五十八の二 世界の裏側で
カミツキガメはリュックサックから瞬時に消える景色を目で追う。一人だけで飛ぶドロシーはきっと音速だ。マジで……。
哲人さんは亀になったら戦えないものね。
たしかに俺はそれを聞いたはず。
過ぎたことはどうでもいいから、もう少し高く飛んでほしい。この速さで山間部を縫わないでほしい。
逆に夏奈を一人で抱えた忍は苦戦しているだろうな。あの子は蛇のときリュックサックを某国に運ぶだけでヘトヘトになっていた。酷使したな。人の姿を見ると罪悪感がほろり。
横浜の水植民地の村を瞬時に過ぎて富士山がどかんと現れた。
「へへ、世界的観光地の裏側に到着だ。見つからないようにもっと上を進もう」
山中湖湖上で急上昇して、残りの湖達が夕日に照らされるのが分かる高度に達する。
「ひびが入っているなら、よくて三回。もしかしたら一度で割れる。どうしよう?」
ドロシーの大声は風に負けない。近いからカミツキガメのむき出しの鼓膜が破れそうだ。心への声だろうとマジで。
「人の声にしよう」
カミツキガメには無理だけど、肉声のが百倍好きだ。
「対……」
でもその声は風に流される。
玉が割れようが割れまいが、人に戻って終了に決まっている。もう俺の下にある玉で異形にならない。
俺はデニーの儀式でレオタードを着せられた。ドロシーはドレスアップした。ドロシーが呪文を唱えれば俺はウミガメになり、乙姫様は並みいる異形を魅了した。大蔵司の杖だと俺はミドリガメと化し、チャイナドレス異形のドロシーと玉を挟んで向き合えばカミツキガメになってしまった。
でも歴代亀の中で圧倒的におのれの戦闘力を感じる。なんでも噛み砕けそうだ。
「しばらく人に戻らない。このまま大蔵司を探す」
カミツキガメは蛇みたいに首をリュックから伸ばして告げる。
「奴はどこにいるの?」
ドロシーが速度をゆるめる。同時に髪の香り。
「俺にはわからない。ドロシーに任せる」
「無理だよ。見当もつかない」
「……戻って思玲の勘に頼ろう」
「無理だよ。きっと激怒している。何度も叱られるのは嫌だ。……あれは日本の軍隊基地かな。やばいやばい。見つかったら人間に迎撃される」
むき出しで飛ぶ紅いチャイナドレスがターンする。カミツキガメは振り向いて裾野を覗く。緑の敷布から跳ねるピンクがちらりと見えた。
**王思玲**
火伏せの怒りの直撃を喰らったのが鶏子だけでよかった。もう回復しているし。
王思玲は空から空へ声かける。
「忍聞こえるか。桜井をこちらに寄こせ。鶏子と交替してやる」
「コケコッコー」
「……ありがとうございます」
コカトリスが森すれすれまで降下したところで結界を消す。桜井を背負った飛び蛇女が隣に姿を現す。異形のくせに汗だくで紅潮した顔。そんなのを見ても憐憫はわかないが、こいつの速度に合わせるとのろすぎる。
ここからの敵は、軽めに張った私の結界を見抜くものが多いだろう。異形の力で桜井を隠すほうが安全だが仕方ない。
「空中でそっちに移るの? 危なすぎるし、ははは」
「わあ、よせ」
桜井が1メートルも離れた距離から私達へ飛びおりる。私とウンヒョクの間にまたがる。
「もう懲りごり」黒乱が主のもとへ移動する。
「ふう疲れた……主のもとへ先行します」
忍が姿を消す。「戻りました。陸海豚を視認したようです。三人乗せた鶏子さんならば四分で合流できます。デニーさんの状況を確認してきます」
「空荷だとすごいな」
「戻りました。川田さんを先頭に珠を探っています。声はかけていません。我が隊は八分で合流できます」
「あり得ぬほど有能だ」
私は最後尾で扇を振るい全員の姿を隠す。鶏子は不平を垂らさずに、よたよたと飛ぶ。充分に上昇して渓流に沿って進む。前方に頭だけ見せる富士山に雪はまだない。
ここも山梨らしい。哲人の故郷はそこの盆地だが、あいつは出身地コンプレックスがあるらしく、曖昧にしか伝えなかった。海外人だからと偽りの地名を教えたりもする。有名私大在籍にも劣等感を抱いていて、学校名を口にしなかった。
桜井の実家が八街市なのも気に入らないのか千葉市郊外としか言わない。代わりに荒川区を馬鹿にしている。田舎者の典型だ。眼下の景色を見てもわかる。
……樹の海か。木霊がいるだろうな。峻計が了承したのだから、たいしたことないかも。あいつは木霊に愛でられる私の怖さを知っている。
「上空に巨大な異形が見えた。空飛ぶキーウィだろうな。結界で隠せよ」
西日を受けているのに、ウンヒョクは鷹の目だ。
「……それより手前でドロシーってのが垂直に上昇した。こっちも忌むべき異形が丸見えだ。中国人は配慮が足りない」
「じきに暮れだす。夜の出来事にすり替わるだろう。――忍。どちらと合流する?」
こいつは蛇のときから真面目に見せてずる賢くあくどい。ハラペコと正反対ゆえ、頼るに値する。
「ドロシーちゃんに決まっている」
桜井が答えやがる。まだ喧嘩が足りないのか?
