46話 カデシュの痛み
カデシュの戦いは紀元前1200年頃に起こったとされるエジプトとヒッタイトの戦いです。文献によれば、史上初の正式な軍事記録に残された戦争であり、成文化された平和条約が取り交わされた戦争であるとも言われています。
夜の海にひっそりと現れる黒いフードを被った男は、かつて悪魔大戦が起こった夜の一族の領域とは遠くかけ離れた場所。そこはライラがノーヴァに案内したところでもあり、ライラが七洋であるルシファーを倒した場所でもある。男がフードを取り、地面に足をつけて、魔力の流れを探る。悪魔の残穢に隠されている何かに男は、目的達成に近いことを悟り、立ち上がる。
「栄光の神よ。月輝く地に魔法の讃美歌を齎せ。禁忌奇術…」
男が呪文詠唱をしていると、男は大きな魔力が近づいていることを感じ取って中断する。
「お前の魔法はもう見飽きた」
「マナ魔法原子系原子分解」
聞き覚えのある詠唱と、男は自身に手を向けられていることを確認して、後方へと下がる。男から蒼き鋭利な瞳が向けられる。
「久しいな。キルケ師匠」
詠唱を邪魔してきて、尚且つ、自身に攻撃を仕掛けてきたオリゴに男は、またも鋭い視線を送る。
「ちっ、くそ弟子」
「…こちらには何の用だ?」
弟子であるオリゴの問いに、キルケは揶揄うように言い放つ。
「セア・アぺイロンの結界の解除。それと死の溜まり場の解呪」
「!?」
キルケの言葉に、いつも冷静な対応のオリゴの顔が青ざめる。だが、それも一瞬。オリゴはすぐに冷徹な顔に戻る。
「師匠ともあろう方が死の溜まり場など世迷いごとに現を抜かしているのか?」
「始祖であるお前が死の溜まり場について、長であるセアから説明されてないわけがない」
オリゴの反応を引き出そうと、彼女ら始祖が慕う長であるセアの名を上げて煽るが、変化は見られない。だが、キルケは自身の魔力探知の高さを自負している。オリゴの体に流れる魔力の乱れを感じ取り、自身の言葉でオリゴが動揺していることを確信めいていた。
「地上宇宙で知られている死の溜まり場はセア・アぺイロンが英雄として訪れた場所を示す。いわば、試練の道」
「それが本当でなければ、それを信じて逝った者たちが不憫だ」
オリゴの返しに、キルケは鼻で笑う。
「白々しいな。お前たちが一般常識として情報操作したくせに」
キルケの言葉に、オリゴの瞳が黒く淀んで冷徹さを放つ。
「原初一族の言葉は絶対。原初一族の情報だ…なんて謳い文句で死の溜まり場の誤った知識を広めさせ、真実を隠した」
「では、真の死の溜まり場は?」
オリゴの試すような口調に、キルケは乗る。
「セア・アぺイロンは七洋との戦いで命を落とした。それは紛れもない事実。だが、セア・アぺイロンていう人間は戦う前から気づいてたんだろ?
”七洋七柱の神々の核を二度も破壊することは無理だ”ってな」
「神である七洋になぜ核の破壊が必要なのだ?」
またもや、弟子であるオリゴは試すように、質問を投げかける。それはクヴァレ帝国がどの程度までの真実を知っているのか、調査するための誘導である。その誘導に気づいているが、キルケはオリゴの誘導に乗った。
「…七洋は神だ。神には領域ってのがある。七洋にとってのそれは天界宇宙。神域でない地上宇宙でも権能を幾分なく発揮できるように、体の構造を魔神族と同じにした。だから、七洋は神であっても体のどこかにある二つの核を破壊すれば滅ぼすことができる」
キルケの回答は的中しているのか、オリゴは沈黙を貫く。彼女を放って、キルケは話の続きをする。
「破壊が無理だと分かったからこそ、セア・アぺイロンは七洋の権能の封印を前提とした戦いに臨んだ。ある一柱を除いて、六柱の核を一つずつ破壊することはできた。弱体化の絶好のチャンスを悟り、セア・アぺイロンは権能を使い、七洋の封印に成功。そして、一つの場所に封印し、真実の隠蔽を謀った。始祖という部下を利用して」
キルケは地面を指さして、自信に満ち足りた声で言い放つ。
「本来の死の溜まり場はセア・アぺイロンが七洋の権能を封印した地!
