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「……」
「……」
この軽快な音楽は、スマホに着信があった時に鳴るやつだ。振動元からして、遥斗のジャケットのポケットに入っているのだろう。二人の間にスマホが挟まる形になっているから、音と連動してバイブが鳴っている振動が俺にまで伝わってくる。
「…………」
「……出なくていいのか?」
「………………」
「遥斗?」
俺が促すと、遥斗は俺の手を取ったままガックリと項垂れた。ボソリと呟かれた言葉はこの距離でも聞き取れなかったけど、『なぜこのタイミングで』という嘆きと『サイレンスにしとかなかった俺のミス』という反省が入り混じっていたような気がする。
「遥斗」
その間も、遥斗のスマホは健気に音を鳴らし続けていた。
会長令息である遥斗は、大学生という身分にありながら、『見習い』やら『修行』やらと称して神宮寺グループの仕事の手伝いをしている。
俺には明言していなかったけど、中学の頃からその手の業務は任されていた雰囲気があった。普段は講義の合間や、一日の講義が終わった後にこなしているみたいだけど、実は週末もちょいちょい業務に呼ばれていることを俺は知っている。
遥斗のスマホには、それ関係の連絡もよく入るようだった。俺といる時は大抵の連絡をスルーしている遥斗だけど、業務関係はそうも言っていられないらしく、舌打ちしながらも律儀に電話に出ている姿を度々目撃していた。
もしかしたら今日も無理やり時間を空けただけで、本来ならば遥斗は業務に呼ばれていたのかもしれない。スマホがサイレンス設定にされていなかったのがその証拠と言えるだろう。
「行ってこい」
俺が数度に渡って促すと、遥斗は深々と溜め息をついた。それでも動き出さない遥斗を送り出すべく繋がっていた手を解くと、遥斗はようやく怠そうに腰を上げる。
「行ってくる、ヤだけど」
「行ってこい、御曹司。ここで大人しくしてるから」
「おー」
語尾に泣き顔の絵文字がつきそうなテンションで答えた遥斗は、声の悲壮感に反して存外キビキビとした足取りで部屋を出ていった。
やると決めたらきちんと動けるやつなんだ、遥斗は。ガキンチョだった頃から『次代の神宮寺ホールディングスのトップ』としての責務をずっと果たしてきたすごいヤツなんだから。
「失礼いたします」
そんなことを思いながら遥斗が出ていったドアを眺めていると、今度は外側からドアが開かれた。ドアの数歩前で遥斗とすれ違ったんじゃないかというタイミングで現れたのは、ウェイターよろしく片手に銀のお盆を乗せた菱木さんだ。
「お飲み物をお持ちいたしました」
「あ、はい。ありがとうございます。あ、遥斗は……」
「先程すれ違いましたよ。どうやらお仕事のお電話が入ったようですね」
こういうことは度々あるのか、菱木さんは穏やかに微笑んだまま答えてくれた。状況が共有されていることに、俺はホッと息をつく。
「遥斗様がお戻りになるまで、どうぞごゆるりとお寛ぎください」
「ありがとうございます」
ローテーブルの傍らに膝をついた菱木さんは、佇まい同様に優雅な挙措で飲み物をサーブしてくれた。並べられたロンググラスに注がれているのは、恐らくどちらも麦茶だろう。
こういう店で見ると、何だかただの麦茶まで高級品であるように思えてくるから不思議だ。……いや、俺が知らないだけで、世の中には『最高級麦茶』みたいなやつがあるのかもしれないけども。
というか、本当に麦茶だし、どっちのグラスも麦茶なんだが。てっきり遥斗用にはアイスコーヒーが出てくるかと思っていた。あいつ、コーヒーよく飲んでるし。
「遥斗様は、大切な方と同じ時間を共有することを、大事になさる方ですから」
俺がまじまじとグラスを観察していることに気付いたのだろう。
菱木さんは俺と視線を合わせるために片膝をついたまま、ニコリと、本当に心の底から嬉しそうに笑った。