「川田さんが心配です。我が主ならば彼を守れと命ずるでしょう。それに我が主達とともに戦うと、混乱が待っていそうです」
私は忍の考えそのものだが。……そうは言っても聞いてやるか。
「ウンヒョクはどう思う?」
「松本って奴も忘れた俺に聞くなよ。頭が痛くなる」
「わかった。デニーと合流しよう」
デニーも哲人とドロシーを忘れているだろう。はぐれ獣人と記憶が改ざんされて、川田が危ないかもしれない……。
あの男ならばドロシーを思いだしそうだ。本来の力に加えて、他人の女へのご執心があるからな。ロリコンなどと馬鹿にしない。ドロシーには年齢不詳の美しさがある。凛として隙のある眼差し。
そして執着は力になる。死が多少は遠ざかる。いま、もっとも死に近いのは、師匠が倒れた動揺と混乱した記憶――
「だとよ。鶏子急げ」
イウンヒョクがコカトリスのとさかをなでる。
忌むべき力を持って生まれたさだめだ。誰だって死が近い。
「コケコッコー」
鶏子が加速して、ようやく景色が流れだす。
「戻りました。どちらも戦闘が始まりました。不夜会は対峻計。我が主は大蔵司及び自衛隊と三つ巴になりそうです」
見えない忍は知らぬ間に斥候したみたいだが、
「自衛隊?」
「武装した二個中隊二百五十名ほどが傀儡です。峻計が銃を術で強めてあると思うべきです。大蔵司は富士訓練センターから90式戦車を奪いました。
傀儡相手だとドロシー様では手こずりそうなので、思玲様も支援に向かいましょう。私がその足で、我が主を川田さんと合流させます。ウンヒョクさんは鶏子さんとともに夏奈さんを上空でお守りください。
では思玲様こちらへ」
仕切りまくったジャージの女子高校生が姿を現す。……こいつに抱かれて戦場を飛び交うのはいい。二百人以上に傀儡祓いすることこそ、ハードワークだ。
「落とすなよ」
思玲は鶏子の上から忍へと体を預ける。
異形を封印した戦車を無力化するのも、どうせ私の仕事だ。ドロシーなら倒してしまう。……私はおのれのために戦うのだろ。そもそも満月。私は異形に欲望をもたらす。それは仲間の式神にもだ。そもそも、そもそもだ。
いきなり噛んでごめんなさい。だけどおいしかった。だから王姐、もうひと口だけいいですか?
なんて言いそうな奴がいる。
「いや。やはり落とせ」
惑わさぬために落としてくれ。
**デニー**
「王思玲は約束を守らず仲間を連れてきた。だから峻計さんは私と組む」
幼い少女の霊がまた笑う。「毎晩百人殺すのを私も手伝う、へへ」
こいつは霊ではないな。はるかに忌むべき存在。
「俺達は探し物でここにいる!」
若い隊員が叫ぶ。
異形に合わせるな。余計な情報を与えるな。人の理屈が通じないから魔物だ。
「貴様らが藤川匠の子分を倒してきた。おかげで藤川匠は貴様らより弱くなった」
峻計が杖を掲げる。
「対等にするため、夏梓群の従者も削る。お前がその最初だ」
そして下ろす。
紫の毒霧が漂いだす……。夏梓群?
