第5話:琥珀の盟約と、泥まみれの握手
泥の中で流した大人の涙。それは、世界を狂わせる「革命」の幕開けだった――。
前話、辺境の村で七歳の少年ルカが生み出した『ハシバミのプラリネ』。
その暴力的なまでの「至高の甘み」は、没落した商人ヴィクトリアの絶望を洗い流し、彼女を泥の中で号泣させました。
逃げるように馬車で去っていった彼女は、果たして戻ってくるのか?
不安がる家族をよそに、ルカは静かに微笑みます。
「あの味を知ってしまったら、もう元の舌には戻れない」と。
第5話では、ついにルカの作ったスイーツが「商品」として世界へ羽ばたく第一歩が描かれます。
しかし、相手は海千山千の商人。農民の子供がまともに取引できるはずがない……そう思うかもしれません。
ですが、ルカはただの子供ではありませんでした。
前世の記憶を持つ天才パティシエが、家族の命を守るためにヴィクトリアに突きつけた「3つの絶対条件」。金貨や銀貨の誘惑に見向きもせず、ルカが見据えていた「リアルすぎる要求」とは?
大人をも戦慄させる七歳の少年の交渉術と、泥まみれの村から帝都へと繋がる「甘く危険な盟約」が今、結ばれます!
ヴィクトリアが嵐のように去ってから、三日が過ぎた。
村には冷たい雨が降り続いていた。パティシエにとって、湿気は糖の結晶を溶かす最大の敵だ。ルカとニーナは納屋の隙間を徹底的に塞ぎ、竈の灰の余熱を利用して、完成した『ハシバミのプラリネ』を湿気から守る作業に没頭していた。
「……ルカ君。本当に、あの赤髪の人、戻ってくるのかな」
木箱に敷き詰めた藁の上に、油紙で包んだプラリネを並べながら、ニーナが不安そうに呟いた。
ルカは、小さな手で最後の包みを縛り終えると、静かに頷いた。
「来るよ。あの味を知ってしまったら、もう『元の舌』には戻れない。……それに、あの人は商売人だ。絶望の底で光を見つけたなら、這ってでも掴みに来る」
その言葉を裏付けるように、雨が上がった四日目の朝。
村の入り口に、再びあの古びた馬車が現れた。
「……来たぞ! ルカ、本当に来やがった!」
窓から見張っていた父ジャックが、緊張で声を裏返した。
急いで土間に出ると、戸を叩く音が響く。ジャックがゴクリと息を呑み、重い木の閂を外した。
そこに立っていたのは、三日前の「泣き崩れた哀れな女」ではなかった。
泥だらけだった旅装は井戸水で綺麗に洗われ、乱れていた赤髪は後ろでタイトに結い上げられている。手には、ずっしりと重い麻袋。
何より、その瞳には「商人の野心」という名の猛烈な炎が宿っていた。
「……先日は、取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
ヴィクトリアは、ジャックに向かって深々と頭を下げた。そして、手に持っていた麻袋を土間に置く。中から聞こえたのは、硬い麦の音だった。
「これは、お詫びの印の白麦です。どうか、お納めください。……そして、今日こそ『商談』をさせていただきたい」
ジャックは、その整然とした態度と、農民にとって喉から手が出るほど欲しい「白麦」を前に、完全に気圧されていた。
彼は困惑したように振り返り、背後にいる小さな息子を見た。
「……俺に言われても困る。俺はただ、畑の泥を耕すしか能がねぇんだ。……話なら、そっちの『職人』としてくれ」
ジャックの視線の先。
土間の上がり框にちょこんと座っていたルカが、パタパタと短い足を鳴らして立ち上がった。
ヴィクトリアは、信じられないものを見るような目で、再び七歳の少年と対峙した。
「……坊や。本当に、あなたがアレを作ったの? 誰かの真似事ではなく?」
「うん。僕と、ニーナで作ったんだよ」
ルカは隣に立つニーナの手を引いた。ニーナは緊張で震えながらも、しっかりとヴィクトリアの目を見返した。
「信じられないわ。……でも、私の舌が『本物だ』と叫んでいる。だから、賭けることにしたの。私の残りの人生すべてを、あなたのその小さな手に」
ヴィクトリアは、泥の土間に膝をつき、ルカと視線を同じ高さに合わせた。
「私と組んでちょうだい。あの宝石を、私に預けて。必ず、帝都の貴族たちから金貨を巻き上げてみせるから」
大人の女が、七歳の子供に頭を下げる。
その異様な光景に、母エマは息を呑んで口を覆った。だが、ルカの表情は少しも変わらなかった。彼は「無邪気な子供」の皮を被ったまま、冷徹な条件を突きつけた。
「いいよ。お姉さんに、あの『宝石』をあげる。でも、約束が三つあるんだ」
「……三つ。言ってみて」
「一つ目。僕たちのことは、絶対に秘密にしてね。『落ちぶれた国の王室レシピ』でも『錬金術師の隠し財産』でもいいから、適当に嘘をついて。農民が作ったなんてバレたら、僕たち、殺されちゃうから」
