1
「で?」
「ん?」
「何でこうなる?」
「いや、婚約の基本じゃね?」
俺の言葉に、遥斗はどこまでも爽やかな笑みを浮かべた。
イケメンの笑顔は目にまぶしい。たとえ背景が積み上げられた引っ越し用段ボールでできた壁であっても。
「同棲!」
「いや、待て。まずは俺とお前の常識を突き合わせることから始めよう」
俺、永禮晴海は、鈍く痛み始めた頭を労るように眉間を軽く揉み込んだ。
俺は先日、目の前にいるこの幼馴染、神宮寺遥斗から婚約者になってほしいと頼み込まれた。
惚れた腫れたのあれやそれやからではない。
国内有数の大企業の会長令息である遥斗は、十九歳の大学生という身の上でありながら親族から早く身を固めるように迫られている。遥斗自身に結婚の意思はないにも関わらず、だ。
暴走した親族に有無を言わせず婚約者披露の場を用意されてしまった遥斗だが、適当な代役を立てようものならその代役と強制的に結婚させられかねない。
一計を案じた遥斗は、『事が片付いた後、あっさり婚約を解消でき、一連の裏事情に関して確実に口をつぐんで他に漏らさない相手』という点から、親友である俺を偽の婚約者として立てることにした。
つまり俺は、厄介な連中の心をへし折るために用意されたダミーである。
そう、すなわちこれは、世に言う『偽装結婚』というやつだ。いや、婚約だけだから『偽装婚約』の方が正しいか。
俺達の間には友情しかなく、この偽装婚約は『三ヶ月後のパーティーを乗り切るまで』という期間限定のもの。つまり俺達は、公の場で、それっぽい雰囲気を醸すことができれば、それでいいはずだ。
……だというのになぜか俺は今、自分のアパートに置いていた私物のほぼ全てを抱えて、遥斗のマンションにいる。遊びに来るたびに『おぉ、さすがは御曹司。バカみたいに広くて綺麗なお宅だな』と思っていた遥斗の家に、今日から住むことになっている。
正直、わけが分からない。
いや、『先日』って三日前のことだぞっ!? だってのに何でもう俺は引っ越し業者に急き立てられるように遥斗ん家に転がり込んでんだっ!?
「まず、俺達の婚約は、期間限定の偽装なんだよな? それなのにここまでする必要はどこにあるんだ?」
「いやさ、ナガレ。俺達って、長いこと親友やってるから、仲良しは仲良しじゃん?」
荷物を運び込む引っ越し業者さん達にテキパキと指示を出しながら、遥斗は俺の質問にもテキパキと答えてくれる。
お前、普段ポヤッとしてるけど、こういうトコはシゴデキ御曹司みあるよな。
「でもその『仲良し』って、親友としての『仲良し』なわけよ。婚約者ってなると、それとはまた別の仲良し感がいるわけ」
「それは、分かるけども」
「だからさ、これはその特訓の一環」
業者さんに一通り必要な指示を出し終わった遥斗は、ヒラリと片手を振ってから俺に体ごと向き直る。
その態度は至極真摯だが、飛び出てきた言葉は相変わらず突拍子極まりない。
「まずは形から夫夫になってみようかなって」
「待て。俺達が目指すべきは『婚約者』だよな?」
「似たようなモンっしょ!」
「アバウトにも程があんだろ」
反論に疲れてきた俺は、ダイニングセットの椅子を引いて腰を下ろした。そんな俺の様子を見て取った遥斗は、すかさずキッチン……というか『厨房』と呼んだ方が似合う空間を突っ切って冷蔵庫に向かうと、缶飲料を取り出してきて俺の前まで運んでくれる。
キンキンに冷やした缶コーラ。まさしく今飲みたいと思っていた物を目の前に置かれた俺は、考えるよりも早くコーラを手に取るとプルタブを引いて中身を一息に煽った。
「まぁいいじゃん。ナガレ、引っ越し先探してたわけだし」
空になった缶をカンッとテーブルに叩き付ける。
そのタイミングを見計らったかのように、遥斗は歌うように機嫌よく口を開いた。反射的に胡乱げな視線を向ければ、遥斗は再び姿を現した引っ越し業者さんからバインダーを受け取り、挟まれていた書類にサラサラとペンを走らせている。
