断章の家路
一 帰ってこなかった夜
川岸由利子は、夫の靴を捨てられずにいた。
玄関のたたきに揃えられた黒い革靴は、葬儀の日から一度も動いていない。つま先には細かな擦り傷があり、右のかかとだけが少し減っていた。和也は歩くとき、右足にわずかに体重をかける癖があった。本人は気づいていなかったが、由利子は知っていた。駅から家までの七分間、いつも少しだけ右肩が沈むように歩いていた。
それを思い出すたび、玄関に立つことができなくなる。
靴を片づけなければと思う。いつまでも置いておくものではない。夫はもう帰ってこない。頭ではわかっている。わかっているのに、朝になっても夜になっても、由利子はその革靴を避けるようにして家の中を歩いた。
葬儀から一週間が過ぎていた。
親戚たちは帰り、会社から届いた花も枯れ始めている。白い菊の花びらが、仏壇の前で一枚だけ畳に落ちていた。拾い上げると、指先にひやりとした湿り気が残った。
和也は四十二歳だった。
死因は溺死。会社の倉庫裏で足を滑らせ、近くを流れる川に転落したと説明された。夜間確認の最中だったという。発見されたときには、すでに息がなかった。
警察は事故として扱っているらしい。
らしい、という曖昧な言い方しかできないのは、由利子自身が何も確かめられていないからだった。葬儀までの数日間、彼女の周りには説明ばかりがあった。会社の説明。警察の説明。親戚の慰め。近所の人の気遣い。そのすべてが、彼女の上を通り過ぎていった。
誰もが同じことを言った。
大変でしたね。
突然でしたね。
ご主人も無念だったでしょう。
その言葉に頷くたび、由利子は少しずつ自分の感情から離れていく気がした。
夫は本当に、足を滑らせたのだろうか。
最初にそう思ったのは、葬儀の翌朝だった。
台所に立ち、冷蔵庫の中を整理していたとき、由利子は弁当用の玉子焼きが一切れだけ残っているのを見つけた。ラップをかけた小皿に、薄く焼いた玉子焼きが載っていた。和也は甘い玉子焼きが好きだった。由利子は砂糖を少し多めに入れる。健康に悪いと言いながら、和也はいつも最後に食べていた。
その玉子焼きを見た瞬間、由利子は手を止めた。
弁当箱がない。
夫が亡くなった日の朝、由利子はいつもと同じように弁当を作った。ご飯の上に梅干しを置き、玉子焼きと冷凍の唐揚げ、小松菜のおひたしを詰めた。和也は「助かる」とだけ言って、それを鞄に入れた。
その弁当箱が戻ってきていない。
和也は几帳面な人だった。どれほど疲れていても、弁当箱だけは必ず流しに出す。洗うところまではしないが、蓋を開けて水を張っておく。臭いが残るのを嫌がった。
由利子は会社から戻された私物の箱を探した。
腕時計、社員証、財布、ハンカチ、名刺入れ。書類の束。作業用の手袋。見覚えのないボールペンが二本。
弁当箱はなかった。
もう一つ、ないものがあった。
黒い手帳だった。
和也はスマートフォンの予定表を信用していなかった。予定も気づいたことも、何でも手帳に書いた。表紙の角が擦り切れた黒い手帳で、胸ポケットに入る小さなものだった。毎年同じ型を買い、古い手帳は捨てずに押し入れの箱へしまっていた。
由利子はその手帳を、何度も見ている。
夕食のあと、和也がテレビを見ながら手帳に何かを書いていることがあった。仕事のこと、と尋ねると、和也はいつも「まあね」と笑った。その笑い方は、困ったときのものだった。
私物の箱に、その手帳がない。
由利子は箱の中身を床に広げ、もう一度確かめた。紙袋の底まで見た。返却時の一覧表にも目を通した。そこにも手帳の記載はなかった。
その日の午前中、会社に電話をかけた。
応対に出た女性は一度保留にし、しばらくして男性の声に替わった。低く、よく整えられた声だった。
「総務課の中原です。川岸さん、このたびは本当に」
由利子は受話器を握り直した。
「すみません。夫の私物のことで伺いたいことがあります」
「ええ、何でしょう」
「弁当箱と手帳が戻ってきていないんです。黒い小さな手帳です。いつも持っていたはずなんですが」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
「確認した限りでは、こちらでお返ししたものがすべてですね」
「でも、手帳は毎日持っていました」
「そうですか」
中原は少し間を置いた。その間が、由利子には不自然に長く感じられた。
「川岸さんは、亡くなる前、かなりお疲れの様子でした。もしかすると、どこか別の場所に置かれたのかもしれません」
「別の場所というのは」
「たとえば、ご自宅ですとか、通勤途中ですとか。事故の当日も、かなり遅い時間でしたから」
丁寧な言い方だった。だが、言葉の端に、これ以上は訊かないでほしいという硬さがあった。
「夫は、事故の当日、なぜ倉庫にいたんですか」
「夜間の確認です。処理待ちの品目がありまして」
「夫は管理部門ですよね。夜に一人で確認する仕事なんでしょうか」
また沈黙があった。
「川岸さん」
中原の声が少し低くなった。
「お気持ちはわかります。ただ、今はあまり細かなことを考えすぎないほうがいいと思います。ご主人も、それを望まれないのではないでしょうか」
受話器の向こうで、空調の低い音が聞こえた。
由利子は返事をしなかった。
ご主人も望まれない。
その言い方が、ひどく嫌だった。
和也が何を望んだかを、この男がどうして知っているのか。
「手帳が見つかったら、連絡してください」
由利子はそれだけ言って、電話を切った。
受話器を置いたあと、しばらく台所に立ったままだった。やかんの底に薄く残った水が、蛍光灯の光を鈍く返していた。
夫の死後、初めて怒りに似たものが胸の奥に生まれた。
それは熱くはなかった。むしろ、冷たいものだった。氷の破片を飲み込んだように、喉の奥が痛んだ。
その夜、由利子は眠れなかった。
和也はいつも午後十一時二十六分着の電車で帰ってきた。残業が多く、夕食を一緒に食べることは少なかったが、帰宅時間はほとんど変わらなかった。駅から家までは七分。玄関の鍵が回るのは、だいたい十一時三十四分だった。
由利子は布団の中で、時計を見ていた。
十一時三十四分。
何も起こらない。
当たり前だった。わかっている。それでも耳は、玄関のほうへ向いていた。鍵の金属音。ドアがわずかに軋む音。和也が靴を脱ぐときに壁へ手をつく音。
それらはすべて、もう家の中に存在しない音だった。
午前一時を過ぎたころ、由利子は起き上がった。水を飲もうとして台所へ向かい、ふと玄関のほうを見た。
郵便受けの蓋が、少しだけ開いていた。
こんな時間に新聞は来ない。チラシでもない。
由利子は玄関へ行き、内側から郵便受けを開けた。白い封筒が一通、落ちてきた。差出人の名はない。宛名も書かれていない。ただ、封筒の口は丁寧に糊づけされていた。
心臓が強く打った。
リビングに戻り、テーブルの上で封を切った。中から出てきたのは、数枚のコピー用紙だった。
黒い手帳のページをコピーしたものだと、すぐにわかった。
由利子は息を止めた。
和也の字だった。小さく、少し右へ傾く字。数字の七に横棒を入れる癖。ところどころに略語があり、意味のわからない記号が並んでいる。
何枚かめくるうちに、由利子は一つのページで手を止めた。
文字が乱れていた。
普段の和也の字ではない。急いで書いたのか、ペン先が紙に引っかかったような跡が残っている。
そこには、三行だけ書かれていた。
Nに見られた。
これは廃棄じゃない。
もし帰れなかったら、家の鍵を見ろ。
由利子は何度も読み返した。
N。
廃棄。
家の鍵。
意味はわからない。だが、それが和也の最後の言葉に近いものだということだけは、はっきりわかった。
由利子は立ち上がり、玄関へ向かった。壁のフックには鍵が二つ掛かっている。一つは自分のもの。もう一つは和也のものだった。
和也の鍵には、古びた革のキーホルダーがついていた。結婚して最初の誕生日に由利子が贈ったものだ。高価な品ではない。駅前の雑貨店で買った。焦げ茶色の革に、金具が一つ。長く使ううちに革は柔らかくなり、角の色が濃くなっていた。
由利子はそれを手に取った。
見慣れた鍵だった。家の鍵、自転車の鍵、小さなロッカーの鍵。変わったものはない。
キーホルダーを裏返す。
革の縫い目が一部だけ、わずかに浮いていた。
由利子は裁縫箱から糸切りばさみを持ってきた。迷った。思い出の品を傷つけることに、抵抗があった。けれど和也は、見ろ、と書いていた。
糸を一本切ると、革の裏地が少し開いた。
中に、小さく折りたたまれた紙片が入っていた。
由利子は震える指でそれを開いた。
紙には、短い文字列が並んでいた。
17-B
夜間搬入
灰色缶
N
旧倉庫裏
月曜だけ記録なし
それだけだった。
由利子は椅子に座り込んだ。
和也の職場は、廃棄物処理に関わる会社だった。正確には、工場や研究施設から出る廃棄物の管理と処理委託を扱う会社だと聞いていた。由利子は詳しい業務内容を知らない。聞いたことはあるが、和也はあまり話さなかった。
「面白い仕事じゃないよ」
そう言って、話を終わらせることが多かった。
だが、一度だけ、和也が奇妙なことを言ったことがある。
夕食のあとだった。ニュースで企業の不正会計が報じられていた。由利子が「よくこんなに記録が残っているね」と言うと、和也はテレビを見たまま、ぽつりと言った。
「会社ってさ、記録が残ってることより、残ってないことのほうが怖いんだよ」
由利子はそのとき、深く考えなかった。
「そういうもの?」
「そういうもの」
和也は短く答え、味噌汁を飲んだ。
今になって、その言葉の意味が重くなった。
月曜だけ記録なし。
紙片の最後に書かれた一文は、まるでそこだけが黒く沈んでいるように見えた。
翌朝、由利子は会社の場所を調べた。
和也の勤務先である東都環境管理は、郊外の工業地帯に本社と倉庫を持っている。駅からバスで二十分。川沿いに建つ灰色の建物だった。由利子は一度だけ、忘れ物を届けに行ったことがある。受付の横には観葉植物が置かれ、壁には環境保全への取り組みを紹介するポスターが貼られていた。
あの建物の裏手に、和也が死んだ場所がある。
そう思うと、胸が詰まった。
由利子はインターネットで会社名を検索した。採用情報、取引先、環境方針、社長挨拶。どれも整っていた。きれいな言葉が並んでいる。
環境を守る。
未来へつなぐ。
安全と信頼。
由利子は画面を閉じた。
信頼という言葉が、急に薄く見えた。
昼前、警察署へ電話をかけた。和也の事故を担当した刑事の名前は、安達と聞いていた。電話口で用件を伝えると、しばらく待たされたあと、落ち着いた声の男性が出た。
「安達です」
「川岸和也の妻です」
名乗った瞬間、声の向こうにわずかな緊張が走った。
「その節は」
「夫の手帳のコピーが届きました」
由利子は、なるべく感情を抑えて話した。黒い手帳が返却されていないこと。差出人不明の封筒が届いたこと。そこに、N、廃棄、家の鍵という言葉があったこと。鍵の中から紙片が見つかったこと。
安達は途中で遮らなかった。
すべて聞き終えてから、彼は言った。
「そのコピーと紙片を見せていただけますか」
「夫の死は、事故なんですか」
由利子は尋ねた。
電話の向こうで、安達が息を吸う音がした。
「現時点では、事故として扱われています」
「現時点では」
「川岸さん」
安達の声は慎重だった。
「疑問を持たれるお気持ちはわかります。ただ、事故現場に争った形跡はありませんでした。ご主人の体にも、第三者と揉み合ったと断定できる傷は確認されていません」
「防犯カメラは」
「当日は点検中だったと会社から説明を受けています」
点検中。
月曜だけ記録なし。
由利子は紙片を見た。
「点検は、月曜だったんですね」
安達は答えなかった。
その沈黙だけで、由利子には十分だった。
「午後、伺ってもいいですか」
「こちらからお宅へ行きます。封筒もそのまま保管しておいてください」
電話を切ったあと、由利子はしばらく動けなかった。
自分がいま、何かの縁に立っていることを感じていた。そこから先へ進めば、夫の死がただの不幸ではなくなるかもしれない。誰かの責任、誰かの嘘、誰かの保身に触れることになるかもしれない。
それでも戻ることはできなかった。
和也が残した文字を見てしまったからだ。
もし帰れなかったら。
夫は、帰れない可能性を考えていた。
由利子はその言葉を胸の中で繰り返した。泣きそうになったが、涙は出なかった。代わりに、喉の奥が熱くなった。
午後三時過ぎ、安達刑事が家に来た。
四十代半ばくらいの男だった。短く刈った髪に、くたびれた紺色のスーツ。派手なところはない。玄関で靴を脱ぐとき、和也の革靴を見て一瞬だけ視線を止めたが、何も言わなかった。
由利子はリビングに通し、コピー用紙と紙片、封筒をテーブルに置いた。
安達は手袋をはめ、まず封筒を見た。それからコピー用紙を一枚ずつ確認した。
「ご主人の字で間違いありませんか」
「はい」
「手帳の原本は」
「ありません。会社から戻ってきた私物の中にも」
安達は小さく頷いた。
「この封筒を入れた人物に心当たりは」
「ありません。ただ、夫の手帳を持っている人だと思います」
「会社の人間かもしれない」
「はい」
由利子は、そこで初めて中原の名前を出した。総務課長。電話で応対した人物。手帳のことを尋ねたとき、妙に話を切り上げようとしたこと。
安達は手帳のコピーを見ながら言った。
「中原直樹さんですね」
由利子は顔を上げた。
「ご存じなんですか」
「会社側の窓口として、何度か話を聞いています」
「どんな人でしたか」
安達はすぐには答えなかった。
「受け答えは丁寧でした」
「それだけですか」
「丁寧すぎる人間は、たまに厄介です」
その言い方に、由利子は初めて安達という男を少し信用してもいいと思った。
安達は紙片の文字を確認した。
