芽生えなかっただけ
第一話 私の人生
私の人生は、思っていたより静かだった。
三十二歳になった今、私は恋をしていない。
これからもきっと、しない。
それは諦めではなく、検証を終えた人間の結論だ。
職場の休憩室では、今日も恋愛の話が続いている。
「澪さんは?最近どう?」
同僚の声が耳に入る。私は曖昧に笑って、お茶を飲む。
「──特に何も」
「え、もったいない!マッチングアプリとかやってみたら?」
もったいない。この言葉を、私は何度聞いただろう。
「そうだね、考えとく」
そう言って、私は話を逸らす。
もう説明しようとは思わない。
説明しても、分かってもらえないことを知っているから。
同僚たちは悪気がない。
ただ、私を心配してくれているだけだ。
でも、その心配が時々重い。
「まだ本気の恋をしてないだけだよ」
先輩がそう言う。
優しい声だった。
私は曖昧に笑って、自席に戻る。
パソコンの画面を見つめながら、心の中で呟く。
──本気の恋、か。
*
夜、自室で一人になると、ようやく息ができる。
スマホには恋愛相談の投稿が流れてくる。
「彼が連絡をくれない」
「告白すべきか迷ってる」
「デートの後、脈ありかどうか分からない」
画面を眺めながら、私は思う。
大変そうだな、と。
それだけだ。
共感はできない。
でも、彼らが真剣に悩んでいることは分かる。
私には、そういう悩みがない。
ずっとなかった。
窓の外を見る。
向かいのマンションに灯りがついている。
誰かの生活が、そこにある。
私は、間違っているのだろうか。
そう思った時期もあった。でも今は違う。
私は、ただ違うだけだ。
第二話 高校
高校生の頃、私にも「いつか」があった。
クラスで好きな人の話題になった日のことを、今でも覚えている。
昼休み、いつものメンバーでお弁当を食べていた。
「ねえねえ、誰か気になる人いる?」
友達の一人が言い出した。みんなが顔を見合わせて、笑う。
「私は隣のクラスの佐藤くんかな」
「え、分かる!かっこいいよね!」
会話が弾む。私はお弁当を食べながら、黙って聞いていた。
みんなが笑っている教室の中で、私はただ座っていた。
私には、分からなかった。
でも、分からないことに焦りもなかった。
みんなが恋の話で盛り上がっている横で、私は普通にお弁当を食べていた。
ただ、それだけだった。
「澪は誰が好きなの?」
急に話を振られて、私は箸を止めた。
誰も好きではなかった。
クラスの男子を見ても、何も思わない。
先輩も、隣のクラスの子も、みんな同じに見える。良い人だとは思う。
でも、それ以上の感情がない。
「澪?」
友達が覗き込んでくる。
私は困った。
正直に言えば、変に思われる気がした。
「えっと……テレビに出てる俳優さんかな」
適当に名前を挙げた。
「え、意外!」
友達は笑った。私も笑った。
嘘をついた罪悪感は、すぐに消えた。
どうせ、そのうち本当に好きな人ができるだろうと思っていたから。
まだ高校生だし、と私は自分に言い聞かせた。
放課後、図書室で一人になった。
少女漫画を手に取る。
表紙には、恋に落ちた主人公が描かれていた。
ページをめくる。
主人公が初めて彼に会うシーン。
ドキドキする描写。胸が高鳴る描写。
私には、分からなかった。
分からないことに、特に困ってもいなかった。
胸が高鳴る、と書いてあるのに、自分の胸は静かなままだった。
そう思って、私は本を閉じた。
第三話 大学
大学生になって、友達が初めての恋人ができたと報告してくれた日、私は心から祝福した。
「良かったね!」
本当にそう思った。
友達が嬉しそうで、私も嬉しかった。
でも、自分にはそういう感情が分からなかった。
「澪も誰かいないの?」
「うーん、まだかな」
また「まだ」という言葉を使った。
この言葉で、私は自分を守り続けていた。
ある夜、友達数人でファミレスに集まった。
深夜まで話し込んで、話題は恋愛のことになった。
「実はさ、この前初めてで……」
友達の一人が、照れくさそうに話し始めた。
みんなが興奮気味に聞いていた。
私も聞いていた。
でも私にとっては、どこか他人事のようだった。
具体的な話を聞いても、何も感じない。
みんなが少し顔を赤くしている理由が、分からなかった。
嫌悪感もないけれど、興味もない。
ただ、話題が終わるのを待っていた。
「澪は?気になる人とかいないの?」
また聞かれた。
「うーん、まだかな」
同じ答えを繰り返す。
友達は笑った。
「澪って奥手だよね」
──奥手。
そうかもしれない、と私は思った。
ただ遅れているだけなのかもしれない。
帰り道も、いつもと同じ気分だった。
