18話 一方、その頃――II
一方その頃――
殿下は、家臣の報告を受けて蒼白になっていた。
「……夜の森の瘴気が、薄らいでいる……だと?」
声は震えていた。信じ難いといった様子で、殿下は呆然と立ち尽くす。
夜の森――
隣国との国境付近に広がる、百年もの間瘴気に包まれ続けた魔の森。強力な魔物の温床でありながら、初代国王と聖女が築いた結界のおかげで、我が国には被害が及ばずに済んでいた。
それゆえに対策もせず、隣国の苦境すらも他人事だった。
「何百年も瘴気に覆われていた森が、今さら晴れるなど……!」
なぜ、どうして、そんなことが――
殿下の脳裏に、ある名が浮かんだ。
「まさか……アメリアが……?」
あの“偽聖女”が、かつて「夜の森を浄化したい」と嘆願してきたことを思い出す。
もちろん却下した。夜の森の存在があった方が隣国の戦力を抑えられる。あえて放置した方が、我が国には都合がよかったからだ。
「たしか、あいつは魔法が使えた……な」
「精霊が見える」などと、見えもしないものを見えると言っていたアメリア。
確かに、彼女には魔法の才能があった。どの程度の使い手かまでは分からないが、平民としては異例の魔力量を持っていようだ。その力を利用して、自らを“聖女”と偽っていたのだろう。
……浄化の魔法についてはどうか。
実際に使うところを見たことはない。だが、彼女はたしかに「夜の森を浄化したい」と口にしていた。
――となれば、使える可能性も……?
いや、待て。アメリアは“偽りの聖女”だ。
聖女にしか使えない「浄化」を、まさか平民の娘がなれるはずがない。使えるはずなど、ないのだ。
「だが、もし夜の森を浄化したのが、アメリア……ならば。それなら俺たちは――」
ぞくりと、冷たいものが背を這い上がる。殿下の胸に、かすかな焦燥が芽生え始めたそのとき。
「殿下! 緊急のご報告です!」
扉を勢いよく押し開け、全身に砂埃をまとった騎士が玉座の間へ駆け込んできた。声は切羽詰まり、肩で息をしている。
「なんだ。こちらはいま、隣国との兵力問題に取り掛かっているところで……」
「初代聖女が張った結界が……薄まっています! 夜の森から逃げ出した魔物が、結界を突破したとの報告がありました!」
「――なんだと!?魔物が……結界を越えただと!?」
殿下の怒号が高い天井に反響する。家臣たちの顔も一様に蒼白で、事態の深刻さが隠しきれない。
「は、はい……。被害を受けた村はすでに三つ。幸い侵入したのは小型の魔物ばかりでしたが、結界内に入ったという事実そのものが……」
「そんなはずはない!あの結界は、初代国王と聖女が建国の折に張ったものだぞ!?百年以上、一度たりとも破られたことがなかったのだ!」
殿下の叫びに、一瞬、場が静まり返った。
しかし、現実は冷酷だ。誰もが理解している――結界の力は確実に弱まりつつある。
その時、騎士の背後から、ひとりの神官が姿を現した。
法衣の裾を引きずりながら歩み出る姿は、普段の厳かさからは程遠く、指に絡めた長い数珠を強く握りしめ、額には冷や汗が滲んでいる。
「おお、いいところに来たな。早急に結界を補強しなければならない。今すぐ聖女の代役を立てよ」
「既に代役は手を尽くしております。けれど、力が届きません」
大神官であるアルマディウスは焦っていた。
ここ数年、教会は聖女の功績をことごとく上位の者たちの手柄として発表してきた。
そのせいで、貴族出身の聖職者たちは聖女を「田舎娘風情」と嘲り、王子や有力貴族もまた、聖女の価値を軽んじるようになった。そして、気づいた時にはもう遅かった。
自分の知らぬところで、殿下たちが聖女を国外へ追放していたのだ。
「……残念ながら、あの結界に干渉できるのは聖女ただ一人。――どうか、追放された聖女をお呼び戻しくださいませ」
その言葉は懇願というより悲鳴に近かった。
それは聖女を思ってのことではない。失われつつある信仰と権威、そして自分の椅子を守るための必死の足掻きだった。
「それはならぬ!」と、殿下は即座に言い放つ。だが、その声は震えていた。
その場に、冷たい沈黙が落ちた。
誰もが思い浮かべるのは、あの日、殿下が自ら婚約破棄を告げ、追い払った少女の姿だった。
なぜだ……。どうしてこうなった……!
まさか、あのアメリアが本物だったのか?
あれだけ無能と決めつけ、嘲り、追放までした自分達が、間違っていたなどと……それだけは認められなかった。
だが、放ってはおけない。結界が崩れれば、この国そのものが飲み込まれる。
「……王家の文献庫を、もう一度調べてみよう。初代国王がどのようにして結界を築いたか……何か記録が残っているはずだ」
殿下は震える声で命じると、家臣たちを退け、自ら古文書保管庫へと足を運んだ。
暗く、ひんやりとした石造りの文献庫。長い間誰も立ち入った形跡のないその部屋には、埃とカビの臭いが満ちていた。殿下は思わず顔をしかめ、ゆっくりと足を踏み入れる。
埃の積もった書棚の間を、ひとり歩きながら、殿下は心の中で焦りを募らせる。
手当たり次第に巻物を広げ、棚から書簡を引き抜いた。その中で、ふと壁の奥に隠し扉のような板張りを見つけた。
「……こんなところに隠し扉があったのか」
手で押すと、ギィ……と古びた音を立てて扉が開いた。そこには、厚く封蝋が施された一本の古文書が、まるでこの瞬間を待っていたかのように鎮座していた。
封には、初代聖女の印章とともに、かすれた文字が刻まれている。震える手で封を切り、殿下は文書を読み進めた。次第に表情は固まり、血の気が引いていき――
やがてその顔から、あらゆる感情が消えた。