「呀!」
壮年の男性隊員が扇を手に体を旋回させて散らす。
「嘿!」
若い女性隊員が槍を突く。幾多もの赤い光が魔物達へ向かう。
峻計は避けようともしない。光はチャイナドレスの黒に吸いこまれていく。
「弱いよ。私にも効果ない」
幼き悪霊が笑う。
そいつへと幾多もの光弾が向かう。邪悪な存在である女の子が笑いながら消える。
知恵ある異形に組まれることこそが脅威だ。すでに私達式神の残存は露泥無だけ。だが上空で待機する怪鳥が――四代天王筆頭である雕がじきに到着する。
「では本気を見せよう」
私の手に冥神の輪が現れる。もう一枚は麻卦が保管してあるはず。同時に使うには鍛錬が必要だから一枚で充分だ。
峻計の顔色が露骨に変わる。知恵ある悪霊など即座に消えた。
「本来ならば戦闘が始まるまで披露したくなかった。だがお前達は逃げ足が速いからな。昨夜の戦いで懲りている」
「貴様も六本木にいたの? 忘れていた」
峻計が吐き捨てる。「私は梓群しか覚えていないね」
そいつは誰だ。尋ねたい。思いだしたい。
「忘れぬようさせてやる」
私は輪を投げる。それは回転しながら峻計へ向かう。避けられるだろうが……。
「おじちゃん、手放しちゃダメ」
背後で子供の声がした。「幽霊に近づかれちゃうよ」
「くっ」背中に複数の疼痛。「おのれ」
背中の悪霊を払いのける。おのれの腹部を見る。胸を見る。貫かれてはいない。
「もっとおんぶしてよ」
幼女が伸びた四本の爪を舐める。「おいしい」と大人の声で笑う。
「弱いな。背筋に妨げられた」
私は空振りで戻ってきた輪を受けとめる。また女の子が消える。……知恵も力もある霊。厄介だな。
「デニーさん。魔物の女も消えました。鳳雛窩です」
姿隠しの結界か。こちらも厄介だ。
「固まって四方に警戒。臥龍窟を張れるものはいるか?」
「はい」今風の髪型の若い娘がピンク色の扇を広げる。「キエエエエエ!!!」
気迫は凄いが、そこまでの結界ではない。私は横根瑞希の清廉としたものを知っている。
「助かるよ」娘へと告げる。
「デニー様の傷は深くありません」
娘は笑いを返す。
「持久戦ですか」私と背中合わせの男が聞いてくる。
「そうはならない。雕が――」
「ぎゃあああ」
女の悲鳴が響きわたった。
「捕らえたぜ」
川田が少女の霊の首をつかみ持ちあげていた。
「こいつから折坂の匂いがする。折坂を食ったようだが、俺はこいつを食べない。殺すだけ、おっと残念」
その手から霊が消える。
「姿を見せれば、何度でも捕られられる。峻計もな」
川田が跳躍して樹上へ消える。
「じきに陽が沈む。あれが一番の敵になりそうだ」
隣にいる若い男性隊員が言う。
「退却すべきでは?」
足もとの闇が声をだした。
「簡単に言うな」
神出鬼没の敵につけ狙われるのは避けたい。
「空から逃げればいい」
壮年の隊員が言う。「到着しましたよ」
ゴオオオオオ
人の目に聞こえぬ轟音とともに、目の前の森が吹っ飛ぶ。これぞ隕石の落下だ。破片や衝撃にこらえきれず、結界が消滅する。
「キエエエエエエ!!!!!」
同時に張りなおされる。
「全員逃げましたぜ。獣人も」
巨大キーウイである雕が私達を見下ろす。
「だろうな。破壊力だけならば、お前は殲を越える。だがやり過ぎだ。今後は森の犠牲を抑えろ」
「はい。木霊を刺激せぬようします」
雕は飼いならされた満月系だ。夜を迎えても暴走することはない。……あの魔物と魂を持つ魄もけだもの系か。あと一時間で別物に変わる。
「露泥無に従って退却する。こいつは私達を見捨てなかった」
ここから先の戦いに、黄衣部队といえども付き合わせられない。陽が沈み月が登れば、奴の爪は体を貫く。肩に乗られ首を切断される。それに、黒貉を処刑しない口実が無理やりだろうとできた。これであの子に顔見せできる……。
その人は、たしかにいた。どんな手段を用いようが連れて帰りたい人が。年齢差はぎりぎり一桁と密かに喜んだ私もいた。
「私だけが残る。雕は皆を安全な場所に連れていき戻ってこい」
黄衣部队は狙われない。殺すに値するのは私だけだ。
「ここに一人で残るのですか」
若い娘が不審そうな目を向けてくる。忌むべき力を持つ女性は何故か美形が多い。私に憧れを向けてくれるこの子も、あの人の千分の一ぐらいかわいい。
