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断章の家路

「断章の家路」


 川岸由利子が夫の死亡通知を受けたのは、六月十七日の午後三時過ぎだった。湿り気を帯びた風が団地の四階の窓を揺らし、ベランダに干したタオルが小さく翻っていたころである。電話口の相手は、夫が勤務する「東都設備管理」の総務課長だという。男の声は妙にかすれていて、連日の残業で疲れている者のそれというより、あらかじめ用意された文句を読み上げる者の息遣いに近いものを、由利子は感じた。


「ご主人が……午後一時二十七分ごろ、港北区の立体駐車場から転落し……即死の状況でして」


 言われた瞬間、受話器を支える指がかすかに震えた。しかし涙は出てこなかった。理解が遅れたのでも、動揺が極端に少なかったのでもない。ただ、現実感がついてこなかったのである。夫の和也は、前日の夜もいつものように淡々と夕食をとり、「明日は少し早く帰れると思う」と言っていた。それが、昼の一時過ぎに、横浜の外れの立体駐車場から落ちて死んだという。


 由利子は、まず「なぜそこに夫がいたのか」と訊ねた。しかし課長は、数秒の沈黙を置いたのち、こう答えた。


「得意先への定期巡回の最中だったようで……詳しい事情は、まだ警察の方も……」


 その含みのある言い回しが、彼女の胸の奥で鈍い重さとなって沈殿した。


 その夕刻、警察署での説明は形式的なものだった。現場の状況、警察官が撮ったという角度の違う三枚の写真、そして遺体の状態。

 いずれにも“事故”を否定するものはない。だが、なぜ夫があの日、あの時間に、あの場所にいたのかは、結局誰にも分からなかった。


 説明のあと、担当刑事は由利子に一冊の手帳を手渡した。夫がいつも胸ポケットに入れていた、濃紺色の小さなメモ帳である。

 開くと最後のページに、乱れた字で短い走り書きがあった。


 ——十七日 12:05 地下 見た N

 ——急ぐ 戻る


 見た、のあとに続く単語は、擦れた鉛筆の線が指の腹にかすかに移る程度で、ほとんど読めない。

 地下とはどこの地下なのか。見たものが何なのか。そして N とは誰なのか。それらは一切説明されていなかった。


 由利子は、帰宅後すぐ夫のデスクを開けた。会社から返却された鞄、ネームホルダー、工具袋、そして昼食用の保冷バッグ。

 どれも生活の続きであり、人の死という非連続を強調するかのように、日常の匂いだけが残っていた。


 しかし、一つだけ違和感のあるものがあった。

 工具袋の底に入っていた、会社支給ではない小さなLEDライト。磨耗の仕方が不自然で、角の一部に黒い汚れがついている。夫はこうした私物を仕事に持ち込む習慣がない。


 ライトのスイッチを入れる。

 白い光が部屋の壁を照らす。その瞬間、由利子の胸にふと、手帳の「地下」という文字が蘇った。


 あのライトは、暗い場所で何かを見るために使われたのではないか。

 夫は、あの日、予定にはなかった“どこかの地下”を見に行き、その直後に死んだ。

 そしてその事実を、誰も説明しようとしない。


 ——なにを見たの?

 問いは夜が更けても答えを持たなかった。


 翌日、由利子は東都設備管理のある品川のオフィスへ向かった。受付に立っただけで、社員たちの視線がかすかに逸れるのが分かった。夫の死は昨夜のうちに社内で共有されているはずなのに、哀悼の空気は薄く、むしろ“触れてはいけない事柄”のような硬さが漂っていた。


