二十五の四 ファイナルカウントダウン
いよいよ、なにかが近づいてくる。このどたどたとした気配は峻計ではない。あいつはその背後で気配を隠して……。
またも話が違うじゃないか。追いつめられたネズミのようなか弱き妖怪の勘が気づく。
「ここかよ。うへっ、やっぱり一匹だけだとおっかねえな」
野太い声がした。ドアを引きちぎるかのように開けて、鬼が顔を覗かす。
「十二磈だけだと? 妖魔め、たばかったな」
思玲は両手で印を結んでいた。
血の明かりが点滅しだす。妖怪である俺ですら気分が悪くなる。
『キキ、峻計が来るなんて一言も言っていないよ』
『あの鴉は怒りにとらわれない。残りの異形くずれを追っている』
『法具もない東洋の祓い師には、鬼一匹で充分と判断したのかな』
『むろん、小鬼の入れ知恵もあるがな。なあ思玲様。ホホホ』
「どなたか知らぬが、道案内のうえに説明までありがとうな」
水色腰巻の鬼がくぐり戸のように入ってくる。
「思玲の首を持って帰れば、あとは好きにしていいと言われたが、狭いし、お前さん達がいる箱がまぶしいぞ。血の色で染めていようが、こんなところにいられねえ」
「悪鬼よ立ち去れ!」
思玲が印を鬼へと向ける。透明な光が鬼の顔面に直撃する。
「いてえな。俺の顔に爪をたてるな」
鬼は顔色を変えない。
「こんな部屋では落ち着いてお前を食べられない。おもてにでるぞ」
思玲は鬼の腕を転がるように避ける。俺が手にする木札は存在感すらない。
『王思玲、最後の機会だ。ここに来て箱を開けろ』
「断る」
思玲が立ち上がり素手でみがまえる。
『だったら海藍宝、お前にチャンスを与えてやるよ』
『私達と契約を結べたのなら、人の女どころかあいつも好きにできるぞ』
鬼が箱へと顔を向ける。
「峻計をか? グヒホヘヘ。死んでいった奴らだって、いつもそれを願っていた」
海藍宝という鬼が下種を極めた顔となる。「どうすれば、あいつを犯して食えるのだ? なんでも聞いてやるぜ」
『箱を開けてくれ……』
『……頑張れ。応援するから』
鬼が首をかしげる。
「その箱をだと? 触れるはずもないだろ! ふざけやがって」
あらためて思玲へと向かう。
「ここから楽しみの時間だから、もう声をかけるなよ」
思玲は壁に追いつめられる。
「武器のないアナグマなんぞ。あらよっと」
「ぐはっ」
鬼が思玲に蹴りを入れやがった。うずくまる彼女の手を無理やり握る。鬼が彼女を引きずりながら、ドアへと向かう。思玲は必死に抵抗するが、あまりにも非力だ――。
なんで見ているだけなんだよ。傍観するな俺。
「思玲!」
俺は鬼へと突進する。その背に張りつき、ぽかぽかと叩く。……伸びてきた手につかまれる。鬼は俺を宙に浮かべ、中腰で拳を向ける。
次の瞬間には棚に激突した。鼻がめりこんだ。
「大人の邪魔をすると、頭から食っちまうぞ。グホホホヘ」
鬼にまで笑われる。
「哲人やめろ。異形に食われた傷は治らぬと言っただろ!」
そんなことは聞いてないし、そんなことを恐れていられない。
「思玲を放せ」
俺は存在感のない木札を懐からだして、鬼へと突きつける。はったりに、鬼が俺を見つめる。
「あぶねえ。忘れるところだった」
鬼が両手で思玲を持ちあげる。
「ほれ、放してやるぞ」
俺へと思玲をぶん投げる。
「きゃっ」
「ぐえ」
彼女を受けとめることなどできず、一緒にまた棚へとぶち当たる。俺は思玲の下敷きになる。思玲もうめき声をあげる。
「チビにも用事があったんだ。あいつにまたどやされるところだった」
鬼が立ちあがり、天井に角が刺さる。
「そっちを先に済ますぞ。四玉を渡せ」
