七十三の二 陽に立ち向かう樹上の清廉な花
ザワザワザワザワ
ザワザワザワザワ
アノ女ハダイキライ
ダッテ、コワイモノ
ホシヲ、ホロボスモノ
森ノアルジ、タオシテヨ
「……まずい。哲人さん、町へ逃げよう」
浮かぶドロシーが答える。その上には丸い月。
前世のトラウマだったとしても、いまさら木霊なんかに怯えるなよ。しかもだ。
「人を盾にするためか?」俺は尋ねてしまう。
「ひえっ、哲人さんまで怒らないで」
『ドロシーちゃんがそんなのことするはずないだろ。白虎と戦いたくないからに決まっている』
「そ、そうだ。夏奈さんの言うとおりだ。だから怒らないでよ」
花咲き誇る夏が二人そろって反論してくる。林の腐葉土が盛り上がり押し寄せてくる。暴雪はどこにいる?
無力になってしまった元獣人も放置されたまま。木霊に捕まる。
「怒るに決まっている。思玲の剣を輝かせろよ」
俺はつっけんどんに答えて、折坂さんのもとへ走る。大学生の姿の異形が大人の人間を抱きあげようとして、するりと滑る。
「おりゃ!」
人の目に見えぬ化け物が気迫を込めて人を持ちあげる。
ザワザワ
足もとが土に埋まった。這い上がろうとする。
どくん
……護符が発動しやがった。
「くわっ」
折坂さんが目をむきだす。お天狗さんの木札は扱いづらい。抱えれば火伏せの巻き添え。おろせば木霊に喰われる。
「ドロシーはやく光らせろ!」
「焦らせないで、輝かない! あ、くそ、哲人さんのせいだ」
振り向くと、藤川がドロシーへ跳躍していた。春南剣を弾き飛ばされて、地面に蹴り落とされる。
「成敗する」
藤川匠が刃先を下にして彼女へ飛び降りる。
「噠!」
「なるい!」
紅色の光も空中で避けて、月神の剣が彼女の胸を狙う。
「なに? くっ」
逆に藤川匠が倒れる。
コワイコワイ
サワサワサワサワ……
「へへ、三つ重ねの護りだ。破邪の剣に勝った。……殺意を感じたよ」
ドロシーが立ちあがる。その首もとには知らぬ間に師傅のサテン、その手には紅色に輝く天宮の護符。すべてが彼女を守ろうとする……。俺の手から火伏せの護符が消えていた。
苦痛から解放された折坂さんが再び目を閉じる。今度は腐葉土が、守りなき俺を埋めにくる。折坂さんごと。
おなかの中の夏奈ごと。
どくん
俺の手に護符が戻る。土が砂と化し、意識なき折坂さんが血を吐く。
「俺を守るな。俺が愛する人だけを…………」
俺の未来の妻の人が、右腕を押さえる藤川へ、剣と護符を交差させるのが見えてしまった。
『やめろ!』
「やめろ!」
俺と夏奈の声が重なる。
「噠、怒るの遅い! ……よかった」
ドロシーが発する螺旋から輝きが失せる。
「うっ」
それでも藤川匠は力ない光を浴びる。
ゴチソウゴチソウ
イマノウチニ、ハヤク食ベヨウ
森ノアルジガヤッテクル
オコッテル
俺と折坂さんは土に埋もれていく。歩くの大変。よろめくと護符がさらに怒る悪循環。
「うう……。松本か?」
見えない俺に尋ねてくる。
「はい。あなたなら人になってもきっと強い」
俺の声は聞こえないとしても、折坂さんを地面におろすしかない。さっそく木霊が集いだす。
「ドロシー! まずは木霊を追い払ってくれ!」
『ドロシーちゃんが苦手なの知ってるだろ。哲人がしろよ』
そんなの知る必要ない。俺が知りたいのは、たとえば食べ物の好き嫌い。
いつかそれを教えてもらうために、俺は独鈷杵をかかげる。……光らない。あれだけ怒るな怒るな言われたら、そう簡単に怒れない。
「……それだ」
藤川が俺へ手を向ける。
俺の手から法具が消える。
藤川の手に憤怒の具現が現れる。
「ドロシー避けろ!」俺は叫ぶけど。
「眷属を削る」
独鈷杵は俺に投げられる。
夏奈を守る俺へと。
「俺を狙うな!」
夏奈のために法具を受けとめようとする。
受けとめたけど。
「噠!」紅色に照らされる。
法具が紅色熱烈光線に包まれ消滅した……。
「あちちち」
左手が燃えだした。父親が持つ火伏せの護符は、母親の一撃に抗えない。
「それは君に不要だ。よけいに怒りぽくなる。お天宮ちゃんも同意してくれた」
ドロシーは天宮の護符を構えていた。
「藤川め。懲りずに哲人さんを殺そうとしたな」
俺を殺したことあるドロシーが、紙垂型の木札をかかげる。
圧倒的紅色に周囲の木霊が砂になっていく。俺は砂に手を突っ込み消火する。……ドロシーが俺のために授けた傷だ。我慢しろ。
「やっぱりあなたは強かった。ふん!」
木霊が消えた地で折坂さんを抱きあげる。なおも森からにじり寄ってくる。
すべてに身構えておけよ。白虎はどこだ? 忍はどうした?