 総務課に通されると、昨日電話をしてきた課長が所在なく立ち上がった。

「このたびは……その……」


 彼の言葉は、すぐ後ろのデスクで書類を束ねている若い社員の気配に吸われるように途切れた。


「夫の昨日の行動を、詳しく教えていただけませんか」


 由利子の声は、自覚していた以上に落ち着いていた。

 課長は眉間に皺を寄せ、机の上の業務日誌をめくりながら答えた。


「昨日の巡回は、港北区と川崎区の二件のはずでした。ただ……」

 ページを指で押さえる。

「少し、予定と違う動きをしていたようです」


「違う動き?」


「ええ。十一時四十五分ごろ、会社に戻ってきているんです。一度。部品を取りに来た、と記録にはありますが……本来、そんな必要はなかったはずで」


 本来必要ない部品。予定外の帰社。そして手帳に書かれた“地下”と“N”。


 由利子はその場で、夫が会社内の、あるいは取引先の“どこかの地下”で何かを見つけ、それを確かめるために戻ってきたのではないかと推測した。


 だが課長はそれ以上の説明を避けるように、「私たちは警察の判断に従うだけで」と繰り返した。


 帰り際、エレベーター前で偶然、夫の同僚だという中年の男と目が合った。

 彼は、由利子に気づくと数歩近づき、声を潜めて言った。


「奥さん……和也さん、最近、何か悩んでませんでしたか」


「悩み……?」


「いや……あんまり、こういうこと言うといけないんだが……。少し前から、会社の“ある案件”について、表情が硬かったというか……」


「ある案件?」


 男は言い淀み、エレベーターの到着音にかき消されるようにして、短くこう続けた。


「……地下の話ですよ。きっと」


 扉が閉まり、男の姿が消えた後、由利子の背筋に冷たいものが走った。


 ——夫はやはり、“なにか”を見たのだ。


 そのなにかが、人を殺す理由になるようなものだったのだとしたら——。


 梅雨前線が関東南岸に停滞し、湿度の高い曇天が続いた。街はどこか濁った輪郭をしており、建物の壁面には薄い汚れの筋が浮き、空気そのものが古びた書類の匂いを孕んでいるようだった。

 川岸由利子は、夫が働いていた設備管理会社の資料を取り寄せようとしたが、電話越しの応対は一様に固く、要点を避けるようなものばかりだった。契約関係、巡回ルート、安全管理の報告書。どれも鍵がかけられた金庫のように閉じており、触れようとするほど拒絶の気配が強まった。


 夜、夫の遺品を並べていた部屋の奥で、ひとつ気になる封筒を見つけた。白地の角封筒で、表には雑な字体で日付だけが記されている。開くと、そこには簡素な地図と、記号のような印が三つ。手書きの線は震え、急いで描いたものらしく方向も不鮮明だ。ただ、印の位置は地下へ降りる導線らしき階段の形を暗示していた。


 その夜、床につくと、夫の足音が玄関から響いてくるような錯覚に襲われた。決まった癖で、鍵を三回鳴らす音まで聞こえた気がした。

 しかし、廊下には誰の姿もない。

 静まり返った空気だけが、ひどく冷えていた。


 翌朝、由利子は地図に示されていた場所へ向かった。横浜の湾岸エリアにある老朽化した集合ビル。表向きは複数の小さな倉庫会社が入居しているが、見た限り稼働している気配は少ない。シャッターには薄く錆が浮き、壁面に貼られた古い広告の紙が湿気で歪んでいた。


 地図の印の位置——そこには裏口の鉄扉があった。鍵はかかっていない。

 扉を押し開けると、かすかな金属の匂いと埃の溜まった冷気が流れ出した。

 階段を降りると、蛍光灯が点滅しながらかろうじて明かりを保っていた。壁には水分が染み出し、コンクリートには古い靴跡が重なっている。ひとつひとつの足跡が、かつてここにいた人々の沈黙を証言しているようだった。