鬼が角をはずそうと首をひねる。部屋が揺れ、血の色に光った埃が舞い落ちる。
『海藍宝。私達まで巻きこむな』
俺達の横に封印された箱が落ちてきた。
『王思玲よ。生と死、どちらを選ぶのだ。私達を開放すれば、剣が手もとにあるのだぞ』
箱からの彼女を誘う声。
「わ、私は誇りある死を選ぶ」
血の闇のなか、思玲はなお立ちあがろうとする。
「哲人、すまぬ。私はおそらく舌を噛みきるぞ。すまぬ、許してくれ」
謝ることなどしていないだろ。俺は思玲を死なせない。赤い闇の中で、俺の妖怪としての力が動きだす……。
誰が助けに来ると言うのだ。もっと強い力が欲しい。
「札が弱まったからって、素手でとどめはまずいだろ? 俺でも分かるぜ」
屈んだ鬼がきょろきょろと見わたす。
「つまり、触らなければいいのだろ?」
海藍宝の目が血の色に光る。金属製の棚のフレームを引きちぎる。
「……そんなものを使えば玉まで割れるぞ。やめてくれ。川田達までこっちの世界に閉ざされる」
思玲がつぶやく。
「老祖師の作ったものだぜ、壊れるかよ。ガキは消してやるからな。思玲楽しもうぜ。屍でもかまわないしな。グフヒヒヒ」
鬼がフレームの先端を牙で研ぎながら言う。
『……外でやれよ。俺達はそこまで悪趣味ではない』
今さら使い魔の声などに耳を傾けない。俺は思玲の下から這いでて箱をつかむ。コウモリどもの話が真実なら、あいつらを封ずるほどの刀がここにある。鍵のかかった箱を力づくで開けようとする。異教の力にさまたげられる……。
煙だ。見えない手が溶けだしている。
「哲人、動くな」
思玲が力をしぼり鬼へと向かう。
「我は斯様に力足らずとも、なおも守るべき者多ければ……」
言の葉をつむぎながら、俺を守るために印を結ぶ。
「こうるせえ」
鬼の毛むくじゃらの手が伸びる。思玲の髪を握り放り投げる。思玲は書庫に腰から激突する。
彼女の抜けた毛を、海藍宝がぱらぱらと落とす。鬼は笑っていた。
ドクン
恐怖も絶望も消え、怒りだけに支配される。
「開けろ」
聖なる力に静かに命ずる。開かないのならば、引きちぎるだけだ。
ガチャ
唐突に箱の鍵が解かれる。
「これも手柄になるかな。グヒヒヒ」
鬼がアルミスチールのフレームを、槍のようにかまえる。
俺は箱を開ける。まばゆいほどの黄金の光があふれだす。装飾もない武骨な短剣が光り輝いていた。
鬼が槍を俺へと放る。俺は短剣をかざす。さきほど思玲がしたように、横向きに諸刃を上下にして。
剣から発せられた光がシールドとなり、槍をはじき返す。フレームの槍は、そのまま鬼の胸へと突き刺さる。
『まさかの締結だな』
『お前は何者だ? 契約だから、あの娘は人に戻す。今ある力のほとんどを使っても』
『くそ、何百年ぶりに外にでられるのに、何百年も細々と溜めた力が抜けていくぞ。猫なんかを助けるためにだ。くそくそ、龍の娘を守ることを違えるなよ』
『サキトガ、悲嘆するな。夜はじき訪れる。いずれ新月も』
金色に照らされた部屋の中で、使い魔達の声が消える。赤い闇も消えていく。
「は、は、破邪の剣じゃないかよ。そ、そんなこと聞いてないぞ」
海藍宝は胸に槍を受けたまま怯えていた。
鬼が部屋から逃げていく。短剣から発する金色の光も、かぼそくなり消える。室内は暗闇に包まれる。
見えない俺の手の中で、異端の者に操られたことを恥じるかのように、短剣はぼろぼろと崩れて消える。思玲の苦しげな息づかいが聞こえるだけの、闇に取り残される。
生死の境が楽隊みたいに通り過ぎ、また闇にひそむただの異形になり下がる。
次回「座敷わらしとずたぼろ女」