二十五の一 弱い二人が向かうのは
『あの木はなくなった』
『ここに来るのか。待たしてもらおう』
近づくほどに、呼ぶ声がはっきりしてくる。耳もとでささやかれるようだ。
「しかし、うるさい妖魔だ。耳を傾けるなよ」
思玲にも聞こえているみたいで、しつこく俺に言い聞かせる。だったら行かなければいいのに。
『頼りの法具もない』
『田舎のお札も弱まった』
たしかにうるさい。耳をふさぎたくなる。体の調子がよくないので吐き気さえしてくる。
『みんなばらばら』
『誰もが怯えている』
だけど、こいつらの言い分ももっともだ。桜井の気配から遠ざかっている。
「みんなは――」前を行く思玲へと声かける。
「お前もうるさい!」
いらだちをまとめて俺に向けてくる。はっとした顔になる。「……また薄らいでいるぞ。はやく言え」
思玲が戻ってきて抱えてくれる。俺のことなどどうでもいいのに。でも人の肌の温かさに癒される。
彼女が走りだす。
「みんなを探そう。お願いします」
揺れる胸もとから切願する。
「私もお前も手ぶらでか? 全員そろうということは、桜井もいるのだぞ。簡単にあいつに見つけられる。そして私を殺し、哲人も消され、箱を奪うだろう」
桜井をGPS扱いだ。でも、たしかに今の俺ですら彼女がどこにいるか感じられる。桜井の緊張した気配が伝わる。
俺だけでも彼女のもとに行ってやりたい。なにもできなくても守ってやりたい。本当になにもできないけど。
「木札が浄化されたとして、それからどうするのですか?」
「矛は手もとにある。護符の力が戻れば盾もそろう。まだまだ戦える」
職員らしき人が前から来て、思玲は歩みをゆっくりにする。そのおじさんは思玲をじろじろ見ていたが、彼女は笑みを浮かべて会釈を返し、なにごともなくすれ違う。もう結界も張れないのだ。警備員にさえ捕まりかねない状況だ。
「矛とは?」なにかの比喩だと勘づいてはいる。
「一度きりの矛だ。教えるとそれは弱まる。ゆえにまだ伝えぬ」
思玲はそれだけ答えまた走りだす。彼女から血の匂いが漂う。傷口はとじてないのだろうか。一度きりとは……。
「まさか、あなたが身を挺するつもりなら」
「違う」きっぱりとさえぎられる。「今の私など布袋葵すら除去できぬ」
彼女はそれ以上の説明をしない。導かれるかのように角を曲がる。図書館が見えた。
***
大学図書館は四角い鉄筋製の昭和っぽい建築物だ。入口は大きな木製の扉で、そこだけは雰囲気はある(入ってすぐに自動ドアはある)。
夏休みの土曜日だろうが開館中のはずなのに、扉は閉ざされていた。やはり昨夜からの一連の騒ぎが原因だろう。
「扇も護刀もなければ入れぬな」
入口の石段の前で、思玲が顔をしかめる。この扉まで破壊されずに済んだが、俺はここで桜井と横根が俺達を待っていたのを思いだす。
大事なことも思いだした。
「さっき峻計が言っていました。現状だと横根がいないと、桜井も龍にならないみたいです」
「私も聞いた。カラクリなど分からぬがな。……瑞希を殺したりせぬぞ。お前達が好むゲーム風に言えば、リセットだかをするために」
「当たり前だろ! そもそも横根がまずいかも」
かろうじて生きている状態なのに、小鬼が飛ばしたと言った。
「助けにいきましょう」
思玲があきれた目を向ける。
「護符がなければ、お前はただのか弱き妖怪だ。まずはおのれの心配をしろ」
それは昨夜の墓地で痛々しいほど経験している。だけど、
「弱かろうが守りにいくんだよ!」
俺の必死な怒声に、思玲がびくっとする。俺を胸もとからだし、顔の前までかかげる。あきらめの目を向ける。
「そこまで言うのならば、みなのもとへ行くか」
思玲はあざけてなどいない。
「ここに入るのも、追いつめられたゆえの愚策だと分かっている。哲人の考えに付き合おう」
そう言われると、あらためて冷静に考えてしまう。
行ったところで力にもなれるはずない。かといって護符を復活させたところで、みんなを守れるというのか。この一日の出来事を大急ぎで思いだす。