「散々言ってたじゃんか。家賃と立地が釣り合う物件がなくて困ってるって」
「いや、まぁ、それは……」
そう、実は遥斗の言う通りだった。
俺が元々住んでいたのは、最寄り駅から徒歩三分という好立地の代償に、築年数が軽く半世紀を越えているという超おんぼろアパートだった。
雨漏り、音漏れは当たり前。部屋によっては明らかに床板やら畳やらが腐っているというところもあったらしい。『こんなに酷い部屋を賃貸として貸し出すことは法に触れないのか』という疑問を抱くような惨状ではあったが、とにかく家賃が安かった。
入居を決めた時には両親にも遥斗にも反対されたけども、最寄り駅から大学まで電車乗換なし十五分という好立地と、破格の家賃が決め手だった。
どうせ部屋には寝に帰るだけだし、こんなおんぼろアパートに盗みに入る強盗もいない。というか、盗られるような金目の物もない。格闘技の経験はないけど見た目だけなら俺はイカついし、安全面に問題を感じることもなかった。
というわけで、俺はおんぼろアパート大学生ライフをそれなりに楽しんでいたわけだが。
このたび大変残念なことに、俺の大学生活が終わるよりも早く、おんぼろアパートの寿命が先に来てしまった。
「だからやめとけって散々言ったのに。床抜けたのがナガレの部屋じゃなかっただけ良かったよ」
「うっ……」
急に温度を下げた遥斗の声に、俺は反論できずに言葉を詰まらせる。
そう、ひと月ほど前のこと。ついに隣の部屋の床が抜けたとかで、アパートの解体が決まってしまったのだ。
住人の完全退去までに残された猶予は半年。俺は慌てて物件を探し始めたけど、ゴールデンウィーク明けなどという中途半端な時期が災いして、学生向け物件の空きは見つからなかった。あっても大学まで遠かったり、家賃がバカ高かったりと、俺が求める条件にあう物件は皆無で、俺は頭を抱えていた。
だから正直、この同居は助かると言えば助かる。素直に言えば、メッチャ助かる。いや、元々遥斗からは『もう俺んトコ住めばいいじゃん。部屋も余ってるしさぁ!』とは言われてたんだけども。
いやでもさ、いくら遥斗が金持ちで、大学進学を機にメッチャ広いマンションで一人暮らしを始めたからって、それに甘えて住まいまで提供してもらうってのは、さすがに図々しいと思うわけよ。親友であっても、そういう部分はきっちりすべきだと思うし。『せめて家賃は折半にしたい』って訴えてみても、遥斗が聞き入れてくれる気がしないし。
てかこの豪邸加減からして、折半どころか四半分でさえ、俺のサイフでは捻出できる気がしない。詳しい家賃、聞いたことないけども。
そんな世知辛くて情けない諸々を、俺は脳裏でグルグル転がす。……いや、この局面で転がしてみたところで、結論も何もないんだけども。
「……悪い。パーティーが終わったら出ていけるように、しっかり物件探しとくから」
「だーから、ずっとここに住めばいいって」
結局、しばらくモゴモゴと反論を探した俺は、気まずさに視線をそらしながら降参の意を示した。一方、バインダーを業者さんに返して『お疲れ様でした』と軽く声をかけた遥斗は、軽く腕を組みながら改めて俺に向き直る。
「ナガレ、羨ましがってたじゃん。三郷さんの送迎。ここで一緒に暮らせば、自動的にナガレも三郷さんに送迎してもらえることになるんだよ?」
「いや、誰だって羨ましいだろ。快適安全運転の送迎で目的地までドア・ツー・ドアしてもらえるから、満員電車に揉まれることも、寝過ごすこともないとか」
そう、さすがお坊ちゃんと言うべきか、遥斗には専属の運転士さんがついた送迎車が用意されている。『三郷さん』というのは、遥斗専属の運転士さんの名前だ。
ロマンスグレーの髪をビシッと撫でつけ、いついかなる時も上品なスーツと白手袋スタイルを崩さない三郷さんは、まさに『英国紳士』という言葉の擬人化とも言うべき優雅な紳士である。俺がガキンチョだった頃から、俺のことも遥斗と同様に丁重に扱ってくれた。
