六十三の二 亀からの卒業
**王思玲**
「忍。斥候してくれ」
「我が主から授かった命は、あなた様の傍らを離れぬことです」
「ちっ」
林間を縫い真横をさっそうと飛ぶジャージ姿に拒絶され、思玲は思いきり舌打ちする。主に似ず融通のきかぬ奴め。
「僕も向かわない。僕がここにいる理由は、じきに我が主になる方のためであり」
「だらだら説明しなくても頼まぬ」
闇が溶けきれぬ月夜。ハラペコは役にたたない。
サワサワ
……しかも嫌な森だ。ウンヒョクあたりと合流したい。異形とだけ戦地で行動するのは、私でもきつい。だけど私はおじけつかない。
「忍は雅を見習え。こいつは臨機応変に私のもとへ現れた」
その蒼き雌狼の背にしがみつきながら告げる。
「哲人様は私へと本気で怒っていた。逆らうなどできません」
「ばれなければいいだけだ」
私の肩にしがみついた黒猫が言う。
沈黙は五秒。
「そうですね。さきを見てきます」
忍が消える。
「戻りました。まず我が主らを確認しました。全員が揃っています。弛緩を感じるのは、貪を成敗したからでしょう。なぜか大蔵司までいます。しかも猫耳の下品な巫女になっていました」
「白虎くずれ? ……異形になることでドロシーに赦されたかもな」
「あり得ますね。主達はどうやら冥界を行き来したようで、折坂さんもいます。二体の獣人を大蔵司の結界に閉じこめるなどと危険な所為をしています」
「……あいつらは経験不足か? 私は満月のけだもの系を知っている。雅もだよな」
星が三個ぐらいの獣人どもを相手に、師傅は本気で戦った。私は例によりおびき寄せる餌だった。
「よく存じてます。欲望に支配されます」
満月系の蒼き狼が駆けながら答える。単純明快にそう言うことだ。
「私に関しては心配無用です。思玲様に今夜も従順です」
犬系はそうだろな。満月のリクトも哲人に尻尾を振っていた。いなくなるなり和戸を襲った。
「ドロシーは当然異形のままか。いざとなれば無茶苦茶娘が川田と折坂を殴るだろ」
「手負いの獣人はともかく大和獣人をですか? ……今後をどうするかで揉めていました。我が主はミドリガメらしく、統率者がいない状況です」
デニーは不夜会新頭領だ。リーダーシップの塊だ。だがドロシーを御せるのは哲人だけってことだ。
「敵はどうだった?」
「またも峻計は榊冬華と合流しました。奴らの向かう先に暴雪がいます。……天馬に乗った藤川匠に成敗されかけていました。あの者はドロシー様ほどに強い」
「雅とまれ」
日没だよ全員集合! ではないか。さすがに相手できない。
「峻計は藤川に救いを求める。そうなると、またもあいつはだらだら逃げる。阻止する策を述べろ」
「もはや藤川が峻計をゆるすはずない。峻計もわかっているはずだ。それに藤川の意図がわからない。近寄るのは危険だ」
ハラペコが告げる。
「思玲は森で結界に潜み待ちかまえる。僕と忍がそこへ峻計を誘導する」
「どうやって?」
「猜疑心を突く。だらだら説明しようか?」
「不要だ」
忍が周囲を気にしながら言う。
「現状において愚策ではないが、あの魄が難敵です。どこにでも現れて消えることができる。しかも月とともに力が増す。なのに杖なき峻計とともにいる。それは利害が一致しているから」
サワサワサワ
「……人の世の不幸。邪魔なのはドロシー様」
黒猫が私の背で森へと怯えながら言う。
「もしかすると藤川匠も」
「ええ。そうなると峻計だけをおびき寄せる餌が必要です」
サワサワサワ
サワサワサワ
立ち止まると木霊が近寄ってくる。私こそ怖い。こいつらは雅が無言で威嚇しようが怯まない。
「餌か。お前の飼い主が大好きな言葉だが、それは桜井でないだろうな」
「僕から言わせてもらえるなら、本来なら峻計の餌は思玲だった。だけどあいつは思玲から逃げた。さらには餌に追われている。そうだとしたら……」