神の痛みが眠りし地! それがここだ!」
キルケが帯刀していた小さな剣を地面に突きつけると、小さな剣を軸として風が吹き荒れ、昇華していく。猛風にオリゴは防御魔法を展開して、小さな剣を破壊しようと手を向けた矢先、キルケが魔法を放ったことで、妨害行為に遭ってしまった。オリゴの最良の判断は、キルケの起こした最良の判断に相殺されて、目の前で起きようとしていることの介入を拒まれたのだ。1分にも満たない中で、小さな剣は毒々しい緑に光っている。それに連動するかのように、地面には大きな魔法術式が描かれた魔法陣が出現する。それを見たオリゴも、キルケも、間違いなくセア・アぺイロンが施した封印の痕跡であると理解した。緻密で、繊細で、何枚ものガラスを重ねた丈夫な魔法陣。妨害も空しく散ることが目に見える隙のない完璧な魔法術式に、大魔法使いとしての二人は息をのんで、その全貌を目に焼き付けていた。しかし、その時間も一瞬のことで、魔法陣は一気に光を失い、粉砕する。小さな剣の毒々しかった緑の光も失われると、魔法陣のあった場所から突風が起こり、辺りの岩や宝石の樹を粉砕する威力を見せた。
「封印が…解かれた?」
驚きの一部始終にオリゴが絶句していると、キルケが声を上げて笑う。一頻り笑ったところで、愉快で、上機嫌そうに談笑を交える。
「堕神として天界宇宙から堕ちた復讐の三女神。その権能を抽出して俺達が作り出した偽りの神器フューリズの短剣。これの能力はあらゆるモノの解除」
「神の力か」
「おいおい、俺が何の得もねえってのに情報吐くわけねぇだろ? まだ、やることあんだよ!」
キルケがそう言い終わった背後に、異様な殺気が現れる。毒蛇のように執拗で、しかし一度噛みついたら地の底まで這いずってやると言わんばかりの一途な殺気。
『それは随分とおもしろい』
頭上から降ってわく声にキルケは即座に反応して、詠唱を唱えずの雷を放ち、声の主の攻撃を防ぐ。
「よぉ……引きこもり野郎」
キルケがその男を見て、上機嫌だった顔色を不機嫌に一転する。深碧の長袍に白練りの羽織。黒の手袋と腹が立つほどストレートの黒髪のロング。服と同じ深碧の細長い目。端正な顔で、麗しさと荘厳な雰囲気を漂わせながら、悲壮感をも感じ取らせる男。また、耳飾りや、小さな宝石を材料としたネックレスなど細部にまでこだわりを見せる男。
『こうして、兄と会うのは初めてだ。とても緊張するよ』
愛想を浮かべて、真意を隠す言葉にキルケは苛立つ。おっと、と男はキルケの反応を見て、正式に挨拶をする。
『小生は39男”智”の元祖エドガー・アゲリアフォロス。セアから授かった始祖の役職は書記官、だったかな』
脳に直接話しかけられているようなエドガーの声に何処となく不快感を抱く。それとは裏腹に、彼の声をもっと聞きたいという矛盾も抱いているのだ。エドガーは暗雲から微かに零れ落ちる微量の日差しでさえも、体に毒なのか、目を細める。エドガーの白い瞳孔が更に小さくなる。
『小生には太陽神が微笑んでないようだ』
「…引きこもってたからだろ」
