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海音は、貴志が見かけによらず、丁寧に自分を迎えてくれていることに気付き始めていた。貴志は、面倒臭そうな態度を取りながらも、きちんと、海音が安心して暮らせるように配慮してくれている。それが仕事や、失態を気にしてしてくれていることだとしたら、と思うと、海音は申し訳ない気持ちになる。
しかし、貴志はどうして海音をすんなりと受け入れ、匿ってくれるのか、はっきりさせようとしなかった。勿論、海音は訊いてみたりはしなかったが、それにしても、一人の女の子を引き取るというのに、貴志はまるで野良猫でも飼うことにしたような態度だ。
海音はすでに貴志のことを信頼していたし、今現在安心していられるのも貴志のおかげだったので、匿ってもらうことは願ったり叶ったりだ。しかし、いろいろ事情はあるにしろ、貴志と自分は赤の他人なのだという事実が気に掛かり、複雑な気分だった。
今の海音は、貴志のことも、これからの自分の生活のことも、この場所のことも、わからないことだらけで、本当は全てを質問したくてたまらなかった。しかし、恐れや不安を感じなくなった今、余計なことを考える必要もないと思う。急いで何もかもを知ろうとしても仕方がない。
海音は見知らぬ町で、自分の前を歩くほとんど見知らぬ人の背中を眺めた。貴志は全身に金属製の道具を身に着けていたので、まともに革ジャケットの地が見えるのは背中の上の方だけだった。
海音は全ての疑問を呑み込み、小さな質問だけを投げかけた。
「カイリンマル支店って何?」
貴志は「ああ」とぼんやり言いながら、すぐには答えず、歩いてきた大通りから枝分かれして、左ななめに続く道に入った。広さは劣るが、そこもそれなりに人で賑わっていて活気があった。しかし、さっきまでの通りとは様子が大分違っている。
道に面した側に壁がない、工場のような建物ばかりが延々と並んでいる。軽食を売っている屋台のような小さな店が転々とある以外に、店らしきものは見当たらない。辺りには騒がしい音がぶつかり合い、通りの中央辺りでは、さまざまな乗り物でいろんなものが運ばれていた。
ここまでは、バッファロー馬と小舟以外には乗り物を見なかったので、海音は見たことのない乗り物に興味深々だった。
エンジンを搭載していそうな音を出している、そう珍しくは見えないものもあれば、一体どんな動力で動いているのか、ふわふわと妙な動きをしているものもある。金属製らしきものもあれば、木製も、見たことのない素材のものもあった。人か物を載せて動いているということ以外に、共通点がない。
しかし、海音がそれらをじっくりと見ている暇はなかった。貴志はすぐに通りの端にある歩道橋のような赤い階段を上がったからだ。
「ここが海臨丸通り。ここに俺の家と、仕事用の事務所がある」
階段を上がっている間も、下からさまざまな騒音が聞こえていたので、貴志は大きな声を出さなければならなかった。
海音は、貴志の説明を聞いて、改めて下の通りを見渡した。騒がしくて、男だらけで、乗り物だらけで、雑然としている。ここに貴志の家があるのだ。海音が世話になる町。そうしているうちに階段を上がり切ってみると、そこの光景は下とはまるで違っていた。
三階ほどの高さまで上がったにも関わらず、そこには、沢山の店が並ぶ町があった。緩やかに曲がりながらずっと続く歩道橋の左側には、形も大きさもさまざまだが、床の高さが揃えられた店が並んでいて、歩道橋から枝分かれして店に入れるようになっている。一風変わった、屋外のショッピングモールのようだった。通りの反対側にも同じように店が並んでいて、橋のように渡れるようになっている。
どこかにありそうで見たことのなかったような光景に、海音は感嘆した。どうやら、下の階の工場で作った物を、上の階の店で直売しているらしい。作り手がすぐ下で商品を作っているなんて、素敵だと海音は思った。階下から聞こえてくる騒音もまた趣に思える。
人々は、先ほど通ってきた大きな通りから流れ込んできているようで、歩道橋を渡り歩いての買い物を楽しんでいた。金属製の歩道橋が、沢山の人の足音を響かせる。騒々しくて、職人達の匂いの濃い場所だった。
