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「デートっつーから何事かと思ったら」
慣れない空間に落ち着かなさを覚えた俺は、視界の中で唯一見慣れている幼馴染の親友に八つ当たりじみた言葉を向ける。
「『パーティーに着てくスーツを作りに行くぞ』って話なら、そう言えよな」
「これも立派なデートっしょ」
対する幼馴染は、先程から実に満足そうな顔で俺のことを眺めていた。
そんな視線の先で俺は、この店の従業員さん……テーラーさんに体の隅から隅まで採寸されている真っ最中だ。肩幅から身長からよく分からない部位まで、テーラーさんの指示通りのポーズを取っては巻き尺に巻かれるという作業を繰り返している。
「いつか俺の財布で上から下まで誂えてみたかったんだよね、ナガレの服」
「あー、そうかい……」
若干ギラついた視線を感じるような気がするのは、俺の気のせいなんだろうか。まるでライオンに目をつけられたウサギみたいな心境なんだけども。
──そういや、確かにそれも前から言われてはいたよなぁ……
俺のバイトが休みで、遥斗も予定が入っていないという土曜日の本日。
俺が遥斗に連れられてやってきたのは、お高い服屋がところ狭しと並ぶとある地区の、一等地に店を構えた紳士服専門店だった。
どうやら遥斗の父さんを始めとした神宮寺家が贔屓にしている店らしく、遥斗自身とテーラーさん……菱木さんも顔馴染みの仲であるらしい。あらかじめ今日の来店も遥斗から連絡が行っていたようで、店を訪れた際には店前で待っていた菱木さんにお出迎えのご挨拶までいただいてしまった。
当たり前のように『遥斗様、永禮様、いらっしゃいませ』と初対面で名前を呼ばれた俺が、驚愕に間抜けな声を上げたのは言うまでもない。
──住んでる世界がマジで違う。
俺は巻き尺に巻かれながら、チラリと店内に視線を走らせた。
落ち着いた木目調の店内は、この店が積み重ねてきた歴史を感じさせながらも古臭さは感じさせない。上品で、洗練されていて、足を踏み入れる前から『あ、ここはド高い店だ』と分かるのに、下手に来店者を威圧することもない。しっとりと落ち着いた空間は、こんな店とは縁のないド庶民である俺にも居心地の良さを与えてくれる。
──本物の『いい店』って、こういうのを言うんだろうな。
時々、憧れのハイブランド品を手にすべく一生懸命お金を貯めていざ店を訪れたら、そういう世界に慣れてなさすぎるのを見抜かれて、店員さんにこっぴどい扱いを受けた、なんて話を聞くけども。
この店は、そんな気配を微塵も感じない。……まぁ、俺の場合は『遥斗の連れだから』っていう理由が強いのかもしれないけども。
「ありがとうございました。採寸は以上で終了でございます」
そんなことを考えている間に、菱木さんによる採寸は終わったらしい。菱木さんが一歩俺から離れた気配を察して振り返れば、菱木さんは銀縁メガネの奥からニコリと穏やかに微笑みかけてくれる。
「お疲れ様でした。何かお飲み物をご用意いたします」
「あ、いえ」
「慣れない場所で、慣れないことをしていれば、体は無意識のうちに疲弊するものです。どうぞ遠慮なく寛いでいってくださいませ」
『服の注文に来ただけなのに、そんなお気遣いまで』と俺は思わず遠慮しようとするが、菱木さんは柔らかく笑みを深めると先回りして言葉を紡ぐ。
「遥斗様がようやく口説き落としたという、大切なご婚約者様ですから。遥斗様の長年の片想いを陰ながら応援していた身としては、永禮様にもぜひ尽くさせていただきたく」
「え?」
「菱木!」
思わぬ言葉に、俺はキョトンと菱木さんを見つめる。
そんな俺が我に返るよりも、遥斗が慌てたように菱木さんの名前を叫ぶ方が早かった。反射的に遥斗を振り返ると、遥斗はキッと菱木さんを睨み付けている。ただしそれは幼子が照れを隠すかのような睨み付け方だ。本気で怒っているわけではない。
それが菱木さんにも分かったのだろう。クスクスと微かに笑った菱木さんは、片手を胸に置くと軽く形だけ頭を下げる。
「これは口が滑りましたね、失礼いたしました」
菱木さん、さては遥斗に懐かれている自覚があるな? 双方に『懐いている・懐かれている』という自覚がなければ、こんなやり取りは発生しない。
遥斗って、誰にでも人懐っこいように見えて、案外心のガードは固いから。こういう砕けたやり取りって、実は俺以外とは珍しいんだよな。
「んもぅ。菱木は時々妙に口が軽いんだから」
「おや。これでも時と場は弁えているつもりですが」
「それは分かってる」
むぅ、とさらに顔をむくれさせた遥斗は、ズンズンと俺に近付くとパシリと俺の手首を取った。さらにそのまま歩を進めていく遥斗に連れられる形で、俺も遥斗とともに歩き始める。
