迷子の視点
道によく迷う。
優柔不断とか人生にまつわる比喩の類ではない。
道を歩くと、何故か異様に迷うのである。
地図はそれなりに読める、と思う。
幼いころから本の虫だったから標識に書かれている難読地名もそれなりに読解できる方ではなかろうか。
それなのに街を歩けばすぐ迷う。人と歩けば見失う。兎角、土地勘がはたらかない。
ここまで迷うのだから、原因が私だけにあるとも考えにくい。
あるいは日本の公道が均一すぎる事にも責任の一端はあるのではないだろうか。そうに違いない。
転嫁できる責は進んで転嫁しろって祖父も言ってた。
さて、ここで言う”公道の均一性の罪”とは何か。
その問いの答えるのは非常に簡単だ。家の外に出てぐりんと目線を足元へ向けてみればいい。
そこにはアスファルトに舗装された路面と路面標示が必ずあるはずだ。アスファルトの粗さや標示のかすれ具合に差はあれど、全国どこも同じで分かりにくい。
非常に厄介である。
更に今度は路面の両端やそのさらに上へ目を向けてみてほしい。
路端に立つ道路標識、電柱、電柱看板が見えてくるだろう。
しかしこれらが役に立ったことは無い、と言っても過言ではないと私は思う。
信号のない交差点に差し掛かる車がちゃんと減速して止まってくれることなどまずないし、児童通学路でも飛ばす車は平気で時速100㎞オーバーでかっ飛ばしているじゃないか。
電柱にかけられている「何町何丁目何番地」というアレも謎だ。
アレはどうやらこの電柱が立っているこの場所は何町の何丁目の何番地なんですよーと教えてくれているらしい。ご親切にどうもありがとう。
迷った先で出会った電柱の位置座標が分かっても何にもならないんですけど。
さてさて。標識も似たり寄ったりで役に立たない。
致し方ないのでもう少し目線を上げてみるとしよう。
道の両端に目をやると家や公園、路地への入り口が連なっている。コンクリートの塀、フェンス、家の門、ガードレール。車止めや階段、鳥居なんて場合もあるかもしれない。あるいは、見渡す限り畑や農地と柵、田んぼと畦道って事もあるかもしれない。
そう、ここらでもう勘のいい人ならばお気づきだろう。
路面も路端も道路の周囲も、どこもかしこも代わり映えしない風景。
目印足り得ない景色の羅列に過ぎないのだ。
仮に神様が実在するとしても、街の景観だけはコピー&ペーストだと私は断言するね。だって現に迷うもの。
そもそもの話、このように周囲をキョロキョロし出すのは現在位置と目的地までの方向が分からなくなった頃だ。それなのに周囲に助けを見出そうとすればするほどずぶずぶ道に迷い始めるとは何事か。
どこもかしこも似ているような、しかし見覚えはない建物や街並み。
脳が常に処理しなければならない情報の津波に襲われているせいで、まるで知らない国の言葉をしゃべる人にずらりと取り囲まれて大声で一斉に怒鳴られ続けているような気分になる。
しかも、道に迷うということの真に嫌な部分はこれだけに留まらない。
汗が頬を伝うのを拭い、一旦来た道を戻ろうと思い返しても、それはもうできないのだ。
散々周囲をキョロキョロしてしまったせいでもうどちらが来た道なのかが分からなくなるのだ。
スマホの位置情報も迷ってしまった時に限って矢印の向きがグルングルン回転したり、家を何件もぶち抜いて周辺をふわふわ移動したりする。
こうなってしまったらおしまいだ。自分だけが頼りだ。
見覚えがつくまで同じような道をぐるぐる延々と彷徨うほかになす術がない。見たことがない道に出たらそちらへ行ってみる、という作業が延々と続くことになる。
知っている道、あるいは道中に目印にしていたランドマークが見つかれば、やっと迷子状態をリセット。
改めて目的地への移動を再開するという運びになるのだ。
私は道によく迷う。
国内旅行はですら誇張ではなく遭難しかねないので国外なんてとてもとても無理だ。
あまりにも迷うのだが、あんまり他人にこの悩みを理解してもらうことができない。
方向音痴、という言葉も私はあんまりしっくりこない。
音楽で言う音痴は音程を外してしまうことはあっても、その人なりに歌うことはできているように思う。でも私の場合、方向音痴なりに目的地を目指している……と言っていいのか悩むレベルだ。
どうしたら迷子に悩まずお出掛けを楽しめるようになるだろう。
ここ十年はもはや開き直って「迷子も楽しむ」をモットーにしているように振舞ってきたが、そろそろ三十路を超えて久しいというのに一向に治る気配がない。
ちょっと脳とか病とか、そこら辺の懸念があるのではという不安を禁じ得ない気がしないでもない。
一抹の不安はあれども人生塞翁が馬、なるようにしかならん。
「なるようになる。なんとかなるさ」の精神で今日も行き当たりばったり生きている。
道に迷ってからどうやって復帰しますか?
いい方法を知っている方はぜひ教えてください。