 地図にあった三つの印のうち、最初の印の位置まで進むと、そこには大型機械を固定していたらしい跡が残っていた。

 何を置いていたのかはわからないが、床の部分だけ色が違う。周囲に落ちていた金属片を拾うと、表面に黒い油膜が付着した。


 ——夫はここへ来た。

 確信が、ゆっくりと背中を冷やしていった。


 その時、階段の上から微かな物音がした。

 誰かがこちらの様子を覗いているような、気配だけの揺らぎ。

 見上げると、蛍光灯のちらつきに紛れて人影の輪郭が浮かんだが、次の瞬間には消えていた。


 地図の二つ目の印。

 そこには、破棄された紙片が散乱していた。拾い上げると、印刷された文字の断片が読める。


「管理区域……」「搬入……」「記録……処理……」「安全……保……」


 文章にならないほど破られていたが、それでも何かを隠す意図があることは明らかだった。


 さらに進むと、三つ目の印の場所に到達した。薄暗い空間の奥に、鉄柵で囲われた区域がある。

 中には何も残っていない。しかし、床にだけ不自然な凹みがあり、蓋のようなものを外した痕跡があった。


 膝をつき、凹みに触れる。指先に、微かな焦げた匂いがついた。

 夫の手帳の文字が脳裏で震える。


——地下

——見た

——N


 その時だった。

 柵の向こう側の暗がりで、かすかに靴底が擦れる音がした。

 人が歩く音とも違う、何かを引きずるような濁った気配。


 由利子が身構えた瞬間、階段の上から声が落ちてきた。


「奥さん、危ないですよ」


 昨日、会社で声をかけてきた同僚の男だった。


 照明の下に姿を現した彼の顔は、昼間よりも疲れの色が濃く、無理に笑みを作る口元が引きつっている。


「ここは、入ってはいけないところなんだ。あなたのご主人も……立ち入らないように言われていたはずだ」


「夫は、何を見たのですか」


 問いかけると、男は一瞬だけ目を逸らした。


「……言えることじゃ、ないんです。みんな、知らないことにしている。

 言ってしまったら、自分の生活がどうなるか……わかってしまうから」


 由利子は一歩踏み出した。


「昨日、“地下の話”と言いましたね。あれはどういう意味ですか」


 男はしばらく答えず、やがて薄い声で呟いた。


「夫さんは……知ってしまったんです。

 本来、一般の社員には見せない記録を」


「記録?」


「ええ……。会社は、表の業務とは別に……」


 その言葉が続く直前、階段の上から別の気配が降りてきた。


「——そこまでにしておけ」


 低い声だった。

 男は弾かれたように黙り、視線を落とした。


 階段に立っていたのは、総務課長だった。昨日よりさらに表情が硬い。


「奥さん、ここは立入禁止区域です。すぐに出ていただきたい」


「夫がここで何を見たのか、教えてください」


「事故は事故です。それ以上でも以下でもない。あなたも、ご自分のために踏み込まない方がいい」


 淡々とした声音だが、その奥には強い拒絶の色が滲んでいた。


 男が小さく肩を震わせた。

 課長は彼に目を向け、抑えつけるような視線を投げた。


「……帰りましょう。奥さん」


 由利子は、柵の奥の凹みを見た。

 そこに残っていたわずかな焦げの匂いは、夫の最期の足取りを確かに指し示していた。


 だが、この場で問い詰めても、真実は出てこない。

 それだけの壁が、会社という組織を覆っていた。


 地上に出ると、空は薄い鉛のような色をしていた。

 海沿いを吹く風は重く、どこか乾いた金属を混ぜていた。


 夫の死因に近づけば近づくほど、人々の表情は硬くなり、言葉は曖昧になった。

 まるで誰もが、同じ一点を避けるように目を逸らす。


 ——真実は、会社の地下に残されている。


 そう確信したとき、背後でスマートフォンが鳴った。

 画面には「非通知」。

 出ると、低い女の声が囁いた。


「——知りたいなら、明日の夜九時。港北区の旧変電施設に来なさい。

 あなたのご主人が“見たもの”を、教えてあげる」


 通話は、それだけで切れた。


 港北区の旧変電施設は、地図上ではすでに「用途廃止」と記され、ほとんど忘れられた存在になっていた。周囲には小さな工場が並び、夜になると外灯の届かない区域が広がり、道の両端には使われなくなった配管が影となって地面に伏していた。

