第1話:追放令嬢、つい本音がこぼれて誤解される
帝都セレヴェリオ、第一評議の間。
白大理石の床に、染み一つない濃紅の絨毯が敷かれ、整列した廷臣たちが硬直するように沈黙していた。
その中心、皇子レグルス=セレヴェリオの隣に立つのは、黒曜の瞳と白銀の巻き髪を持つ、若き貴族令嬢――綾小路ゆかり。
王族と肩を並べる彼女は、姿勢一つ崩さず、その場に立っていた。
「綾小路ゆかり。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」
その瞬間、空気が止まった。
「……理由は?」
「君の態度だ。礼節を欠き、貴族社会に混乱をもたらし……何より、私に相応しくない」
沈黙。
ゆかりは目を閉じて一つ呼吸を整えると、静かに頭を下げた。
「承知いたしました、殿下。貴方がそうお望みであれば、私は従います」
その声に、怒りも涙も、哀れみもなかった。
完璧に調律された社交の声。何一つ乱れていない、模範的な返答。
けれど、それがかえって周囲をざわつかせた。
「退廷を命じる。以後、綾小路の名も爵位も剥奪とする。
追放先として、辺境ミリアード領の旧居住区を与える」
「……はい。ご命令に従い、即日、退去いたします」
そのまま背を向け、ゆかりは振り返ることなく玉座の間を去っていった。
その足取りに、揺れるものは何一つなかった。
陽が傾き始めた頃、荷馬車が一台、荒れた丘を登っていた。
その中には、たった一人。王都から追放された元令嬢――綾小路ゆかりの姿があった。
「……懐かしい、匂い」
窓の外、木々の香りが風に運ばれてくる。
それは、幼い頃に過ごした“香都”を思い出させた。
小さく、深く、ため息をつく。
標準語で生きることを強いられて十余年。
本当の自分を隠していた日々が、ようやく終わった。
誰もいない馬車の中、ぽつりと呟いた。
「ほんま、かなんなぁ……」
その一言が、久しぶりに漏れた“素の言葉”だった。
直後――荷台に乗っていた案内係の青年がビクリと肩を震わせた。
「……今……なんと……?」
「え? あ、ごめんなさい。つい、口が……」
「そのお言葉……ただの呟きではございますまい……!」
青年の顔が強張る。
「“かなんな”……まさか、古都に伝わる《静奏の巫言》……!? 綾小路さま、あなた様は、まさか……!」
「いや、ちゃうちゃう。うちは……」
とっさに否定しかけて、また口を押さえる。
つい、また“うち”と言ってしまった。
青年はその様子を見て、完全に確信してしまったらしい。
「そ、そうでしたか……失礼いたしました。まさかこのような大任をお引き受けなさるとは……!」
「ちょっ、待っ――」
それ以上は何も言わせてくれなかった。
馬車が停まり、青年は慌ただしく飛び降り、深く頭を下げる。
「それでは、準備を整え次第、配下をお送りいたします。何卒、今後ともよろしくお願い申し上げます!」
去っていく荷馬車を呆然と見送るゆかり。
「……なんであの人、勝手に納得して帰っていかはったん……?」
静かな風が、丘の上を吹き抜ける。
そしてその数日後――
ゆかりのもとには、なぜか荷車いっぱいの資材と人足が次々と届き始めるのだった。
まだ何もしていないのに。
本当に、ただ愚痴を漏らしただけなのに。
ゆかり自身が知らぬ間に、帝国史上最強と謳われる“香風の軍団”の物語が、動き始めていた。