四十二の一 魂を二つ持つ四羽
あいつの凄まじい絶叫が響く。
劉師傅が俺を見上げる。剣を持つ手をおろす。
「もう降りていい。哲人君ならば生き延びると思い、地裂雷を走らせた。無傷とはさすがだ」
そう言われても、にび色の光の渦中にいたらどうなっていたか。
桜井が力を抜く。俺はすとんと着地する。
師傅は緋色の布を脇に抱えていた。それを開くと、ドーンがうずくまっていた。
「私を呼ぶために、このものは羽根をやられた。多足の毒も残っている。もはや飛べぬ」
それほどまでに無理していたのかよ。俺は気づいてやれなかった。
ドーンが平気な顔をつくろい、俺へとくちばしを向ける。
「ちょっとだけ休ませて。……英語だかで喋ってくる奴ら、ここにいたのだろ?」
顔を寄せた俺が黒い瞳に映る。
「師傅を呼ぶなと心にうるさかった。気が散ってたまらなかった。あいつらを信用するなよ」
ドーンのおかげで確信できた。使い魔達は今も陰にひそんでいる。そこで今もなお企んでいる。
「このものを頼む」
師傅はカラスをサテンで包みなおし、俺に手渡す。
「朱雀のごとき反骨のものよ。守りたい者を思え。その心と護布がそなたも守る」
「カカッ、守りたいものね……」
ドーンの声が小さくなる。「マジで守ってやるし」
『カラスの和戸君も見納めだ。次に会うときは人間だね』
桜井が俺の中で無理して笑う。
彼女は必死に耐えている。また力を使わせてしまった。
「気づいていると思うが、老師は死んではいない」
あらためて師傅が言う。「この式神を消したところで終わりではない」
これからが真の悪夢だと、俺だって分かっている。でも、この十数時間まとわりついた悪夢は、すぐそこでのたうっている。俺も玄関の前に倒れる峻計へと目を向ける。
漆黒のドレスは切り裂かれていた。あいつはなおも這いずる。その先には、骨組みだけとなった黒羽扇が転がっていた。……門灯に照らされた師傅の影が峻計を覆う。あいつへと剣をかざす。ふと道路を見る。
「まがまがしき犬だ」師傅がつぶやく。
陽炎に揺らぎながら、野良犬が俺達を見ていた。
「がっかりだな。峻計さん、お別れだな」
ツチカベが裂けた口をゆがませる。
峻計が顔だけをあげる。
「ツチカベか? す、すこしは役に立て。こいつらを倒せ」
劉師傅は怪訝な目を向けるだけだ。魔道士とて犬の声は聞こえない。
「こいつらだと? でっかいホウチョウを持った男しか見えないな」
ツチカベが俺達に背を向ける。
「こんなおっかない目の人間を襲えるかよ。俺はただの犬だぜ」
「ならば私を噛み殺せ! さすれば望みは叶う」
峻計の叫びに、野良犬が足をとめ振り返る。残虐な笑みを浮かべる。
ウオオン……
野良犬が空に吠え、俺達へと駆けだす。陽炎を越える。
「力もなき犬め!」
師傅が一喝する。真横の俺まで震えあがる。
ツチカベはその覇気に臆することなく、峻計へと飛びかかる。その首を噛む。
「そ、そうよ。私の血をすすって」峻計が恍惚の声をだす。「また会えるわよ。約束するわ」
「異形に堕ちる気か!」
師傅がツチカベを蹴る。野良犬はあいつの首を裂きながら牙を離す。血に染まった牙を師傅へと向ける。師傅は動じない。
なのに、あいつの消えかけた手が師傅の足をつかむ。
師傅がよろめく。その腕をツチカベが噛む。峻計の血と野犬の唾液の混ざった牙が、鹿皮をなめしたような師傅の肌に突き刺さる。
俺はあいつへ飛びかかる。あいつの眉間へと護符を押しつける。桜井は俺にしがみつき、必死に目をつぶっている。
峻計の断末魔の絶叫が響きわたる。
「無念だ」
師傅が剣を薙ぐ。もうひとつの手で野良犬を殴る。
ツチカベの体は金網を突き破る。陽炎の向こうでぐったりと動かなくなる。……俺の前に、血に染まった野良犬の前足が地面に転がる。
「劉昇、穢れたな」
おぞましく溶けながら峻計が笑う。「老祖師の勝ちだ」
「哲人君、目をふさげ!」劉師傅がまた一喝する。
俺は従い、顔もそらす。
*
「もういいぞ」
師傅の声に目を開ける。
黒羽扇は燃えカスさえ消えていた。あいつのいた場所に四玉の箱だけがある。師傅が箱を剣で指す。
「峻計の呪いの血を受けた。私も我が剣も穢れた。箱にかかった妖術を消せない」
な、なんでそうなるのだよ……。
「どうすればいいのですか?」桜井が尋ねる。
「海神の玉の祈りが必要だ。白虎の娘を引き連れた思玲の愚かすぎる行為に、救われるかもしれない」
彼女だけは責めさせない。
「連れてきたのは俺達です。横根も望んで来ました」
俺は師傅を見すえる。
「このビルにみんな吸いこまれました。知っているのですね?」
日曜の夜明け前、道を行く車はなおも少ない。都会とは思えぬ静けさのなか、師傅も俺を見る。
「草鈴が聞こえたが、私をまどわす幻との判別が難しかった。私へ救いを求める幻聴と幻覚は、あの老人の常とうの罠だ」
師傅が剣を天へとかざす。
「剣の穢れをはらい真の楊偉天を倒さねば、なにも終わらない。――そなた達が異形である以上、神殺の結界から逃れられない。生き延びるためには、四玉を手に私に続け」
神殺の結界……。この陽炎の結界は、人に戻れば抜けだせるのか? やるべきことに変化はない。
「まずは四人を助けましょう」
俺は木箱を持ちあげる。やっぱり小さな箱だったのだな。
『ようやく再ゲットだね。それより何度か鳴っていたけど』
誰からか知らないけど、俺が琥珀のスマホを持っていることを知らせたくない。
『ふうん。やっぱ慎重だ。松本君に任せるけど……。そういや倒したところで、あいつも蘇るじゃね?』
「峻計も復活するのですか?」
桜井からの質問を、そのまま師傅に問いかける。
「大鴉は人と鴉から成る。魔物と鴉のふたつの魂があるのならば、奴もやがて戻ってくる」
師傅が屋内へと剣をはらう。
「それまでに老師を倒せば、あいつは地獄の底に閉じこめられたままだ。他の大鴉どもにしても再び倒せば終わる」
師傅がビルへと入る。俺も続く。
この人が剣で散らしても、人除けの術が消えただけだった。気力を削る明かりは灯されたままだ。
師傅がエレベーター横の階段を見上げる。踊り場にまた楊偉天がいた。
次回「この身が削がれようと」