「私はドロテアと刺し違えてもいい」
地面に打ち伏した藤川匠が西洋の言語で伝える。月神の剣を杖に立ちあがる。掲げれば、なおも青く輝く。
「私はごめんだね」
ドロシーも西洋の言葉で返す。右手で春南剣を拾いなおし、天宮の護符を左手に隠す。
剣と剣の対決……。
「たあ!」
「噠!」
ともに斬撃を飛ばしあう。二尺玉ほどもある青。四尺玉ほどの紅。飲みこまれる青。そのまま突き進む紅。
「なぜっ」藤川が吹っ飛ばされる。
青を圧倒する紅。勝負ありだろ。
「へへっ」なのにドロシーは剣を藤川へ向ける。
俺のシャツが内より切り裂かれた。
「ぐはっ」抱えた折坂さんが吹っ飛ばされた!
『ドロテア! 思いだしているのだろ!』
コザクラインコが弾丸のように飛びだした!
「ゼ・カン・ユ様に命を救われた。おかげであたいとドロテアは友達になれたんだろ!」
「きゃあ」
ドロシーが無防備の背中にタックルされて数メートルも吹っ飛んだ!
「そんで、たくみ君はゼ・カン・ユ様をやめろ!」
「うおっ」
立ちあがった藤川まで吹っ飛ばしやがった!
「夏奈戻ってこい」
俺は折坂さんを抱きなおしながら叫ぶ。
「私はたくみ君を守る。ドロシーちゃんが強すぎるし、ははは」
「藤川を信じるな」
たしかにゼ・カン・ユは正義だ。でもやはり極端すぎる。
「だったら松本君が早く終わらせろよ。……外にいるのは良くなさげ」
なのに夏奈はドロシーのもとへ飛ぶ。言っていることとやっていることが違う。(自分がぶっ飛ばしたため)うつ伏したままのドロシーを守ろうとしている。
「梓群を守るのは俺の役目だ」
夏奈も折坂さんもみんな守るから。
「俺のなかに戻ってこいよ」
「戻りました。すぐに向かいます」
忍の焦った声がした。
「姉が来ます。九尾弧の珠と賢者の石にご注意ください」
姉? 藤川匠が持つ珠? 貪を封じた珠も?
「暴雪は?」
返事はない。頭上で枯れ葉が舞いだした。またも腐葉土の行進が近づく。
「フロレ・エスタス……情けない姿だな。それも魔女に取り込まれた証だ」
藤川匠が立ちあがる。
「そうかも知らね、ははは」
インコがうつ伏せに倒れたままのドロシーの頭にとまる。
「だってこの子は誰よりも正義だし、いまから人をたっぷり守る」
「その楽天的は夏奈だよな」
藤川が人の言葉で告げる。かすかに笑みをこぼす。
「でも僕は憂いている。王思玲が死んだ。忌むべき姿のフロレ・エスタスが人の世に居残れるわけない。松本哲人がいなくなれば、いずれ黒髪の魔女になる。そのときに誰がドロテアを抑える?」
「俺だ」俺が答える。「俺がずっと隣に立ち、魔女からドロシーを守る」
魔女になることから守る。
「こっちへ残るのか?」
藤川がさらに笑う。「僕にはわかる。松本は逃げたがっている」
「逃げるでなく立ち去る。ドロシーをあっちへ連れていく」
そのためにたぶらかす。彼女に魅入られ続ける。俺達は互いにたらしこむ、誰もがうらやむ恋人になる。
「魔女なんていないからドロシーを殺そうとしないでくれ。藤川にも俺にも、夏奈にもドロシーにも、他にやることがある」
月はさっきよりも上に登っている。藤川が剣を掲げる。
ザワザワ……
コワイヒカリ、デモ悲シミノヒカリ
木霊が近寄るのをやめた。俺達以外に音を立てる存在はない。
……川田が心配だ。殺人鬼となり町へ降りるかもしれない。だけど俺はここを離れられない。川田に命じたドロシーを信じるしかない。
「白虎はどこ?」
「森にいる。殺意を消している」
夏奈でも見つけられない森の主が俺達を狙っている。目の前に全裸の折坂さんが現れた。
「私を餌にしろ」
俺のシャツに手を入れながら言う。
「私も暴雪と因縁がある。……人として生きたくない」
「あなたには優秀な部下がいる。彼女に杖を渡す」
「そうだったな。だが正直不安だ」
笑みを浮かべたあとシャツから手をだす。
独鈷杵なき俺は異形だろうと力ない。抱えて守るだけ。
「私はドロシー様に託したい」
折坂さんがまた目をつむる。……様だと?