部屋に戻った。
高校の頃と同じように、少女漫画を開いた。
主人公が恋に落ちるシーン。
ドキドキする描写。胸が高鳴る描写。
やっぱり私には、まだ分からなかった。
でも、ページをめくりながら思った。
私にも、いつか。
そのうち、きっと。
でも、その「いつか」は来なかった。
第四話 社会人
社会人になって、恋愛の話題はさらに具体的になった。
「結婚、考えてる?」
上司が何気なく聞いてくる。
悪気はない。ただの雑談だ。
「まだですね」
「そろそろ焦らないと。三十過ぎるとね」
上司は笑いながら言った。
焦る理由が、私には分からなかった。
周りを見れば、結婚する同期が増えていく。
結婚式に呼ばれる。祝福する。
でも、自分がそうなる姿を想像できない。
「澪さんって、理想が高いんじゃない?」
同僚が言った。
理想が高い。
そうではない。理想がないのだ。
でも、それを説明する言葉を、私はまだ持っていなかった。
*
二十七歳の冬、友達の結婚式に出席した。
白いドレス。誓いの言葉。涙。
私は拍手をした。心から祝福した。
でも、二次会で「次は澪の番だね」と言われた時、私は困った。
「そうだといいんだけど」
曖昧に笑う。
*
二十代の終わり、私はマッチングアプリを始めてみた。
周囲の勧めもあったし、自分でも試してみたかった。
もしかしたら、良い人に出会えば何か変わるかもしれない。そう思ったからだ。
プロフィールを作る。
写真を選ぶ。
趣味を書く。
メッセージが来る。
何人かとやり取りをして、実際に会った。
一人目は、優しい人だった。
話も合った。
でも、それ以上の感情は湧かなかった。
二人目も、三人目も、同じだった。
みんな、悪い人ではなかった。
話も楽しかった。
食事も美味しかった。
でも、それだけだった。
「また会いたい」とメッセージが来る。
私は返事に困った。
嘘をつくのも嫌だった。
でも、本当のことを言えば相手を傷つける。
「ごめんなさい、忙しくて」
そう言って、私は距離を置いた。
五人目の人と会った時、私は正直に言ってみた。
「すみません、やっぱり恋愛感情というものが分からなくて」
相手は困惑した顔をした。
「え、じゃあなんでアプリやってるの?」
その言葉が、胸に刺さった。
まるで私が、間違った場所に立っている人間みたいだった。
「すみません」
私はそう言うしかなかった。
その日、家に帰ってアプリを削除した。
もう無理だ、と思った。
私には、恋愛ができない。
そう思った。
第五話 気づき
三十歳の春、私はネットである記事を見つけた。
仕事の休憩時間、何気なくスマホを見ていた時だった。
「アロマンティック・アセクシュアル」
聞いたことのない言葉が、画面に映っていた。
興味を持って、記事を読んだ。
「恋愛感情を持たない人たち」
「性的魅力を感じない人たち」
「それは異常ではなく、性的指向の一つです」
文字を追う。
当事者の話が載っていた。
「私も、ずっと自分が遅れているだけだと思っていました」
「周りが恋愛の話をしていても、ピンとこなかった」
「でも、異常ではなかった。ただ、そういう人間だっただけです」
私の手が、震えた。
ああ、私はこれだ。
長い間抱えていた違和感が、ようやく言葉になった。
私は、壊れていなかった。
遅れているわけでもなかった。
ただ、そういう人間だっただけだ。
その日は、仕事が手につかなかった。
家に帰って、さらに調べた。
アロマンティック・アセクシュアルについての記事を、片っ端から読んだ。
当事者のブログ。体験談。医学的な説明。
すべてが、私に当てはまった。
これまでの私が、ストンと腑に落ちた。
涙が出た。
悲しかったわけではない。
ただ、やっと自分が分かった。
それが嬉しかった。
第六話 母
その日、実家に帰った。
久しぶりの休日。母は夕食の準備をしていた。
「ねえ、お母さん」
台所に立つ母に、私は話しかけた。
母は振り返った。
「どうしたの?」
「ネットで見たんだけどさ。こういうのがあるんだって」
私はスマホの画面を見せた。
「アロマンティック・アセクシュアル。お母さん、私、これかもしれない」
母は手を止めて、画面を見た。
しばらく読んでいた。
そして、首を傾げた。
「なに言ってんの?」
声に、困惑が滲んでいた。
「いや、だから……恋愛感情とか、そういうのがないっていう……」
「まだ良い人に出会ってないだけでしょ」
母はそう言って、また料理に戻った。
「でも、お母さん……」
「そのうち良い人が見つかるわよ。焦らなくていいから」
母は、私の話を聞いていなかった。
聞く気がなかった。
私はそれ以上、何も言えなかった。