狢が言いよどみ、忍が私に目を向ける。妖艶な笑みを浮かべる。
「ええ。餌は我が主です。あの方が一人になれば、峻計は我慢できないでしょう。そして思玲様が仕留める」
サワサワサワ、サワサワ
サワサワサワ、サワサワサワサワ
「哲人には火伏せの護符がある。あいつは懲りている。ジョーク抜きで別の策をあげろ」
「ふふ。しばらく様子をうかがいましょう」
「そして敵に隙あればドロシー様他に加勢する。そっちのが上策だ」
「誰でも思いつく。もっとアグレッシブな――雅どうした?」
「いそぎ動くべきです。私の脚に早くも土が寄ってきました」
サワサワサワ、サワサワ
サワサワサワ、サワサワサワ
サワサワ、サワサワ、サワサワ、サワサワ……
「つ、剣を輝かすべきだ」
「反動が怖い。雅走れ」
再び蒼き狼が森を駆けだす。……誰でもいいから人と合流したい。だけど哲人を巻きこめない。峻計を仕留めるまではできない。
ならば逃がさない。今夜終わらせるために。
**松本哲人**
ごっつい手袋をはめた手。俺はミドリガメから卒業できた。それどころか人の姿だ。頭に何かある。手袋越しに触る……ヘルメットのようだ。
「陰から陽へ。ありふれた結論だな。面白みもない」
それでもデニーは引きつった笑みだ。
「ドロシー。あなたの行為は全員を窮地へ落としかけた。あなたなら本物の朱雀になってもおかしくなかった」
「ごめんなさい。……人の姿ばかりだと異形になった感慨が失せる」
俺の隣に滑りこみ一緒に杖の力を浴びたドロシーは、巫女姿のままだった。
「しかも力は上塗りされてない。モデルチェンジしただけ。だから何度京さんにかけてもらってもこれ以上強くならない」
そんな目論見まであったのか。……俺はミドリガメより強くなれたよな。俺と大蔵司ならば無尽蔵に強くなれるかも。もちろん試さない。
「限りなく人に近い異形になった。おかげでドロシーちゃんを思いだしたよ。……俺とデニー以外すべて人の姿の異形か。ちょっと怖いな」
ウンヒョクは夏奈を抱えていた。彼女だって人間のままだ。
「そっちの兵隊さんは思いだせない。きっと人より亀に近いのだろ」
俺は自分の体を見る。本来の人である俺で人の目にも見える。レオタードのときと違って、人の記憶から消えた忌むべき異形だ。
だけど暗緑で亀甲柄の迷彩服。甲羅みたいなヘルメットを脱着できなくても、満足できるスタイルだ。
「臨影闘死皆陰烈在暗、臨影闘死皆陰烈在暗」
大蔵司は地味作業に戻っている。やっぱりかわいい。
「松本2等陸士はこっちを見ずに、はやく突撃してこい。ここには桜井の番で一人いてくれたらいい。……そろそろドロシーは服を返せ。それは2セットしか支給されてないので自腹で一式買い足したのに、ひとつが燃えた」
「いやだ。まだ借りている」
「ならば私は松本の前で全裸になる」
「そしたら躾け……るはずない」
ドロシーが残念そうに巫女装束を脱ぐ。同時に浮かびあがる。
「やばい。下着姿だった……あれ?」
駐屯地が紅色に照らされる。誰もが言葉をなくして見上げてしまう。
ドロシーはチャイナドレスでもなくなった。またも天女になった。水色のオリエンタルなドレスと、足もとにかかるほどにゆったりした薄ピンクに透けた上着。
髪型さえも変わる。黒髪がおでこに薄くかかっている。後ろ髪は長くなり腰丈ほどまである。メイクまで淡く施された。
「漢服か……京劇なんて目じゃない。素で超えている」
デニーが嘆息する。「すまぬ。めまいがしてきた」
デニーがしゃがみこむほどに、ドロシーから龍と朱雀が折り重なった美があふれている。ウンヒョクも口を開けたままだ。大蔵司など地味作業の継続を忘れている。
だけど俺は楊偉天から聞かされた。彼女ははるかに強くなれる。おそらく美しくもなる。それを見る必要ない。
