六十二の一 リッチ問答
照らすものがないのに、赤い朧な巨大な陰が漂っている。赤い影の老人の姿になっていく。白シャツのありふれた老人。だけど楊偉天……。俺が殺した相手。
暗黒に浮かぶ俺は自分の身体を触感で確認する。前脚の爪で首の鱗を掻く。背中には届かない。尻尾はぱたぱたできる。その骨格構造こそ。
「松本は子亀の姿のままじゃ」
楊偉天が教えてくれやがる。
「陰辜諸の杖によるものか? 術を仕掛けたものは、よほど松本を恐れていたのだろう。そうだとしても類まれなる才能。杖を使いこなせるようになれば、仲間を強者にし、敵を弱者に変える。いまの世も自在に操れるかもしれぬ」
そうかもしれない。だけど大蔵司はみずからが異形になっても――なおさらドロシーを怖れていた。無敵ではない。
「今いた連中で儂と深くつながる者は、貪。梁勲の孫。それとお前。なのに獣人どもの存在も感じた。なぜだかわかるか?」
死んだ妖術士が俺へと聞く。
「儂に力が残ったままだからじゃ」
即座に正解を告げるならクイズにならない。ミドリガメにそんなツッコミをかませる余裕はない。死して力を持ったままの狂った妖術士……。
「貴様は魄だろ」
それでもミドリガメは楊偉天をにらむ。「貴様に魂はない」
老人から赤色は消えていき闇へ飲みこまれる。言葉だけが続く。
「ひひひ、魂なき魄だろうと知性は残った。感情もだ。なぜだかわかるか?」
俺へと見えない手が触れる。俺は尻尾を向けて逃げる。
「ずっと儂はここの奥底にいた。だがさきほど、昇を感じた。麗豪を感じた。奴らは上へと導かれた。影添大社に救いを求め、その歯車となるだけだ。だが儂は残った。なぜだかわかるか?」
老人の指が俺の尻尾に触れる。俺は懸命に闇を泳ぐ。
「儂は奥底で考えていた。儂の魂はどこへ行っただろうか。心あるままの魄は儂への罰だろうか。儂の偉大な研究を受け継ぐ者はいるだろうか。琥珀は……聡民はどうなった。死者の書は誰の手もとにある。青龍は誰のものになる」
老人の声が追いかけてくる。俺は天上へと目指す。
「儂の探求は尽きることがない。それが力となる。儂の智への執念が、ここへ儂をしがみつかせている」
自慢するな。俺だって冥界にしがみついた。……藤川に殺され初めて冥界へ来たとき、夏奈夏奈だけ唱えて自分の世界に籠もっていなければ、こいつや白虎と出遭っていたかも。
ぞわっ
老人のしなびた手に握られた。冷気が襲ってくる。
「貴様が俺をここへ残したのか?」
「そうじゃ。つながることに執着することを試してみた。いとも容易に成功した。よいか。執着、執念は力だ」
それなら俺もここで実践済だが、俺は異性に執着した。ミドリガメなどにストーカー行為しやがって。
「なんのために俺を残した?」
復讐のために決まっている。俺への怨念だって残っているだろう。
いまから俺は殺される。だけどあがけ。言われたとおりに生へ執着しろ。俺に力を与えてくれるものにすがれ。
「ドロシードロシードロシードロシードロシードロシー。ドロシードロシードロシードロシードロシー」
「ひひひ。愛も力か。儂はその類をよく知らぬ。だが教えてやろう。儂がお前に執着したのは、人の世へ戻る足掛かりとしてだ」
「ドロシードロシードロシー……はあ?」
「魄である儂へ、強い魂であるお前に乗ってもらう。じきにお前が引き上げられたら、儂も一緒に地上へ現れること叶う」
滅茶苦茶ランキングを一撃で更新しやがった。この狂った妖術士は夏奈より思玲より大蔵司より、死してなお無茶苦茶だ。ドロシーを上回ることはないにしても。
「そうすると俺はどうなる?」
「亀ではなくなり人の姿の異形と化す。見た目も心も日本の学生のまま。だが儂の智と探求心を受け継ぐだろう。そして聡民と儂の研究を昇華させてくれ。龍を具現させてくれ」
百歳過ぎた老人の姿にならないのならまあいいか、なんて思わない。考えるだけでも気色悪い。そもそも夏奈を龍にさせないために、俺はこんなにもあがいている!