夕食は、いつも通りだった。
父も弟もいて、普通の会話をした。
でも、私は母の顔をまともに見られなかった。
一番信頼していた母に理解されなかった。
ほんの少しだけ、子どもの頃に戻った気がした。
電車で家に帰る間、私はずっと窓の外を見ていた。
流れる景色。
知らない人たちの生活。
私は、一人だ。
そう思った。
それから私は、誰にもこのことを言わなくなった。
言っても、どうせ理解されない。信じてもらえない。おかしな人だと思われる。
このことは、このまま墓まで持っていこう。
──そう決めた。
母とは、今まで通りの関係を続けた。
定期的に実家に帰る。普通に話す。
母も私に、結婚や恋愛のことを聞かなくなった。
たまたま母が、それを強要するような人間ではなかったことが、私の救いだった。
私は母を嫌っていない。
母は母なりに、私を心配しているのだと思う。
でも、分かってもらおうとは思わない。
期待もしない。
それは怒りではなく、距離の確定だった。
第七話 美貴
それから二年が過ぎた。
三十二歳の秋、親友の美貴と飲みに行った。
美貴とは大学時代からの付き合いだ。
就職してからも、定期的に会っている。
居酒屋で、いつもの席に座る。
仕事の話。最近見た映画の話。趣味の話。
いつもの他愛のない会話。
でも、その日は違った。
「実はさ」
美貴が言った。
「彼氏と、ちょっと揉めててさ」
美貴には、二年付き合っている恋人がいる。
「どうしたの?」
「結婚の話が出たんだけど、タイミングが合わなくて」
美貴は溜息をついた。
私は聞いた。アドバイスはできなかったけれど、聞くことはできた。
「澪は、どう思う?」
美貴が聞いてくる。
私は少し迷った。
そして、思い切って言った。
「私、たぶん……恋愛感情とか、そういうのが分からないんだと思う」
美貴は黙って聞いていた。
「ネットで見つけたんだけど、アロマンティック・アセクシュアルっていうのがあって。私、多分それなんだ」
言葉にするのは、母以来だった。
心臓が早く打つ。
美貴は、グラスを置いた。
しばらく考えていた。
「そっか」
美貴はそう言った。
「私には、そういう感情は分かってあげられないけれど」
美貴は私の目を見て、続けた。
「そういう人たちがいることは、分かった」
それだけだった。
「分かるよ」とは言われなかった。
でも、否定もされなかった。
「……ありがとう」
私は言った。
美貴は少し笑った。
「……何が?」
「聞いてくれて」
「そんなの当たり前じゃん」
美貴はそう言って、また飲み始めた。
話題は、また別のことに移った。
帰り道、夜風が冷たかった。
駅までの道を歩きながら、私は空を見上げた。
星は見えない。
都会の夜空は、いつも曇っている。
スマホに通知が来る。
いつもと変わらない日常。
母はやっぱり理解してくれない。
でも、一人だけ、知ろうとしてくれた人がいる。
私は、異常ではなかった。
涙は出なかった。
ただ、知ってくれる人が、一人いる。
それだけで十分だった。
第八話 現在
私は、もう試さない。
それは諦めではなく、検証を終えた人間の結論だ。
恋愛は、面倒そうだ。
相手のことばかり考えて、傷ついて、泣いて。
スマホに流れてくる恋愛相談を見るたびに思う。
大変そうだな、と。
余計な感情に人生を支配されなくて、良かったと思う。
これは私の実感だ。一般論ではない。
他の人にとって恋愛が素晴らしいものであることは、分かっている。
友達が恋人の話をする時、嬉しそうな顔を見る。幸せなのだと思う。
ただ、私には必要なかった。それだけだ。
夜、自室で一人になる。
窓の外には、いつもと同じ景色が広がっている。
向かいのマンション。
灯りがついている部屋。誰かの生活。
私の部屋にも、灯りがついている。
私の生活が、ここにある。
高校生の頃、「いつか」を待っていた。
大学生の頃も、「そのうち」を信じていた。
社会人になっても、「まだ」と言い続けた。
でも、いつかは来なかった。
そのうちも来なかった。
まだ、は永遠に来ない。
──それでいい。
私は、たぶんこのままで生きていく。
世界は変わらない。
職場では明日も恋愛の話が続くだろう。
母は理解しないだろう。
でも、私の見方は変わった。
もう、自分を直そうとは思わない。
もう、「いつか」を待たない。
もう、「そのうち」を待たない。
もう、「まだ」と言わない。
私には、私の静けさがある。
それで、十分だ。
窓の外を見る。
夜が、静かに更けていく。
特に何もなかった。
でも、困っていなかった。
私は、ここにいる。
芽生えなかった。
──それだけだ。
──完──