「誰より素敵だけど降りてきな。あいかわらず俺は飛べない」
パートナーである俺だけは平気だ。彼女に笑みを向けて、手を差し伸べてエスコートできるほどに。
冥界で知った。俺の導きは、力ありすぎるこの人を魔道士から卒業させること。鍛錬を積まなければ、二十歳を過ぎれば目減りするらしい。あと二年。それまでにもっと楽しいことを教えてあげればいい。そのために人の世界へ連れ戻す。
さもないと彼女は不死身のままだ。人でないままだ。
「へへ。哲人さんは軍隊みたいでかっこわるい。でもようやくだ」
ドロシーが地上へ平泳ぎする。やっぱり君こそかわいい。
「これは邪魔」
俺のごっついグローブをはずす――皮膚を剥がされたごとき激痛。手を握られると同時にそれは消える。
「うーん……」
(俺やドロシーから守るため)ウンヒョクに抱かれた夏奈がうなされる。
俺は彼女の寝顔を見つめる。……見納めかな。
「あん?」
夏奈がいきなり目をぱっちり開けた。
「虎だ!」
ウンヒョクの腕をはらいのけ、地面へどさりと落ちる。
同時に樹海方面から咆哮が聞こえた……。暴雪だ。
「た、たくみ君が強敵とたった一人で戦う」
夏奈は即座に立ちあがる。「私も行かないと。り、龍になって」
「ダ、ダメだよ」
ドロシーが俺の手から離れる。夏奈に抱きつく。
「一緒にいよう。だから私はここに残る……。だから哲人さん、デニーさん、ウンヒョクさん、鶏子ちゃんに黒乱ちゃん。みんなで暴雪を説得して。藤川匠をあきらめさせて」
「もちろんだよ。俺はアーミースタイルだからって攻撃的じゃない」
君に守ってもらう必要もない。
ここに夏奈がいる。藤川は龍を求めて過去よりやってきた。それをやさしく阻止するのが俺の役目。
「ドロシーちゃんはまた異形……。一緒にいてあげるから人間に戻れよ」
「全員を説得してからね」
「ははは……ドロシーちゃんならできる」
夏奈はドロシーに抱かれて、また目をつぶる。……夏奈はたくみ君のもとへ向かおうとした。それを阻止したのがドロシーの役目。
俺達は適材適所じゃないか。
「あなたなしで戦えというのか。心配事が減って助かる」
デニーがドロシーへ薄く笑う。
「ここで待ちかまえるべきでないか?」
ウンヒョクが言うけど。
「いいや。男が狩りをして、女が守る。ありふれた展開だ」
デニーがポケットを探りながら言う。
「そこの美しすぎる異形よ。君は人であったときに煙草を吸っていたな。思いだした褒美に一本分けてくれないか?」
「臨影闘死皆陰烈在暗……。あと一本しかない。終わったら一服するつもりだったけど、あげるニャン」
大蔵司が手に現れた煙草の箱を手裏剣みたいに投げる。デニーが片手で受けとる。
「哲人さんはすごい」ドロシーが微笑んでくる。
「なにが?」
「京さんを見ても平気になった」
「そりゃ、もっと素敵な人が隣にいればね」
「……へへ。だったら私も耐える。京さんを襲って食べない」
「臨影闘ごほごほっ」
……なんであれ、俺もデニーと同意見だ。男達は女達を置いて奴らのもとへ向かう。敵は入れ違いにここへ現れるかもしれないとしてもだ。暴雪の悲鳴は遠くない距離から聞こえた。
だけどここにはドロシーと大蔵司がいる。間違いなく俺達三人より強いだろう。ゆえに姑息な俺は考える。野郎どもが追いたてれば、敵は異形となった魔女二人のもとへ現れざるを得ない。
「奴らが来ても襲わないようにね」
ドロシーに念押しする……。女子二人に対抗できる奴がいるかもしれない。
「教えて。一番怖いのは藤川匠かな」
「今夜の折坂に決まっている。暴雪だって強い。でも藤川は九尾狐の珠を奪った。一番の悪だ」
彼女は俺と目を合わせたままうなずく。
ここへ来るのならば――夏奈さんに手をだすならば、人だろうと躾ける。でも食べない。