俺は常々、『三郷さんみたいな上品な大人になりたいな』と思い、さらに続けて『俺みたいなチンチクリンじゃ、どう頑張ってみてもあの境地は無理だな、うん』と考える日々を送っている。
「あとさ、俺と同棲すれば、フキさんの料理も食べ放題よ?」
「ウグッ……!」
「塩気強めの卵焼き、ほっこり美味しい筑前煮、具だくさんの豚汁、ガッツリ胃袋に溜まる唐揚げ、焼きたての秋刀魚なんかもう最高で」
「ぬっぐぅぅっ! 言うな、それ以上言うな……っ!!」
フキさんというのは、神宮寺家に仕えている家政婦さんだ。遥斗が大学進学を機にこの部屋で一人暮らしを始めてからは、ここに通いで家事をしに来てくれているらしい。
神宮寺家には専属の料理人もいるが、時折フキさんも台所に立つ。そんなフキさんが作る和食が、もう俺の食の好みドストライクをつきまくりなんだ、これが。
遥斗のお弁当に入っていた卵焼きをかっぱらったあの日から、俺の胃袋はすっかりフキさんに捕まえられてしまった。それを知って喜んだフキさんは、今でも俺が遥斗の家に遊びに来ることを知ると、せっせと歓迎の料理を用意してくれる。
そっか。ここに住めば、今まで以上にフキさんの料理が食べられる……って、待て待て待て。流されてはいけない、流されては!
「ちなみに今日は唐揚げだってさ。歓迎の意味を込めて」
「わーい! ……って、そうじゃないっ!」
すっかり意識が本来の論点からずれてしまっている。元々俺は『婚約を偽装するのに同居までする必要はないんじゃないか』ってことを話していたはずなのに!
「まぁまぁ、硬いことは置いといてさ」
思わず頭を抱える俺にホケホケと食えない笑みを浮かべながら、遥斗は俺の腕を両手で引いた。その力に逆らわずに椅子から腰を上げると、遥斗はそのまま俺を部屋の外まで引っ張っていく。
「ナガレの部屋! こっちな!」
勝手知ったる遥斗のマンションを、俺は腕を引かれるがまま大人しくついていく。
案内された先は、今まで前を通ることはあっても、扉を開けたことはない部屋の前だった。恐らく遥斗の寝室の隣にあたる部屋のはずだ。
「とりあえず、大きい物はここに運び込んでもらったから。細々した物が入った段ボールはリビングに積んでもらったから、片付け俺も手伝うよ」
遥斗の手によって開かれたドアの先には、俺が住んでいたアパートよりも広々とした部屋が広がっていた。
部屋の突き当たりには大きな窓。向かって右奥側は腰掛けるのにちょうど良さそうな段差が設えられていて、全面に畳が入れられている。小上がりってやつだろう。布団を敷いても座卓が置けそうな空間的な余裕がある。というか、すでに俺の部屋から運び込まれた布団と座卓がセッティングされていた。
反対側の壁には、デスクと、本棚と、チェスト……というか、タンス? なのだろうか。部屋の雰囲気に合う、上品かつ使い勝手が良さそうな家具が並んでいる。
「ナガレ、アパートでも実家でも布団で寝てただろ? ベッドよりもそっちの方が落ち着くかと思って、和洋折衷部屋にしてみたんだけど、どう?」
「確かにこれはメッチャいい……って、は?」
遥斗の言葉に無意識で頷いていた俺は、ハッと途中で我に返った。
『してみた』って何だ、『してみた』って。まるで俺のためにこの部屋を作ったみたいな言い方……
「そっか、良かった! ベッドの方が良かったら、それ用のセッティングもできる設計になってるからさ。遠慮なく言ってくれよな」
「いや、設計? 遠慮なく?」
「同棲するなら、お互い快適に暮らしたいじゃん?」
いや、それはそうだけども。
何だか今の言い方だと、まるでこの部屋は最初から俺が住むことを前提で用意してあったかのように聞こえるんだが。元あった部屋をリノベーションするにしても、さすがに引っ越し業者の手配と揃えて三日で完成させることは不可能だろう。
お前、いつからこの部屋の準備してたの? まさか俺が大学に合格して物件探し始めた当初から言ってた『俺と一緒に住めばいいのに』はガチだったのか?