「永禮様の隣で、永禮様と同じものを見て、同じものを味わって、感じる。その上で永禮様と感想を共有する。そういう何気ないことに、幸せを感じる方なのですよ」
菱木さんの言葉に目を瞬かせた俺は、一拍置いてからジワッと頬に熱が集まるのを感じた。
えっと。……菱木さんから見た遥斗って、そういう感じなんだ。というか、遥斗がそうすることを望んでいるように思っているというか。遥斗がそういう感情を俺に向けていると、思っているんだ。
くすぐったさと居た堪れなさに、顔に熱が集まり続けて引いてくれない。
同時に、今のタイミングなら探りを入れられることにも気付いた。
「あ、の。……その」
「はい」
俺が不器用に口を開くと、菱木さんは穏やかに反応してくれた。急かすこともなく、ただ柔和に微笑み続ける菱木さんからは『どんなご質問にもお答えしますよ。何なりとご遠慮なく』という、押し付けがましさを感じさせない優しさが伝わってくる。
三郷さんといい、菱木さんといい、遥斗の周りには上品でカッコいい大人がたくさんいるんだな。遥斗の人徳ゆえなのか、神宮寺家の格の違いなのか、はたまた遥斗がこういう大人に囲まれて育ったからああなったのか、一体どれが正解なんだろうか。
「遥斗から、俺のことは、……その。どんな感じで……」
その優しさに甘える形で、俺は踏み込んだ問いを何とか口にした。
中途半端に語尾は切れたが、それでも十分に意図は伝わったのだろう。菱木さんはさらに柔らかく目尻を下げると、ひとつ頷いてから答えをくれる。
「大切な方だと、幼少の頃から、お顔を拝見するたびにお伺いしておりましたよ」
だけど俺は、その答えに初手から引っかかりを覚えてしまった。
幼少の頃から? お顔を拝見するたびに?
「しっかりしているけれど、どこか抜けている。特にご自身のことになると手を抜きがちだから放っておけない。ありのままの自分をさらけだせる相手で、永禮様の前でだけは今も昔も『神宮寺』ではなく『遥斗』でいられるのだと、毎回のように聞かされてまいりました」
あぁ、なるほど。親友として語り続けてきた『大切』を、婚約者としての、……つまり恋愛面においての『大切』という意味にスライドさせて、『長年恋い慕っていた相手を口説き落としてきた』という勘違いをしてもらうことにしたのか。それなら確かに『幼少の頃から』という言葉と矛盾しない。
……にしても、『お顔を拝見するたびに』って。どれだけ菱木さんに俺の話してんだよ、遥斗。
「アピールしているつもりなのに中々通じない。口説いているつもりなのにいつもかわされる。どうしたら手っ取り早く囲い込めるものか。全世界に『俺の嫁!』って公言したいのに。そうすれば変な虫も寄ってこないようになるだろうから虫除けも楽なのに。衣食住全部面倒見たい、俺なしじゃ生きていけないくらいデロッデロに甘やかしたいとも仰っていらっしゃいまして」
「ええ……?」
「実はここだけの話、遥斗様の想いが通じるのと、遥斗様が犯罪者になるの、どちらが早いのかとも心配していたのですが」
割とその発言は本音であるらしく、そう口にした瞬間だけ菱木さんの顔からスッと表情が消えたような気がした。『気がした』で済んでいるのは、俺が瞬きをした後には、元の柔和な笑みが菱木さんの顔にあったからだ。
……いや、何か一気に『遥斗が長年口説いてきた相手』が俺じゃないような気がしてきた。
てか、その重さは何となく『大好きな親友への親愛を、実は愛情だったんだよねと勘違いしてもらいました』という推論から外れているような気がする。
というか、その『想い人』が俺であったとしたら、『虫除けが大変』という言葉が出てくることはなかったはずだ。
自慢じゃないが、十九年の人生の中でモテ期が来たことなど一度もない。女子の視界の中で、俺は常に遥斗の背景だった。背景じゃなかったとしたら壁である。
──え? つまり遥斗には、本当に、そういう意味で『好き』な相手がいるってことなのか?