「17-Bというのは、おそらく保管区画か管理番号でしょう。夜間搬入、灰色缶、旧倉庫裏。これらが同じものを指しているなら、ご主人は会社の正規記録に残っていない搬入物を追っていた可能性があります」
「それで、殺されたんですか」
自分の口から出た言葉に、由利子自身が驚いた。
殺された。
それはあまりにも重い言葉だった。部屋の空気が一段低くなったように感じた。
安達は目を伏せた。
「まだ、そうは言えません」
「でも、事故だとも言えませんよね」
「確認することが増えました」
それは、警察官として言えるぎりぎりの返事なのだろう。
安達は封筒とコピー用紙を預かりたいと言った。由利子は迷ったが、紙片だけは手元に残したいと伝えた。安達は写真を撮り、原本は返してくれた。
帰り際、安達は玄関で靴を履きながら言った。
「何か思い出したことがあれば、どんな小さなことでも連絡してください。ご主人が最近、誰かの名前を口にしていたとか、帰りが遅くなった曜日が決まっていたとか」
「月曜です」
由利子は即答していた。
安達が振り返った。
「ここ数か月、月曜だけ帰りが遅かったんです。十一時二十六分の電車に乗れない日がありました。たいてい月曜でした」
「いつ頃からですか」
「たぶん、三か月くらい前から」
安達の目が細くなった。
「思い出したら、日付を書き出しておいてください」
「はい」
安達が帰ったあと、由利子はカレンダーを見た。
和也の帰りが遅かった月曜には、何かしら印があった。燃えるゴミの日。歯医者の予約。スーパーの特売。そんな生活の記録の隙間に、夫の異変が埋もれていた。
由利子はボールペンを取り、日付をノートに書き始めた。
三月九日。三月十六日。三月三十日。四月六日。四月二十日。五月十一日。
和也が帰れなかったのも、月曜だった。
夕方、由利子は買い物に出た。
冷蔵庫の中には食材が残っていたが、家に一人でいることに耐えられなかった。駅前のスーパーまで歩き、何を買うでもなく店内を回った。精肉売り場で豚肉のパックを手に取り、戻した。鍋に入れるつもりだった肉だ。
和也は、季節に関係なく鍋が好きだった。
「切って煮るだけだから楽でしょ」
そう言っていたが、実際には由利子が楽をできるように選んでいたのだと思う。和也はそういうことを言葉にしない人だった。
買い物を終えて帰る途中、知らない番号から電話がかかってきた。
由利子は立ち止まった。
非通知ではない。市外局番は、会社のある地域に近かった。
「はい」
しばらく無言だった。
「川岸さんの奥様ですか」
女性の声だった。若い。怯えているようにも聞こえた。
「そうです」
「突然すみません。佐伯といいます。佐伯美緒です。川岸さんと同じ部署にいました」
由利子は持っていた買い物袋を握りしめた。
「封筒を入れた方ですか」
電話の向こうで、息を呑む気配があった。
「……はい」
「手帳を持っているんですか」
「全部ではありません」
「どういうことですか」
「会ってお話しできますか。でも、会社の近くは無理です。人に見られたくないので」
由利子は周囲を見回した。夕方の道を、自転車に乗った高校生が通り過ぎていく。誰もこちらを見ていない。
「どこへ行けばいいですか」
佐伯は駅を二つ離れた喫茶店の名前を告げた。
「明日の午前十時に」
「わかりました」
電話を切る前、佐伯は小さな声で言った。
「奥さん、すみません」
「何がですか」
「もっと早く、渡せばよかった」
通話はそこで切れた。
由利子はしばらく歩道に立っていた。買い物袋の中で、豆腐のパックが傾いている。冷たさが指に伝わった。
その夜、由利子は紙片を何度も見返した。
17-B。夜間搬入。灰色缶。N。旧倉庫裏。月曜だけ記録なし。
夫が死の前に残したものは、文章ではなかった。日記でも、遺書でもない。ただの断片だった。けれど、その断片の一つ一つが、由利子の知らない和也の時間へつながっている。
夫婦なのに、知らないことばかりだった。
仕事のこと。悩んでいたこと。誰に脅されていたのか。何を見つけたのか。なぜ自分に話さなかったのか。
由利子はテーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。
話してくれればよかったのに。
そう思った直後、別の声が胸の奥で返ってきた。
聞こうとしたのか。
和也が疲れた顔で帰ってきた夜、由利子は「お風呂、沸いてるよ」と言った。和也が何か言いかけたとき、「明日でもいい?」と先に言ったのは自分だった。仕事の話を聞くのが面倒だったわけではない。ただ、自分も疲れていた。明日があると思っていた。
明日は、来なかった。
午後十一時三十四分。
由利子は玄関に立った。
鍵は回らない。ドアも開かない。革靴はまだそこにある。
由利子は膝をつき、和也の靴に触れた。表面は乾いていた。少しだけ埃をかぶっている。
「どこまで帰ってきてたの」
声に出すと、部屋が急に広くなった。
返事はない。
由利子は靴の埃を指で払った。それから、玄関の灯りを消さずにリビングへ戻った。
明日、佐伯美緒に会う。
その先に何があるのかはわからない。けれど、由利子はもう、夫の死を誰かの説明だけで受け取ることはできなかった。
和也が帰れなかった道を、たどらなければならない。
そうしなければ、この家はいつまでも、ただ待つだけの場所になってしまう。
テーブルの上の紙片を、由利子は封筒に戻した。鍵のキーホルダーは手元に置いたままにした。
夜が深くなるにつれて、外の音が少しずつ消えていった。
冷蔵庫の低い唸りだけが、台所に残っている。
由利子は電気を消す前に、もう一度玄関を見た。
黒い革靴が、暗がりの中に揃っている。
夫は帰ってこない。
だが、夫が帰ろうとしていたことだけは、まだ失われていない。
由利子はそのことを、初めてはっきりと信じた。
二 夫の手帳
喫茶店は、駅前の商店街から一本入った路地にあった。
古いビルの一階で、入口のガラス扉には金色の文字で「珈琲 梢」と書かれている。由利子が着いたのは午前九時四十七分だった。待ち合わせの十三分前である。早すぎるとは思ったが、家にいても落ち着かなかった。
扉を開けると、焙煎した豆の匂いがした。店内には客が二人だけいた。窓際で新聞を読んでいる老人と、奥の席でノートパソコンを開いている若い男。どちらもこちらに興味を示さなかった。
由利子は入口が見える席を選んだ。
注文を取りに来た女性に、ホットコーヒーを頼む。声が少し掠れた。昨夜はほとんど眠れなかった。布団に入っても、目を閉じると夫の字が浮かんだ。
Nに見られた。
これは廃棄じゃない。
もし帰れなかったら、家の鍵を見ろ。
由利子は鞄の中に手を入れた。和也の鍵が入っている。革のキーホルダーの中から見つかった紙片も、小さな封筒に入れて持ってきた。
17-B。
夜間搬入。
灰色缶。
N。
旧倉庫裏。
月曜だけ記録なし。
ただの文字列にすぎない。だが、それは由利子にとって、夫が死の直前まで握っていた糸のようなものだった。細く、頼りない。強く引けば切れてしまうかもしれない。それでも手放すことはできなかった。
十時ちょうどに、扉が開いた。
入ってきた女性は、思っていたより若かった。三十歳前後だろうか。肩までの髪を後ろで一つに結び、薄いグレーのコートを着ている。化粧はほとんどしていない。目の下に疲れが濃く出ていた。
女性は店内を見回し、由利子と目が合うと、小さく会釈した。
「川岸さんですか」
「はい。佐伯さんですね」
佐伯美緒は向かいの席に座った。椅子に腰を下ろす前、窓の外を一度だけ確認した。誰かに見られていないかを気にしている仕草だった。
「すみません。急に」
「こちらこそ、連絡をくださってありがとうございます」
佐伯は首を振った。
「お礼を言われるようなことじゃありません」
店員が水を置きに来た。佐伯はアイスティーを頼んだ。五月の終わりにしては涼しい日だったが、彼女の額にはうっすら汗が浮かんでいる。
しばらく、二人とも話さなかった。
先に口を開いたのは由利子だった。
「封筒を入れたのは、佐伯さんですね」
「はい」
「手帳は、どこにあるんですか」
佐伯は両手を膝の上で握った。
「全部は持っていません」
「全部ではない、というのは」
「川岸さんの手帳は、亡くなった日の翌日に、会社の人が探していました。私物をまとめると言って、机もロッカーも見ていました。でも、その前に、川岸さんが私に数ページだけ渡していたんです」
「夫が?」
「はい。コピーです。原本じゃありません」
由利子は鞄から、届いたコピー用紙の複写を出した。安達刑事に原本を預ける前、自分用に写真を撮っておいたものだった。佐伯はそれを見ると、唇を噛んだ。
「これです」
「夫は、どうしてあなたに」
「私が、最初に見てしまったからです」
佐伯はアイスティーに手を伸ばしたが、グラスを持つ指が震えていた。氷が小さく鳴る。
「何を見たんですか」
「伝票です。処理記録に載っていない伝票。私は派遣で、入力作業を担当していました。正式な台帳に載せる前の仮データを整理する仕事です。そこに、変な番号がありました。17-B。保管区画の番号です」
由利子は封筒の中の紙片を思い出した。
「17-B」
「はい。普通、保管区画に入ったものは、搬入元、品目、重量、処理委託先、処理完了日まで残ります。少なくとも、そういうことになっています。でも17-Bだけ、月曜の夜に搬入されたものの記録が途中で消えていました」
「消えていた?」
「入力したはずのデータが、翌朝にはなくなっているんです。最初は私のミスだと思いました。でも、何度も同じことがありました。月曜だけです」
月曜だけ記録なし。
由利子の背中に、冷たいものが走った。
「夫は、それを知っていたんですね」
「私が相談しました。川岸さんなら、変だと言ってくれると思ったんです」
佐伯は視線を落とした。
「川岸さんは、最初、あまり驚いていませんでした。たぶん、前から気づいていたんだと思います。ただ、私が関わったことで、もう放っておけなくなったのかもしれません」
「夫は何と言っていましたか」
「記録が残っていないことのほうが怖い、と」
由利子は息を止めた。
同じ言葉だった。
和也は家でも、同じことを言っていた。何気ない会話の中に、彼はすでに警告を混ぜていたのかもしれない。由利子がそれを拾えなかっただけで。
「17-Bには、何が保管されていたんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
「全部はわかりません。ただ、写真を見ました。灰色の金属缶です。ラベルが剥がされていて、中身が何なのかはわかりませんでした。ほかにも、劣化した蓄電池、古い変圧器の部材、薬品の入っていた容器のようなものがありました」
「危険なものなんですか」
「正式に処理すれば、高い費用がかかるものだと思います。搬入元の記録を残さなければ、誰が出したものかもわからなくなる。処理先をごまかせば、費用も責任も消せる」
佐伯の声は小さかったが、言葉ははっきりしていた。
「川岸さんは、それを止めようとしていました」
由利子は目の前のコーヒーに視線を落とした。表面に、自分の顔が歪んで映っている。
夫の仕事について、由利子は何も知らなかった。
知らなかった、という言い方は正確ではない。聞けば答えてくれたかもしれない。しかし由利子は、詳しく聞かなかった。和也が疲れた顔をしていると、そっとしておくことが優しさだと思っていた。だがそれは、面倒なものに触れないための言い訳でもあった。
「佐伯さん」
「はい」
「夫は、誰かに脅されていたんですか」
佐伯はグラスの水滴を指でなぞった。
「総務課長の中原さんです」
名前が出た瞬間、由利子の胸の奥が硬くなった。
中原直樹。
電話口で、夫が疲れていたと言った男。手帳は別の場所に置いたのかもしれないと、丁寧に言った男。
「Nは、中原さんのことですか」
佐伯は頷いた。
「川岸さんは手帳に、名前をそのまま書かないようにしていました。万が一、人に見られたときのためだと思います。でも、私には言っていました。Nは中原直樹だ、と」
「中原さんは、夫に何をしたんですか」
「最初は、注意だけだったそうです。余計なことに首を突っ込むな、と。部署の判断で処理しているから問題ない、と。でも、川岸さんが保管区画の写真を撮ったあと、態度が変わりました」
「写真」
「旧倉庫裏です。月曜の夜、トラックが来るところを撮ったと言っていました」
由利子は膝の上の手を握りしめた。
「その写真は」
「わかりません。私が見たのは一枚だけです。遠くから撮った写真で、灰色の缶を積んでいるところでした。中原さんも写っていました」
「夫は、それをどうするつもりだったんでしょう」
「内部通報窓口に出す、と言っていました。でも、会社の窓口は信用できないとも言っていました。外部に出すには、もう少し証拠がいると」
「それで、あの日」
由利子は言葉を切った。
あの日。
夫が帰ってこなかった日。
佐伯は俯いたまま、ゆっくり頷いた。
「その日の夕方、川岸さんから連絡がありました。もし自分に何かあったら、奥さんに渡してほしい、と」
「何かって、何ですか」
由利子は、自分の声が震えているのを感じた。
佐伯は顔を上げた。目が赤くなっていた。
「事故にされる、って意味です」
その言葉は、静かにテーブルの上へ落ちた。
店内では、誰かがカップを置く音がした。入口近くの老人が新聞をめくる。そんな日常の音が、急に遠くなった。
「佐伯さんは、夫が危ないと思っていたんですか」
「思っていました。でも、まさか本当に死ぬとは思わなかった。そう思いたくなかったんです」
佐伯の声がかすれた。
「川岸さんは、その夜、中原さんに呼び出されていました。旧倉庫裏で話があると言われたそうです。私は行かないほうがいいと言いました。でも川岸さんは、これで終わらせる、と」
「終わらせる」