 六月十九日、午後八時五十五分。

 由利子は、傘を手に施設に近づいた。しとしとと降り続く雨は、舗装の剥げた路面に鈍い光を滲ませ、遠くで貨物列車の音が響くたび、濡れた鉄のような臭いが漂った。


 施設の外壁は黒ずみ、コンクリートの継ぎ目には草が伸びている。門扉は半ば壊れたまま放置され、鎖も錆びて切れかけていた。

 人が出入りしている痕跡はないように見えたが、柵の内側には乾いた靴跡が残っていた。比較的、最近のものだ。

 濡れた傘から水滴が落ちるたび、胸の奥で緊張がじわりと広がる。


 約束の九時ちょうど。

 背後で足音が止まった。

 振り返ると、薄い雨合羽を着た女性が立っていた。三十代半ばほど、表情には疲れが刻まれ、目の周辺には深い陰が落ちている。声の調子からして、例の電話の主だった。


「……こちらへ」


 女性は施設の奥へと歩き、錆びた扉を押し開けた。中は薄暗く、かつての機械設備を撤去したままの空洞だけが残っている。

 天井の配線は切られ、壁には古びた警告表示が貼りつき、何層もの埃が積もっていた。


「あなたのご主人と私は、同じチームにいたの」

 女性の声は、ひどく乾いていた。

「正確には、“会社が手を触れたくない区域”を扱う担当部署。名前は表には出てこないけれど、実質的には……処理部門に近いものね」


「処理?」


「見せられないものを片づける仕事よ。作業に関する資料には目隠しがされ、日付もルートも曖昧にされる。あなたのご主人は、その裏側に気づいた」


 由利子は、薄い息を吸った。


「夫は何を見たのですか」


 女性は躊躇のあと、床の一点を見つめながら話し始めた。


「港北の地下倉庫には、ある特殊な廃棄物が保管されていた。それ自体は違法じゃない。けれど、搬入の処理過程に問題があった。正式な申請を通さず、契約外の物質まで一緒に……。いずれ外に漏れれば、会社だけじゃ済まない規模よ」


「夫は、それを……」


「知ってしまった。あなたのご主人は几帳面で、ルールから逸れる行動に敏感だった。地下で“見た”のは、隠蔽された廃棄物の一部。そして、それを扱っていた担当者の名前……頭文字が、N」


 夫の手帳の文字が脳裏に浮かぶ。

 ——見た

 ——N


 由利子の胸に、冷たく重いものが沈んだ。


「その後、ご主人は私のところに相談に来たわ。『上に報告すべきか迷っている』って。その翌日、事故、と言われた転落死が起きた」


「事故ではなかった……?」


 女性は答えず、代わりにポケットから小さなメモを取り出した。薄い紙片には、かすれた文字が残っていた。


「これが……当日、撤去班が残していた記録よ。通常なら焼却して証拠を残さないのに、一部が落ちていた。あなたの夫が拾ったのか、あるいは……」


 メモには短い指示文が走り書きされていた。


——地下三B

——搬入物 分類外

——午前便 即処理

——他言無用


 分類外——契約外の物質を意味する符牒だ、と女性は言った。


「けれど、ご主人は踏み込んでしまった。あの区域に立ち入る人間は限られる。彼が見たと口にした、その時点で……もう」


 女性は言葉を切り、灰色の天井を見上げた。


「組織は、事故として形を整えるのが早いのよ」


 薄暗い室内に、雨音だけが響いた。

 外の世界はいつも通りに動いているのに、ここだけ時間が滞っているような、そんな錯覚を与えた。


「あなたは、なぜ私に話すのですか」


 女性はかすかに笑った。

 その笑みは、希望から遠い場所にある、諦念の色を帯びていた。


「もう、この仕事に耐えられないの。あなたのご主人は、私より先に限界に近づいていた。その死を“事故”という言葉で片づけて、私は何事もなかったように働き続けた。

 でも、もう無理よ。誰かに伝えないと、自分が壊れる」


 雨が強まり、天井の穴から滴が落ちてきた。

 由利子は、これまで胸に蓄積していた感情が、痛みに近い形で押し上げてくるのを感じた。


「夫が死んだのは……『知ったから』なんですね」


「ええ。知るべきではなかった“会社の底”に触れた。

 ご主人は、正しい人だったのよ。正直で、真面目で。だから、あの場所では生き残れなかった」


 女性は、扉の方を振り返った。


「これ以上、あなたまで巻き込むわけにはいかない。今日はここまで。

 だけど……気をつけて。向こうも、情報が漏れたかどうか、必ず探りを入れてくる」


 言い残し、女性は雨の闇に紛れた。

 残された施設の空気は、重苦しく、どこかで焦げたような匂いを含んでいた。

 まるで地下倉庫で扱われていたものの気配が、まだ残存しているかのようだった。


 由利子は傘を開きながら、冷えた夜道を戻った。

 夫が見たもの。

 会社が隠したもの。

 そして、沈黙を強要する力。


 空は低く垂れ込み、街灯の下を走る雨粒だけが、唯一の動くもののようだった。



 旧変電施設を後にした翌朝、由利子は不審な視線を感じながら目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む光は曇りがちな白さで、街の色を薄く漂わせている。

