四十の一 届かぬ灯を求めて
毒煙がひいたコートに、琥珀のスマホが転がっている。拾いあげると、カバーは焦げて溶けていた。小鬼の形見として、露見して終わった作戦の残骸として、思玲に渡さないとならない。尻ポケットに差しこみ、いまだベンチで気を失う人とカラスへ目を向ける。
「起きろよ」
俺は抑えている感情のままに声をかける。横根がびくりと跳ね起きる。胸もとからカラスが地面へ転がり落ちる。
「ま、松本君だよね? ……違うの? なんだか怖いよ」
人間が俺の気配に怯える。百鬼の時間は過ぎたというのに、俺は人がおそれる異形のままだ。
「哲人かよ。気味悪い夢だった……」
ドーンの声に生気がない。「目がかすんで見えない。マジですげえ気分が悪い」
俺はドーンを抱きあげる。ぐったりと力の抜けたカラスはやけに小さく感じる。やけに軽い……。こんな生き物にさせられたうえに、化け物の毒で苦しんでいる。
なんでドーンが、こんな目にあわされるんだよ!
「横根、珊瑚の玉だ。おめえも平気なんずら? ドーンに祈れし! 急げ!」
俺の言葉に横根がまたびくりとする。
「ま、松本君? 怒っているの? 怖いよ……、やめて!」
声が届かない。闇に怯えるだけだ。いらだつと、なおさら感情が抑えられない。
「瑞希、案ずるな。哲人は祈りを頼んでいるのだ」
思玲の声がした。
「和戸が死にかけて焦っている。哲人も一緒に祈って頭を冷やせ」
彼女がよろよろとテニスコート場に入ってくる。そのまま大の字に倒れこむ。
子犬が心配そうに走りより、彼女の頬を舐める。
***
体育座りの俺に寄り添いながら、子犬はみんなを見つめている。桜井は、祈りを捧げる横根の肩を止まり木に選んでいる。その必死な祈りを、思玲はドーンを抱きながら目を閉じて聞いている。
「もう少し力を抜け。……瑞希には祈りの資質があったな。魔道士であるなしに関わらず、珍しいことではない。だが心をともなわぬ者が多い」
思玲が黒い羽根をさすりながら言う。
「私ごときが祈ると、ろくでもないことばかりだ。その祈り、じきに忘れてしまうのが残念だな」
「ドーンなら耐えられる。……なにがあったか教えて」
俺は不安のかたまりとなっている子犬に声をかける。
「俺は道案内だけだ」
子犬は、思玲とドーン、そして横根を見つめながら言う。
「昼間いた神社に、夜遊びしていましたって老若男女が三十人ぐらい集結していた。まさに公園へと行進を始めるところだった。それを思玲が扇で片っ端から気絶させた。ゾンビ映画みたいだったぜ。峻計と小鬼が戻ってきたときには片がついていた」
その人達に襲われたら、俺はどうしていただろう。大カラスや巨大な異形さえいる状況で。思玲と琥珀にとことん救われた。
琥珀が死んだことを、思玲はまだ知らない。今も小鬼は、あいつの横で舌をだしていると思っているのだろうな。
川田は話を続ける。
「あとは面白くもないな。笑える話は、台湾で死んだ大カラスが復活したのを小鬼が俺達にばらして、あいつが嘆いたくらいだ。思玲が穴熊と呼ばれるわけがよく分かった。結界で扇をかまえて、峻計が通過するのをずっと待っていた。もう誰もいないと何度も言って、ようやく解放してもらえた。俺だけ走ってきたら、ここは毒が充満していると桜井に止められて、思玲は着くなりぶっ倒れた。
ここからは、思玲のぶんまで俺が戦う」
「なにが思玲のぶんまでだ」
彼女は聞き耳をたてていた。
「瑞希、過度の祈りは身を削る。あとは和戸次第だ」
ドーンを横根に押しつけ、思玲が立ちあがる。俺へと目を向ける。マジかよ。
「その面はやめろ。みなは疲れているゆえ二人だけで作戦を練るぞ。ついてこい」
矛と盾の作戦だろうな。デジャブ―みたいに、思玲はよろよろと外へでていく。……伝えざるを得ない。立ちあがり彼女を追う。
***
「覚悟は常にしていた。私の大切なものは消え去ると決まっているからな」
野球場に隣接した駐輪場で点滅する蛍光灯に照らされながら、思玲は平静をよそおう。