海音は貴志について歩きながら、店の中を覗き、見たこともない工業品や、機械や、洋服店を眺めた。この景色をざっと眺めただけでも、貴志の身に着けているものはこの辺り出身であることは明白で、あまりにも貴志に似合う町だ。海音はこんな風に賑やかで活気のある場所に出入りしていたことはなかったが、この場所が気に入った。先ほど通ってきたもっと大きな通りよりも、町としてのまとまりがあるような気がしたし、気取ったところがなくて、馴染みやすそうだ。
しばらく歩き、海音が下の乗り物や工場をもう一度見るくらいに余裕ができた頃、貴志が左側の店に続く歩道橋に曲がった。
海音は下を見ていて曲がり損ねそうになりながらも貴志についていき、その店を見た。昭和の商店といった雰囲気で、海音が見ると、決して古くはない建物なのにかなり年季が入っている気がしてしまうような、懐かしいお店だった。ガラス戸から見える店内は、そんな外観とは裏腹に、貴志が全身に身に着けているような金属製の小物が並ぶ店だ。
歩道橋は直接入口ではなく、お店の表のポーチに続いている。
海音がこの店に入るのだろうと思っていたが、貴志は店の戸ではなく、店の壁の端にある地味な扉を開いた。その扉は、建物の右側の不自然なところに、勝手口のような存在感で付いていた。壁と同じ材で出来た扉に、丸いドアノブが付いているだけ。しかし、更に不自然なのは、ドアノブの横に、「掴んで回せ」と乱暴な字で書かれた札があることだ。
海音はそれをじーっと見ていたので、扉の横に付いていた「鳶崎貴志・海臨丸支店」と掘られた石の表札を見逃した。
ごく普通のドアノブにわざわざ「掴んで回せ」という札を掛けるなんて、妙な話だ。しかし、ここにはそういう妙が溢れている。
ここに来てから海音が見たものの三分の一かそれ以上は、例えば青い歯をした人のような、見慣れないとか、ありえないとかいうような異質なものだったが、それ以外は、ほとんど違和感を感じないものだった。とはいえ「ほとんど」なのだ。この「掴んで回せ」のように、海音が見慣れたようなものも、どこかずれていたり、妙な要素が混ざっている。
海音はそれらがまるで、夢の中で見る世界のようだと思った。想像も出来ないようなものは出てこないが、どこか現実と違っている。もしかしたら、自分は死んで、死後の世界をさまよっているのかもしれない。
海音は怖いものを見たような顔をして、その考えを打ち消した。そんなことを考えても答えなどでない。
海音は何食わぬ顔をして、貴志に訊いた。
「貴志の家、どこ?」
そしてたった今、自分がどこにいるのか気が付いたように、貴志と海音が歩いている廊下を見た。床は石で、くすんだ白い壁に、木の格子の窓がある。左側の壁の向こうがお店の筈だから、この廊下はお店の横を、奥へ続いていくものだ。
貴志はその廊下に金属音を響かせながら答えた。
「ここ。店の奥が俺ん家」
それを聞いて海音は首を傾げた。お店はどう見ても貴志の仕事の支店ではなかった。奥に貴志の支店がまたあるのだろうか。
廊下は長く続いていて、前を歩く貴志の行く手を見ると、突き当たりに、今入ってきたドアよりも立派なドアがあった。しかし、貴志はそこまでは行かず、その手前で左に曲がった。
そこは「余り」といったような空間だった。廊下より広い幅のスペースで、左側に引き戸があって、突き当たりに降階段、その手前になぜか小さなガス代とシンクがあり、右側は壁ではなく市松模様のふすまだ。
貴志は5枚のふすまの手前から二枚目を開けた。その場で重そうなブーツを以外にも簡単そうに立ったまま脱ぎ、少し床が高くなっている畳の部屋に上がる。海音が驚いて覗き込むと、そこはちゃぶ台と座布団といくつかの箪笥ぐらいしか物のない、和室の茶の間だった。そこに上がり込む貴志はタイムスリップでもしたかのような不自然さだ。
しかし、部屋の隅に、ガラスと銀色の枠のディスプレイラックがあった。そこには貴志のコレクションと思われる、懐中時計やナイフが飾られていた。それだけが、貴志の家だと確信させる部分だ。
海音がその場に茫然と突っ立っていると、貴志は持っていた海音の着替えの包みをどさっと下ろしながら「入れよ」と言ったので、海音も靴を脱いで膝からおずおずと部屋に入った。
伊草の匂いと畳の感触には、日本人として育った海音は思わずうれしくなってしまう。ふと開けっ放しの引き戸を振り返ると、石の床と殺風景な壁が見える。居間のすぐ横がそんな様子だと、妙な気分だった。