 スマートフォンを見ると、未明に数件の不在着信があった。番号はいずれも非通知。留守電は残されていない。胸の奥が鈍く収縮する。


 キッチンで湯を沸かしていると、インターホンが鳴った。

 画面にはスーツ姿の男女が二人映っていた。会社の名札を胸に下げ、柔らかい表情を作ってはいるものの、どこか張り付いた笑顔に見える。


「東都設備管理の者です。少々お時間をいただけますでしょうか」


 応対に出ると、男のほうが口を開いた。


「このたびは、ご主人の件で……私どもも心よりお悔やみ申し上げます。

 実は、ご主人の最後の業務記録について、確認していただきたい点がありまして」


 その言い回しに、由利子は違和感を覚えた。昨日まで会社は情報提供に消極的だったはずだ。突然、詳細を“確認”させようとするなど不自然に思えた。


「確認とは……?」


 女のほうが、丁寧な仕草で書類封筒を取り出した。


「事故の前日、ご主人が残されたメモについてです。社内で精査した結果、誤解を招く内容が含まれている可能性がありまして……。正式には破棄されるべきものですが、ご遺族の理解を得たうえで処置したく……」


 言外の意図が透けて見えた。

 手帳のメモを書き換えるか、もしくは“存在しなかったこと”にしたいのだ。


「その必要はありません。手帳は私が管理しています」


 男は表情を硬くした。


「奥様、会社としても、不要な誤解は……」


「夫が死亡した場所や経緯、そして昨日私が訪れた港北の倉庫について、何か説明することは?」


 投げかけると、二人の顔から温度が消え、短い沈黙が落ちた。

 女が男の袖をかすかに引いた。


「……本件に関して、奥様が独自に動かれているという話を聞きました。誤った情報は、奥様にとっても不利益になります。どうか、冷静に——」


「帰ってください」


 由利子は扉を閉めた。

 その刹那、男の低い声が聞こえた。


「……知ってしまったか」


 声は雨雲の底に沈むように平坦で、感情の起伏がない。

 扉の向こうで靴音が遠ざかる気配がして、やがて静寂が戻った。


 茫然としたままソファに腰を下ろすと、机の上の夫の手帳が目に入った。

 薄汚れた表紙の裂け目から覗く紙片は、今や夫の生前の痕跡であり、組織が消し去ろうとしている唯一の手掛かりでもあった。


 午後、由利子は再び資料を整理しようと、夫の職場の近くまで足を運んだ。ビルの前には、二日前にはなかった警備員が常駐していた。

 通り過ぎようとすると、警備員は一瞬だけ視線を鋭くし、その後すぐに何事もないように顔を伏せた。


 会社の周囲には、抑圧された空気が流れていた。

 組織が一つの方向に向かって蓋をしようとするとき、人々の視線や歩き方に、微かな異常が現れる。

 もともと音の多い街だったが、ここだけ雑踏が薄く、周辺の人間の足音が妙に揃って聞こえる気がした。


 そのとき、後方から肩を叩かれた。振り向くと、昨日の地下施設で会った女性が息を切らして立っていた。


「……追われているわ」


 彼女の頬は青白く、手には折れた傘を握りしめていた。


「今朝から何度も社の人間に呼び出されて、質問された。“昨日、どこで何をしていたか”“誰に会ったか”。答えを濁しても、彼らはわかっている……あなたのところへ話しに行ったと」