「不正をです。たぶん、証拠を渡すよう迫られるとわかっていたんだと思います。それでも、行った」
由利子は和也の顔を思い浮かべた。
特別に勇敢な人ではなかった。怒鳴ることも、正義を振りかざすこともなかった。小さなことに気づき、黙って直す人だった。テーブルの脚がぐらついていれば、何も言わずに紙を挟む。切れかけた電球を替える。由利子が気づく前に、ゴミ袋を縛って玄関に置く。
そういう人が、一人で旧倉庫裏へ行った。
怖くなかったはずがない。
「どうして、警察に行かなかったんですか」
由利子の声には責める響きが混じった。
佐伯はそれを受け止めるように、目を閉じた。
「怖かったんです」
短い答えだった。
「会社に知られたら、次は自分だと思いました。派遣でしたし、生活もあります。親の介護もあって、仕事を失うのが怖かった。それに、私が持っていたのはコピーだけで、何が証拠になるのかもわからなかった」
佐伯は両手でグラスを包んだ。
「でも、本当は言い訳です。奥さんに会うのも怖かった。自分がもっと早く動いていれば、川岸さんは死ななかったかもしれないと思ったから」
由利子は何も言えなかった。
佐伯を責めたい気持ちはあった。なぜすぐ知らせてくれなかったのか。なぜ夫を止めなかったのか。なぜ一人で抱えたのか。
だが、その問いはそのまま自分にも返ってくる。
なぜ夫の変化に気づかなかったのか。
なぜ月曜の帰りが遅いことを、もっと深く考えなかったのか。
なぜ「疲れているだけ」と思ったのか。
沈黙が続いた。
やがて、由利子は鞄から封筒を出し、紙片を佐伯に見せた。
「これは、夫の鍵の中に入っていました」
佐伯は紙片を覗き込み、顔色を変えた。
「メモリーカードは」
「メモリーカード?」
「ありませんでしたか。革のキーホルダーの中に」
「紙だけでした」
佐伯は唇に手を当てた。
「川岸さんは、データを二つに分けたと言っていました。一つは自分で持つ。もう一つは家に置く。もしものとき、奥さんなら見つけてくれるかもしれない、と」
「データというのは、写真ですか」
「写真と、音声だと思います」
「音声」
「中原さんとの会話を録ると言っていました。見なかったことにすれば家庭は守られる、と言われたことがあるそうです。川岸さんは、その言葉が許せなかったんだと思います」
由利子は、和也の鍵を鞄から取り出した。
革のキーホルダーは、一度開いた跡がある。糸を切り、裏地を剥がして紙片を取り出した。だが、メモリーカードなど見当たらなかった。
佐伯はキーホルダーを手に取り、しばらく見つめていた。
「ここ、二重になっているかもしれません」
「二重?」
「川岸さん、細工が得意でした。職場の備品も、壊れると自分で直していました。こういう革の中に、薄いものを入れるなら、一箇所だけじゃないと思います」
由利子は驚いて佐伯を見た。
夫の器用さを、この女性も知っている。
それは不思議な感覚だった。自分だけが知っていると思っていた和也の一部を、他人も持っている。そのことに、寂しさと安堵が同時に湧いた。
「持って帰って、もう一度調べます」
「一人で大丈夫ですか」
「大丈夫です」
由利子はそう答えたが、自信はなかった。
佐伯はバッグから小さな封筒を取り出した。
「これを」
中には、コピー用紙が数枚入っていた。由利子の家に届いたものとは別のページだった。
「まだあったんですか」
「すみません。全部渡すのが怖くて」
由利子は封筒を受け取った。怒りよりも先に、手の中の紙の重みを感じた。
「ここに、中原さんの名前が出ています。直接ではありません。Nとしか書いてありません。でも、日付と時間があります。川岸さんが亡くなった日の夕方です」
由利子は封筒を開けかけて、やめた。
ここで読むには、重すぎる気がした。
「佐伯さんは、これからどうするんですか」
「警察に話します」
佐伯は決めていたように言った。
「昨日まで迷っていました。でも、奥さんに会って、もう逃げるのはやめようと思いました」
「怖くないんですか」
「怖いです」
佐伯は少しだけ笑った。笑顔にはならなかった。
「でも、川岸さんが一人で行った場所を考えると、自分だけ安全なところにはいられません」
由利子はその言葉を聞いて、初めて彼女を憎めないと思った。
佐伯は弱かったのかもしれない。だが、弱いままここに来た。逃げ切ることもできたはずなのに、由利子に電話をかけた。
人は強いから動くのではないのかもしれない。
怖いまま、足を出すこともある。
会計を済ませると、二人は店の外に出た。
空は曇っていた。雨が降りそうで降らない、重たい空だった。商店街の向こうを電車が通る音がする。
「奥さん」
佐伯が呼び止めた。
「川岸さん、最後の日、少しだけ笑っていました」
「え?」
「私が行かないでくださいと言ったら、川岸さんは、帰ったら鍋だって言っていました。奥さんが作る鍋が好きなんだって」
由利子は言葉を失った。
「だから、大丈夫だと思ったんです。帰るつもりの人が、死ぬなんて思わなかった」
佐伯は深く頭を下げた。
「本当に、すみませんでした」
由利子は、すぐには返事をしなかった。
鍋。
和也はその日の朝、そんなことを言っていただろうか。由利子は思い出そうとした。朝の台所。弁当箱。急須の湯気。ネクタイを締める和也の背中。
確かに、言っていた気がする。
「今夜、鍋でもいい?」
由利子が冷蔵庫を見ながら言うと、和也は靴を履きかけたまま振り向いた。
「いいね」
それだけだった。
それだけの会話だった。
けれど和也は、その続きを誰かに話していた。帰ったら鍋だと。由利子の作る鍋が好きだと。
由利子は目を閉じた。
泣くのは、ここでは嫌だった。
「佐伯さん」
「はい」
「警察に行くときは、私も一緒に行きます」
佐伯は驚いた顔をした。
「でも」
「夫のことですから」
由利子は封筒を鞄に入れた。
「それに、私ももう、知らなかったことにしたくありません」
佐伯は小さく頷いた。
二人は駅前で別れた。
由利子は電車には乗らず、歩いて帰ることにした。遠回りになるが、体を動かしていないと、頭の中が紙片の文字で埋まってしまいそうだった。
道沿いには、小さな町工場や倉庫が並んでいた。シャッターの前に積まれた木箱。錆びた看板。油の匂い。和也の会社も、こういう場所の奥にあった。
歩きながら、由利子は佐伯から受け取った封筒の重みを感じていた。
手帳は、夫そのものではない。
それでも、そこに残された字は、夫の呼吸に近かった。忙しい日々の中で、和也が見たもの、考えたこと、恐れたこと。その断片が、紙に残っている。
家に着いたのは昼過ぎだった。
玄関の扉を開けると、いつもの匂いがした。洗剤、畳、少し古い木の匂い。そこに、もう和也の匂いは薄くなっている。葬儀の日に多くの人が出入りし、線香の匂いが染みついたせいかもしれない。
由利子は靴を脱ぎ、和也の革靴の横を通った。
リビングのテーブルに、佐伯から受け取った封筒を置く。コートを脱ぐ前に封を開けた。
中には、手帳のコピーが四枚入っていた。
一枚目には、会社の略称らしき記号と日付が並んでいる。由利子には意味がわからない。二枚目には、月曜日の日付だけが丸で囲まれていた。
三枚目で、由利子の手が止まった。
5/18 月
17-B 夜間搬入
灰色缶 三本
カメラ点検扱い
N「家庭を守りたいなら黙れ」
その下に、短い線を引いて、こう書かれていた。
家庭を守るために、黙るわけにはいかない。
由利子はその文字を見つめた。
和也の字は乱れていなかった。ゆっくり、確かめるように書かれている。自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。
家庭を守るために、黙るわけにはいかない。
由利子はその一文を、声に出さずに読んだ。
夫が守ろうとした家庭とは、何だったのだろう。
毎朝、弁当を鞄に入れること。休日にスーパーへ行くこと。古くなった鍋敷きをまだ使えると言って捨てないこと。帰宅時間が遅くても、玄関の灯りがついていること。
そういうものの集まりだったはずだ。
和也は、それを守るために黙らなかった。
由利子は、鍵のキーホルダーを手に取った。
佐伯は二重になっているかもしれないと言っていた。由利子は裁縫箱から目打ちを持ってきた。革の裏側を慎重に押す。昨日開いた部分とは反対側に、わずかな硬さがあった。
糸をさらに一本切る。
裏地を剥がす。
何もない。
由利子は息を吐いた。思い過ごしだったのかもしれない。だが、指先で革をなぞると、金具の根元に不自然な膨らみがあった。
そこは縫い目ではなく、接着剤で留められていた。長く使っていたせいで色が馴染み、気づかなかった。
由利子はカッターを取り出した。
刃を入れる手が震えた。革を傷つけたくなかった。和也が毎日持っていたものだ。結婚してから十年以上、彼の手の中にあったものだ。
それでも、刃を入れた。
薄い革が開いた。
中から、小さな黒いメモリーカードが出てきた。
由利子は息を呑んだ。
テーブルの上に置くと、それは驚くほど小さかった。指先ほどの黒い板。こんなものに、夫が死ぬ前に見たものが入っている。
由利子はすぐにパソコンを開いた。
古いノートパソコンだった。メモリーカードを直接差す場所はない。引き出しを探し、以前デジタルカメラに使っていたカードリーダーを見つけた。コードを繋ぐ手がもたつく。
画面にフォルダが表示された。
写真が六枚。
音声ファイルが二つ。
由利子はしばらくクリックできなかった。
見てしまえば、もう戻れない気がした。
夫の死が事故ではなかったという疑いは、すでに形を持ち始めている。だが、まだどこかで、違っていてほしいと思っていた。何かの誤解で、夫はただ不運だったのだと。誰も悪くなく、誰かを憎まずに済むのだと。
しかし、その願いは薄かった。
由利子は最初の写真を開いた。
暗い画像だった。夜の倉庫裏らしい。画面の端に、古びた外灯が写っている。白く照らされたアスファルトの上に、無地のトラックが停まっていた。
二枚目。
トラックの荷台に、灰色の金属缶が積まれている。ラベルは剥がされていた。缶の側面には、何かの跡だけが残っている。丸い痕。赤い線の一部。
三枚目。
作業服の男が二人。顔ははっきりしない。
四枚目。
スーツ姿の男が写っていた。
街灯の下で横顔だけが見えている。だが、由利子にはわかった。
中原直樹。
葬儀で深々と頭を下げた男。電話で、和也が疲れていたと言った男。
由利子は画面を見つめた。
中原はトラックのそばに立ち、作業員に何か指示しているようだった。その手には、書類らしきものがある。
五枚目と六枚目には、旧倉庫裏の柵が写っていた。写真の日付は、和也が亡くなる前の週の月曜だった。柵の一部が外れかけている。足元には黒い水面が見えた。
由利子は喉が渇いた。水を飲もうとして立ち上がりかけ、やめた。
音声ファイルを開く。
最初に聞こえたのは、風の音だった。ざらざらとしたノイズ。遠くでトラックのエンジン音がしている。
次に、男の声が入った。
『川岸君、君は少し真面目すぎる』
中原の声だった。
電話で聞いた声より低い。親しげな響きを装っているが、その奥に硬いものがある。
和也の声が続いた。
『これは正規の処理じゃありません』
由利子は思わず息を止めた。
夫の声。
何日ぶりだろう。
録音の中の和也は、少し緊張している。それでも、声は震えていなかった。
『処理委託先の記録がありません。搬入元も消されています。17-Bだけ、月曜の夜に台帳が抜ける。これを見なかったことにはできません』
『部署の判断だ』
『違法です』
『言葉を選びなさい』
風の音が強くなる。
『君にも家庭があるだろう』
中原が言った。
『奥さんを巻き込みたいのか』
由利子の指が冷たくなった。
『見なかったことにすれば、君の家庭は守られる』
少し間があった。
それから、和也の声が聞こえた。
『家庭を守るために、これを見なかったことにはできません』
由利子は画面の前で動けなくなった。
その言葉は、手帳に書かれていたものと同じだった。だが、声で聞くと重さが違った。和也の息遣い、わずかな間、言葉を選ぶ気配。それらがすべて、由利子の胸に刺さった。
『証拠はどこにある』
『しかるべきところに出します』
『君は自分が何をしているのかわかっていない』
『わかっています』
『わかっていない。会社を潰す気か。君一人の正義感で、何人の生活が壊れると思っている』
『生活を壊しているのは、記録を消している人たちです』
そこで音声は途切れた。
由利子はしばらく、再生が終わった画面を見つめていた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が静かに崩れていくようだった。
夫は一人でこんな会話をしていた。家に帰れば、何もなかったように弁当箱を流しに出し、味噌汁を飲み、テレビのニュースを眺めていた。その同じ人が、夜の倉庫裏で中原と向き合っていた。
由利子は、夫の沈黙を知らなかった。
知らなかったのではない。
知らないままにしていた。
そう思った瞬間、ようやく涙が落ちた。
一粒だけ、キーボードの端に落ちた。由利子は慌てて拭いた。泣いている場合ではない。そう思ったが、涙はあとからあとから出てきた。
和也は怖かったはずだ。
帰りたかったはずだ。
鍋を食べるつもりだったはずだ。
由利子は音声ファイルをコピーし、写真も別のフォルダに保存した。操作は遅かったが、間違えないように一つずつ確認した。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面には非通知と表示されていた。
由利子は手を止めた。
呼び出し音が続く。
一度切れるまで待とうかと思った。だが、なぜか出なければならない気がした。
「はい」
沈黙。
それから、男の声がした。
「川岸さんの奥様ですね」
中原だった。
声を聞いた瞬間、由利子の背筋が冷えた。