エドガーの冗談をうんざりとした言葉で返す。その言葉を受けて、エドガーは笑う。
『小生が好き好んで、原初一族の地下から出なかったと思っているのかい?なら、聡明な魔法の開祖の称号に傷がつく』
エドガーの何気ない一言がキルケの不興を買ったらしく、オリゴは師匠であるキルケの静寂な苛立ちが感じ取れた。しかし、キルケが激高する前。エドガーがキルケの前に手を出したとき、エドガーはすでに激高していた。セアが創り出した封印を破壊されたため。
『…もう一つ…何をする気だ?』
エドガーの問いにキルケは極悪非道な顔で、衝撃の言葉を言い放つ。その言葉にエドガーの怒りは頂点に昇る。
「セア・アぺイロンの結界の完全解除」
原初一族の神域、保護した種族の護衛と警戒にあたる一族の者。戦闘によって生じた被害を報告にまとめ上げる者。破壊の修復にあたる者。他の一族の動向を監視する者。神域内での騒動が嘘だったかのように、誰もその騒動を気に留めることはなく、復興にあたり、また原初一族としての通常業務は滞りなく進められている。最古の歴史を誇る一族の任務は地上宇宙に存在する種族の管理。出る杭は打たれるという言葉を示す一族で、全体の利益に影響が出る場合、始祖によって手が下される。
「…」
原初一族本部に息を潜めてノーヴァが歩く。普段の温厚な彼の雰囲気は消え、冷酷な面影を示す。本部の統括室に人が集まっているのか、他の部屋の警備は手薄。ノーヴァは慣れた手つきで、迷路のような回廊を歩き、一つの部屋に止まる。その部屋は”明帝族秘蔵保管庫”と書かれており、その下には”許可を受けていない者侵入不可”とも書かれている。鍵もノブもない扉に手を当てて、瞬間移動の施された魔法石を発動させて、保管庫への侵入に成功する。
「…ふむ」
明かりがなく、部屋自体は暗いが、秘蔵品を保管しているためなのか、保管物が微かに発光しているので、何がどこにあるのかが分かる。湿っぽい空気だが、清潔感は失われておらず、あまり出入りしないというのに埃をかぶっていない。放置されているわけでもない。何かを確認しているのか。
「すまんな。イニティウム」
ノーヴァはセア・アぺイロンの神器の鍛錬に勤しんでいるイニティウムに謝る。秘蔵品が祭壇に置かれている。香水の置かれた枠に手をかけると、仕掛け扉だったようで、ノーヴァは小さな扉を開けて、中の物を取り出す。それは宝石がともに編み込まれた髪紐である。だが、思い入れがあるのか。年季が入っているが、手入れされている。この保管庫も同様に。
ノーヴァは髪紐を両手で押さえる。
「明帝族の長イアシオン、お前が生きた証はこの地上宇宙に残ってはいけないのだ」
ノーヴァはそう言い、髪紐を破壊する。髪紐だった残骸は床に落ちて、床と同化する。まるで何もなかったかのように。
「俺も動かないとな。明帝族を滅ぼすために」
アトランティス帝国に緊張が走る中、そこを住処として大切に思う者は戦いに臨む。
「A級冒険者及びその等級に値する者は悪魔の討伐を義務付ける!
そして、B級冒険者は殲滅の補助及び支援にあたること!