 背後の街路樹の影が揺れ、遠くで車のドアが閉まる音がした。


「もう、逃げられない。私は……良心よりも恐怖のほうが先に来た」


 そう言って彼女は震える指で紙片を差し出した。

 それは、彼女が隠し持っていた最後の記録だった。


「あなたのご主人が落ちた立体駐車場。あそこは、廃棄物の搬送ルートの一部でもある。正式なルートじゃなく、非正規の搬入口として使われていた。

 ご主人は当日、そこに搬入された“分類外”のリストを見てしまったの。

 そして、Nと名乗る人物が、その処理に関わっていた」


「Nとは誰なんです」


 女性は答えず、目だけで示した。

 視線の先には、会社ビルの上階。

 総務課長のいる階だった。


 胸の内側がゆっくりと凍っていく。

 夫を悩ませていた相手は、もっと身近にいたのだ。


 女性は続けた。


「過去にも似たケースがあった。処理過程に不備が出たとき、内部の数名が突然辞めた。

 あの人は“会社のため”と称して、都合の悪い情報を排除する。

 そのやり方は、ずっと変わらない」


 その言葉が終わる前に、道路の向こうで黒いワゴンが止まり、運転席から男が降りてきた。

 スーツ姿、無表情、目線は無機質。


 女性は浅い息を呑んだ。


「見つかった……。私はもう行くわ。あなたも気をつけて」


 彼女はそのまま路地に消え、黒いワゴンは静かに動き始めた。

 運転席の男がこちらに視線を向けている気配だけが、強く残った。


 空は重く、風はほとんど動かない。

 街のあらゆる音が濁り、輪郭を失い、まるで地面の下で大きなものが蠢いているかのようだった。


 ——夫の死は、人の手で整えられた。


 確信だけが、ゆっくりと形を成していった。



 六月二十一日。

 空は朝から鈍い色をしていた。雨こそ落ちていないが、雲は低く垂れ、街全体を押し沈めるような重さを漂わせている。

 由利子は、夫が転落した立体駐車場へ向かった。再び確かめる必要があった。あの場所は、単なる事故現場ではなく、搬入ルートとして利用されていた“入口”だったという話を、確かめずにはいられなかった。


 駐車場は、駅から少し離れた商業区域の端にある。休日の人通りはまばらで、車の出入りも少ない。管理小屋には無人の張り紙が貼られ、空気の淀みが建物の隅々に溜まっている。