「拒否する。手を離せ」
ミドリガメは老人の手を噛む。ぱくっ
「儂から離れぬほうがいいぞ。榊冬華が戻ってきておる、ひひひ」
そいつは誰だ? 聞きかけて思いだす。香港で昔死んだ魔道士。冬に咲く花……。
「へへ、おひさしぶり。ちょうど六十年ぶりだよ。でも楊先生はなぜ気づけるの? ただの魄なのに」
暗闇から小さき子の声がした。魂にしがみつかれた魄。憐れむほど醜悪な存在。
「たしかに儂は魄じゃ。だが西洋でいう、“死を克服した賢者”のごとき存在じゃ。……おぞましきものになった榊冬華よ。お前にも教えてやる。闇を照らすのは人の智。すなわち智は知覚となる」
「なんか詭弁ぽいね。闇をこしらえるのこそ、人の智な気がする」
「それもまた正論。それこそが藤川匠が憂う闇じゃ。そしてここは存在がなき単なる闇。――松本よ聞け。榊冬華こそ執念の塊じゃ。幼子の姿と化し、香港の周に殺されても、なおも人の世にしがみつく。冥界をうろつく」
「あの時はだね、ようやく術が成功して力が極まった瞬間、背後に周文欣がいた。その声が聞こえるなり私の生命活動は止まった。一瞬だった」
「ひひひ、いにしえの呪いを跳ね返す術は幾通りもある。松本ですら儂の言葉から逃れた」
「へええ、それくらいじゃないと生きのびられるはずないか」
死のうと邪悪な連中に褒められてもうれしくない。ここから脱出しないとならない……聞くことがあった。
「榊冬華ははるか昔に死んだのだよな? なぜにドロシーを狙う。梁勲への私怨か?」
「二十五歳の美しかった私。その誘いを断った十八歳の梁勲……。寝返らなかった者のが多い。それを恨みに思うはずない。梓群を求める理由は、単純に夏梓群が私だから。強い心と強い力が、ふたつに別れて生まれ変わった。またひとつになる」
意味不明すぎるけど……あり得るのか。ドロシーの弱すぎる心。でもあれは後天性だろ。みずからが犯した罪のため……。
「ひひひ、榊よ、それぞ妄想じゃ。儂は六魄だったお前を香港で見ている。魂があるのに気づいたが誰にも言うことなかった。それは因果を感じなかったからじゃ」
「そんなの後からいくらでも言える。私の正体に周さえ気づかなかった」
「影添の狸」
「強突く張りの麻卦に私を明かせるとでも? あの豚はありふれた魔道士だ。たいしたことない」
「ひひひ、やはりお前もたいしたことない」
聞き入るな。麻卦さんの正体にも気づいていた楊偉天から逃げだせ。でもいくらミドリガメがぱくぱく噛んでも、気づいてすらくれない。
「……私はひそんでいた。時を待っていただけ」
「いや。害する存在でなかった。――幼子の姿となり術を純化させる。どんな魔物と契約を結んだ? 儂にそれを知る欲求はないが、お前は代償で魂が永劫にさまよう憐れな存在になった」
「あれは契約ではない。私は選ばれた」
「そう思い続けるがいい。死して絶望せず、なおもしがみ続けるお前は、目覚めだした梁勲の孫に羨望を覚えた。おのれが求めて得られなかったものを持つ娘にな」
「……梓群がここに現れたのに私は気づいた。だから台湾生き残りの殺し合いから離脱して、ここに現れた。それがつながる証拠だ。あの子は魄でも魂でもなかったから近寄らなかったけど」
「峻計と思玲が争っているのか。梁勲の孫に執着せず、それに加担したというのか。本来がひとつであるならば、そんなことに耐えられぬ。ましてや夏梓群もな。あの娘もお前を探すはず。松本に聞こう。梁勲の孫は、こやつを求めていたか?」
「いいや」
ミドリガメはきっぱりと答える。ドロシーは六魄ちゃんのどれか一体を依怙贔屓していなかった。いなけりゃいないで話題にしなかった。
「それは私が上手に存在を隠したから! そしてあの子とつながるためにあいつと組んだ!」
「ううむ。こやつの話に矛盾を感じる。松本もそう思わぬか?」
「ああ。つながりたいのなら、存在を隠す必要ない」
「……思玲を倒せと、あんたは峻計に刻んだろ」
「ひひ、意図的に逸らした質問だろうと答えてやろう。生け贄にしろと刻んだ。あの魔物は混乱しているか? ……榊冬華よ、名の意は伝わらぬ。お前はたまたま相反する名前を持つものに憧れただけだ。魂を載せた魄などという忌むべき存在になったが故にだ」