「えっ、ちょっ!?」
「いつもの部屋で待たせてもらうから」
「承りました」
柔和な笑みを浮かべたまま深く頭を下げる菱木さんをその場に残して、遥斗はズンズンと店の奥へ進んでいく。
著名人の来店がバッティングしても顔を合わせなくて良いようにという配慮なのか、店内は初見の俺には造りが把握できないくらい複雑に入り組んでいた。
廊下を進むとすぐに展示室のような部屋があって、道なりに角を曲がると今度はフィッティングルームの入口前に出る。
そんな迷路のような通路を、遥斗は慣れ親しんだ場所を行くかのように進んでいく。俺はというと、もはや自力で店表に戻れる気さえしない。
「この後は、生地とか、カタログとか見せてもらうことになってるから」
迷う素振りを見せることなく廊下を進んだ遥斗は、壁に同化するかのようにひっそりと存在していたドアの前で足を止めた。流れるような所作でノックをした遥斗は、中から返事がないことを確かめるとドアを開く。
仕草で促されて中へ足を踏み込むと、ドアの先には外観からの想像よりも広い部屋が広がっていた。
先程、採寸を行なっていた部屋と同じく、三方の壁にはハンガーに吊るされたジャケットやスラックス、その他何に使うのか分からない生地やら小物やらが品良く並べられている。
だが部屋の中心には広々としたソファーと落ち着いた木目のローテーブルが設置されていて、ここが会談や商談のための部屋であることは何となく雰囲気で察せられた。遥斗が『いつもの部屋』と言っていた辺りから考えるに、VIPルームというやつなのかもしれない。
「一応、先に俺から一通りの希望は伝えてあるんだけども。ナガレも実物を見て、色々思ったことを教えてよ」
思わず俺は『ほへぇ』と庶民丸出しの反応をしてしまった。そんな俺は遥斗の言葉で我に返る。
「教えてよって言われても」
俺が振り返ると、遥斗は後ろ手でドアを閉めたところだった。俺の声に動揺が表れていることを察したのか、遥斗は『ん?』と可愛らしく小首を傾げてみせる。
「俺には何も分かんねぇよ。スーツなんて、大学入学の時に、そこら辺の店で適当に買っただけだし」
「色とか生地の好みとか、小物の色の取り合わせとかさ。そういうのはナガレにしか分かんないじゃない?」
『難しいことは考えなくてもいいんだって』と笑いながら、遥斗は俺を追い越して三人掛けソファーへ腰を下ろした。
今日の遥斗は、こういう店に来ると分かっていたからなのか、ソフトジャケットに足首丈の細身のスラックスという、ビジネスカジュアルと言われても通用しそうな服装をしている。夏用の物なのかジャケットは袖や裾が短めで、手首に輝くお洒落な時計がいい感じにアクセントになっていた。
そんな格好の遥斗が、いかにも高そうなソファーに臆することなく腰掛け、スラリと優雅に足を組むと、何だかそれだけでものすごく様になった。特に服装に関して何も言われていなかったから、ティーシャツに適当なパンツ、上着代わりに半袖のパーカーを羽織った自分とは何もかもが天と地ほどの差があるような気がする。
てかそうだ。こういう店に連れて来るんだったら、最初から教えてくれても良かったじゃん。この店自体にドレスコードがありそうなもんなのに。
「普段服買う時にだって、お前が散々アドバイスしてくれるじゃん。それが外れたこともないし……」
「『似合う・似合わない』と、『好き・嫌い』は話が別」
「いや、……今日注文する服って、お前の人生がかかってる重要な場所に戦いに行くための装備品になるわけだろ?」
ゲームに喩えるならば、ボス戦を前にそれに耐えうる装備を整えに来た、という感じだろう。
ゲームだったら、何度でもやり直せる。だけど遥斗の人生は一度しかない。今度のパーティーでヘマを踏めば、最悪の場合、遥斗は誰かと無理やり結婚させられて、一生不自由な思いをする可能性だってある。
人は見た目が九割、なんていう言葉もあるくらいだ。平々凡々なド庶民の俺だって、この店で装備を整えてもらえば、遥斗が人生の自由を勝ち取るための多少の武器にはなれるかもしれない。
「それこそ、俺の好き嫌いじゃなくて、遥斗の確かな目で見て選んだ『似合う・似合わない』を優先してもらった方が……」
そこまで口にしてから、俺は先程の菱木さんの発言に引っかかる言葉があったことを思い出した。
「てかお前、菱木さんに俺のこと、何って説明したんだよ?」
「おん?」
「『ようやく口説き落とした』とか『長年の片想い』とかさ。どんな話でっち上げたんだよ」
そう、気になったのはそこだ。いくら何でも話を盛りすぎじゃないか? そこまで盛る必要があったのか?