なにも思いだせなくても、きっとそうだろう。
「一人ではない。露泥無も一緒だ」
「え? も、もちろんです」
闇が健気に答える。「黄衣衆の方々は沈大姐にご連絡ください」
「古い呼称は彼らの心証を害するぞ。そして、あの方はもう関わらせない。……じきに夜が来る。私をすっぽり隠せ」
魔物どもの退却で確信できた。奴らは雕が誰かを連れてきたと勘違いした。私達にはとてつもない味方がいる。その登場を恐れている。
「やはり強かったな。鳥もあんたも」
雕が彼らを乗せて去るなり、樹上から声がした。
「松本が近くで戦っている。連れていってやる」
「そうしてくれ」
この獣人が従うほど、松本こそ強いのだろう。記憶にないのに妬ましさを感じてしまう。そいつさえいなければと、殺意を覚えるほどに。
サワサワサワ……
暴れすぎた私達に木霊どもがお怒りだ。強い獣人がそばにいなければ、私でも震えだしたかもな。
**イウンヒョク**
「でっかいキーウィだな」
しかも人の目に見える忌むべき異形。
「しかもおいしそうだった。それは言っちゃダメだった」
結界に隠されたウンヒョクは、小熊の異形を抱きながら雕を見送る。上海にしろ香港にしろ、あんなのがわらわらいるのだから偉そうにするわけだ。影添大社にしろ。
西日は傾いていく。暗くなりだした東の空には白くて丸い月が浮かんでいる。異形の時間が始まる。月に一度の祭りが始まる。
……弱っているのは聞いていたけど、あの爺さんが簡単にくたばるものか。あのジジイは徳ある隠遁者なんかじゃない。いくつになろうと利かん気のないガキだ。まだまだ死ぬはずない。俺より長生きしそうだ。そうに決まっている。
「韓国に帰りたそうですね」
俺にしがみついた桜井夏奈が言う。
「狩りが優先だよ。でも先生は俺の恩人だ」
「私も行きたいな。本場のKホップを見たい、ははは」
黒乱はもう桜井に抱かれようとしない。この子の獣の勘が桜井夏奈を恐れている――。
また砲声が聞こえた。
じりじりじりじり。
記憶が消える無様な俺だから、上空で桜井の見張り。戦いを遠目に見るだけ。強い異形を狩るゲームに参加できない。
龍を具現させないこそが大事な仕事だろと、先生に叱られそうだな。……でも王思玲がそこにいる。あの子が本当の年齢に戻れたならば、年上だろうと……一緒に戦いたい。
俺はご褒美として遊ぶだけ。人を本気で好きになってはいけない。
「みんなで思玲さんと合流しよう」
桜井夏奈が心を読んだように言う。「すぐ下に川田君がいるはず。デニーさんとハラペコもかな」
「なんでわかる?」
「龍だから、ははは……。案内するから降下して」
「コケコッコー」
鶏子が樹海へ降りていく。じきに真っ暗になる海へと。
**松本哲人**
「テツトちゃん、天珠を吐きだして」
「俺が持っている」
カミツキガメはきっぱり拒否する。腹からださないと連絡できないにしても、川田とつながるものだ。躾けられようと渡さない。
「だったら人に戻ろう。やっぱりパパの服を着た哲人さんと戦いたい」
そしたらまた唇を重ねて傷を治してもらえる。でも、お天狗様も守りきれないレベルの戦いが待っていることを、ドロシーの紅色ビームが直前に教えてくれた。ただの人間で死地の只中へ向かうことになる。
心が揺れる。空気も揺れる。砲弾の発射音が富士の裾野を震わせた。
「噠!」
紅色の光に超高速で飛んできた弾頭が消える。
「へへ、やっぱり異形の私を攻撃してきた。武器を持って強い気になった人間様め」
ドロシーが邪悪に笑う。サイレンが鳴り響く。
「スルーしよう」カミツキガメが唯一無二の策を提案する。
「いいえ。大蔵司は軍事施設内に侵入した。杖を奪還してからだ」
リュックサックを背負ったチャイナドレスな香港ガールな化け物が急降下しだす。
「彼らは自衛隊と呼ばれる。災害が多い日本ではとても頼りになる――」
また発射音。漆黒の砲弾が角度を微調整しながら俺達へ向かってくる。
「噠! ……155mmの榴弾だ。直撃したら異形でも千切れちゃうよ」
弾は霞むように消えていった……。
最先端の技術であるはずない。これは忌むべき兵器だ。世の裏側で祭りが始まったのを知らせる号砲だ。
次回「カミツキガメと正義の魔女」