呪いで染まった怨霊は、護符に触れるなり溶けて消えた。流範は目に見えぬ速さで飛び、墓石をひと突きでばらばらにした。木札のない俺なんて丸めた新聞から逃げるゴキブリ程度だったけど、その流範も護符には抗えなかった。生身のカラスなど、いともたやすく抜け殻にしてしまった。おぞましい鬼だって、瞬時に二匹も消した。峻計にしても……、俺を見て厄介だとたしかに言った。護符を持つ俺が面倒な存在だと。
俺でなく護符の力がなにより必要だ。だったら……、ひたすら黒羽扇の邪悪な光を避けて、あいつへと近づく。復活した護符を直接押しつける。
俺一人では無理にしても、チームプレイなら可能性があるかも。
「ここに入りましょう」俺も覚悟を決める。「左手にある事務室なら開いていると思います。そこから忍びこめるかも」
「私は無理だろ。見つかれば、日本語を喋れぬ不審者だ」
扇のない思玲は別人のようで拍子抜けしてしまう。「哲人にしても、事務室ならば人の明かりが煌々だろ」
……今の状態では消滅しにいくようなものだ。俺達に力がないのかよく分かった。
蚊が思玲にまとわりついている。彼女は気にもとめないけど、俺が見えない手で追いはらう。
『入りたいのかい?』
『会いたいのかい?』
いき詰まると、必ず使い魔の声が届く。思玲がまた俺を抱える。
「こいつらは魔道士である私にすら声をかけてくるな。なにをそんなに切羽詰まっている」
彼女は図書館の奥を探るように見る。
『お前のが切迫しているだろ? 王思玲よ』
『松本哲人にしてもな』
好き放題に心を読むのだから、フルネームも知っているよな。
「貴様達とは会いたくないし、この世界から消し去ってやりたい」
思玲が図書館へと声をかける。
「だが護符を清めるために、貴様達が無様に封印された場所に行かねばならぬ」
蚊の羽音だけが聞こえる。じきに誘う声がまた心に入りこむ。
『東洋の祓い師、ならびに妖怪へ身をやつし者よ。契約のために入りたいと言うのだな』
声色があらたまった。『ならば、こちらへと向かうがいい』
正門の鍵がまわった音がする。観音開きのドアが静かに開き、俺達を出迎える。中へと、まがまがしいドームが続く。術による回廊だ。
「生意気にも人除けの術か」思玲がつぶやく。
『人間には邪魔させないよ』
『あの鴉が来る前に、はやく入るがいい』
「哲人、行くぞ」思玲が俺を抱えて石段を歩きだす。「なにがあろうと耳を傾けるな」
たった今、お前が声に応じたじゃないか!
「ち、ちょっと待てよ」
俺は思玲の胸の中で暴れる。図書館へと声をかける。
「契約のためではない。契約を検討するために入るでいいよな」
連帯保証人になるな。実印を押すな。二十歳の俺でもそれくらい知っている。
『キキキ、こいつは妖怪になっても賢い。ロタマモ、どうする?』
『……契約を前提で入場するでよいか?』
「あくまで検討だ! 撤回もありうる」
『それで進めよう。はやく入るがいい』
『前向きに話し合おうな。キキキ』
「ふん。ことば遊びか」
思玲が門をくぐる。自動ドアは開かない。
彼女は俺を脇に抱えなおし、ガラスドアを無理やり左右にひろげ、
「こいつらは峻計より恐ろしい。楊偉天のように、いにしえの呪いの言葉を使えるかもしれぬ。だが今は魔物どころか干物だ。封印を解き人の魂と引き換えの契約を結ばねば、その力はだせまい」
自動ドアを通りすぎる。館内に明かりはついていない。とりあえず安堵する。
『ホホホー、あの鴉と比べられるとは光栄だね』
『鴉を倒せなんて契約はやめろ。それには生贄が四十人は必要だ。いらないけどな』
『異形くずれならいただこう。だが七十匹だ。完璧がお望みならその倍かな。ホホッホー』
俺達を匹で数えたな。背後で門が静かに閉じる。ほぼ真っ暗になる。俺は思玲の腕からするりと抜けでる。
ようやく落ち着く世界に入った。いきなり気力が復活する。
次回「完全アウェイ」