「おかげで何か、ものすんごい丁重に扱われてるじゃん。『下にも置かない』っていうのを体現してるっていうか」
「元からこの店は、どんな客が相手でも、礼を失するような対応はしないけどね」
『でもまぁ、ナガレが訊きたいのは、そういうことじゃないよね』と続けた遥斗は、ポンポンッと己の隣を叩いた。どうやら内緒話がしたいから、もっとこっちに寄ってこいと言いたいらしい。
確かに、一理ある。というよりも、俺もほんのり疲れを自覚してきたから、いい加減座りたい。
俺は招きに応じて素直に遥斗の隣に腰を下ろす。そんな俺へさらににじり寄った遥斗は、ヒソヒソと状況を説明し始めた。
「『婚約者を連れて行く。婚約者用に一式誂えたいからよろしく』って伝えて、一通りの趣味とか嗜好を説明しておいた。あ、今から出されるドリンク、ナガレの分は麦茶だけど、良かったよな?」
「カフェインと相性最悪でコーヒーも紅茶も緑茶もダメな俺としてはメチャクチャありがたいけども。こんな洒落た店に麦茶のストックなんて、絶対になかっただろ」
「いいんだよ。これからはナガレが常連に加わるんだから」
なぁ、俺って、期間限定の偽装用の婚約者だよな? お前はこの三ヶ月の間に、俺を何回ここに連れてくるつもりなんだ?
「『婚約者』っていう関係は、もう始まってんだぞ、ナガレ」
呆れやら困惑やらが顔に出てしまっていたのか、遥斗は俺を叱咤するように眉をひそめるとおもむろに俺の手を取った。手のひら同士を擦り合わせるような握り方は、俗に『恋人繋ぎ』と言われているやつだ。
「周りに俺らの仲を存分に見せつけて、立ち入る隙はイチマイクロもないってことを分からせてやらないと」
「分かった、分かったから……っ!」
いきなり手を繋ぐな! 手汗とか大丈夫だったか気になるだろっ!
この繋ぎ方だと、遥斗のちょっと高めの体温とか、見た目よりもしっかりしてる感触とかがモロに伝わってきて、何だか落ち着かない。
てか手を繋いだのなんていつぶりなんだ。ふざけて中学生の頃に学校帰りに繋いだのが最後なんじゃないだろうか。
俺の手と比べると華奢に見える遥斗の手だけど、こうやって直に触れてると案外力強い……ってそういう話じゃなくて!
「なぁ、ナガレ、あのさ……」
俺の焦りが伝わったのか。あるいは、触れ合っている手を通して俺の体温が上がっているのが分かったのか。
ふと、遥斗は改まった声で俺の名前を呼んだ。そのことに俺が思わず肩をビクつかせると、繋がった手にキュッと力が込められる。
まるで俺をこの場に繋ぎ止めるかのように。あるいは、さらに俺を、……体だけじゃなくて心まで、俺を引き寄せるかのように。
「婚約のことなんだけど……」
「え……」
婚約のこと?
思わぬ、というよりも、散々聞かされてきたけどもこの場で改めて切り出されるとは思っていなかった言葉に、俺は思わず遥斗へ顔を向ける。同じタイミングで遥斗も顔を上げたせいで、至近距離で目があった。
いつになく近い距離に、色素の明るい遥斗の瞳がある。
吸い込まれそう。
そんなことを、思った瞬間。
……俺達の間から、何やら聞き慣れた電子音が響き渡った。