「中原さん」
「先日は失礼しました。その後、少し落ち着かれましたか」
「何のご用ですか」
「ご主人の件で、妙なものが出回っているようです」
由利子はパソコンの画面を見た。旧倉庫裏の写真が表示されたままだった。
「妙なもの、とは」
「手帳のコピーです。誰かが奥様に不安を与えるようなことをしているのなら、会社としても放っておけません」
「どうして、私に手帳のコピーが届いたと知っているんですか」
電話の向こうで、わずかに息が止まった。
「警察から問い合わせがありましたので」
「そうですか」
「奥様」
中原の声が、少し低くなった。
「ご主人は真面目な方でした。ただ、最近は少し思い込みが強くなっていたところがありました。疲労のせいだと思います。変な記録やメモを残していたとしても、それでご主人の名誉を傷つけることになっては」
「夫の名誉を傷つけているのは誰ですか」
由利子は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
中原は黙った。
「夫は、何を見たんですか」
「奥様。ご主人のことを、これ以上汚さないほうがいい」
その言葉を聞いた瞬間、由利子の中で何かが切れた。
怒鳴りはしなかった。
ただ、声が冷たくなった。
「夫を汚したのは、あなたたちではありませんか」
「感情的になられている」
「中原さん」
由利子は、パソコンの画面に映る中原の横顔を見た。
「17-Bとは何ですか」
電話の向こうが沈黙した。
「灰色缶は、どこへ運ばれたんですか」
さらに沈黙が続いた。
由利子は続けた。
「月曜だけ防犯カメラが点検扱いになっていたのは、なぜですか」
中原の声が変わった。
「誰から聞いたんですか」
「夫です」
「奥様」
「夫は帰れなかった。でも、残していました」
中原はしばらく黙っていた。
「それを、誰かに渡しましたか」
「警察に」
由利子は嘘をついた。
実際にはまだすべてを渡していない。だが、そう言うべきだと思った。
中原は低く笑った。笑い声というより、息が漏れただけだった。
「警察が、どこまで動くと思いますか」
「少なくとも、あなたは気にしているようですね」
「奥様は何もわかっていない」
「わかりたいと思っています」
「知らないほうがいいこともあります」
「夫も、そう思っていたのかもしれません」
由利子は和也の鍵を握った。
「でも、夫は最後に、家の鍵を見ろと書きました。私に知ってほしかったんです」
電話の向こうで、中原の呼吸が荒くなった。
「その鍵を、どこに置いていますか」
由利子は答えなかった。
中原の声は、もう丁寧ではなかった。
「奥様、よく考えてください。ご主人は戻りません。これ以上騒げば、あなたの生活まで壊れます」
「もう壊れています」
由利子は言った。
「夫が帰ってこなかった夜に、壊れました」
通話を切った。
手が震えていた。スマートフォンをテーブルに置くと、すぐに安達刑事へ電話をかけた。
安達は三回目の呼び出しで出た。
「川岸さん」
「メモリーカードが見つかりました。写真と音声があります。中原さんが写っています。夫との会話も入っています」
電話の向こうで、安達の声が変わった。
「今、お宅ですか」
「はい」
「誰かに話しましたか」
「中原さんから電話がありました。知っているようでした」
「すぐに行きます。データには触らず、そのままにしておいてください。できれば玄関の鍵をかけて、誰が来ても開けないでください」
「わかりました」
電話を切ると、由利子は玄関へ行き、鍵をかけた。チェーンもかけた。
和也の革靴が、足元にあった。
由利子はしゃがみ込み、その靴に手を置いた。
「見つけたよ」
声に出した。
「あなたが残したもの、見つけた」
返事はない。
けれど、その沈黙はもう、ただの不在ではなかった。
夫は何も言わずに消えたのではない。断片を残していた。手帳に。鍵に。写真に。声に。
由利子は立ち上がった。
安達が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。窓の外を車が通るたび、体が強張った。インターホンが鳴るのではないか。中原が来るのではないか。佐伯が危ない目に遭っていないか。
不安は尽きなかった。
それでも、昨日までとは違っていた。
由利子はもう、待っているだけではなかった。
テーブルの上には、夫の手帳のコピーがある。
パソコンの中には、夫の声がある。
鞄の中には、佐伯が震えながら渡した封筒がある。
そして玄関には、夫が帰るはずだった靴がある。
すべてが、一本の道になり始めていた。
和也が帰れなかった道。
由利子がこれから歩く道。
その先に何があるとしても、もう目を逸らすことはできなかった。
三 N
安達刑事が来たのは、午後二時を少し過ぎたころだった。
インターホンが鳴った瞬間、由利子の体は反射的に強張った。モニターには安達の顔が映っている。前日と同じ紺色のスーツ姿だったが、今日は隣に若い刑事を連れていた。背が高く、眼鏡をかけた男で、手には黒い鞄を持っている。
由利子はチェーンを外し、鍵を開けた。
「お待たせしました」
安達は玄関に入ると、短く頭を下げた。視線は自然にたたきの革靴へ向かい、それからすぐ由利子へ戻った。若い刑事も同じように一礼した。
「部下の村瀬です。データの確認をします」
村瀬は無駄のない動きで靴を脱いだ。由利子は二人をリビングに通した。
テーブルの上には、ノートパソコンを開いたままにしてあった。画面には、旧倉庫裏で撮られた写真が表示されている。街灯に照らされたトラック。その横に立つスーツ姿の男。由利子は画面を見るたびに、中原の声を思い出した。
ご主人のことを、これ以上汚さないほうがいい。
夫を汚したのは誰なのか。
答えは、まだ法的な形を持っていない。だが由利子の中では、すでにはっきりしていた。
「このまま触っていません」
「ありがとうございます」
村瀬が鞄から手袋と小型の機器を取り出した。安達は由利子の向かいに座る。
「中原さんからの電話は、何時頃でしたか」
「一時半過ぎです。非通知でした」
「録音は」
「していません」
「内容を、覚えている範囲で教えてください」
由利子は、できるだけ順番通りに話した。中原が手帳のコピーについて知っていたこと。警察から問い合わせがあったと言ったこと。夫は疲れていて思い込みが強くなっていた、と言ったこと。17-B、灰色缶、月曜の防犯カメラについて尋ねた途端、声色が変わったこと。
安達は手帳にメモを取りながら聞いていた。
「最後に、鍵の所在を尋ねられました」
「鍵」
「はい。家の鍵です。夫がメモリーカードを隠していた革のキーホルダーです」
安達のペンが一瞬止まった。
「それは、こちらですか」
由利子はテーブルの端に置いていたキーホルダーを示した。裏地を剥がした跡があり、革の一部がめくれている。結婚してからずっと和也が使っていたものだと思うと、傷ついた姿が痛々しかった。
「これを中原さんが知っていた可能性がある、ということですね」
「夫の手帳には、家の鍵を見ろと書いてありました。中原さんが手帳の原本を見たなら、知っていてもおかしくありません」
安達は小さく頷いた。
「村瀬」
「はい」
村瀬はすでにデータの確認に入っていた。パソコンに直接触れるのではなく、由利子の説明を聞きながら、保存日時やファイル名を撮影している。
「写真六枚、音声二点。作成日時は、川岸和也さんが亡くなる前週の月曜と、亡くなった当日ですね。メタデータはあとで正式に確認しますが、少なくとも素人が今朝作ったようなものではありません」
「音声を聞かせてもらえますか」
安達が由利子を見た。
由利子は頷いた。
再生ボタンを押すのは村瀬だった。部屋に、ざらざらした風の音が流れた。由利子は目を閉じたくなったが、閉じなかった。
『川岸君、君は少し真面目すぎる』
中原の声。
『これは正規の処理じゃありません』
和也の声。
安達は動かなかった。村瀬も画面を見たまま、眉一つ動かさない。二人とも職業上そうしているのだとわかっていても、由利子には少し不思議だった。夫の声が流れている。死んだ人間の声が、この部屋に戻ってきている。それなのに、世界は崩れない。コーヒーカップも、カーテンも、壁時計も、そのままそこにある。
『見なかったことにすれば、君の家庭は守られる』
中原の言葉が流れた。
由利子は両手を膝の上で握った。
『家庭を守るために、これを見なかったことにはできません』
和也の声が続く。
録音は途切れた。
短い沈黙があった。
先に口を開いたのは安達だった。
「この音声だけで、死亡に直接結びつけることはできません。ただ、会社側の説明とは食い違います」
「会社側の説明」
「ご主人は通常業務中に倉庫確認をしていて、偶然事故に遭った。少なくとも、会社はそう説明していました。ですが、この音声からは、中原さんとご主人の間に不正処理をめぐる対立があったことがわかる」
「中原さんは、夫が疲れていたと言いました」
「その説明も、調べ直す必要があります」
安達は手帳を閉じた。
「佐伯美緒さんとは、今日お会いになったんですね」
「はい」
「彼女は警察に話すと言っていましたか」
「言っていました。私も一緒に行くつもりでした」
「こちらから連絡します。川岸さんが間に入る必要はありません」
「でも」
「危険があります」
安達の声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「中原さんがあなたに電話をしてきた以上、相手は証拠がどこにあるかを探っています。佐伯さんにも接触するかもしれません。こちらで保護も含めて検討します」
「佐伯さんは大丈夫なんでしょうか」
「すぐ確認します」
安達はスマートフォンを取り出し、別室を借りたいと言った。由利子は和室を示した。襖を閉めても、低い声が少しだけ漏れてくる。内容までは聞き取れない。
村瀬は無言で作業を続けていた。
「ご主人は、几帳面な方だったんですね」
不意に村瀬が言った。
由利子は顔を上げた。
「なぜですか」
「ファイル名です。日付、場所、対象が入っています。写真にも、音声にも。同じ形式で揃っている。こういう残し方をする人は、たいてい記録に意味を持たせています」
「夫は、何でも手帳に書く人でした」
「手書きの記録と、デジタルの記録。両方を残していたんでしょうね。片方が消えても、もう片方が残るように」
由利子はキーホルダーを見た。
和也がその小さな革の中にメモリーカードを隠していた姿を想像した。夜、由利子が風呂に入っている間かもしれない。食卓の横で、テレビの音を小さくしながらだったかもしれない。細いカッターで革を開き、メモリーカードを滑り込ませ、何食わぬ顔でまた鍵を持って会社へ行った。
なぜ言ってくれなかったのか。
その問いは、まだ胸の中にある。
だが一方で、和也が言えなかった理由も少しずつ見え始めていた。言えば、由利子を巻き込む。知らなければ安全だと考えたのかもしれない。けれど、最後には鍵を見ろと書いた。
隠したのか。
託したのか。
その境目が、由利子にはまだわからなかった。
安達が和室から戻ってきた。
「佐伯さんと連絡が取れました。これから署に来てもらいます。念のため、こちらから迎えを出します」
由利子は胸を撫で下ろした。
「よかった」
「川岸さんにも、あとで正式にお話を伺います。ただ今日は、ご自宅にいてください。外出は避けてください」
「中原さんは、どうなるんですか」
「すぐに任意で話を聞きます」
「任意なんですか」
「今はまだ」
安達は言葉を選んでいるようだった。
「ですが、状況は変わりました。ご主人の死を単純な事故として閉じることはできません」
その一言を聞いたとき、由利子は初めて肩の力が抜けた。
和也の死が戻るわけではない。事故でなければ救われるわけでもない。それでも、誰かがようやく「閉じない」と言った。夫の死を、会社の説明書き一枚で終わらせないと言った。
それだけで、少し呼吸がしやすくなった。
データは複製され、メモリーカードは証拠品として預けることになった。キーホルダーも必要だと言われたが、由利子は一瞬だけ躊躇した。
「戻ってきますか」
「必要な手続きが終われば」
安達が答える。
「大切なものだとはわかっています。丁寧に扱います」
由利子はキーホルダーを両手で持ち、最後に革の表面を指で撫でた。
和也の手の跡が、そこに残っている気がした。
「お願いします」
安達はそれを受け取った。
二人が帰ったあと、家の中は急に静かになった。
テーブルの上には、パソコンだけが残っている。メモリーカードはない。手帳のコピーも、佐伯から受け取った分以外は持って行かれた。和也の鍵もない。証拠がなくなったわけではない。警察に預けたのだ。けれど、夫につながるものをまた一つ手放したようで、由利子はしばらく椅子に座ったままだった。
夕方、空が暗くなった。
雨が降り出す前の匂いが、窓の隙間から入ってくる。由利子はカーテンを閉めようとして、外の通りに黒い車が停まっているのに気づいた。
見覚えのない車だった。
エンジンは切られている。運転席に人影があるようにも見えたが、暗くてはっきりしない。
由利子はカーテンの端を握ったまま、動けなくなった。
しばらくすると、車はゆっくり発進し、角を曲がって見えなくなった。
偶然かもしれない。
近所の誰かを迎えに来ただけかもしれない。
だが、由利子はすぐにスマートフォンを手に取った。安達から渡された番号に電話する。安達は出なかったが、折り返しは三分後に来た。
「黒い車ですか」
「はい。家の前に停まっていました。ナンバーは見えませんでした」
「今は」
「もういません」
「施錠を確認してください。今日は誰が来ても開けないでください。巡回を増やします」
「中原さんでしょうか」
「断定はできません。ただ、念のためです」
念のため。
