13話 祈り
今日も一日、たくさん動いて、たくさん笑った。
ふああ。お腹もいっぱいで、きっとぐっすり眠れそう。……おやすみなさ――
『アメリア……』
今まさに夢の入り口に足を踏み入れようとしていたわたしの耳元に、咎めるような声が降ってきた。
――あ、しまった。
「う、うん!ちゃんと覚えてるよ!寝る前の、お祈りでしょっ!」
忘れてないよ!と慌ててアピールしながら、急いで毛布を跳ねのけて外に飛び出す。
外に出ると、静かな夜の空が広がっていた。
はじめてこの森に足を踏み入れたとき、頭上を覆っていたのは黒く淀んで、星の瞬き一つ見えなかった。
でも今は――ほら、こんなに。満天の星が、宝石みたいにきらきらと煌めいている。
わたしはそっと瞼を閉じ、胸の前で両手を重ねる。
「――《ピュリフィカーレ》!」
ピュリフィカーレ……それは、闇を祓い、光を呼び戻すための浄化の呪文。
静かな祈りとともに、わたしの周囲がやわらかな光に包まれる。
魔力の粒子が宙に舞い、夜の帳をそっと優しく揺らすようだった。
ここは――アルヴェイン王国と隣国・エルシオン帝国の境にある森で、通称『夜の森』。
昼間でも暗く、濃い瘴気に覆われているからそう呼ばれている。瘴気が生み出す魔物の巣となったこの森には人が寄りつかず、長く手つかずのままだった。
けれど、数週間前からわたしがこの森の浄化を始めたことで、少しずつ瘴気は薄れはじめた。
今では、こうして星空だって見上げられるようになったのだ。
今日の分の祈りを終えると一息つく。
わたしは近くの切り株に腰を下ろし、夜気に包まれながら頭上を仰いだ。
ひんやりとした空気が肌を撫でて気持ちがいい。
「ふぅ。だいぶ、空気が澄んできたねー。全ての穢れを祓うのも、もう少しかな?」
『ああ、あと二、三日もすれば完全に祓われるだろう。随分と手間を掛けさせてしまったな、すまない』
「ううん、気にしないで。わたしこそ、久しぶりにのんびりできたし、こういう時間も悪くないよ」
かつて“聖女”と呼ばれていた頃から、ユグルからは「夜の森の地下に根を張る世界樹が、瘴気で汚染されかけている」と相談を受けていた。
放置すれば汚染は瞬く間に広がり、根から幹へ、そして樹全体へと瘴気が蝕んでいくという。
「もし世界樹が枯れてしまえば、この世界そのものが取り返しのつかない危機に陥るんだ」
ユグルは困った顔で、そう告げた。
瘴気を払うには、浄化するしかない――
そして、それができるのは、聖女である私だけだった。
だから、追放されて真っ先にこの場所を目指した。
一日や二日で浄化できるような規模ではなかったから、わたしはここで暮らしながら浄化を続けている。
「んー本当はもっと早くに来たかったんだけどねー。国外に出るの、許してもらえなかったから」
国外に聖女を出すのを、教会や王族も良い顔をしてくれなかった。いくら「世界が危ない」って訴えても、精霊の姿が見えない彼らは信じてくれなかった。
結局、わたしを偽物だとレッテルを貼って、国外追放したのだけどね。
「ほんと、追放様様だよー」
わたしはわざと明るく笑ってみせた。
『アメリア……』
けれど、その笑顔を見つめ返すユグルの視線が、どこか痛々しくて。
わたしは一瞬だけ目を伏せて、それから首を横に振る。
「そんな顔をしないでよ。今の私は、自由なんだから!」
過去を引きずっていると思われたくなくて、努めて軽やかに言う。
もちろん、あの仕打ちは酷かったと思ってる。
散々こき使った挙げ句に、捨てるように追放するなんて、あんまりだよね。
でも――だからこそ、婚約破棄を告げられたときは心の底から、こう思った。
「やっと……解放された」って。
それほどまでに、あの頃の生活は過酷だった。
孤児だった頃の生活も決して楽なものではなかったけど、そこにはまだ人間らしい暮らしがあった。
誰かと笑い合ったり、ささやかな食卓を囲んだり、つかの間でも温もりを感じられる瞬間があった。
――けれど、聖女になってからの生活は、……まるで奴隷のようだった。
『……アメリアは優しいね』
ふいにかけられたその声に、思考が途切れる。
夜風がさらりと頬を撫で、わたしは振り返った。
『いや、アメリアは優しすぎる。他の人の為に……君が辛い思いすることはないんだよ。浄化だって、嫌なら断ってくれても……』
「ストップ!ストップ!」
わたしは慌てて両手を振った。
「浄化はしなきゃ、この世界は滅びちゃうところだったんでしょ!?わたしだって、まだ死にたくないし、ユグルはちょっと大げさすぎるよ~!」
ユグルはしばし黙り込んだ。
夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に残る。
『ただ……ずっと前から伝えたかったんだ』
ユグルの声は、風に揺れる枝葉のざわめきよりも静かで、けれど真っ直ぐに響いた。
『他人の為に君が犠牲になる必要はない。君は、君の好きにしていいんだ』
その言葉に、胸の奥が不意にきゅっと締めつけられる。
わたしは少し視線を逸らして、夜空を仰いだ。
「……うん。その、ありがとう」
頬が熱くなるのを隠すように、わざと明るく言葉を続ける。
「これからは……好きに生きるよ。美味しいもの食べて、好きなところに行って、やりたいことをやるんだ」
見上げた夜空には、無数の星々が瞬いていた。
丸い月が優しく光を投げかけ、森を渡る風が木々の影を揺らす。
息を吸い込めば、ひんやりと澄んだ夜気と、草木の匂いが胸いっぱいに広がっていく。
なんて世界は美しいのだろう――。
きっと、未来は明るい。
自由になった今だからこそ、そう思える。
「とりあえず、此処の浄化はもう終わりそうだし……、次はどこにいこっか?」
未来を想像して、思わず声が弾む。
「今度こそ海鮮物を食べたいな!隣国に行ったらまずは海に行って――」
『そうだね。海なら、フレーネルという街が良いんじゃないかな。大きい港があって、きっと市場も賑やかだろうから……』
次の計画を立てながら、わたしたちは肩を並べて笑い合った。
……たとえ、その背後。
森の奥深くから、じっとこちらを見つめる気配を感じていたとしても。