その強い決意が伝わった。だとしても。
「奴の相手は俺だ」
「へへ、素敵だ。だったら任せる」
またドロシーがうなずく。夏奈が顔をあげる。戸惑ったように俺を見る。
「満月の白虎を説得できるはずない。誰も倒せるはずもない」
ウンヒョクが呆れたような笑みを浮かべる。
「それでも暴雪の目を覚まさせる。それくらいならできるかもな」
「へへ、ウンヒョクさんはやっぱりかっこいい」
「ドロシーちゃんもだよ、異形になってもね。俺は鶏子に乗って先にいく。デニーと哲人……そうだよ、お前は哲人だ。もう忘れない。……黒乱おいで。虎狩りの時間だ」
ウンヒョクが子熊を抱えあげ、コカトリスに騎乗する。……三人乗ると鶏子はもたもたとしか飛べない。
「ウンヒョクはそのスタイルで戦うべきだが、向かうのは私達と一緒だ。飛行機が日暮里から戻ってきたからな」
デニーが煙を吐く背後に、巨大隕石が軟着陸する。
「四大天王の筆頭。杨桃鹬鸵の雕だ」
……鳥ではない。柑橘系の香りが漂う、三階建てアパートほどもあるキウイフルーツだ。
「地面に穴も開いてないだろ。俺は満月だろうと冷静だ。悪しきものしか傷つけない」
キーウイフルーツからずんぐりした脚がはえて立ち上がる。退化したような羽根も生える。細長い獰猛そうなくちばしもだ。ひげみたいのが生えているし、サイズを無視すれば鳥のキウィに近づいた。
つぶらな瞳が開き、俺を値踏みする。
「あんたがハイイロクマムシを倒したらしいな。俺はあれと同じで星五つだが、無死はどう考えてもレジェンドだ。それと同じぐらい強い俺もレジェンドなはずだ。格付けした野郎に評価基準を聞きたい」
「いいえ。無死は哲人さん一人にやられたのだから、五つ星でも多いぐらいだ」
ドロシーがむきになる。
「私も哲人と一緒に戦った」
その胸で夏奈が答える。「また戦ってもいい」
「ふっ、龍になってか?」
「星五つだけの雕ちゃんは黙ろうね。二度と夏奈さんが戦うはずない」
龍の頭上でコバルトブルーに輝いた独鈷杵を思いだす。怒りに呼応する法具は、まだ藤川匠が持っているのだろうか。
またも巨大な異形の猛びが轟く。森が落ち着きを失っていく。
「レジェンドには五百年早くても、雕は夜行性。しかも満月系だ。今夜は星を七つ与えられる」
デニーが靴で踏みにじった吸殻をポケットにしまう。巨大キーウィのくちばしを駆け登る。
「俺は遊軍になる」
「コケコッコー」
ウンヒョクを乗せた鶏子が羽ばたき上昇する。東からの月の光に照らされる。
俺はまたドロシーを見つめる。……異形になるのは今夜が絶対に最後だ。明日の朝からはずっと人のままだ。一緒に人の世界へ向かおう。
「やだ。見つめすぎだよ。恥ずかしい」
最強異形のくせに顔をそらすなよ。
「その姿の見納めだから。……行ってくるね」
「対。私も脅しだけならする。厳しくね、へへ」
ドロシーが強い眼差しのまま笑う。
火伏せの護符は彼女が持ち続けている。彼女は渡そうとしないし、俺も要求しない。お天狗さんには夏奈も守ってもらう。
天宮の護符は川田が持ったままだろうか。それもいらない。これからともに戦うメンバーに、俺を守る人はいない。
最後に、ドロシーに抱えられて龍の鼓動が落ち着きだした人へ声かける。
「行ってくるよ。夏奈」
「たくみ君を殺さないで」
「もちろんだよ」
空約束ではない。今夜は誰も死なせない。人を殺すと公言した貪と峻計に消えてもらうだけ。ドロシーを奪うと笑った忌まわしい女の子にも終わってもらう。
俺は二人に背を向ける。雕の背へ跳躍する。
「臨影闘死皆陰烈在暗、臨影闘死皆陰烈在暗」
大蔵司がふたつの結界にかける呪文に見送られるように、巨大なずんぐりした鳥が浮上する。雲なき明るい夜。東の満月がやけにでかい。
次回「月と海の狭間」