彼女は野ざらしの自転車の鈴を鳴らそうとする。壊れていて、カタカタとベルを叩くだけだ。そのまま荷台に腰かけて、眼鏡をずらして目を指でぬぐう。
「私を情にすがる弱い道士だと思っているのだろ」
くもった声で言う。
「琥珀は自由に動ける身だったとはいえ、月に何度も会えなかった。それでも師傅と賄いの婆や以外で言葉を交わす唯一の相手だった」
俺は感傷になど浸れない。情にもすがれない。
「琥珀がいなければ、俺達はとっくに死んでいたのですよね。だから必ず人に戻ります」
一晩中蛍光灯にまとわりついていた蛾が、力つき地面に落ちる。思玲が歩きだす。
「これから先はどうするのですか?」
俺はあとを追いながら尋ねる。
「竹林は本当に戻ってきたのか?」
こいつは人の質問を聞いていない。
「はい。焔曉も。おそらく流範も」
思玲は歩きつづけるけど、
「八人」
前だけを見て言う。
「師傅はそれだけの数を殺めた。それよりも多くの人を、誰の心からも消えてしまった人を、奴らは殺している。いずれ竹林は、お前達がいない時間と場所で私が消す」
思玲の伝えたいことは感じられる。だけど、いまだ俺達もそこにカウントされるべき人間だ。俺達と同じ人だったとしても、もはや情けなどかけられない。
「俺達は今からどうするのですか?」もう一度尋ねる。
「矛がないのなら、もはや私は畑の肥やしにすらなれぬ。戦いの場にいる師傅の邪魔にならぬだけだ」
思玲がようやく答える。
「師傅を待つだけだ。結界を厳重に張り和戸達を匿う。師傅が来られるまで、私と哲人で守り続けるだけだ」
足をかばいながら闇を行く彼女を、俺は追っていく。
*
「また桜井が挙動不審の単独行動だぜ」
コートに戻るなり、子犬が見上げてくる。
彼女がどこにいるかなんて、気配を追えば誰でも分かる。さきほどの俺達と逆方向の一塁側にいる。
思玲が舌を打つ。
「すぐにでも結界を張りたかったが……。和戸の具合はどうだ?」
「え、わ、分からないです」
横根はカラスを膝の上に乗せたままだ。
「ちっ。ならばお前らだけでも籠っていろ」
思玲が扇をひろげる。
ブルブルブル
いきなり尻ポケットが振動して、のけぞってしまう。……琥珀のスマホだ。壊れていなかったのか。抜きだして画面を見る。
老祖師
簡潔に、その文字だけが浮かんでいた。
「あの男も、それに心の声をとばせるらしい。でるではないぞ」
思玲も緊張した面持ちになる。
「なんで松本が持っているんだ?」川田がまた見上げる。「奪いとったのか。やるな」
俺も思玲も説明はしない。やがて振動がおさまる。画面の文字も消える。
「哲人、そいつを操れるか? 私はその手のものにうといが、ゲーム漬けのお前達なら波動をだせるかもしれぬ」
たしかに俺もポケモン探しにはまったことはあるけど、人のスマホをいじるのは気がひける。それでも電源ボタンを押す。画面にモノクロの顔が映しだされる。昨日の昼まで鏡で向きあっていた俺の顔だ。
ブ、ブー
電子音とともに、画面から青い炎が顔をなめる。続いて、錐のように突き刺さる凍った風、中国語の罵詈罵声、3Dが実体化した中国拳法の乱れ打ち、さらには幾多の呪いの言葉が襲ってくる。護符がすべてを跳ねかえす。
「駄目です。ロックがかかっています。おそらく顔認証です。俺は桜井のところに行きます」
電源を落として、形見を思玲に渡そうとする。
「私は持たぬぞ。術を学ぶ妨げになる。尻になど差さずに大切に扱ってやれ。胸もとにでもおさめろ」
思玲が両手を背にして後ずさる。
こんなおそろしいものを服の中にだと?
「前ポケットにしまいますよ」
物騒な形見は護符の横にしておこう――。
ゾワッ
桜井の気配が異様なまでに高まった。俺はスマホをポケットに突っこみながら走りだす。
「哲人、待て。拾え!」
思玲が叫んでいる。手でポケットを確認する。スマホは落ちていない。護符も入っている。かまわず球場をめざす。
次回「龍となり得る者」