「俺はここに布団敷いて寝るけど、お前はそうはいかないな」
貴志はつぶやくように言いながら、部屋の左側にある押入れを開けた。押入れの上の段には、布団が積んである。海音は下の段に詰め込まれているガラクタを見たが、何に使うのか見当もつかないようなものばかりだった。貴志は押入れの奥から布団一式を引っ張り出し、床に下ろす。
「布団はある。部屋はここだけだから、シナには屋根裏で寝てもらうしかないな。いいか?」
なんとなく正座していた海音は何度も頷いた。そして、自然にシナと呼ばれたことを噛み締める。シナという名前には、意外にすんなりと馴染めそうだ。貴志の住まいも、日本風なので安心した。ここまでの道のりで見てきた建物を考えると、貴志の家はかなり馴染みやすいものと言える。
「ただな、屋根裏今すっげえ汚ねえし、物だらけなんだよ。片づけしないと」
貴志がかなり嫌そうな顔をして言ったので、海音は反射的に「私がやる」と言ったが、貴志はあっさり断った。
「俺の物の処分もあるし、誰かに手伝ってもらわねえと、一人や二人じゃ無理だ」
それから貴志は部屋の中をざっと海音に説明した。部屋は一部屋だが、脱衣所と古い銭湯のような趣のお風呂、少し旧いようだが洋式のトイレもあり、基本的な生活面で困ることはなさそうだったので、海音はほっとした。居間の入り口と反対側には、曇りガラスの引き戸が三枚あって、その向こうが廊下の突き当たりにあった扉から入る、土足の事務所だった。
「音は基本筒抜けだから、気を付けろよ」
貴志は事務所を見せたあと、そう言って引き戸を閉めた。
「もう日も落ちるし、今日中に屋根裏片づけんのは無理だな」
貴志は両手を腰に当て、伸びをしながら言った、海音はディスプレイラックの、貴志のコレクションを見ている。貴志は海音の方をぼうっと見て、考えながら言った。
「今日は紫円んとこ泊めてもらうか。並んで寝んのもどうかと思うしな」
海音は紫円がどこの誰かも知らなかったが、もちろん反論はない。そういうわけで、海音は馴染む間もなく靴を履き、貴志の家を後にすることになった。
海音は再びさっきの廊下を通って外に出るのだと思っていたが、貴志は廊下に出ずに正面の引き戸を開けた。海音の位置感覚が正しければ、その向こうはお店の筈だ。
海音の思った通りだった。貴志は堂々と店のカウンターの裏側に出て、「おう、大将。繁盛してっか?」と、カウンターの前に腰かけていた人物に声を掛けた。その人は、がっちりした体格で、厳しそうな険しい顔の中年の男で、手にはペンチのような物と、ちぎれた鎖を持っている。彼は修理をしていた手を止め、貴志を見て言った。
「いや、お前みたいな物好きは、そう沢山はいないらしい」
彼の顔に似合わず、人の良さそうな落ち着いた声に安心して、海音もおずおずと店に入った。男は片眉を上げて海音を見ると、無表情に貴志を見て言う。
「お前の隠し子の一人か?」
「ちげーよ。つか、隠し子なんて一人もいねえ」
貴志は憤慨して怒鳴ったあと、「ったくどいつもこいつも……」とぶつぶつ言った。男は大きく口を開けて笑ったあと、真っ黒い目で海音を見て貴志に訊いた。
「それで、どこの子だ?」
貴志は恨めしそうに男を見たあと、歯切れの悪い言い方でぼそぼそと言った。
「わけあって預かることになった。シナだ」
この人には嘘を吐かないのだとわかって、海音は男をじっと見た。貴志とかなり親しいのかもしれない。男はがっしりした手を海音に差し出して言った。
「この店の店主、バン・ローランドだ。バンとでもなんでも好きなように呼んでくれ」
海音が細い手を差し出すと、バンは見かけによらず優しく握手をした。それから、店を出ようとしていた貴志に声を掛ける。
「貴志、ちゃんとまともなもん食わせてやれよ」
海音は小さく頭を下げてから、貴志の後を追った。外はもう暗闇に沈もうとしている。海音は貴志に追いつくと、貴志は先ほど通ってきた道を戻りながら、訊いた。
「疲れてないか? すぐそこだけど、なんかに乗ってくか?」
海音はそれを訊いて、下の通りを見下ろした。乗ったことが無い乗り物というのは、ジェットコースターでなくたってわくわくするものだ。どんなものに乗せてくれるのかは知らないが、興味はかなり大きい。しかし海音は平静を装って「大丈夫」と答えた。疲れているわけではないのだから、嘘はいけない。
貴志は海音をチラリと振り返って肩をすくめると、歩き続けた。