不意に、ジワリと理解が及んだ事実に、横からぶん殴られたような心地がした。
──遥斗には、本物の想い人がいるんだ。
全世界に向かって『俺の嫁!』って公言したいような存在が。遥斗なしじゃ生きていけないくらいデロッデロに甘やかしたい相手が。
──じゃあ、何で。今回、俺に代役なんか。
柔らかなソファーにそのままトプンッと飲み込まれて、深海に沈んでいくかのように。
静かに、ゆっくりと、だが確実に体が沈んでいくような心地がした。実際に沈み込んでいったのは俺の体じゃなくて、心の方だったんだろうけども。
『どうして俺は、そのことにこんなにもショックを受けているんだろう?』という疑問を残しながらも、そうやって心が深海に沈んでいけばいくほど、俺の頭は冷え切って、思考も冴えていく。
──きっと、今のタイミングで表沙汰にすると、立場的にマズい相手なんじゃないだろうか。
ふと、そんな考えが頭を過った。
多分遥斗の想い人は、仕事関係者の中にいると思う。そうでなければ俺は、遥斗の想い人の存在にすぐに気付けたはずだ。だって俺達、本当にずっと一緒にいたんだから。
俺が把握していない遥斗の人間関係となると、仕事上のものということになる。仕事の関係者と恋に落ちたのだとしたら、純粋に想いだけで行動に移ることはできないだろう。
何せ遥斗は神宮寺ホールディングスの次期後継者。
想い人が取引先の人間であっても、傘下の人間であっても、少しでも仕事が絡んでくるならば『次期後継』の影響力は絶大だ。今の遥斗の立場では、その影響力から相手を完全に守ることはきっと難しい。
だから想い人がいても、今は公表することができない。今回は代役として俺を立てることで場をしのぎ、遥斗が確実に力をつけてから然るべき場で公表する。
……つまり、そういうことなのではないだろうか?
俺の頭の中では、パズルがはまりこむパチリという音が響いていた。
「遥斗様が犯罪者になる前に、無事に想いが通じたのだと分かった時には、実は肩から力が抜けた心地がいたしました」
そっか。そういうことか。何だか、すごく納得できてしまった。
俺は菱木さんの言葉に答えるように笑みを浮かべていた。そんな俺に何を感じ取ったのか、菱木さんは笑みの中にわずかに怪訝そうな表情を混ぜる。
「永禮様?」
「はい?」
「どうか、なさいましたか?」
どうか、とは、どうなんだろうか?
『やっぱ真面目に引越先探しとかないとなぁ』とか『然るべき時がきたら、ちゃんと俺にもそのお相手を紹介してくれるのかな?』とか。『その時俺は、ちゃんと笑って遥斗と想い人を祝福できるんだろうか? いや、しなくちゃいけない』とかとは思ったけども……
「菱木?」
そんなことを思った、その瞬間だった。
いつになく低い、聞いたこともないような遥斗の不機嫌な声を聞いたのは。
「お前、何を喋ったの?」
ドアが開いた音は聞こえなかった。だけどハッと声の方を振り向けば、そこにはしっかり遥斗がいる。
スマホを片手で握ったままの遥斗は、表情が抜け落ちたような顔で菱木さんを見据えていた。
そこからは、あらゆる感情が読み取れない。だというのになぜか、今の遥斗が酷く怒っているということは、瞬時に喉が干上がってしまうくらいに分かってしまった。ヒュッと変な音を上げたのを最後に、俺の喉は『声を発する』という役目を放棄する。
「何でナガレがそんな悲しそうな顔をしてるの?」
遥斗は、ドアの前から動かない。だというのに遥斗から漂う冷気と圧が、ジワジワと部屋を侵食していくような気がした。
「菱木、説明」
チラリと視線を向ければ、菱木さんの顔から血の気が引いていた。先程、戯れに遥斗がむくれていた時とは明らかに雰囲気が違う。菱木さんも、遥斗が本気で怒っていることに気付いている。
──菱木さんは、悪くない。
菱木さんは、俺の質問に答えてくれただけだ。そこから予期せぬ事実に俺が勝手に行き着いてしまって、さらに想像もしていなかったショックを勝手に受けて。それを内心だけに留めておけずに顔に出してしまった。全部全部、悪いのは俺だけだ。
だというのに遥斗は、俺には何も問わず、いきなり菱木さんだけを責めるような物言いをした。
これは、世間一般的な考えからすると、『間違っていること』なんじゃないだろうか?