それ以下の冒険者は住民の避難誘導、警護!」
広間に集められた冒険者達はオーシャンの指示に従い、すぐに持ち場へと走っていく。彼の側近であるシーへは海族戦闘部隊を引き連れて応戦する。悪魔と呼ばれる神々の怪物。援軍望めぬ希望のない戦場。原因のわからぬ終わりなき戦の開戦。経験を積んでいる冒険者でも、その強さと物量に圧倒され、悪魔の殲滅が進んでいない。突発的な神からの試練で、早くも心が折れる者も少なくはない。しかし、その者たちは戦うことを止めない。なぜなら、自分たちには最強がついているから。
「往くよ」
一足遅れて参戦したオーシャンの微かな一言に反応した冒険者や部隊は武器を振るう手を止めた。その行動も束の間、自分が戦っていた悪魔がたったの一瞬で殴り倒されていく。狭い間隔にぶつかることなく、悪魔だけを討伐し、戦場を神速で駆け巡る守護者オーシャンは、密かに希望の象徴となる。オーシャンは顔を上げて、空を見る。天に描かれている魔法陣は一向に消滅する気配がない。寧ろ、魔法陣から放出される魔力が一段と重くなっている。建物を利用して、魔法や弓による援護射撃を行う冒険者。その援護の恩恵に肖って、武闘派の冒険者が悪魔を殲滅する。連携した戦闘と悪魔というクヴァレ帝国の差し向けた敵の量を客観的に見て、オーシャンは大丈夫だと判断すると、彼は近くの地区に足を運び、全戦闘地区の援護に回る。それの繰り返し、繰り返しにオーシャンは一切の隙も見せず、弱った姿も見せない。だが、彼の体力は着実に減っていた。全部の地区を一通り回り終わったオーシャンは建物に隠れて、休息をとる。神器水衣のヴェールを拳に巻き直す。そして、ため息をついて考え込む。
悪魔の数が減ってない。第一次悪魔大戦よりは強くはないかな。でも、あの時と絶対違うのは際限なく湧き出る悪魔。終わりあるのか、これ。
誰にも見られていないことを確認して、オーシャンは弱音を吐く。どこからか、悲鳴が聞こえてくる。オーシャンは体の細胞を活性化させて、悲鳴の場所まで一瞬で走る。そこでは逃げ遅れた女性が悪魔に襲われかけている。オーシャンは一瞬視界に入れて状況を確認すると、間一髪のところで悪魔を倒す。
「申し訳ありません。オーシャン様!」
女性がオーシャンに涙目で礼を言う。温厚さを表の面にしているオーシャンは、この激戦でも笑顔と余裕な表情を崩さなかったが、次の行動は異常だった。彼は女性を見ると、目を大きく見開き、拳を振り上げる。気が狂ったか、オーシャンは水の帯びた拳を女性の顔面に当てる。
「…」
拳の風を斬る音と鈍い音が、大気を振動させて、その空間に流れる時を一瞬止めた。オーシャンの拳を直前で受け止める一般住民にはありえない行動に、オーシャンの異常さは正常となった。
「無防備な女性相手に手上げるのは紳士と言える~?」
「ボクはお前が女であろうが、男であろうが、怪物であろうが関係ない。ただ殺せばいいだけだ」
「うへぇ。前言撤~回!」
女性はつつましい態度と表情が一変して、他人の神経を逆撫でる失礼な態度と舐めた言葉を綴る。オーシャンの追撃の一手をひらりと躱して、化けの皮を自身で剥ぐ。それはオーシャンが白練と共闘して撃退したクヴァレ帝国の元祖の一人、83男”結”の元祖カデナだった。
「なんで俺っちだって分かったのぉ~」
純粋無垢な瞳にオーシャンは無自覚に苛立つ。
「名前だよ」
「名前?」
「紅帝族は守護者であるボク達の名を呼ぶことは決してない」
「ふーん。暗黙の了解的ねぇ。そっちもなんだ。めんどくさいね、お互い」
「ボクはお前の相手が面倒だ」
突き放す発言にカデナは口を尖らせて、不服を申し立てる。だが、すぐに狂気に満ちた顔に戻る。
「まあ、いいや。俺っちもちゃんとしないとお兄ちゃんたちにいい顔できないから」
カデナはあの時と同様に燦然の剣を手に持つ。
「それとね、オーシャンちゃん。君は俺っちを殺せないよ?」
カデナの言葉を本気で受け止めていないオーシャンは戯言として、一応は聞いていた。そんな状況でも、カデナは、だってと続ける。
「セア・アぺイロンの結界解除できるもん」