「京を信じられないのか。情けない人間め」
ドロシーがようやく立ち上がる。鼻血を手の甲で拭う。
「夏奈さん痛かった。火伏せの発動より素早いし、やっぱり……お姉ちゃんはすごい、へへ」
「私はドロシーちゃんの姉貴じゃねーし、ははは」
「私は一度だけ認める。……私はドロテアだった。傭兵くずれに家族を殺された娘。私だけ丘の畑にいた。戻ってきて奴らに襲われた。
魔女狩りでただの人が惨殺される時代だった。ずっとずっと必死に懸命に力を隠していたのに……おろかで弱い連中の首を手で刎ねた十四歳の娘。そしてサマー・ボラー・ブルートと呼ばれるようになった」
ドロシーが俺へと振り返る。その涙が満月に照らされる。
「それから先は哲人さんに教えない。だけどだよ、前世の因果が繰り返されて、またパパとママが殺されたのなら、……尊敬できた思玲も死んじゃったなら、私はそんなの赦せない。そんなの認めたくない!」
藤川匠さえ聞きいっていた。
「そんなはずない……」
俺に言葉を見つけられない。でも因果なんて言葉は好きでない。
「だって梓群は梓群だから。……俺に名の意は伝わる。ドロシーは陽に立ち向かうキササゲの花達だ。因果などあるはずない」
そんな言葉しかかけられない。
「哲人さん……ありがとう」
だけど彼女は笑みを浮かべる。
「どんな言葉より至宝だ。……多謝、多謝」
「そ、そうだよ。ドロシーちゃんはドロシーちゃんだよ、ははは」
彼女の髪の上で青い小鳥も笑う。
「だから自由に生きな。いい男と一緒にな、ははは」
「それだと繰り返すだけだろ。猛々しく美しかったフロレ・エスタスよ、わかってくれ。松本はただの人間だ。力なき男だ」
藤川匠がまたしても剣を掲げる。
「断ち切るために、あらためて儀式をおこなう。白虎よ、強い力に戻りたければ、私のもとへ来い」
「もちろんだとも」
闇から暴雪の声がした。「私は二度と子猫にさせられない。私は誇り高き神獣だ。鳳凰になつくものか」
気配なきままで巨象ほどもある白い虎が現れる。
「鳳凰? ……つまり不死鳥?」
藤川が俺を見る。
俺はうなずく。ドロシーは魔女でなく鳳凰だ。
「……それこそが惑わしだ」
だけど藤川は剣をおろす。
「おいエロおやじ。虎は龍に勝てないと身を持って知ったよな」
コザクラインコが化け物虎をにらむ。「あたいが本来の姿になったら、真っ先にお前を喰うかもな。月から逃れてまともに戻れよ」
空に明るい月。星を消すほどの月。儀式はおこなわれない。
林からは獣臭。
「姉御。捕まえてきたぜ」
川田の声がした。「車を驚かして事故を起こそうとしていた」
毛むくじゃらの獣人は女の霊をくわえていた。
「殺せたが連れてきた。姉御が怒ると怖いからな。今夜からドロシーさんがボスだ」
悪霊を口から離し、にやりと笑う。
「私はボスじゃないけど川田さんありがとう。そしたら哲人さんから折坂を受けとって、守ってあげて」
「なんなりと命じてくれ」
川田が人でなき速度で駆け寄ってくる。
「鶏子は残念だな。もう少しだったのに」
俺から乱暴に折坂さんを奪い、肩に乗せる。
「夏梓群や。私は榊冬華だよ。六魄のひとりだ」
悪霊が地べたからドロシーへすがる。
「名前で気づくだろ? 私と梓群は同じだ。前世の魔女が別れた存在だ。つまり私はお前の力だ。世界を滅ぼせる力が私だ。私と組んでくれ。私と一緒に強き魔女へ戻っておくれ」
