……俺のことシェフって呼んだぞー!」
うれし涙を浮かべる勢いで喜ぶ料理人に、店中の人間が驚く。海音も、そこまで喜ぶとは思っていなかったので、目を丸くして料理人を見つめた。
「お前、いい子だなー。あいつの姪っ子なのに。名前、なんていうんだ?」
感激の笑みを浮かべて海音に詰め寄る料理人の顔は、かなり暑苦しかったので、海音は思わずのけぞって言った。
「シナ」
「そーかそーか。シナ、これ俺からのサービスだかんな」
娘にデレデレする父親のような顔で、料理人は海音の隣に置いた貴志の定食から、アジのフライを海音の皿に移す。妙なものを見るような目で二人のやり取りを見ていた貴志は、自分のアジフライが盗まれたのを見て急いで席に戻った。
「おいおいおい、それお前からのサービスじゃなくて、俺からのプレゼントになってんだろーが」
貴志はすかさず自分の皿にフライを戻す。それを見た料理人は貴志を睨んだあと、海音に言った。
「意地悪なおじちゃんだな」
「うっせーよ。おじちゃんとか言うな!」
貴志も料理人を睨み返したあと定食を食べ始めた。
料理人は結局、奥から出してきた卵焼きを海音の皿に並べながら、「お前も『いただきます、シェフ』って言え」などとブツブツ言ったが、貴志はまるで聞いていなかった。
海音は、彼が今まで一度だってシェフと呼ばれたことが無いのだと気づいていた。この喜びようはどう考えても異常だ。周りの客も、「やっと呼んでもらえたな、おっさん」などとからかっている。海音は図らずも、料理人に相当好かれてしまったらしい。
こんなにたくさん食べるのは大変だと思いながら、海音も定食に箸を付けた。しかし、料理人が、この辺りで一番の和食だと言ったのは、紛れもなく本当だった。