14話 辛い過去
昼間だというのに、薄暗い教会の廊下。
高い天井に細く切られた窓から、かろうじて日光が差し込んではいるものの、石造りの壁と床がその光を吸い込むように重々しく沈黙を保っていた。
湿った空気は埃の匂いを帯びていて、息を吸い込むたびに胸が重たくなる。
「それじゃあ代わりにやっておきなさいよ!」
そんな言葉と共に、貴族出身の聖職者に掃除道具を押し付けられた。
言われるがまま、わたしはぞうきんとバケツを受け取る。
「あ、あの~これって、掃除とか洗濯とか……聖女の仕事じゃないような……?」
言い終える前に、鋭い視線がわたしを射抜いた。
「……何を言っているのかしら?」
その声は冷たい。わざとらしくため息をつきながら、彼女は声を張った。
「私たちは先輩なのよ?聖女だからといって、何もかも許されると思わないで。後輩なら、先輩の言うことを聞くのは当然でしょう?」
すぐそばで、別の聖職者――侯爵令嬢のクローディアがくすくすと笑い、口を挟んだ。指先で艶やかに輝く金髪をそっとかき分け、滑らかに肩へと流した。
「徳を積むのも聖女の務めでしょうに、汚れ仕事を嫌がるなんて……。ああ、これだから平民は嫌だわ」
「本当ですわ、クローディア様」
こんな風に、平民の聖女が気に入らないからと、クローディアを中心に日常的にいじめを受けている。
貴族出身の聖職者たちは、平民出の私を露骨に見下し、掃除や洗濯といった雑務を当然のように押し付けた。
殿下と婚約したとき、ほんの一瞬だけ「庇ってもらえるかもしれない」と期待したけど、無駄だった。
現実は逆で、婚約者の座にわたしがいることでかえって彼女たちの反感を煽り、いじめはますます酷くなっていった。
なんと返せばやり過ごせるのか分からず、わたしはぎこちなく頭を下げる。
「す、すみません、……やります」
謝罪を口にするわたしを、口元に小さく含み笑いを浮かべて見下ろすふたり。
彼女たちが満足げに去っていくのを見送ってから、わたしはバケツの水に雑巾をひたし、ぎゅっと絞った。指先から伝わる水の冷たさが骨の髄まで染み込んでくる。
冷たい石の床。濡れた雑巾の感触。立ち上る鉄臭い水の匂い――。
ああ、寒い。辛いなあ……。
今朝も、祈りの為に夜明け前から叩き起こされた。すでに身体はへとへとだ。鐘が鳴るよりも早く祈りを強いられ、それが終われば、次から次へと尽きることのない雑務が待つ日々。
でも……がんばらなくちゃ。わたしが祈らなければ、国中の人たちが困るんだ。
古びた廊下に膝をつき、汚れを雑巾でこすりながら、わたしは何度も自分にそう言い聞かせた。
以前、大神官に言われた言葉が、耳にこびりついて離れない。
「聖女が祈らなければ、光の加護は弱まり、困るのは民です。自覚を持ちなさい」
何度も何度も、事あるごとに繰り返し聞かされてきた言葉。
気づけば、頭の中で無意識に繰り返され、こびりついて離れようとしない。
「聖女としての自覚を持ちなさい。
あなたが逃げたら、多くの人が苦しんで悲しむのですよ。」
その言葉に、いつの間にかわたしの身体を縄でぎゅうぎゅうに縛られているような感覚に陥った。
逃げることを考えると、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、自然と足は止まり、手は動かせなくなってしまう。
わたしが祈ることをやめてしまったら……?
もしもわたしが「もう無理です」と音を上げてしまったら?
その瞬間に精霊の加護は弱まり、作物は実らず、病人たちは癒されず、人里に魔物があふれてしまうかもしれない。
想像するだけで、恐怖で押しつぶされてしまいそうだった。
だから、辛くても、逃げたくても――
冷たい水で手が赤くはれてしまっても、わたしは雑巾で石の床を磨き続けた。
イグニがそっと肩に乗る。その温もりにすら涙がこぼれそうで、わたしは何も言わず、黙って手を動かし続けた。
『……あのさ、アメリア』
普段の彼らしくない、息を潜めるような声が耳に届く。
『辛いなら……逃げてもいいんじゃないか?』
胸の奥で言葉がひっかかる。逃げたい――その気持ちは確かにあった。けれど、頭の奥にくっついて離れない言葉が、今も私を押さえつける。
「……ごめん。でも、わたしが逃げたら困る人が居るから――」
返す声は小さく震えていた。自分でも、その震えが情けなくて、恥ずかしかった。
『オレにとっては、そんな“知らない誰か”よりも、アメリアの方がずっと大事なんだよっ』
その一言に、わたしは手を止めた。イグニは怒ったような顔で、「何で分からないんだよっ」と言いたげに、こちらをじっと見つめている。きっと、心の底から心配してくれているのだろう。
『……ごめんね』
それでも、まだ逃げる勇気はまだ出ない。イグニは痛々し気に眉をひそめた。
『……アメリアの馬鹿!もう、知らねーからな!』
怒鳴り声と共に、イグニはその場から飛び立ってしまった。
わたしはぽつんと残され、胸の奥が重くなるのを感じながら、何とも言えない気持ちで作業に戻った。
雑務を終えるころには、空は茜色に染まり、夕暮れの光が薄く廊下を照らしていた。
人の気配が消えた廊下に、わたしの息遣いだけが静かに響く。
「……」
わたしは部屋に戻った。
聖女に用意された部屋は、簡素いうより粗末な造りだった。木製の机と椅子が一つずつ、寝具は薄い毛布が一枚だけ。高い位置にある小さな窓から、わずかに光が差すだけで、日差しも風も届かない。
机の上には、いつもと変わらない質素な夕食が置かれていた。
木の皿の上に、硬い黒パン。器の中には、具のないぬるいスープ。
「イグニ、どこに行ってるんだろう……」
イグニはまだ部屋に戻っていないようだ。契約している以上、いずれ戻るだろうけれど……。
わたしは椅子に腰を下ろし、両手を合わせて小さく祈る。
「今日も一日、……神に、感謝を……」
じわりと涙が浮かぶ。思わずぐすっと鼻を啜り、涙をこらえるように目を閉じた。静かな部屋に、自分の小さな嗚咽だけがぽつんと響く。
目をこすって、パンをちぎって口に入れる。噛んでも噛んでも、粉っぽいだけで、味なんてしない。ただ、胃の中を埋めるためだけの食事。
スープをすする。冷たく、塩気もない。温かさも、慰めも、そこにはなかった。
「……せめて……美味しいもの、食べたいなぁ……」
誰に言うわけでもなく、切実な願いだった。