「大嘘だ。こいつはくだらない蛙だ。ドロシーに焦がれただけの行き先もない哀れな存在だ」
俺がきっぱりと告げる。だけどドロシーは首を横に振る。
「いいえ。この人は私だ」
手を伸ばし、邪悪な笑みを浮かべた榊冬華を抱きおこそうとする。
「私の悪しき過去だ。……あなたが私を香港に呼んだんだ。そうでなかったら夏奈さんの妹として……だけどありがとう。おかげでおじいちゃんやパパやママと会えた」
俺はドロシーを信じている。夏奈もだろう。
藤川匠は月神の剣を構えている。無防備すぎるドロシーへ向けられない。
白虎だけがにじり寄ろうとする。俺と夏奈がにらむ。川田は鼻をほじっている。
「そ、そうだろ。あなたは私だ。私となら世界を従えられる」
ドロシーに抱かれた榊冬華がほくそ笑む。
「へへ、やっぱり邪だ。だから悪だった私に消えてもらう」
「へ?」
悪霊さえもきょとんとした。
「善だけの私が、悪であるサマー・ボラー・ブルートを消し去ってあげる。完璧に。慈愛を込めて。天にも地にも向かうことなく。そしたらあなたも私も、もはや苦しむ必要ない。そして……だから私は梓群のままだ。ドロテアでなくなった」
「ち、ちょっと待て」
「ドロテア……がんばったよね」
ドロシーに抱かれたまま、榊冬華の魂がかすれて消える。ドロシーの手に陰辜諸の杖だけが残る……。
陰から陽へ。彼女はさっぱりした笑顔を川田へ向ける。
「夏奈さんと三人で町へ帰ろう。藤川も哲人さんも置いて。白虎は連れていってやる」
もう戦いは終わろう。私がいつか必ず、川田さんも夏奈さんももとに戻してあげるから。今夜は疲れたね。だから眠ろう、へへ。
俺はうなずく。まだ泣かない。藤川と二人で語りあおう。
「悪さしそうになったら躾けてくれよ」
川田もうなずく。
「……心が伝わる。私も連れていってくれ」
弱りきった折坂さんが顔をあげる。「いまは人だが必ずもとへ戻る。そして必ずや禊ぎは果たす」
それは鳳凰への服従ではない。哀願だ。
「我が主、九尾狐が来ます。いまのドロシー様なら対抗できるでしょう」
忍の声が上空からした。「三つ巴の争いでなければの話です。それを阻止できるのはどなたでしょう」
俺しかいないだろ。そのために俺はここにいる。……ドロシーだって七難八苦を授かっていた。戦いを続けるしかない。だけどもう少しだけ。
「凰の声は聴こえぬ。はやく私に力をよこせ」
満月に狂った虎の声が聞こえた。……まだ認めないのかよ。ドロテアを。プライドだけになった自分を。
「……ああ。待たせたな」
月下の虎に後押しされて、融通なき正義が復活する。その男の手になおも法具はよみがえる。
ザワザワ
ザワザワ
また腐葉土が活気づいた……。
「異形を引き連れて人の世界に向かうというのか」
藤川匠が破邪の剣を掲げる。独鈷杵と交差させる。
「白虎である暴雪よ、青龍であるフロレ・エスタスよ。私とともに魂を捧げるときが来た」
俺は感じる。ゼ・カン・ユこそ正義だ。だけど俺達も正義だ。躾けるだけの正義だ。信じてほしかった。
「ならねえよ。松本君、助けろ!」
夏奈であるインコが俺の腹へ飛びこむ。俺は必死に抱えこむ。
「裁きの龍よ、目覚めてくれ!」
こいつこそあがいている。
藤川のもとから青色と白色が螺旋を描き、俺へ向かってくる。
次回「夏に乱れ咲け、さくら花」