その言葉が、以前なら安心になったかもしれない。だが今は、危険が本当に存在するからこそ出てくる言葉に思えた。
由利子は電話を切り、玄関と窓の鍵を確認した。
和也の革靴はまだそこにある。
鍵のないキーホルダーがなくなったせいか、玄関がいつもより空っぽに見えた。
夜七時、由利子は米を研いだ。
一人分の食事を作るのは難しかった。二人分の癖が抜けない。茶碗も、箸も、鍋も、すべて二人で使っていた頃の記憶を持っている。冷蔵庫には白菜が残っていた。豚肉も、豆腐もある。鍋にする材料は揃っていた。
佐伯の言葉を思い出す。
帰ったら鍋だって言っていました。
奥さんが作る鍋が好きなんだって。
由利子は冷蔵庫の前で立ち止まった。
作れば、泣くかもしれない。
作らなくても、泣くかもしれない。
結局、由利子は小さな鍋を取り出した。水を入れ、昆布を沈める。白菜を切り、豆腐を切る。豚肉を皿に移す。和也は、豆腐を大きめに切ると喜んだ。崩れるくらいがうまい、と言っていた。
火にかけると、鍋の中から小さな泡が立ち始めた。
台所に湯気が上がる。
その匂いで、由利子は急に胸が詰まった。
和也は、この匂いのする家に帰ってくるつもりだったのだ。
食卓に座り、由利子は一人で鍋を食べた。
味はよくわからなかった。熱いことだけがわかった。豆腐を口に入れると、舌にやけどしそうになった。和也なら「熱い」と言って笑っただろう。由利子はその声を想像し、箸を置いた。
泣きたくなかった。
泣いてしまうと、何かが終わってしまう気がした。
だが涙は出なかった。
代わりに、腹の底に静かな重みが残った。
食後、食器を洗っていると、スマートフォンが震えた。
安達からだった。
「佐伯さんの聴取が終わりました」
「どうでしたか」
「ご主人が不正処理に気づき、中原さんと対立していたという証言が取れました。彼女が持っていた手帳のコピーも確認しています」
「中原さんは」
「連絡が取れません」
由利子はスポンジを持つ手を止めた。
「連絡が取れない?」
「会社には午後から戻っていないそうです。自宅にもいません」
「逃げたんですか」
「まだわかりません」
安達の声には、慎重さと緊張が混じっていた。
「川岸さん、明日以降、旧倉庫裏を確認する必要が出てくると思います。あなたには同行をお願いするかもしれません」
「私がですか」
「ご主人の写真に写っている場所と、事故現場の説明に食い違いがあります。ご遺族として現場確認を求める形を取れば、会社側も拒みにくい」
「行きます」
由利子は即答した。
「ただし、単独行動はしないでください。中原さんから接触があった場合も、話に乗らないでください」
「わかりました」
「それから」
安達が少し言い淀んだ。
「ご主人の弁当箱の件ですが」
由利子の心臓が跳ねた。
「見つかったんですか」
「会社のロッカーに残っている可能性があります。私物返却リストに記載がありませんでした。確認します」
「夫は、弁当箱を置いて帰る人ではありません」
「ええ」
安達は静かに言った。
「だから、確認します」
電話が切れたあと、由利子は流しの前に立ち尽くした。
弁当箱。
そんな小さなものが、今は何より大きな意味を持っている。夫が本当に帰るつもりだったかどうか。会社が何を隠しているのか。和也の最後の日が、どういう一日だったのか。
由利子は手についた泡を洗い流した。
翌朝、雨は上がっていた。
空は低く、雲の切れ間から白い光が差している。由利子は早く目が覚めた。眠りは浅かったが、頭は奇妙にはっきりしていた。
午前九時過ぎ、安達から連絡があった。
「今日、東都環境管理へ行きます。川岸さんも来られますか」
「行きます」
「では十時半に、会社近くのバス停で」
由利子は黒い服に着替えた。喪服ではない。ただ、明るい色を着る気にはなれなかった。鞄には、佐伯から受け取ったコピーの控えと、和也の古い手帳を一冊入れた。押し入れに残っていた過去の手帳だ。直接の証拠ではない。それでも、和也がどんな字を書く人だったか、どんなふうに記録を残す人だったかを示せる気がした。
玄関で靴を履くとき、由利子は和也の革靴を見た。
「行ってくる」
自然に声が出た。
返事はない。
けれど、その沈黙は前より少しだけ軽かった。
会社近くのバス停で降りると、安達と村瀬が待っていた。二人とも私服に近いスーツ姿で、村瀬は小さなカメラを持っている。
東都環境管理の社屋は、以前見たときと変わらなかった。灰色の外壁。入口のガラス扉。環境方針を掲げた看板。雨上がりのせいで、敷地のアスファルトはところどころ濡れていた。
受付の女性は、安達の身分証を見ると表情を硬くした。
「総務課の方をお願いします」
安達が言う。
「中原さんは、本日不在でして」
「中原さん以外で構いません」
しばらく待たされたあと、五十代くらいの男性が現れた。管理部長の小野と名乗った。額に汗を浮かべ、何度もハンカチで拭いている。
「いや、刑事さん、昨日もお話ししました通り、川岸君の件は本当に不幸な事故で」
「今日はご遺族の私物確認と、現場の再確認です」
「現場はもう警察の方も」
「確認します」
安達の声は静かだったが、拒ませない響きがあった。
小野は由利子を見ると、ぎこちなく頭を下げた。
「奥様、このたびは」
「夫の弁当箱が戻ってきていません」
由利子は挨拶を遮った。
小野は目を瞬かせた。
「弁当箱、ですか」
「はい。夫は毎日持って帰っていました。会社のロッカーに残っていませんか」
「確認は、総務が」
「中原さんですか」
由利子が言うと、小野の顔がさらに硬くなった。
「中原は本日、体調不良で」
「連絡が取れないと聞いています」
小野は黙った。
安達が一歩前に出た。
「ロッカーを確認させてください」
小野はしばらく抵抗するような表情を見せたが、結局、社員用の更衣室へ案内した。
和也のロッカーはまだ残されていた。
銀色の扉に、小さな番号札がついている。川岸という名前のシールは剥がされかけていた。由利子はそれを見て、胸が痛んだ。会社にとって、夫はもう片づけるべきものなのだと思った。
小野が鍵を開ける。
ロッカーの中は、ほとんど空だった。古い作業着が一枚、ハンガーにかかっている。下段には安全靴。奥に、紙袋が一つあった。
由利子は息を呑んだ。
安達が手袋をはめ、紙袋を取り出す。
中には弁当箱が入っていた。
青い蓋の、見慣れた弁当箱だった。由利子が三年前に買ったものだ。蓋の端に小さな傷がある。和也が一度落としたときについた傷だった。
「これです」
由利子の声はかすれた。
安達は弁当箱を取り出さず、紙袋ごと確認した。
「返却リストにありませんでしたね」
小野は額の汗を拭いた。
「見落としだと思います」
「手帳も見落としましたか」
由利子は小野を見た。
小野は答えなかった。
安達がロッカーの奥を照らした。そこには何もなかった。黒い手帳は見つからない。
「弁当箱は証拠品として預かります」
安達が言った。
「奥様、よろしいですか」
由利子は頷いた。
本当は、すぐに開けたかった。中がどうなっているのか見たかった。けれど、ここで開けてはいけないことはわかった。
和也が最後に持っていた日常の一部が、ようやく戻ってきた。
そのことだけで、由利子は立っているのがやっとだった。
更衣室を出たあと、安達は旧倉庫裏の確認を求めた。
小野は明らかに嫌がった。
「川岸君が転落した場所は、危険ですので」
「危険だから確認します」
「もう柵も修理しました」
その言葉に、安達の目が動いた。
「修理した?」
「事故後に、安全対策として」
「いつですか」
「ええと、事故の翌々日だったかと」
「業者は」
「総務が手配を」
「中原さんですか」
小野はまた黙った。
由利子は、胸の中で何かがつながるのを感じた。
和也の写真に写っていた柵は、壊れかけていた。事故後、そこだけが修理された。安全対策と言えば聞こえはいい。だが、壊れた柵が事故の原因か、あるいは何かを隠すための痕跡だったなら。
旧倉庫裏へ向かう道は、社屋の横を抜けた先にあった。
敷地の奥に、低い倉庫が建っている。外壁は古びており、雨の跡が黒く筋になっていた。裏手には狭い搬入路があり、その向こうを川が流れている。川幅はそれほど広くないが、水は濁っていて、流れが速かった。
由利子は足を止めた。
ここで、和也は死んだ。
思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
安達が気づいて、少しだけ歩調を緩めた。
「無理はしないでください」
「大丈夫です」
由利子は答えた。
大丈夫ではなかった。
それでも見る必要があった。
搬入路の端に、新しい柵が設置されていた。周囲の古びた金属とは違い、そこだけ銀色が明るい。ボルトも新しく、雨に濡れて光っている。
由利子はその柵を見つめた。
写真の中では、ここは壊れていた。柵の一部が傾き、足元に隙間があった。いまはきれいに塞がれている。
和也が最後に見た景色とは、違っていた。
「この柵ですね」
村瀬が写真と現場を見比べる。
「写真では、支柱が曲がっています。現在は交換されています」
安達は小野を見た。
「壊れた柵はどこにありますか」
「処分したと思います」
「誰の指示で」
「総務です」
「中原さんですね」
小野は、もう否定しなかった。
そのとき、由利子のスマートフォンが震えた。
非通知だった。
由利子は画面を見たまま、動けなくなった。
安達が気づく。
「出ないでください」
呼び出し音が続く。
安達は由利子のスマートフォンを見て、短く言った。
「こちらで記録します。スピーカーにできますか」
由利子は頷き、震える指で通話を受け、スピーカーにした。
「はい」
風の音が混じった。
それから、中原の声が聞こえた。
『奥様、会社にいらっしゃるんですね』
小野の顔色が変わった。
安達が目だけで、話を続けるよう合図した。
「中原さん。どこにいるんですか」
『危険な場所に近づかないほうがいい。ご主人も、そこで足を滑らせた』
「夫は足を滑らせたんですか」
『そう聞いています』
「誰からですか」
沈黙。
川の水音が聞こえる。由利子の手の中で、スマートフォンが熱を持っているように感じた。
『奥様、証拠だと思っているものを警察に渡しても、何も変わりませんよ』
「変わるかどうかは、私が決めることではありません」
『あなたの生活が壊れるだけです』
「もう壊れています」
由利子は前にも同じことを言った。
だが今度は、川の前で言っていた。
「夫がここで帰れなくなった日に、壊れました」
電話の向こうで、中原が低く息を吐いた。
『今夜、話せませんか』
安達の表情が変わった。
「何を話すんですか」
『ご主人の最後のことです』
由利子の心臓が強く鳴った。
『知りたいでしょう。本当は何があったのか』
「警察に話してください」
『警察には話せないことです』
「なぜですか」
『あなたになら、話せる』
その言葉が、あまりにも白々しく聞こえた。
由利子は目の前の新しい柵を見た。夫が落ちた場所。夫が帰れなかった場所。
「どこで」
由利子が言うと、安達が鋭くこちらを見た。
中原は少し間を置いて答えた。
『今日の夜九時。旧倉庫裏で』
「ここですか」
『一人で来てください。警察が来れば、何も話しません』
通話は切れた。
水音だけが残った。
安達はすぐに村瀬へ視線を向けた。
「番号は」
「非通知ですが、録音できています」
小野は呆然としていた。
「中原は、いったい何を」
「小野さん」
安達の声が鋭くなった。
「中原直樹さんの現在地に心当たりは」
「ありません。本当に、今朝から連絡が」
「ご自宅、親族、社用車、会社名義の携帯、すべて確認してください。こちらでも動きます」
小野は慌てて頷いた。
由利子はスマートフォンを握ったまま、川を見ていた。
今夜九時。
旧倉庫裏。
一人で来い。
罠かもしれない。証拠を奪うつもりかもしれない。脅すつもりかもしれない。そんなことはわかっている。
それでも、由利子の中には別の感情が生まれていた。
中原は、夫の最後を知っている。
その可能性が、彼女の足を動かそうとしていた。
「川岸さん」
安達が声をかけた。
「絶対に一人では行かせません」
「行きます」
「こちらで対応します」
「私が行かなければ、中原さんは出てこないと思います」
「危険です」
「わかっています」
由利子は安達を見た。
「でも、夫もここに来ました。一人で」
安達は黙った。
「私は、夫が最後に何を見たのか知りたいんです。何を言われて、何を守ろうとして、どうして帰れなかったのか。知らないままでは、家に帰れません」
それは感情的な言葉だったかもしれない。
だが安達は、すぐには否定しなかった。
しばらくして、彼は低く言った。
「作戦として考えます。あなたを囮にするような形になります」
「構いません」
「構います」
安達はきっぱりと言った。
「ご主人の事件を調べるために、あなたまで危険にさらすわけにはいきません。ただ、中原さんを出させる必要があるのも事実です。こちらで配置を考えます。会話は録音します。あなたは指示に従ってください」
「はい」
「勝手に動かないでください」
「はい」
安達は、まだ納得していない顔だった。
それでも、由利子はわかっていた。
夜、またここへ来る。
夫が死んだ場所へ。
和也が帰れなかった道の終わりへ。
午後の光が、川の水面に鈍く揺れていた。
遠くでトラックのバック音が鳴る。
由利子は新しい柵に触れた。冷たい金属の感触が、指先に残った。
ここだけが新しい。
ここだけが、事故のあとに付け替えられている。
夫の死は、自然に流れていったものではない。
誰かが形を整えた。
事故に見えるように。
会社が困らないように。
中原が責任を逃れられるように。
由利子は手を離した。
夜まで、あと七時間もなかった。
四 旧倉庫裏
午後八時二十分、由利子はふたたび東都環境管理の敷地近くにいた。
