二十五の三 ラテン語の誘惑
「哲人、心を強く持て。かどわかしの言葉が来るぞ。私や仲間への妄言、お前が好く桜井のことで崩しにくる。耐えればじきに術が解け、ドアは開く」
思玲が俺の手を握る。
『王思玲、悠長すぎるぞ。あいつは階段を見つけた』
サキトガがあきれ声をだす。
「虚言を垂れるな!」
思玲は言いかえすけど、嘘であろうが時間がないのに変わりない。……俺はただただ、俺へのアクションを待つだけ。
『たしかにあの鴉は、怒りにとらわれず冷淡かつ沈着だ。……祓いの者が脇にいれば、追いつめられた若者といえ、説き伏すのに時間を要するかもしれない』
フクロウがコウモリに顔を向ける。『サキトガよ。私達から依頼すべきかもしれぬ』
『……キキ、何百年も同じ本に閉じこめられた仲だ。ロタマモに任せる』
使い魔が企みめいた言葉を交わす。フクロウが俺へとでかい目を向けなおす。
『私達から哲人君にお願いしたい。この箱に書物がしまわれている。その上にある短剣を取りだしてくれ』
「耄碌したか」思玲が笑う。「貴様達を封じるものを誰がどかす? おのれの身に危機が近づくなど、赤子でも分かるわ」
血の色の明かりが笑いかえすように揺れる。
『俺達はそこまで悪い魔物ではないぜ。奪った人の魂など千人ぐらいだ。封印されて島流しで済んだのが、なによりの証拠だ』
ぶらさがったままでサキトガが言う。
フクロウがコウモリへと首を120度まわす。
『ここからは契約の時間だ。偽りを述べるな』
そのまま俺へと顔を戻す。
『今の話は半分ほど虚言だった。これより事実しか申さない』
『キッ。梟のが賢いのだろ。かってにやってくれよ』
サキトガが羽根を前にたたむ。
『あいつが来るまでをカウントダウンするかな。残り171秒から伝言してやる』
なんだそりゃ? 予知できるのか?
「ふざけるな蝙蝠。ならばドアを開けろ」
封じられた使い魔達には見せなかった恐れが、思玲からにじみ出た。
『哲人君。私達からの見返りを教えよう』
思玲を無視して、ロタマモの幻影がくちばしを開く。
『お前達のうちふたりを人に戻してあげよう。さらには剣が手もとに残る。つまり、あいつも追いはらえる』
人に戻す? ……虚言だとしても、そんなことができるのか?
「哲人、耳を傾けるな! 人のまま、あの世に落とされるぞ」
『東洋女、落ち着けよ。あと138秒』
サキトガが平坦に言う。
『ロタマモ、時間はないぞ。あきらめて幻影をしまおうぜ。……次の機会は何百年後かな。それまでに審判の日を迎えそうだな』
『親愛なるサキトガよ。もうすこしだけ待ってくれ。哲人君が納得すればいいだけだ』
ロタマモは泰然とすらしている。
『私達の望みは短剣をどかしてもらうだけ。それがなくなったとして、私達はまだいばらの鎖でがんじがらめだ。人に危害も与えられない。まして檻から逃げだせば、日の出とともに消滅する戒めを受けている。契約の言葉だ。嘘偽りはない』
嘘偽りだらけの虚言で妄言だとしても……、
「人に戻ったとして、人のまま地獄に落ちるのか?」
尋ねてしまう。
『それはないというか物理的にあり得ない。どっちにしろ契約が果たされれば、私達はいっさい関わらない。これも嘘偽りない』
そこまで言い切れるのならば……。コウモリがフクロウへと非難めいた目を向けたぞ。
『ロタマモ、さすがに大判振る舞いしすぎだろ。付け足せよ』
『サキトガ、最初で最後の機会かもしれないぞ』
このやり取りが演技だとしても……、ふたりは人に戻れる。俺と桜井……。人に戻れば記憶は消える……。仲間を見捨てたやましい記憶も。
「魅入るな! お前が魔物と契りを結ぶくらいなら、お前を消して私が責任を取る」