「……っ、ると」
俺はその一念で、無理やり喉から声を絞り出した。俺が呻くように声を上げた瞬間、遥斗はビクリと肩を揺らしながら俺の方へ視線を向ける。
その顔に、わずかに『気まずさ』や『動揺』といったものが過るのを、俺は確かに見抜く。
そう、いつだって遥斗は俺を気遣ってくれる。その心が俺は嬉しい。
でも、今のは違う。今のはダメだ。正しくない。
その『正しくない』を真っすぐに指摘するのは、いつだって俺の役目で、俺の特権だ。
「遥斗」
俺は腹に力を入れ直すと、もう一度しっかりと遥斗の名前を呼んだ。そんな俺の呼び声で己のやましさに思い至ったのか、遥斗の瞳が微かに震える。
よし、ここまで来れば、もう一押し。
俺は気合いを入れ直すと、キッと遥斗を睨み付けた。
「遥斗、メッ!」
幼い頃から、俺基準で遥斗が何か間違ったことをするたびに繰り返し聞かせてきた合言葉を口にする。その一言の効果は覿面で、遥斗は思いっきり動揺を顔に出した。まぁ、菱木さんも遥斗の反応にある意味動揺しているみたいだけども。
「今のは、菱木さんに八つ当たりする場面じゃないだろ? 何か気になることがあったんなら、俺と菱木さん、両方に事情を訊くべきだ」
遥斗は、神宮寺の御曹司だ。俺と同じ学校に通い続けて同じ学歴を持っていても、やはり生きている世界というか、持っている常識が違う。中にはド庶民の俺から見ると『それってどうなの?』と思うものもある。
その違和感を覚えた時に、遥斗のストッパーになるというのも、俺の役目のひとつだった。何でも『その差異を教えてもらっておかないと、人の上に立った時にみんなの気持ちが分からない』とかで、割と重要なことなんだとか。
『だからナガレが「なんかヤだな」って思ったら、ちゃんと教えてくれよな』と、俺は昔から事あるごとに屈託なく遥斗から伝えられている。『仕事の関係者だと、どうしても尻込みしちゃうらしくてさ。ナガレが適任なんだよね』とのことらしい。
「決めつけは、良くない。だから『メッ!』だ」
俺は人差し指を遥斗に向かって伸ばしながら、今回の『なんかヤだなポイント』を指摘した。
そんな俺からの指摘に、遥斗は分かりやすくしょぼくれる。
「ごめん。戻ってきたら、何かナガレがヘコんだ顔してたから、思わず、つい」
「謝る相手は俺じゃないだろ?」
「……ごめんなさい、菱木。今の、八つ当たりだった」
「は、……あ、いえ」
俺の言葉を受けた遥斗は、素直に菱木さんへ謝罪を口にする。さっきまで部屋を染めていた怒気はすっかり鳴りを潜めていた。どうやら俺の指摘を受けて我に返ったらしい。
「滅相もないこと、です」
対する菱木さんは、少し呆気に取られているようだった。銀縁メガネの奥の瞳が、戸惑うようにキョトキョトと瞬きをしている。
うんうん、驚くよな。遥斗の暴君モード。普段のポヤッと温和な遥斗との落差が酷すぎて。
「で? 菱木とナガレは何の話をしていたの?」
暴君モードからショボジョボモードを経た遥斗は、通常テンションを取り戻したようだった。菱木さんが一歩体を引くと同時に俺の方へ踏み出してきた遥斗は、ソファーを回り込むと俺の隣に腰を下ろす。
「んー、まぁ、……色々?」
「ナガレ? 何誤魔化そうとしてるの、お前」
「色々、俺の知らない遥斗のことを聞かせてもらってさ。『はー、俺の知らない遥斗の話だわぁ』って、何かちょっと思いを馳せてたっていうかさ」
「えー? それであんな表情になるぅ?」
遥斗の調子に合わせて会話を続けながら菱木さんにチラリと視線を投げると、菱木さんは俺に軽く頭を下げてから静かに退室していった。どうやら『この隙に一回離脱して』という俺の指示を的確に汲み取ってくれたらしい。
さすがは菱木さんだ。さてはメッチャ仕事できる人だな? いや、ここまででのやり取りと、遥斗が贔屓にしてるって時点でシゴデキは確定だとは思うんだけども。
──知っちゃったからには、気を引き締めていかないと。
遥斗に本物の想い人がいるならば。
俺に課された役割は、その『本物の想い人』の手を、いつか遥斗がちゃんと取れるように。遥斗がその未来を勝ち取れるように、しっかりアシストしてやることだ。
──とりあえずは、パーティーを無事に乗り切らなきゃな。
その覚悟を新たにするたびに、胸の奥が何だかズシリと重くなるような気がするけども。
きっとこれは、あれだろう。『何もかもを知っていると思い込んでいた親友に、自分が知らない間にメッチャゾッコンらしい想い人ができていた』という事実が面白くないとか。今まで俺が『遥斗の一番』だったのに、その座を見も知らぬ相手に譲り渡さなきゃいけない雰囲気を察知したからだとか。そういうみみっちい、子供っぽい独占欲が暴走しかけているに違いない。
そんな感情にかかずらっているわけにはいかない。何せ遥斗の人生が俺の働きにかかっているのだから。
遥斗からの質問をノラリクラリとかわし続けながら、俺は改めてそんなことを考えていた。