昼間とはまるで違う場所に見えた。工業地帯の夜は、住宅街の夜よりも明るく、そして冷たい。倉庫の壁に取り付けられた照明が白く光り、濡れたアスファルトに反射している。遠くの幹線道路から、トラックの走る音が断続的に聞こえてきた。
由利子は黒いコートの襟を合わせた。
寒いわけではない。けれど、体の奥から冷えていた。
安達刑事は、会社から少し離れた路上に停めた車の中で説明をした。助手席には村瀬が座り、後部座席に由利子がいた。別の捜査員たちは、すでに敷地周辺に配置されているという。旧倉庫裏へ続く道、川沿いの反対側、会社の裏門近く。中原がどこから現れても対応できるようにする、と安達は言った。
由利子のバッグには、小型の録音機が入っていた。コートの襟元にも、小さなマイクが取り付けられている。使い方は難しくなかった。ただ身につけていればいい。会話は近くにいる刑事たちが聞いている。
「中原さんが近づきすぎたら、こちらから出ます」
安達はそう言った。
「相手が証拠に触れようとした場合も同じです。あなたは無理に問い詰めようとしないでください」
「はい」
「約束してください」
「わかっています」
由利子はそう答えたが、自分が本当に冷静でいられるかはわからなかった。中原を見た瞬間、何を言ってしまうかわからない。夫が最後に立った場所で、夫を死なせたかもしれない男と向き合う。その事実だけで、胃の奥が硬く縮んでいた。
安達はしばらく由利子を見ていた。
「怖くなったら、やめていいんです」
「怖いです」
由利子は正直に言った。
「でも、やめたくありません」
安達は目を伏せ、小さく頷いた。
「ご主人のためですか」
由利子は少し考えた。
「夫のためでもあります。でも、それだけではないと思います」
「それだけではない」
「私のためです」
言ってから、その言葉が自分の中に落ちた。
そうだ。
由利子は夫のために真相を知りたいと思っていた。和也の死を事故で終わらせたくなかった。夫が何を抱え、何を守ろうとしていたのか知りたかった。
だが、それだけではない。
自分が、このまま家に閉じ込められたくなかったのだ。
玄関の革靴を眺め、帰ってこない人の音を待ち続けるだけの人間になりたくなかった。
「知らないままだと、私はずっとあの夜にいます」
由利子は言った。
「夫が帰ってこなかった夜に」
安達は何も言わなかった。
それが、返事のように思えた。
午後八時四十八分、由利子は車を降りた。
旧倉庫裏へ向かう道を一人で歩く。もちろん、本当は一人ではない。どこかに刑事たちがいる。安達も、村瀬も、近くで見ている。それでも、照明の届かない道を歩いていると、世界から切り離されたようだった。
敷地の奥では、機械の低い唸りが聞こえていた。稼働していないはずの倉庫から、金属がわずかに軋む音がする。風のせいかもしれない。だが、どの音も由利子の神経を尖らせた。
旧倉庫裏に着いたのは、八時五十六分だった。
川沿いの柵は、昼間と同じように新しく光っていた。銀色の金属が、外灯の白い光を受けて冷たく反射している。周囲の古びた柵とそこだけ色が違う。まるで傷口に貼られた新しい皮膚のようだった。
由利子はその前で立ち止まった。
川の水音が聞こえる。
和也は、この音を聞いたのだろうか。
中原と向き合いながら、背後にこの水音を聞いていたのだろうか。
足元を見る。アスファルトには細かな砂と枯れ葉が溜まっている。雨上がりのせいで湿っていた。滑りやすい。会社はそう説明したのだろう。足を滑らせた。運が悪かった。不幸な事故だった。
その言葉で、夫の死を片づけようとした。
由利子は拳を握った。
午後九時ちょうど、遠くで靴音がした。
倉庫の角から、中原直樹が現れた。
昼間見たときと同じスーツ姿ではなかった。濃い色のジャンパーを羽織り、手には薄い革の鞄を持っている。髪は少し乱れていた。だが、歩き方は落ち着いている。由利子を見つけると、以前と同じように軽く会釈した。
「本当に一人で来られたんですね」
その声は、電話よりも柔らかかった。
由利子は答えなかった。
中原は数歩手前で立ち止まった。距離は五メートルほどある。由利子のバッグの中で、録音機が作動しているはずだった。
「警察はいないんですか」
「あなたが一人で来いと言ったんでしょう」
「素直な方だ」
「夫にも、そう言いましたか」
中原の表情がわずかに変わった。
「川岸君は、素直というより頑固でした」
「あなたが知っている夫は、職場の夫です」
「奥様が知らないご主人を、私は知っています」
中原はそう言った。
その言葉に、由利子の胸が鋭く痛んだ。
それは事実かもしれない。由利子は夫の仕事を知らなかった。夫が何に怯え、何に怒っていたのか、知らなかった。佐伯が知っていた夫の言葉を、由利子は知らなかった。
だが、だからといって中原に夫を語らせたくはなかった。
「あなたが知っているのは、夫が最後に何を見たかです」
「それを知りたいと」
「はい」
中原は視線を川へ向けた。
「ご主人は、ここで足を滑らせました」
「昼間も電話でそう言いましたね」
「事実です」
「そのとき、あなたはどこにいたんですか」
中原は由利子を見た。
「質問の仕方が、刑事さんみたいだ」
「答えてください」
「ここにいました」
由利子は息を止めた。
中原はあっさり認めた。
「あなたは、夫が転落したとき、ここにいたんですね」
「いました」
「では、なぜ助けなかったんですか」
中原の口元がわずかに歪んだ。
「助けなかったと決めつけるのは、少し乱暴です」
「救急車を呼びましたか」
「結果的には、通報されています」
「あなたが呼んだんですか」
中原は答えなかった。
川の音が強く聞こえた。
「夫は、どのくらい水の中にいたんですか」
「奥様が聞いて、どうなる話でもない」
「どうなるかは、私が決めます」
「人は、知らないほうが楽なこともあります」
「あなたに楽を選ばされたくありません」
由利子の声は震えていたが、言葉は切れなかった。
中原はため息をついた。
「川岸君は、証拠を渡すと言ってここへ来ました」
「証拠を渡す?」
「そうです。自分が集めた写真や音声を私に渡し、会社には報告しない。そういう話だった」
「嘘です」
由利子は即座に言った。
中原は眉を上げた。
「なぜ言い切れるんです」
「夫は、家庭を守るために黙るわけにはいかない、と言っていました」
中原の目が細くなった。
「録音を聞いたんですね」
「聞きました」
「では、都合のいいところだけを聞いたんでしょう」
「都合の悪いところがあるなら、話してください」
中原は鞄を持つ手を少し強く握った。
「川岸君は、自分のしていることの重さがわかっていなかった。会社には従業員がいる。取引先がある。家族を養っている人間が何人もいる。たった数枚の写真と、断片的な録音で、それを壊そうとしていた」
「壊したのは、夫ですか」
「彼が外部に出せば、そうなっていた」
「違います」
由利子は一歩前に出た。
「壊れるようなことをしていたのは、会社です」
中原は笑わなかった。
「正しいことを言うのは簡単です」
「簡単なら、あなたも言えばよかった」
「奥様」
中原の声が少し低くなった。
「世の中は、正しいことだけでは動いていません」
「夫は、正しいことだけで動いていたわけではありません」
「では、何で動いていたんです」
「帰る場所です」
由利子は言った。
「夫は、帰る場所を汚したくなかったんです」
中原は黙った。
「あなたは夫に、見なかったことにすれば家庭は守られると言いました。でも夫は、見なかったことにしたら守れないと思った。だからここへ来た。怖かったはずです。それでも来た」
由利子は新しい柵へ視線を移した。
「それで、帰れなかった」
中原の表情から、柔らかさが消えた。
「川岸君は逃げようとした」
低い声だった。
「話し合いが終わらないうちに、彼は逃げようとしたんです」
由利子は中原を見た。
「何から」
「自分のしたことからです」
「違います。あなたからです」
中原の目がわずかに揺れた。
それは、初めて見せた動揺だった。
「夫に、何をしたんですか」
「何も」
「証拠を奪おうとしたんですか」
「会社の資料を持ち出していたんです。取り戻すのは当然でしょう」
「違法な記録でも?」
「会社のものです」
「夫の命より?」
中原の唇が動いた。だが、声は出なかった。
由利子はさらに一歩進んだ。
「夫は、この柵の壊れたところから落ちたんですね」
中原は視線を逸らした。
「この柵は、事故のあとで付け替えられました。誰の指示ですか」
「安全対策です」
「誰の指示ですか」
「私です」
由利子は喉の奥が詰まるのを感じた。
「なぜ、そんなに急いだんですか」
「危険だったからです」
「証拠が残っていたからではなく?」
中原は口を閉じた。
由利子のバッグの中で、録音機が動いている。安達たちは聞いているのだろうか。どこか近くで、この会話を聞き、動く機会を待っているのだろうか。
しかしそのことが、今は遠く感じられた。
目の前にいる男の口から、夫の最後を聞かなければならない。
「夫は落ちたあと、生きていましたか」
由利子は尋ねた。
中原の顔が、初めてはっきりと歪んだ。
それだけで答えはわかった。
「生きていたんですね」
「……暗かった」
中原は言った。
「水音が大きくて、よくわからなかった」
「名前を呼びましたか」
「呼んだ」
「返事は」
中原は答えない。
「夫は返事をしたんですか」
由利子の声が裏返った。
中原は唇を噛んだ。
「一度だけ」
由利子の足元が揺れたような気がした。
一度だけ。
夫は、水の中で返事をした。
生きていた。
助けを求めていた。
「何と言ったんですか」
「聞き取れなかった」
「嘘です」
「本当に聞き取れなかった」
「夫は何と言ったんですか」
中原は川へ目を向けた。外灯の光が、その横顔を白く照らしている。
「……帰る、と」
由利子は息ができなくなった。
「帰る、と言ったんですか」
「そう聞こえた」
中原の声は小さかった。
「それから、声はしなくなった」
由利子は目を閉じた。
和也の声が頭の中に戻ってきた。
ただいま。
鍋、いいね。
記録が残ってないことのほうが怖いんだよ。
家庭を守るために、これを見なかったことにはできません。
帰る。
夫は最後まで、帰ろうとしていた。
由利子は目を開けた。
「なぜ助けなかったんですか」
「助けようとした」
「救急車は」
「呼ぼうとした」
「呼ばなかった」
由利子は言った。
「あなたは、証拠を探したんですね」
中原は黙った。
「夫が落ちたあと、救急車を呼ばずに、夫の鞄を探した。スマートフォンを探した。手帳を探した。メモリーカードを探した」
「黙ってください」
「だから手帳が会社から返ってこなかった。あなたが持っていったから」
「黙れ」
中原の声が荒くなった。
初めて、丁寧な仮面が完全に剥がれた。
「私だけじゃない」
中原は吐き出すように言った。
「私一人でできることじゃない。上も知っていた。処理費用を削れと圧力をかけられた。取引先にも顔がある。記録を全部残していたら、会社が回らなくなる」
「だから夫を見殺しにしたんですか」
「見殺しじゃない」
「生きていた夫を、助けなかった」
「私は殺していない」
「殺していなければ、許されるんですか」
由利子の声は、自分のものではないようだった。
「夫が水の中で帰ると言ったのを聞いて、あなたは何をしたんですか。手帳を探したんですか。柵を直す手配をしたんですか。会社に連絡したんですか」
「仕方なかった」
「夫にも家族がいました」
その一言で、中原の顔から血の気が引いた。
「あなたが守ろうとした会社にも、あなたが守ろうとした生活にも、家族があったのかもしれません。でも、夫にもありました。夫はここから帰ろうとしていました。私のいる家に」
中原は一歩後ずさった。
しかしすぐに、何かを決めたように顔を上げた。
「データはどこです」
声が変わっていた。
由利子はバッグを抱えた。
「警察に渡しました」
「コピーは」
「ありません」
「嘘だ」
中原が近づいた。
由利子は反射的に後ずさった。背後には新しい柵がある。昼間触れた冷たい金属。川の水音が近くなる。
「奥様、あなたはわかっていない。あれが出れば、私だけでは済まない。何人も巻き込まれる。会社は終わる」
「終わればいい」
由利子は言った。
「夫の命より守る価値がある会社なら、夫を助ければよかった」
中原の顔が歪んだ。
次の瞬間、彼は由利子のバッグへ手を伸ばした。
由利子は体を引いた。中原の指がバッグの持ち手を掴む。強い力だった。由利子は離すまいとしたが、足元が濡れていて滑った。背中が柵に当たる。
川の音が大きくなる。
和也も、こうだったのか。
一瞬、そう思った。
「離してください」
「渡せ」
「ありません」
「渡せ!」
中原がバッグを引いた。
そのとき、倉庫の陰から声が飛んだ。
「そこまでです」
安達だった。
同時に、複数の足音が響いた。懐中電灯の光が一斉に中原を照らす。村瀬が別方向から走ってくる。中原は由利子のバッグから手を離し、振り返った。
逃げようとした。
しかし二歩も進まないうちに、別の捜査員が行く手を塞いだ。
中原は立ち尽くした。
安達が近づく。
「中原直樹さん。廃棄物処理法違反、証拠隠滅、川岸和也さんの死亡に関する事情で、同行を求めます」
中原は肩で息をしていた。
「私は殺していない」
「それは署で聞きます」
「私は突き落としていない」
「署で聞きます」
「事故だった」
安達は中原の目を見た。
「事故のあと、あなたが何をしたかも聞きます」
中原は口を閉じた。
村瀬が由利子のそばに来た。
「大丈夫ですか」
「はい」
そう答えたが、膝が震えていた。村瀬に支えられ、由利子は柵から離れた。
中原は捜査員に囲まれていた。手錠はまだかけられていない。だが、彼はもう逃げようとはしなかった。
安達が由利子の前に来る。