いや、元からガチではあったんだろうけど、まさか俺がその気になったらいつでも即入居できるように部屋を先行で用意してたとか言わないよな?
お前ん家に今まで泊まったことは確かにあるけど、お前いつもリビングのソファーベッドを俺に提供してたよな? つまりこの部屋は、『俺用の客室』じゃなくて、完全に『俺用の居室』として用意してたんだよな?
……突っ込んで訊いてみたいけど、突くと藪蛇になる気がする。
そう考えた瞬間、俺の脳裏を過ったのは、偽装婚約を了承した時、遥斗が俺に向けてきた肉食獣のような微笑みだった。
──いや。いやいやいや……
俺はあの時も感じた寒気がもう一度背筋に走るのを感じながら、内心だけで首を横に振る。
もしかしたら遥斗みたいなセレブにとっては、『物件探しに困窮している親友のために、あらかじめ親友が好みそうな部屋を用意しておく』くらい、案外当たり前にすることなのかもしれないし?
長年幼馴染をやっていても、セレブの考えることってよく分からないんだよな。
というか遥斗の場合は、普段俺に合わせて行動してるフシがあって、俺にあんまりそういう部分を見せてこない。
だから俺は余計に『セレブ』ってものが分かっていないような気がする。身近な、それこそ家族の次に近い場所にいる人間が『庶民に擬態しているセレブ』なせいで。
というか、ほんと何で俺とお前って、今でも幼馴染でいられるんだろうな? こんなに住んでる世界が違うのに。
「んじゃ、ナガレ的にこの部屋で問題がないって分かったところで!」
俺が部屋を眺めてつらつらと考えを転がしていると、遥斗はパンッと両手を打ち鳴らした。その音に反射的に遥斗を見やれば、遥斗は俺を見上げてニッと笑う。
「とりあえず荷物片付けようぜ。これからフキさんが夕飯作りに来てくれるから、それまでに片付けるのを目標に」
「フキさんの唐揚げ!」
遥斗の言葉に、それまで悩んでいた諸々がスポンッとどこかへ飛んでいったような気がした。
気合いがこもった俺の声に笑みを深めた遥斗は、無意識のうちに緩くシャドーボクシングをしていた俺を真似るように腕を動かしながら、何でもないことのように言葉を続ける。
「なぁ、ナガレ。今週末って暇?」
「今週末? バイトもないから空いてるけど?」
さっそく荷解きに取り掛かるべく、遥斗を追い越してリビングに向かっていた俺は、遥斗を振り返りながら答える。
『それがどうした?』と視線で問いかけると、妙にソワソワした遥斗はグッと両手を握りしめながら口を開いた。
「デート、行こう!」
「……へい?」
……だから、何でお前は俺がせっかく悩みを放り出せたというのに新たな悩みの種をぶっ込んでくるんだ。
キラキラと期待に目を輝かせる遥斗を前に、俺は『この場合、何と答えるのが最適解なのだろうか』と、親友兼婚約者(※偽装)としての距離感のあり方について真剣に黙考するのだった。