 階段を上がると、三階の奥に、夫が落ちた場所へと続く手すりがあった。


 その向こうに広がる空洞のような高さ。

 見下ろすと、駐車スペースのコンクリート面に、今も黒ずんだ染みが残っていた。雨が降っても完全には消えないのだろう。


 夫が最後に立っていた位置に触れる。

 わずかに冷えた金属の感触。

 その瞬間、後ろの空気が微かに揺れた。


「危険ですよ」


 聞き覚えのある声だった。

 振り返ると、総務課長が立っていた。昨日までのような事務的な表情ではなく、別の色をまとっていた。

 眼差しは深く沈み、何かを測るように由利子を見つめている。


「あなたは、ここに来ると思っていました」


 由利子は、手帳を胸元で握りしめたまま言った。


「夫は、ここで“見た”。搬入された物、処理のリスト、不正なルート。

 それを報告しようとした。だから——」


「だから、死んだと?」

 課長はゆっくりと歩み寄り、手すりの傍に立った。

「誤解ですよ。彼は不運だっただけです。たまたま足を滑らせた。誰にでも起き得ることです」


「あなたは、そう言うように命じられているだけでしょう」


 課長の顔に、わずかな陰りが走った。


「会社を守るのが私の仕事です。それは理解していただきたい。あなたのご主人も……いえ、あなたのご主人だからこそ、知るべきではなかった」


「夫は知ってしまった。あなたたちの行いを」


「その言い方はやめていただきたい。彼は、内部の機密情報に不用意に触れた。業務委託が扱うべき区域に踏み込み、勝手に部外者へ相談しようとした。それは契約違反です」


「契約違反をしたのは、夫ではないはずです」


 課長は短く息を呑んだ。

 風が弱く吹き、手すりの影を歪ませた。


「……あなたも気づいているのでしょう。

 会社は、大きな組織です。管理しきれないものも出る。廃棄物か、記録か、あるいは人間そのものかもしれない。

 重要なのは、それを外に出さないことです」


「そのためなら、人が死んでも構わない?」


 課長は一拍置いて答えた。


「構わない、とは言いません。しかし、選ばれるべき優先順位というものは、どの社会にも存在する。

 あなたのご主人は……残念ながら、選ばれなかっただけです」


 言葉は淡々としていたが、その奥には冷えた現実の重さが潜んでいた。


「あなたも、深く関わらないほうがいい。既に何人かが、あなたの動きを追っています。

 昨日、あの女性に会いましたね。彼女はもう、戻れないでしょう」


「彼女に、何をしたんです」


「何も。

 ただ、彼女はもう自分の立場を理解したはずです。

 内部の者が越えてはならない境界線を踏み越えた。その結果がどうなるかは……あえて説明する必要もないでしょう」


 課長の言葉が静かに落ちた。

 駐車場は不気味なほど静まり返り、遠くの車の音すら薄れている。


「あなたは黙っていれば良かったんです。

 真実を追いかけるほど、あなたは失う」


「私は、すでに失っています。

 夫を奪われた日の沈黙のほうが、あなたの脅しよりよほど重い」


 課長の目に、初めてわずかな動揺が浮かんだ。


「……それでも、引き返すべきだ。

 あなたは一般人だ。この世界の力の使い方を知らない」


「だからこそ、夫は殺されたのでしょう」


 その瞬間、課長の視線が鋭くなった。

 風が止み、雲が更に重く垂れ込めた。

 駐車場の空気が、言葉にし難い圧力で満たされる。


「奥様……あなたは、よく似ていますよ。

 ご主人と。

 危険を知らないまま、正義だけを信じて踏み込む。その結果、戻れなくなる」


「戻る気はありません」


 由利子は手帳を開き、夫の最後の文字を課長の前に差し出した。


「——地下

 ——見た

 ——N


 ここに書いてあるのは、あなたです。

 夫は確かに“見た”。

 そして、その事実を隠そうとしたのが誰かも、もう隠す必要はない」


 課長の表情から、完全に血の気が引いた。


「奥様……そのメモを、渡していただけませんか。

 あなたにとっても、よくない結果になる」


「渡しません」


「本気で言っているのですか」


「ええ。本気です」


 沈黙。

 三階の駐車場は、時間が止まったように静まった。

 課長の靴先が、ゆっくりと由利子のほうへ向く。


「奥様、ここは危険です。

 足を滑らせたら——」


 その瞬間、階段のほうから大きな声が響いた。


「動くな!」


 警察官の一団が駆け上がってきた。

 先頭にいたのは、数日前に由利子へ説明を行った刑事だった。

 彼の視線はすぐに課長へ向けられた。


「内部告発の通報があった。廃棄物処理の不正と、社員への圧力。

 あなたの名前も挙がっている」


 課長の顔色が一瞬で変わった。


「……誰が通報を?」


 刑事は答えず、手錠を取り出した。


「あなたを業務上過失致死、証拠隠滅の疑いで同行してもらう」


 抵抗する暇もなく、課長は腕を押さえられた。

 眼差しだけが由利子の方を向いていた。


「奥様……あなたは……」


 その続きを言わせず、刑事は彼を連行していった。


 騒然とした空気の中、由利子は階段の影に、小さな傘を持った人影が立っているのを見つけた。

 例の女性だった。

 表情は疲れ果てていたが、まだ消えてはいなかった。


「……あのメモを警察へ送りました。

 あなたが一人で抱え込むには、あまりに重いと思ったから」


 とてもかすれた声だった。


「あなたが教えてくれたことがなければ、私はここまで来られなかった」


 女性は小さくうなずき、駐車場の外を見つめた。


「これで全部終わるわけじゃない。

 会社は大きい。処理部門も別の名前で残り続ける。

 でも……少なくとも、これは終わらせられる。

 あなたのご主人が見つけたものだけは」


 風が吹き、雲の隙間からわずかな光が落ちた。

 それは薄暗いコンクリートの上に細い帯となって伸び、夫の最期の場所を淡く照らしていた。


 由利子は、そこに静かに膝をついた。

 手帳のページをそっと閉じ、胸に抱えた。


「あなたが見たものは、もう消されない。

 私が忘れない。

 そして、誰かが必ず記録する。

 あなたが踏み込んだ地下の闇を」


 風に運ばれた光が、ゆっくりと揺れた。

 遠くで列車が通る音が響く。

 街は動き続ける。

 人々の沈黙もまた、歴史の底に積み重なる。


 由利子は立ち上がり、駐車場の出口へ歩き出した。

 背後に残った影は、もう足を引かない。

 曇天の向こうで、わずかに夏の光が滲み始めていた。


 夫が遺した断片は、静かな形を保ちながら確かに未来へ伸びていた。

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