さすが楊偉天。魄になろうと論破しまくっている。そして俺はいつしか応援してしまっている。榊冬華がドロシーであるはずない。金髪の悲しげな女の子がふたつに別れたものなんかでは……。
鮮明に見せられた彼女の記憶は流れて消えた。それでも俺はしがみついた。だから断片を感じられる。
一人は過去を思いだしたのだろう。もう一人も……自分の過去を知るのだろうか。
「サマー・ボラー・ブルート」
榊冬華が大人の声で口にする。「それが私だった。松本ならば知っているか?」
なぜ龍の弟の別名を知る? 悪しき魔女の伝承の名を。
「ひひひ、それは儂でも存じている。魔女と呼ばれることに憧憬したお前なら、文献を漁ってもおかしくない。百花繚乱の夏を名に持つ娘に憧れたからこそ、魔女を名乗らんとした」
まさに問答無用な問答。榊冬華が黙りこんでしまった。
何も存在しない闇。醜悪な連中が静まると存在すら不明になる。そもそも俺さえいないかもしれない。
「……夏梓群は私だ」
しばらくして榊冬華がつぶやく。
「あの強くてきれいで悪しき娘こそ私だ。私こそが魔女だ。だからドロシーを我がものにする。フロレ・エスタスなんかに渡さない。ゼガニュなどに殺させない」
はっきりした。こいつは過去を知らない。ゼ・カン・ユを知らない。いまの世で知識をむさぼっただけ。
「俺も部外者だ。そんな話に立ち入らない」
ミドリガメは怒りさえ覚えている。こいつの言葉はドロシーを穢す。
……彼女はまだ俺を助けにこない気がする。だって(おそらく両手をカニ型にするのに邪魔だから)ミドリガメを受け取り拒否した。しかもその直後、貪に八つ当たりするほど俺に怒りだした。
異形になった大蔵司にルックスで完敗したのが癪だったのかも。でも仕方ないだろ。猫耳巫女は反則だニャン……。
躾けられたばかりの川田は姉御に近寄らぬまま、ミドリガメを胸の谷間にでも押しこんでいると思うだろう。じきに誰か気づいてくれるにしても(横根かドーンがいれば即座だったのに)、ここは自力で切り抜けるしかない。
「榊冬華が狙うは梓群の魄か。とても叶いそうにないが、ならば奪うべき魂は……黄品雨だな。それが峻計に加担する理由か。儂はその子の名を刻んだ。儂の贖罪はそれで済んだ」
「へっ、先生らしい。……そろそろ夜祭が始まる。腹ごしらえしておくか」
「ひひひ、ならば子亀とともに底へ逃げよう」
こんな連中とそんな場所に行ってたまるか。俺にはすべきことがある。
「邪悪なお前をここで倒す」
ドロシーを狙う榊冬華は俺の究極の敵だ。そのためには「楊偉天。俺に力をよこせ」
ひひひ……
魂なき老人の笑い声が暗渠に響く。
「これぞ西洋でいう契約じゃな。榊冬華は、その代償に死して禍々しきものと化した。だが松本は心配する必要ない。儂はお前のなかで生き続けるだけだ。さあ心を開け」
「先生、いつまでも嘲るな。私から逃げられると思うのか?」
「ひひひ、いにしえの呪いの言葉。あれは道理がちがう」
「それがどうした?」
「いまの私でも扱える。そう思わぬか?」
また沈黙が流れる。あれを唱えられたら、ミドリガメなど条件付き特定外来生物に指定される必要なく簡単に駆除されてしまう。
「私が怖いのは滅茶苦茶な松本だった。でも楊偉天に乗っ取られるよ。そしたら平気。へへ」
女の子の声が遠ざかっていく。
「梓群がいないのだから私は立ち去る。松本の選択肢はふたつ。楊偉天を受け入れるか、楊偉天に囚われて奥底に引きずられるか。好きなほうを選びな」
「儂もどちらでもいいぞ。地上に戻るか、儂の話し相手となって過ごすか。決めるがいい、ひひひ」
俺は弱いミドリガメ。人の姿だったときはここで魄達をたやすく倒した。いまは逃げることもできず、楊偉天が心変わりすれば簡単に握り殺されそうだ。いまだって凍える手に冬眠しそう。
松本哲人の姿に戻れるだけでいい。俺の力は魂なきものなど圧倒する。
「力をよこせと言った。はやく来い。お前を受け入れる」
「逆じゃ。松本が心を開きなさい」
老人が俺を握りなおす。自分の胸へと押し当てる。
俺は逡巡する。でも亀でいたくない。
人の姿になれたなら、振り払えばいいだけだ。
「わかった」
心を開くってどうすればいい? そんなのは仲間へしかできるはずない。だから閉ざしたままで……
ひひひ……
老人がまた笑う。……俺が収納されたと感じる。楊偉天へと。
次回「自力浮上セヨ」