「無理をさせました」
由利子は首を振った。
「録れていましたか」
「はい」
「夫が、帰ると言ったことも」
安達は少しだけ目を伏せた。
「録れています」
由利子は川を見た。
暗い水面が、外灯の光を細く揺らしていた。和也はこの水の中で、帰ると言った。誰に向けて言ったのかはわからない。中原にか。自分自身にか。それとも、由利子にか。
もう確かめることはできない。
けれど、言葉は残った。
帰る。
それは助けを求める声であり、約束でもあった。
中原が連れて行かれる。
その背中は、由利子が葬儀で見たときより小さく見えた。あの日、彼は遺族に頭を下げ、申し訳ありませんと言った。整った声で、会社としてできる限りのことをすると言った。
その男が、夫の声を聞いていた。
夫が帰ると言ったのを聞いていた。
そして、助けるより先に証拠を探した。
怒りはあった。
だが、その怒りは炎のようには燃えなかった。もっと重く、冷たいものだった。川底に沈んだ石のように、由利子の中で動かなかった。
安達が言った。
「今日はもう帰りましょう」
「少しだけ、ここにいてもいいですか」
安達は頷いた。
「近くにいます」
捜査員たちが少し離れた。
由利子は一人で柵の前に立った。
新しい柵の向こうに、川が流れている。昼間より水音が大きい。夜のせいかもしれない。あるいは、由利子の耳がその音だけを拾っているのかもしれない。
「帰りたかったんだね」
由利子は小さく言った。
声は水音に消えた。
それでよかった。
この場所に、夫の声はもうない。残っているのは、水と、金属と、湿ったアスファルトだけだ。けれど由利子は、ここに来て初めて、夫が死んだ場所を見たのではなく、夫が帰ろうとした場所を見た気がした。
和也はここで終わったのではない。
ここから帰ろうとしていた。
由利子はバッグの持ち手を握り直した。中原に掴まれた部分が、少し歪んでいる。指の跡が残っていた。
それを見て、体が遅れて震えた。
怖かった。
本当に怖かった。
中原が近づいた瞬間、自分も川へ落ちるのではないかと思った。夫と同じ場所で、同じように足を滑らせるのではないかと思った。
けれど、生きている。
由利子は息を吸った。
湿った夜の空気が肺に入る。
そのとき、安達が近づいてきた。
「川岸さん」
「はい」
「弁当箱ですが、署で確認します。中身に触れず、そのまま保全しています」
由利子は振り返った。
「開けられますか」
「必要な確認をしたあとになります。ですが、ご遺族として確認していただくことになると思います」
「わかりました」
「それから、佐伯さんは保護しています。今夜は知人宅ではなく、こちらで安全を確保します」
「よかった」
佐伯の怯えた顔が浮かんだ。
彼女もまた、和也が残した断片を抱えていた一人だった。逃げていた。怖がっていた。それでも最後には渡してくれた。
由利子は思った。
真相は、一人ではたどり着けなかった。
和也の手帳。佐伯の封筒。安達の捜査。弁当箱。鍵。録音。写真。
欠けたものが少しずつ集まり、ようやく夫の最後の輪郭が見え始めた。
それでも、完全にはならない。
和也が水に落ちた瞬間、何を思ったのか。帰るという言葉に、どれほどの力が残っていたのか。由利子の顔を思い浮かべたのか。それとも、ただ岸へ戻ろうと必死だったのか。
それは誰にもわからない。
わからないまま、抱えていくしかない。
由利子は最後にもう一度、川を見た。
遠くの住宅街の灯りが、水面に揺れていた。小さな光だった。けれど、確かにそこにあった。
夫は、あの灯りへ帰ろうとしていた。
由利子は安達のほうへ歩き出した。
旧倉庫裏を離れるとき、一度だけ振り返った。新しい柵が白く光っている。そこはもう、会社が整えた事故現場ではなかった。
夫が帰ろうとした場所だった。
午後十時三十五分、由利子は自宅に戻った。
安達の車で送ってもらった。玄関の前で礼を言うと、安達は「明日、また連絡します」とだけ言った。余計な慰めはなかった。それがありがたかった。
鍵を開けて家に入る。
玄関の灯りをつける。
和也の革靴がある。
由利子はしばらく、その前に立った。
朝、出かけるときと同じ場所に、同じ向きで揃っている。何も変わっていない。けれど由利子の中では、何かが変わっていた。
彼は帰れなかった。
でも、帰ろうとしていた。
その違いは、あまりにも大きかった。
由利子はしゃがみ、靴に手を触れた。
「聞いたよ」
声はかすれていた。
「あなた、帰るって言ったんだね」
涙が落ちた。
今度は止めなかった。
玄関のたたきに、涙が小さな点を作った。由利子は靴に額を寄せた。革の匂いは薄くなっている。それでも、まだ和也の気配があった。
「遅いよ」
由利子は泣きながら言った。
「帰るって言ったなら、帰ってきてよ」
答えはなかった。
その沈黙に、由利子はようやく泣いた。
大きな声ではなかった。嗚咽でもなかった。ただ、息が途切れ、涙が落ち続けた。玄関の冷たい床に膝をついたまま、由利子は長い間動けなかった。
泣き終えたころには、日付が変わっていた。
由利子は立ち上がり、洗面所で顔を洗った。鏡に映った顔はひどかった。目は赤く腫れ、髪も乱れている。だが、その顔を見て、由利子は少しだけ笑った。
生きている顔だった。
台所へ行き、昨日の鍋の残りを温めた。食欲はなかったが、何か食べなければと思った。湯気が上がる。豆腐は崩れ、白菜は柔らかくなりすぎていた。
由利子は小さな茶碗にご飯をよそった。
それから、迷った末に、もう一つ茶碗を出した。
和也の茶碗だった。
そこにご飯は盛らなかった。ただ、食卓の向かいに置いた。
今夜だけ。
そう思った。
明日には、片づけられるかもしれない。片づけられないかもしれない。それでも今夜だけは、そこに置いておきたかった。
由利子は一人で鍋を食べた。
涙のせいか、少ししょっぱかった。
食べ終えると、食器を洗い、テーブルを拭いた。部屋の電気を消す前に、スマートフォンを確認した。安達からの連絡はない。佐伯からもない。
外は静かだった。
布団に入ると、体は疲れ切っていた。眠れる気はしなかったが、目を閉じるとすぐに旧倉庫裏の景色が浮かんだ。新しい柵。川の水音。中原の顔。夫の声。
帰る。
その言葉が、夜の中で何度も響いた。
由利子は布団の中で、手を握った。
夫は帰れなかった。
だから、自分が帰らなければならない。
あの夜に置き去りになった自分を、ここまで連れて帰らなければならない。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
夢は見なかった。
翌朝、窓の外には薄い光が差していた。
雨は降っていない。
由利子は起き上がり、しばらく天井を見た。体のあちこちが重かった。だが、頭の中は静かだった。昨日までのように、玄関の音を待つことはなかった。
起きて、カーテンを開ける。
朝の光が部屋に入った。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
安達からだった。
「川岸さん。おはようございます」
「おはようございます」
「弁当箱の確認ができます。来られますか」
由利子は窓の外を見た。
住宅街の屋根が、朝の光に白く照らされている。
「行きます」
そう答えた声は、自分で思っていたより落ち着いていた。
五 家路
警察署の廊下は、朝の光が入らない。
古い建物だった。白い壁には細かな傷があり、床のリノリウムはところどころ鈍く光っている。誰かが早足で通り過ぎるたび、靴音が低く響いた。由利子は長椅子に腰かけ、膝の上で両手を重ねていた。
安達刑事が迎えに来たのは、午前九時五分だった。
「お待たせしました」
「いえ」
由利子は立ち上がった。
昨日の夜から、あまり眠れていない。けれど、不思議と頭は重くなかった。旧倉庫裏で中原の言葉を聞いたあと、彼女の中で何かが一度底まで沈んだ。沈みきったものは、もう揺れなかった。
もちろん、悲しみが消えたわけではない。怒りも消えていない。
ただ、夫の死が輪郭を持った。
それまで由利子は、真っ暗な部屋の中で手探りをしているようだった。壁がどこにあるのか、出口がどちらなのか、足元に何が落ちているのかもわからなかった。今は違う。暗さは残っている。けれど、どこに何があるのか少しずつ見え始めていた。
和也は足を滑らせただけではなかった。
中原に呼び出され、証拠を奪われそうになり、壊れた柵の近くで揉み合いになった。転落したあと、まだ生きていた。帰る、と言った。それなのに、中原はすぐに助けなかった。会社と自分を守るために、証拠を探し、現場を整えた。
その事実は、あまりに冷たかった。
けれど、由利子にとっては、夫が最後に帰ろうとしていたことも同じくらい確かな事実だった。
安達に案内され、由利子は小さな部屋へ入った。面談室というより、確認用の部屋らしかった。中央に机があり、椅子が二つ。壁際には書類棚が置かれている。
机の上に、透明な袋に入った弁当箱が置かれていた。
青い蓋。
角の小さな傷。
見間違えるはずがなかった。
由利子は思わず息を止めた。
「こちらで外側の確認は済ませています」
安達が言った。
「中身についても、状態を記録したうえで開封しました。ご確認いただけますか」
「はい」
声がかすれた。
村瀬が手袋をはめ、透明な袋から弁当箱を取り出した。蓋はすでに一度開けられたあとらしく、慎重に机の上へ置かれる。
由利子は椅子に座った。
座らなければ、立っていられなかった。
村瀬が蓋を開ける。
中には、洗われていない弁当箱があった。
ご飯粒が乾いて、隅に固まっている。玉子焼きの黄色はくすみ、小松菜のおひたしは色を失っていた。梅干しの赤だけが、妙に鮮やかに残っている。
由利子はそれを見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。
自分が詰めた弁当だった。
和也が死んだ日の朝、台所で何気なく詰めた弁当。
そのとき由利子は、今日が最後になるなど考えもしなかった。玉子焼きの端を少しつまみ食いし、砂糖を入れすぎたかもしれないと思った。唐揚げは冷凍食品だった。小松菜は前日の残り。梅干しは、和也が必ず入れてほしいと言っていた。
「この弁当箱は、ロッカーの奥の紙袋に入っていました」
安達が説明する。
「死亡当日の夜、もしくは翌日以降に誰かがそこへ入れた可能性があります。少なくとも、会社から返却された私物には含まれていませんでした」
「夫は、食べたんですね」
由利子は弁当箱を見つめたまま言った。
「はい。ほぼ空でした」
食べていた。
あの日も、和也は昼に弁当を食べた。いつものように蓋を開け、箸を取り、玉子焼きを最後に残したのだろうか。梅干しの種をどうしたのか。会社の休憩室で食べたのか、自分の机で急いで食べたのか。
そんな小さなことが、たまらなく知りたかった。
「それから」
安達が少し声を落とした。
「蓋の内側に、付箋が貼られていました」
村瀬が別の透明袋を出した。
中には、小さな黄色い付箋が入っていた。
乾いて、端が少し丸まっている。そこに、和也の字があった。
明日は早く帰る。
鍋がいい。
たった二行だった。
由利子は、最初、その意味をうまく理解できなかった。
明日。
早く帰る。
鍋がいい。
和也の字だった。間違いなく、和也の字だった。小さくて、少し右へ傾く。数字の七に横棒を入れる癖はない。これは数字ではない。けれど、文字の払い方が同じだった。
由利子は指を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れてはいけない。
透明な袋の上から、付箋を見つめる。
いつ書いたのだろう。
昼休みか。夕方か。帰る前か。
弁当箱の蓋の内側に貼ったということは、由利子が洗うときに気づくと思ったのだ。帰宅して、流しに弁当箱を出す。由利子が蓋を開ける。そのとき、この付箋を見る。
明日は早く帰る。
鍋がいい。
和也らしい言い方だった。
ごめん、と書かない。ありがとう、とも書かない。仕事の話もしない。けれど、そこには帰るつもりでいる人の、ささやかな未来があった。
由利子は口元を押さえた。
涙は静かに落ちた。
安達も村瀬も、何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
由利子は泣きながら、夫が弁当箱に付箋を貼る姿を想像した。会社の休憩室の隅かもしれない。誰もいないロッカーの前かもしれない。自分が帰ったあと、弁当箱を洗う由利子を思い浮かべながら、少しだけ笑ったのかもしれない。
帰ってから話すつもりだったのだ。
全部ではないにしても、何かを話すつもりだった。早く帰る。鍋がいい。その食卓で、和也はどこまで話すつもりだったのだろう。
知ることはできない。
けれど、黙って消えたのではない。
和也は、家に向かって言葉を残していた。
「川岸さん」
安達が静かに言った。
「この付箋は、いずれお返しできると思います。ただ、しばらくは証拠としてお預かりします」
「わかっています」
由利子は涙を拭いた。
「弁当箱も」
「はい」
「戻ってきたら、洗います」
安達は少しだけ目を細めた。
「そうしてあげてください」
署を出るころには、昼近くになっていた。
空は晴れていた。昨日の雨が嘘のように、青い空が広がっている。由利子は署の前でしばらく立ち止まり、深く息を吸った。排気ガスと、道路脇の植え込みの匂いが混じっていた。
安達は玄関先まで送ってくれた。
「今後、何度かお話を伺うことになると思います」
「はい」
「中原は、昨夜の時点では殺意を否認しています。突き落としてはいない、と。ただ、ご主人が転落後に生存していた可能性を認識しながら、救助より証拠の回収や現場の処理を優先した疑いがあります」
由利子は頷いた。
その言葉は重かった。