七歳の口から出た「殺される」という生々しい言葉に、ヴィクトリアは背筋を凍らせた。この子は、自分の生み出したものの「毒性」を完全に理解している。
「分かったわ。私の商会の『極秘の専売品』として扱う。出処は絶対に漏らさない」
「二つ目。お金じゃなくて、『物』で払ってほしいの」
ルカは、ジャックの方を振り返った。
「銀貨や金貨をたくさんもらっても、この村じゃ使えないし、泥棒に狙われるだけだもん。だから、お肉とか、お塩とか、綺麗な布とか、鉄のお鍋とか……そういうもので交換してほしいな」
ジャックはハッとした。息子は、金に目が眩むことなく、何よりも「家族の安全と日々の生活」を最優先に守ろうとしているのだ。その健気な配慮に、ジャックの目頭が熱くなる。
「……賢明な判断ね。あなたたちに危険が及ばないよう、物資の調達ルートとして私が責任を持つわ」
ヴィクトリアもまた、ルカの冷静な危機管理能力に舌を巻いていた。
「最後の、三つ目」
ルカは一歩前に出て、ヴィクトリアの顔をじっと見つめた。
「お姉さんは、絶対に僕たちを『裏切らない』でね。もし悪いことをしたら……もう二度と、あのお菓子は作ってあげないから」
それは、子供の可愛らしい脅しではない。
絶対的な技術を持つ「創造主」からの、首輪の提示だった。
代えの利かない技術を握っているのはルカだ。ヴィクトリアは、自分が彼を搾取するのではなく、彼に「生かされる」立場なのだと、魂のレベルで理解した。
「……誓うわ。ヴィクトリア・ヴァン・デル・ヴァルトの名にかけて。あなたたち家族を、私の命に代えても守り抜く」
ヴィクトリアは胸に手を当て、騎士のような誓いを立てた。
「ありがとう、ヴィクトリアお姉さん。……これ、持って行って」
ルカは、ニーナが抱えていた木箱を受け取り、ヴィクトリアに手渡した。
中には、この三日間で作り上げた五十粒の『ハシバミのプラリネ』が、油紙に包まれて整然と並んでいる。
「……こんなに……っ!」
ヴィクトリアの手が震えた。この一粒一粒が、彼女にとっては借金を返し、没落した家を再興するための強力な『弾丸』なのだ。
「最初は、一番お金持ちで、一番『わがまま』な貴族に食べさせてあげてね。きっと、もっと欲しがるから」
ルカの無邪気な笑顔に見送られながら、ヴィクトリアは木箱を胸に強く抱きしめ、馬車へと向かった。
手綱を握る彼女の顔には、もう迷いはない。これから帝都の社交界という魔窟に、致死量の甘みを持った「爆弾」を投げ込みに行くのだ。
馬車が泥を跳ね上げ、村を出ていく。
その後ろ姿を、ルカの家族たちは肩を寄せ合って見送っていた。
「……ルカ」
ジャックが、震える手でルカの小さな肩を抱いた。
「俺たちは、とんでもない船に乗っちまったのかもしれねぇな」
「大丈夫だよ、父さん」
ルカは父の大きな手の上に、自分の手を重ねた。隣では、ニーナが誇らしげにルカを見つめている。
「僕たちが作ったものは、誰かを悲しませる毒じゃない。人を幸せにする『お菓子』なんだから。……さあ、次の仕込みを始めよう。あのお姉さん、きっとすぐに空箱を持って泣きついてくるよ」
泥だらけの辺境から、歴史を変える琥珀の盟約が結ばれた。
七歳の天才パティシエは、静かに笑う。
世界の胃袋を掴むための、甘く過酷な戦いは、ここからが本番だった。
第5話『琥珀の盟約と、泥まみれの握手』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
今回は、ルカとヴィクトリアによる本格的な商談エピソードをお届けしました。
目の前に積まれるであろう金貨の誘惑に一切揺らがず、あくまで「家族の安全」と「職人としての環境(素材と道具)」を最優先にして突きつけた3つの絶対条件。大人の商人相手に一歩も引かないルカの冷徹な交渉術と、それを経て身分も年齢も超えて交わされた「泥まみれの握手」は、この物語が単なるお菓子作りから「世界を巻き込む革命」へと本格的にシフトした決定的な瞬間でした。
次回、第6話へと続きます!
ヴィクトリアという強力な「流通の足」と「後ろ盾」を手に入れたルカたち。
これまで、その辺の雑草の根や灰を使って無理やり奇跡を起こしてきた天才パティシエのもとに、いよいよ本格的な「食材」や「道具」が届き始めます!
制限された環境下ですら大人の女を号泣させるプラリネを作ったルカが、まともな素材を手にした時、果たしてどれほどの「甘美な暴力」を生み出してしまうのか……?
秘密の工房が本格稼働し、ルカの技術がさらに爆発する次回を絶対にお見逃しなく!
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