俺の頬を思玲が叩く。
目が覚めた。
だとしても、人に戻れば友を見捨てた罪悪感もなくなるだろうか……。
捉われるなよ。そうだとしても二人は人に……。
『その手の人間のやり取り、ひさびさに見たな。あと89秒~~』
サキトガがわざとらしいあくびをする。桜井とだけの二人だけの時間……、駄目だ。
俺は頬をおさえながらロタマモの幻影をにらむ。
「あいつが来たら、お前達もやられるかもしれないぞ」
『ホッホホ。私達は大丈夫だよ。この箱が外からの力も跳ねかえしてくれる』
こいつのゆったりとした喋りに焦りを感じる。
『残り66.6秒』サキトガも笑う。『破格の条件だと思うけどな』
そうだとしても……、俺は人でなしだ。覚悟を決める。
「以後干渉はないのだな。だったら桜井と横根を人間に戻せ!」
男三人は自力で頑張ってやる。
「痴れ者め……」思玲が力なく言う。
俺は彼女ほど強くない。守りたい人のために、悪魔と取引する程度の人間くずれだ。
『すまぬが、桜井は除外だ』
ロタマモがのっぺりと言う。露骨な後出し。ふざけんなよ。
「だったらこの話はなしだ!」
俺の怒声に血の色の明かりがびくりと揺れる。コウモリの幻影が、ドアの向こうを透かすように見る。
『早まった。残り36秒に修正』
こいつらはプレッシャーしか与えてこない。押し問答をする時間がない。
「それなら横根を」桜井にも頑張ってもらおう。もう一人は……。
『術に生かされている死ぬさだめの猫をか?』
ロタマモの口調が早まる。
『あの娘一人で二人分だ。彼女を選ぶと哲人君は人に戻れないぞ』
横根は死ぬ運命だと? 俺の心は決まる。
「それでいい。横根だけ生きて人に戻せ!」
『ロタマモ、こいつは変人だな。……俺からの依頼を言うぜ。簡単なものだ』
サキトガも後付けしてきやがる。『桜井って娘を守れ。それも契約のひとつだ』
ふざけるな。こいつらなんかに頼まれるまでもなく、必ず守るに決まっている。
『よろしい。短剣をどかせば契約が結ばれる。急げ』
血の光が弱まり、箱だけを照らしだす。
『ロタマモは呑気だな。あと20秒だぞ。18、17……』
「私ではない。貴様が魔物と契ったのだぞ」
思玲がきっぱりと言う。
「こうなったのならば、お前の選んだ道をともに歩んでやる」
『デッドラインまで、あと10秒』
サキトガがカウントダウンをやめる。俺はふわふわと血の色に照らされた箱へと向かう。
「瑞希を助けろ!」
思玲におもいきり押される。俺は空中を飛んで箱に張りつく。
『アディショナルタイムがちょっとだけあるな』
サキトガが笑う。
俺は箱をこじ開け――、ふたがびくともしない。横に鍵穴が見えた。箱はかたく閉ざされていた。
「ど、どうやって開けるんだ?」
『知るかよ。自分で考えな。そもそもガキのお化けなどに、俺は期待してないしな。キキキッ』
コウモリが俺を蔑むように見おろす。
『ホーホー、なかなかの暇つぶしだった。弱い人間の弱い心を見るのはいつ以来かな』
フクロウがあざ笑っている。幻影がふいに消えて、使い魔達の声だけがする。
『さあ本番だ。けだかき王思玲よ、お前とは契約は不要だな。守るべき者の心を知ったならば、自分の意思でソードをとりだすがいい。ホホホ』
血の灯が燃えるように強まる。だけど、どういう意味だよ。俺は……、俺とのやり取りは、思玲を引きこむためのただの釣り餌だったのか?
俺は彼女へと絶望の目を向ける。赤い灯が強すぎて、思玲の姿がよく見えない。
「目論見が違ったな。こいつはおのれの身を選ばなかったぞ」
彼女は扉へと身がまえていた。
「ゆえに、私は哲人とここで潰えてもいい」
次回「ファイナルカウントダウン」