中原が突き落としたのかどうか。直接手を下したのかどうか。それは捜査の中で明らかにされるのだろう。だが、由利子にとって大切なのは、もう一つ別のことだった。
和也は助けを求める時間を奪われた。
帰る、と言った人を、中原は帰さなかった。
「会社の不正も調べるんですよね」
「ええ。押収したデータと佐伯さんの証言をもとに、管理部門や上層部にも話を聞きます。旧倉庫裏の柵、処理記録の欠落、夜間搬入の記録、すべて確認します」
「佐伯さんは」
「落ち着いています。怖がってはいますが、証言する意思は変わっていません」
「そうですか」
由利子は少し安心した。
「川岸さん」
安達が言った。
「ご主人は、記録を残していました。手帳にも、写真にも、音声にも。普通なら見落とされるようなことを、細かく残していた。だから、ここまで来られました」
「夫らしいです」
由利子は小さく言った。
「何でも書く人でした」
「その几帳面さに、こちらも助けられています」
安達はそう言って、軽く頭を下げた。
由利子も頭を下げた。
駅までの道を、由利子は一人で歩いた。
歩きながら、夫の付箋の字を思い出していた。
明日は早く帰る。
鍋がいい。
あまりにも普通の言葉だった。
だからこそ、胸に刺さった。
事件の核心は、特殊廃棄物の不正処理でも、会社の隠蔽でも、中原の保身でもある。けれど由利子にとっては、その付箋こそが夫の最後の証拠だった。
和也が生きて帰るつもりだった証拠。
明日を信じていた証拠。
帰る場所を持っていた証拠。
電車に乗ると、窓の外を住宅街が流れていった。洗濯物が干されたベランダ。自転車置き場。小さな公園。昼間の町は、何事もなかったように動いている。
由利子は、以前ならその普通さに腹を立てたかもしれない。
夫が死んだのに、どうして世界は変わらないのか。
でも今は、その普通さの中に、和也が帰ろうとしていたものを見た気がした。
駅から家までの道を歩く。
夫が毎日歩いた道だった。
改札を出て、商店街を抜け、薬局の角を曲がる。小さな橋を渡り、住宅街へ入る。家まで七分。和也はいつもこの道を、少し右肩を沈めて歩いていた。
由利子はゆっくり歩いた。
途中のコンビニの前で、足を止めた。和也は帰りが遅くなると、ここで缶コーヒーを買うことがあった。甘いものはあまり飲まないと言いながら、疲れているときだけ微糖を選んだ。由利子はレシートがポケットに入ったまま洗濯機に入っていたことを、何度か思い出した。
そういう小さな記憶が、道のあちこちに落ちていた。
家に着くと、玄関の前で鍵を出した。
和也の鍵は、まだ警察にある。
由利子は自分の鍵でドアを開けた。
家の中は静かだった。
玄関には、夫の革靴がある。
由利子は靴を脱ぎ、しばらくその革靴を見下ろした。
片づけるには、まだ早い気がした。
けれど、そのまま置いておくことも違う気がした。
由利子は買い物袋を置き、押し入れから柔らかい布と靴墨を出した。和也は革靴の手入れをほとんどしなかった。由利子が見かねて磨くことが多かった。出張の前日など、和也は申し訳なさそうに「お願いしてもいい?」と言った。
今はもう、頼まれない。
由利子は玄関に新聞紙を敷き、革靴を置いた。
布で埃を払う。つま先の擦り傷をなぞる。靴墨を少し取り、円を描くように伸ばす。黒い革が、少しずつ艶を取り戻していく。
磨きながら、由利子は泣かなかった。
涙が枯れたわけではない。ただ、今は泣くよりも、この靴をきれいにしたかった。
夫が最後に履いていた靴ではない。会社から戻された私物の中にあった、普段用の革靴だ。事故当日の靴は証拠として警察にある。それでも、玄関に残されたこの靴は、由利子にとって夫の帰宅を待ち続けたものだった。
左右を磨き終えると、由利子は靴を揃えた。
そして、すぐには箱にしまわなかった。
玄関のたたきではなく、上がり框の横に置いた。そこなら、待っているようには見えない。ただ、そこにあるものとして置いておける。
それから台所へ行った。
冷蔵庫には、まだ白菜が残っていた。豆腐もある。豚肉は買い足した。由利子は鍋を作ることにした。
一人分ではなく、少し多めに。
土鍋に水を張り、昆布を沈める。火にかける。白菜を切り、長ねぎを斜めに切る。豆腐は大きめにした。和也が好きだった切り方だ。
鍋が煮えるまでの間、由利子はリビングの仏壇の前に座った。
遺影の和也は、少し困ったように笑っている。葬儀用に選んだ写真だ。旅行先で撮ったものだった。写真を撮られるのが苦手で、笑ってと言うと余計にぎこちなくなる人だった。
「弁当箱、見つかったよ」
由利子は言った。
「付箋も」
遺影は何も答えない。
「明日は早く帰るって、書いてあった」
声が揺れた。
「遅いよ。ほんとに」
由利子は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「鍋、作ったから」
線香を一本立てた。
煙が細く上がる。
台所から、鍋の沸く音が聞こえてきた。
食卓に、由利子は茶碗を二つ置いた。
昨日は迷いながら置いた。今日は、迷わなかった。和也の茶碗にはご飯を盛らない。ただ、そこに置く。箸も添える。
死者のためではなく、自分のためだと思った。
いきなり一人分の食卓にすることはできない。
それでいい。
何もかも一度に変えなくていい。
鍋の湯気が上がる。由利子はポン酢を小皿に入れ、豆腐を取った。熱い。口の中で崩れる。和也が好きだった味だと思う。
食べながら、由利子は和也に話しかけた。
警察署へ行ったこと。
弁当箱を見たこと。
佐伯が証言していること。
中原が、夫の声を聞いていたこと。
会社の不正がこれから調べられること。
声に出して話すと、事実が一つずつ整理されていった。
和也は、もう相槌を打たない。味が薄いとも、豆腐が大きいとも言わない。それでも由利子は話した。話すことで、夫が帰れなかった夜の中に閉じ込められた自分を、少しずつ外へ連れ出している気がした。
食事を終えるころ、スマートフォンにニュース速報が入った。
東都環境管理に捜索が入ったという短い記事だった。
特殊廃棄物の不正処理疑惑。
処理記録の改ざん。
関係者から事情聴取。
和也の名前は出ていなかった。
由利子は画面をしばらく見つめたあと、スマートフォンを伏せた。
会社は、これから揺れるのだろう。中原だけで終わらないかもしれない。上層部、取引先、処理委託先。和也が手帳に残した断片は、もっと大きなものにつながっているのかもしれない。
けれど、由利子の物語はそこではない。
彼女にとって大切なのは、夫が何を守ろうとしたのか、そのことだった。
翌日から、生活は少しずつ忙しくなった。
警察からの連絡。弁護士との相談。会社からの形式的な謝罪。報道機関からの問い合わせ。知らない番号からの着信が増え、由利子は電話に出るのが怖くなった。
佐伯美緒からも連絡があった。
直接会ったのは、事件から十日ほど経ってからだった。二人は、最初に会った喫茶店で向かい合った。佐伯は少し痩せたように見えたが、目の下の疲れは前より薄くなっていた。
「証言、しました」
佐伯はそう言った。
「怖かったです。でも、話しました」
「ありがとうございます」
由利子が頭を下げると、佐伯は慌てた。
「やめてください。私、感謝されるようなことは」
「夫の手帳を届けてくれました」
「もっと早くできました」
「それでも、届けてくれました」
佐伯は黙った。
しばらくして、鞄から小さな紙袋を取り出した。
「これ、川岸さんから預かっていたものです」
「まだ何か」
由利子は胸が強張った。
佐伯は紙袋から、一冊の黒い手帳を出した。
和也の手帳だった。
由利子は息を呑んだ。
「原本は、会社に取られたんじゃ」
「これは、全部ではありません。川岸さんが亡くなる二日前、私に渡したものです。自分で持っていると危ないから、一晩だけ預かってくれと。コピーを取って返すつもりでした。でも、返せなくなって」
「警察には」
「提出しました。確認が終わって、返されたので」
由利子は手帳を受け取った。
表紙の角が擦り切れている。手に馴染む重さだった。和也が毎日持っていたもの。胸ポケットに入れ、食卓で開き、何かを書いていたもの。
由利子はその場で開くことができなかった。
「奥さんに返してくださいと言われました」
佐伯が言った。
「川岸さんが、生きていたときに」
「夫が?」
「はい。もし自分が返せなかったら、奥さんに、と」
由利子は手帳を両手で包んだ。
「佐伯さん」
「はい」
「夫は、あなたに何か言っていましたか。私のことを」
佐伯は少し迷ったあと、静かに言った。
「奥さんには、普通に暮らしていてほしい、と言っていました」
由利子は目を伏せた。
「普通に」
「はい。でも、それが一番難しいとも言っていました」
「そうですね」
由利子は小さく笑った。
「本当に、難しいです」
喫茶店を出るとき、佐伯は深く頭を下げた。
「私は、これから仕事を探します。逃げずに済む仕事を」
「いい仕事が見つかるといいですね」
「はい」
佐伯は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、由利子は思った。
誰も完全には救われない。
けれど、完全に壊れたままでもない。
欠けたところを抱えながら、人は別の場所へ歩いていく。
その夜、由利子は手帳を開いた。
リビングのテーブルの上。温かい麦茶。隣には和也の古いボールペンを置いた。
手帳には、細かな字がびっしり並んでいた。日付、数字、短い言葉。仕事の記録。買うもののメモ。由利子が頼んだ用事も書かれている。
クリーニング受け取り。
蛍光灯。
鍋つゆ不要。昆布あり。
そんな言葉の間に、17-B、N、月曜、灰色缶といった文字が現れる。日常と不正が、同じ紙の上に並んでいた。
それが和也の日々だった。
家庭と仕事。
夕食と告発。
弁当箱と証拠。
どちらか一方だけが彼の人生だったわけではない。
ページをめくっていくと、最後のほうに由利子の知らないメモがあった。
由利子にはまだ言わない。
巻き込まない。
でも、戻ったら話す。
その下に、別の日付で書かれている。
早く帰る。
鍋。
由利子は手帳を閉じた。
そして、もう一度開いた。
最後の空白ページがあった。
由利子は和也のボールペンを取った。長く使っていたせいか、軸の一部が剥げている。ペン先を紙に置くと、少しだけインクがかすれた。
何を書くかは、決めていなかった。
けれど、手が動いた。
帰れなかったあなたの代わりに、私は帰ってきました。
書き終えてから、由利子はしばらくその一文を見ていた。
大げさかもしれない。
和也なら、そんな芝居がかったことを書くなと言うかもしれない。少し困った顔で、でも消せとは言わないだろう。
由利子は手帳を閉じた。
翌朝、由利子は早く目が覚めた。
まだ夜明け前だった。窓の外は青く暗く、鳥の声も聞こえない。家の中は静かだった。
由利子は起き上がり、身支度をした。
玄関へ行く。
和也の革靴は、上がり框の横に置いてある。きれいに磨かれ、柔らかな光を返していた。由利子はその靴を見て、押し入れから靴箱を出した。空の箱だ。中に薄紙を敷き、革靴をそっと入れる。
捨てるのではない。
隠すのでもない。
きちんとしまう。
左右を揃え、薄紙をかける。蓋を閉じる前に、由利子はもう一度だけ靴に触れた。
「行ってきます」
そう言って、蓋を閉じた。
箱を押し入れの上段にしまう。手が届く場所だった。必要なら、いつでも出せる。けれど、もう玄関で待たせておくことはしない。
由利子は自分の靴を履き、家を出た。
外はまだ薄暗かった。
駅へ向かう道を歩く。和也が毎日帰ってきた道を、逆にたどる。空気は冷たく、道路脇の草に小さな露がついていた。新聞配達のバイクが遠くを走っていく。
商店街はまだ開いていない。シャッターの下りた店の前を通る。コンビニだけが明るい。和也が缶コーヒーを買ったかもしれない店だ。
由利子は橋の上で足を止めた。
川が流れている。
旧倉庫裏の川とは違う、小さな川だ。水面には朝の薄い光が揺れていた。由利子は欄干に手を置き、しばらく流れを見た。
水は、止まらない。
人が死んでも、会社が捜索を受けても、誰かが罪を問われても、朝は来る。川は流れる。駅へ向かう人が現れ、店は開き、電車は走る。
そのことを、残酷だと思う日もあるだろう。
でも今日は、少しだけ救いのようにも感じた。
由利子は橋を渡った。
夫が帰れなかった道を、自分の足で歩いている。
それは、夫を忘れることではない。
夫を過去に閉じ込めないために、歩くのだと思った。
駅前に着くころ、空が明るくなり始めた。雲の端が白く光っている。始発から数本あとの電車が、ホームに滑り込む音が聞こえた。
由利子は改札の前で立ち止まり、振り返った。
家のある方角が見えるわけではない。商店街の看板と、電線と、朝の空があるだけだ。
それでも由利子は、そこに向かって小さく頷いた。
帰る場所は、まだある。
夫はいない。
けれど、夫が帰ろうとした家は、まだある。
そこへ帰る自分も、まだいる。
由利子は改札を通らず、駅前のベンチに少しだけ座った。通勤客が増え始めている。誰も彼女のことを知らない。誰も、彼女が昨日まで何を見て、何を聞いたか知らない。
それでよかった。
日常は、知らない顔で始まる。
由利子は鞄から和也の手帳を出した。最後のページを開く。自分の書いた一文が、朝の光の中で少し青く見えた。
帰れなかったあなたの代わりに、私は帰ってきました。
由利子はそのページを閉じた。
そして、立ち上がった。
今日はどこへ行くと決めていたわけではない。何かを始める準備ができているわけでもない。悲しみが終わったわけでも、怒りが消えたわけでもない。
ただ、家から出て、ここまで歩いた。
それだけで十分だった。
帰るためだけに、道があるのではない。
帰れなかった人の思いを抱え、残された者がもう一度歩き出すためにも、道はある。
由利子は朝の光の中を歩き出した。
了




